やまぐちお祭り倶楽部 
 
やっぱり祭りは楽しいもの!

■1 お祭り倶楽部誕生 

 一九九七年一二月、大内文化を題材としたある会議の忘年会での席のこと、隣に座られた電気関係の会社の当時専務のIさんに「Iさん、最近の祭りって面白くないですねぇ。ちょうちん祭りなんかでも、子どもに提灯作らせて、それを当日自分で吊して、火を点けるようなこと、青年部(商工会議所青年部)とかJCとかでできませんかねぇ。誰もが参加できるような祭りになったらいいと思いません?」と言うと「それいね。でも人に頼らんと自分らぁでやらんにゃあ」の返事。その日は話だけで終わったものの、その年の暮れは、どうしたものかと悩む日々を送った。
 こういう話は、いつも飲みの席ではよく出るが結局実現したためしが無いのが実状で、自分としても口火を切った以上、お蔵入りになるのがとても悔しく残念であった。「この際、俺がいっちょやっちゃろかい」と踏ん切りを付け、明くる年の一月二九日、Iさんほか飲みで話したメンバーの招集を行い、取りあえず輪を広げていこうということで実質上の活動開始となった。会の名前は「やまぐちお祭り倶楽部」に決定。会長だけは決めようとなり、言い出しっぺということで私が会長に選出(?)された。

■2 お祭り倶楽部黎明期T

 誕生はしたものの、賛同者集めも口コミ、会費もなければ、規約もない。月に一度の会合も集まって三〇分程度話し、その後は湯田のまちへ繰り出し、懇親を深めるとともに祭り談義に花が咲き、夢を語り合う。そんなスタートだった。
 スタート早々、Iさんの所に、新しいサビエル記念聖堂のオープニングに合わせて行われる「スペインカーニバル」への参加依頼があった。会合で話し、せっかくのチャンス、活かさない手はないということで参加を決定した。
一九九八年四月二九日、好天にも恵まれ(そういう風に記憶しています)、人出も多く、お祭りにはもってこいの条件であった。巨大サビエル像と巨大大内義隆像とともに練り歩く時代行列。お祭り倶楽部最初のイベントには、総勢一六名での参加となった。Iさんを除くと市役所のメンバーばかりではあったが、口コミによるお祭り好きのメンバーだけによるお祭りへの参加となった。サビエルには私が入り、大内義隆には元祖お祭り好きの先輩のTさん、その他のメンバーは武者や公家のいでたち。商店街を練り歩いた。何かしれぬ充実感があったように思い出されるデビューであった。このカーニバルへの参加をお祭り倶楽部の正式な活動開始としてマスコミ等には伝えている。


■2 お祭り倶楽部のコンセプト

 ここで、お祭り倶楽部の発足当時のコンセプトを述べておく。今でも全く変わってはいないが、お祭りが好きな人なら誰でも参加OK。入脱会自由。会費は無し。但し、飲食代、衣装代、治療費は自分持ちもしくは割り勘。お祭りを楽しくする方法を考え、それを実践するために努力し、実際にやってみるということを活動目標としていた。要するに、祭り好きが集まって、自腹で祭りに参加して、楽しむ。そして祭りを盛り上げようというものであった。


