元禄二大爺(二)


前回に引き続きまして、元禄二大爺(二)でございます。
今度は忠臣蔵の敵役、時代劇界では長いこと悪役として描かれ続けてきた、
吉良上野介義央についてお話をいたします。

まずは吉良義央の基本情報から。
生年は1641年、没年は1702年です。黄門様とは13歳違いですね。
江戸期の旗本でありまして、石高は4200石。領地は三河吉良です。
幕府での役どころは忠臣蔵でも有名なように、高家すなわち朝廷との儀礼を司るお役目でありました。

ついでですので義央個人だけでなく、吉良家についても少しばかり触れておきましょう。
吉良家はもともと、室町時代の足利将軍家の支流でありまして、
足利本家が途絶えた場合、ことによると将軍を出せる家柄でした。
将軍家の支流ですから、徳川のような偽源氏ではなく、本物の源氏であります。

戦国時代になりますと、三河の殿様でありましたが、
となりの今川義元に攻められまして、今川家の傘下に入りました。
しかし、桶狭間で今川家がぼろぼろになってからは勢力が衰えまして、
その後、色々つてを頼って、やっとこさ松平家(後の徳川家)に入ることになりました。
それで、足利一門ということで京都・公家関係には強いというわけで高家になったのであります。

では、吉良義央の高家としての働きを見てまいりましょう。
何度も言っておりますように、吉良義央は高家という朝廷関連の仕事をしていました。
その仕事振りはといいますと、これがなかなか有能だったようで、
その上洛回数は年賀使として15回、幕府の使者として9回の計24回にも上ります。
これは当時の同役と比べても群を抜いて多い数であります。
また、官位も16歳で従四位下、22歳で従四位上になり、
やっと38歳で従四位下になれた父・義冬と比べてもスピード出世を遂げております。
こういった事実から、義央は高家として有能だったことが伺えます。

今度は領主としての吉良義央を見てみましょう。
吉良家の領地は三河の国吉良(現・愛知県吉良町)を中心とした一帯でありました。
そこでは非常に名君であったようで、治水のために黄金堤という堤防を建設したり、
新田開発をしたりといい殿様でありました。
ですから今でも吉良町に行きますと、町のパンフレットに吉良義央の絵が書いてありますし、
お寺には義央公の木造が安置されております。



では最後に水戸光圀と吉良上野介の関連性について考察いたします。
二人が同時に存在していた時期は1641年〜1700年、59年間です。
吉良義央が家督を継いだ1669年からしても32年間あります。
この間にお互いが見知っていたかどうか、ということであります。

まず「吉良→黄門」ですが、これは当然知っていたでしょう。
直接口を利いたことがあるかどうかはわかりませんが、
相手は水戸様ですからさすがに知らないということは無いと思われます。
では、「黄門→吉良」についてはどうでしょう。
これも、結論から言えば知っていたのではないかと思われます。
黄門様から見れば吉良など下の方ではありますが、ここに、高家という役目がものを言ってまいります。
前回書きましたように、黄門様は幕閣内でも有数の朝廷好きです。
この黄門様が高家中でもトップクラスに有能であった吉良義央を知らなかったというのは
考えにくいのではないか、と思われます。

以上のことは、私が色々な古文書を入念に資料を調査して得た結果というものでも何でもありません。
ただ頭の中で考えただけのものでありまして、信憑性は無きに等しいものです。
ひとつの考え方であるとご理解ください。

で、このサイトは「歴史研究所」ではなく「時代劇サイト」でありますので、
時代劇においてのしての両者を見て終わりにしましょう。
というわけで、両者の位置づけですが
私としては「水戸黄門=吉良上野介」という図式が成り立っていると考えられます。。
つまり、時代劇として演じる場合、吉良と黄門の両方を得意とする場合が多いわけです。

例えば月形龍之介。
これは、東映忠臣蔵の吉良役を幾度も見事に演じ、また、水戸黄門もシリーズで7本ほど撮っています。
他にも戦前で山本嘉一。
この人も、水戸黄門と吉良上野介の双方を当たり役としています。
テレビで見ても、ナ劇場の二代目黄門役の西村晃は『四十七人の刺客』で上野介を、
初代の東野英治郎もこれはちょっと違いますが、東宝の『サラリーマン忠臣蔵』で吉良社長をやっています。
尚、4代目の石坂浩二は少々毛色が違いますので省きます。

ここから何が導き出されるのでしょうか。
実はこれについてはまだ整理ができておりません。
そのうちに整理ができ次第発表するつもりであります。
とにもかくにも今回はこのあたりにてお開きにいたします。


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