第三十六回 祇園囃子


今回は溝口健二監督の『祇園囃子』(昭和28年・大映)です。
まずは粗筋からご覧いただきます。



ある日、祇園の舞妓・美代春(木暮実千代)のもとへ、みすぼらしいなりをした栄子(若尾文子)が訪ねてきた。
栄子はメリヤス問屋・沢本(進藤英太郎)と、その妾であり美代春の先輩芸者でもある者との娘であった。
話を聞けばその母が死に、父親も二号の子まで手が回らぬということで行き場が無いのだという。
重ねて栄子は、母と同じ舞妓になりたいと美代春に申し出る。
その栄子の健気な言葉に、栄子は舞妓に仕込む決心をする。

さて、栄子の店出しの日が近づく。
舞妓でもそう金の無い美代春は、店出しの資金30万円をお茶屋「よし君」の女将・お君(浪花千栄子)に借りる。
最初の場所は会社重役・楠田(河津清三郎)が官庁課長・神崎(小柴幹治)を接待している席であった。
その席で、美代春は神崎に見初められる。
また、楠田は楠田でアプレゲールな栄子に食指を動かされていた。

幾日か経って、美代春は楠田から東京見物の誘いを受け、栄子とともに同行した。
しかして東京の宿にいたのは神崎であった。
神崎の相手を美代春に任せた楠田は栄子を襲おうとするが、、
抵抗した栄子に唇を噛み切られ大怪我。
楠田の仕事は流れてしまう。

面目を潰されたお君は美代春を責め、
ついに、美代春・栄子は祇園中の茶屋から出入り差し止めとなる。
折りしも夏、祇園祭が近づき人の心浮き立つときも美代春の家は寂れ切っていた。



♪月もおぼろに東山…
いまでも祇園の宴席で歌われている、「祇園囃子」を題名にすえた作品でございます。
戦後の自由主義と日本の古くからの因習の間に立たされた舞妓の生き様を描いた作品です。

では内容から見て行きましょうか。
話はですね、波乱万丈が描かれているというわけではないのですが、
美代春と栄子ら2人の、舞妓として、一人の人間としての小さな浮き沈みを克明に描き出しております。
人気舞妓だった美代春。神崎に見初められる美代春。神崎のもとには行きたくない美代春。
神崎を袖にする美代春。出入り差し止めを食らい家で呆然とする美代春。
栄子のために神崎の本へ行ってしまう美代春。
これらすべてを、さすが名女優、木暮実千代が見事に演じております。

時代背景は先ほど書きましたように戦後、憲法が発布されて浸透していったころ。
作中、栄子と女紅場の先生(毛利菊枝)の会話でも、基本的人権についてのくだりがあります。
「新しい憲法ができて、私たちは誰はばかることなく自分の意志で生きていけるのです。」
「でも先生は置き家はんや旦那はんの言うことは、どんなんでも聞かなあかん言うてはりましたやろ。」
「ええ、言いましたよ。」
「なら憲法なんかなくてもええやないと違いますの?」
こんな会話だったと思います。
なかなか厳しいところを付いているのでありますが、ここが旧習と現代との壁なんですね。

それでですね、今回注目したいのが栄子の父沢本役の進藤英太郎です。
いつもは強欲な商人であったり、やくざ(マフィア)の親分だったりと
善玉悪玉は別にして、しっかりした役が多い人です。
しかし今回の沢本は事業に失敗してほとんど金もないメリヤス問屋の親父であります。
しかも、たぶん脳梗塞あたりだと思いますが半身マヒで煙管も満足に持てないというくたびれた爺さんです。
いつもの役柄とあまりに違いましたもので、パッと見たときは分かりませんでしたね。
最初に配役が出ていなかったら大方最後まで気づかなかったのではないでしょうか。
それにしても幅広い役柄をこなされる方です。感心しますね。


溝口健二が「女」を描いた傑作、機会があらばどうぞご覧ください。
それにしても今回はちょっと短かったですかね。


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