■3 お祭り倶楽部黎明期U

 活動開始当時、幸か不幸か活動がマスコミ受けがしたのと、メンバーの中に当時広報広聴課の職員もいて、テレビに出演し倶楽部自体をPRする絶好のチャンスが到来し、徐々にではあるが、倶楽部についての問い合わせもあるようになった。
 このような中、夏の祭りを前に一般からも参加者を募り、山口市の祭りについて語り合うという「お祭りトーキング」を開催した。七月七日七夕の夜、場所は由緒正しき「菜香亭」。おごう様のあたたかいご理解とご協力のもと、倶楽部主催としての最初のイベントが開催された。
参加費は二千円。祭りを語るにゃビールが必要ということで、ビールを片手に祭り談義が始まった。参加者は三〇名程度(はっきりとした記憶がありません)、山口新聞の取材も入り、初めての顔も多く、単独のイベントとしてはいい出来であったと思う。活動開始は、四月のカーニバルではあるが、市民団体としてこの日から実質動き出したといってもよいと思う。
 祭りについて考えたら今度は実践である。「市民総踊り」への参加であった。市民総踊りへの参加を模索していた時、市の国際交流室からいい話をもらった。 姉妹都市である韓国公州市からの訪問団があり、そのメンバーに祭りに参加してもらいたいので、お祭り倶楽部と一緒に踊れないかとのオファーであった。
渡りに船とはこういうことであろうが、苦労もあまりせず、市民総踊りへの参加が可能となった。それとともに、踊りのメンバーを一般から募集するというこれまでにないパターンに「姉妹都市の公州市の訪問団と踊りませんか」という付加価値までついた。このことを、「お祭りトーキング」と同時期にマスコミに流し、「市民総踊り」の参加者を募集した。一般募集の結果ははっきりいって芳しいものではなかったが、公州市のメンバーとあわせ五〇人ぐらいの隊列は組むことができた。
 当日、公州市のメンバーと共に、「大内のお殿様」を踊る。公州市のメンバーも当日一時間程度の練習はしているものの、やはり観光気分、こちらのメンバーがリードしなければならない。頬に日韓両国の国旗をカラーコピーしたシールを貼り、気分は二〇〇二年ワールドカップ共同開催の気分。法被も今のように自前がないので、市の青い法被を借りての練り歩きであった。言葉というよりは、踊りで心をつなぐことができたと思われる。会費も千円ずつ徴収し(当然公州市の方からはいただいていません)、取りあえず、自分で金を払って祭りに参加する、そして楽しむということが実現した第一段階と言えよう。また、当日、KRYの密着取材があり、T記者は仕事そっちのけで祭りを楽しんでいるようにさえ見えた。祭りは楽しむことが一番ということを身体で表し、それを放送してもらえたことは本当に感謝している。


■4 祭りが変わる予感

 夏の祭りも、アートふるも終わった秋、山口の夏の祭りの総決算として、「お祭りトーキング・パート2」を一〇月一四日に再び菜香亭で行った。当日の様子は、サンデー山口の社長御自らの取材をいただき、表紙にデカデカと載せていただいたので、その記事を参考に、記させていただく。
 運営方法は前回と同じ、もちろんビールを片手に行った。参加者は一七人、第一回目よりは参加者の減少は見られたが、当時の祭りについての辛辣なものを含め様々な意見も出され、有意義なトーキングになったと思われる。「祭りはイキであるべきだ」(サンデー山口の大見出しになっています)「伝統を守るだけでなくアレンジも必要」「踊りもグループごとに創作しては」など現在の祭りに通ずるものも多く出ている。この頃から問題意識を持つ人たちが祭りを変えたいとホンキで思い始めた、祭り変革創生期になるのかもしれない。


■5 お祭り倶楽部成長期T

 お祭り倶楽部の活動も一年が過ぎ、いよいよ祭りに本格参加することを目標に動き出した。トーキング・パート2以降、何度かの作戦会議(コアスタッフによる会議、いわゆる役員会みたいなもの)を経て、一九九九年五月二九日、再び菜香亭において「お祭りトーキング・パート3」を開催した。当日は、「ホタル鑑賞の夕べ」いわゆる一の坂川周辺でのホタル祭りの日であった。
 これまでのトーキングは、ビールを頼りに会話を弾ませるようにしていたが、それに頼っていてはただ酒飲みの集まりになるとの反省から、アルコールが苦手な人にも参加しやすいようにとの配慮もあって、土曜日の午後三時から開催し、第一部は酒なし、第二部はビール片手に、第三部はホタル祭りに繰り出そうと三部構成で行った。
 ここでは、誰でもが参加できる祭りをテーマにトーキングを行った。全体で二六名の参加ではあったが、新たなメンバーの参加もあり、熱いトークが交わされた。また、この年の活動計画も審議され、市民総踊りには、オリジナルの踊りで出ることが決まり、振り付け担当も新メンバーの旧姓Tさんから申し出があり、これ以降夏に向かって活動が開始された。

■6 夏の祭りが変わり始める

 従来、夏の市民総踊りと七夕ちょうちん祭りは、いわば形だけの実行委員会を設置し、事務局である山口観光コンベンション協会の主導で執り行われていた。
 この年、実行委員会の下部組織として、「ふるさとまつり企画運営実施委員会」が設置され、祭り全体の企画及び運営を行うこととなった。お祭り倶楽部からも参加の要請があり、会長がメンバー入りした。委員会には、お祭り倶楽部からのメンバーは一人であったが、他の団体からのメンバーとして参加にはなっていたが、倶楽部のメンバーである前出のIさんとブロック製造会社の当時専務のMさんもいて、みんなで祭りを盛り上げることとなる。
 七月二四日、いよいよ市民総踊りの当日となった。法被は借り物であったが、両手にビニールひもで作ったボンボンを持ち、顔にはペインティング、かぶり物といういでたちで参加した。「ふざけすぎ」という批判があったとかなかったとか、とにかく参加するからにはまず自分が楽しくなくてはというコンセプトで、結果観衆にも受けていたようで、大いに祭りの盛り上げには役立ったと自負している。お祭り倶楽部の踊り子の総数は約五〇名、佐山地区からのおばちゃま方二〇人ちょっとを含む一般募集参加者三〇名程度があり、名実ともに市民団体となったと言えよう。この時、オリジナルの踊りで参加した団体もいくつかあり、衣装も工夫が見られるようになった。この頃から山口の祭りが変わり始めたと思われる。

■7 お祭り倶楽部成長期U

 話は前後するが、祇園祭奉賛会からも声をかけていただき、御輿の担ぎ手として参加させてもらえることとなった。これまで、地区民や職場単位等での参加に限られていた祇園祭の御神幸・御還幸に、希望する人の参加が可能となり、その受け皿をお祭り倶楽部が担うことになった。この年、数は必ずしも多くはないが、祇園祭、ちょうちん祭りへの一般参加者の参加が可能となった。
 この頃、連絡先を職場(都市計画課)の電話にしていたため、マスコミや参加者からの問い合わせなど、Y課長以下、職員にはかなりの迷惑をかけたとは思うが、そのころの仕事として、中心市街地の活性化を担当していたこともあり、活性化策の一つとして祭りもあることから(こじつけの感もしますが)、上司の理解により大目に見てもらっていた。
 この年から、お祭り倶楽部として「アートふる山口」に参加を始めた。まちづくりセンターとの関わりができたのもこの頃からである。倶楽部のメンバーそれぞれは、まちづくりセンターの会員になるなどつながりはあったが、タイアップしての活動はアートふるが始まりである。アートふるでは、八坂神社前において、「縁日」、要するに主に子ども達を対象にした遊びのコーナーを行い、子ども達から小遣いを巻き上げている(決してあくどいことはやっていません。収支はトントンです)。その後、アートふるにおいては、毎年このパターンで参加している。


■8 祭りが変わり始めた

 一九九九年の冬から二〇〇〇年の夏にかけて、祭り自体に大きな変化が現れる。「よさこい」の導入であった。会議所の青年部を中心に、「踊り」から祭りを変え、楽しいものにする大きな動きが出現した。「湯田温泉祭り」を皮切りに、夏の「市民総踊り」においても「大内のお殿様」にサンババージョンとロックバージョンの二つが加わり、踊りも各団体の創意工夫により、踊りは楽しい、かっこいいという風潮が浸透し始めた。
 お祭り倶楽部でもこれまで役職(役職というほどのものでもないのですが)は、会長だけだったものを副会長三人を配し、祭りごとに担当制を引いた。
 また、自己負担による自前の法被をそろえ、市民総踊りに参加することとし、例年どおり参加者の募集を行うにあたり、募集や問い合わせの窓口として「まちづくりセンター」におせわになることとなった。
 残念ながら、「市民総踊り」は当日の豪雨により、会場がスポーツ文化センターに移されたため、派手なパフォーマンスはできなかったが、赤を基調とした新しい衣装により、一体感を醸し出すことになる。

■9 お祭り倶楽部の新たなる出発

 二〇〇一年、市民総踊りも、総踊り「やまぐちMINAKOIのんた」と名称も変わり、ステージの部と練り歩きの部とに別れた。七夕ちょうちん祭りも新しい山笠が完成し、夏の祭りは大きな変革を迎えた。商工会議所青年部から育った「長州青組」は、今や全国的にも押しも押されぬビッグな存在となった。
さ て、お祭り倶楽部はというと、この年、県立大学の学生を仲間に入れ、彼女たちに踊りを考えてもらった。ステージ用の踊りと練り歩き用の踊りと二種類を用意し、ステージを披露した後、全員で練り歩きに参加というスケジュールで行った。そろいの法被に特大の大内人形手ぬぐいをかぶり、パフォーマンスは最高であったと回想する。やはり祭りには、若さというパワーが必要であると痛感したところである。また、「ちょうちん祭り」には、レストコーナーにかき氷を出店した。
 「アートふる」においては、通常の縁日コーナーとともに、「てぬきうどん」のコーナーを創設した。今回は八坂神社に食の部分が少ないという理由もあったが、本当のところは、一般参加者に貸し出すための法被を新調したこと、「MINAKOIのんた」の時に作った手ぬぐいの費用の捻出のためではあったが、倶楽部としても新たな取り組みを模索し続けている。
 お祭り倶楽部としては、「長州青組」に比べると、若干影が薄くなったとはいえ、祭りが好きな人、祭りに参加してみたいと思う人が気軽にメンバーに加わることのできる存在として生き続ける必要がある。「MINAKOIのんた」にしても、ステージに参加し、美しくかっこよく踊り、観衆を魅了するとともに自らも楽しむという部分は当然必要だと思う。しかし、だれでもが参加できる祭りの実現をめざす我々にとっては、やはり商店街を練り歩き、祭り自体を盛り上げ、自分自身も楽しむというこれまでの流れも大切にしたいと思っている。観客の飛び入り大歓迎、一緒に祭りを楽しみ盛り上げようという、そういう思いのある人をどんどん増殖させ、そういう人が、知恵を絞り、汗を流すことによって、祭りは本当に我々市民のものになり、必ず変わっていくに違いない。


■10 やっぱり祭りは楽しいものだ

 お祭り倶楽部も今年五年目を迎える。活動開始以来、祭りも変わってきている。祭りが変わってきたということについては、倶楽部の活動の目標の一つは達成できていると言えるだろう。我々の活動が、そのきっかけづくりになれたとも自負している。
 でも、まだまだ楽しくなれる部分は多いに違いない。そのためには、マンパワーが必要である。それも同じ心を持つ人が。そういう人はまだまだたくさんいるはずである。そういう人たちが集える場、「ちょっとやってみるか」と思える場、そんな場としてお祭り倶楽部は活動を続ける。
「やっぱり祭りは楽しい」とみんなが思える祭りを作り上げるため、ちょっと知恵を絞り、汗をかいてみませんか。

〜 オリジナルの踊りで挑戦!一九九九年市民総踊り 〜

〜 そろいの法被で二〇〇一年MINAKOIのんた 〜

〜あなたも参加しませんか 仲間募集のポスターです〜