菜香亭・十朋亭をチョットと素敵に蘇らせる会 
 
市民の思いが形に 今、まさに甦る菜香亭

■1 「菜香亭・十朋亭をチョッと素敵に甦らせる会」とは

 「菜香亭・十朋亭をチョッと素敵に甦らせる会」は一九九八年八月、「アートふる山口」を通じて、菜香亭・十朋亭の素晴らしさを体感した十数名の有志が両亭の保存を目的として結成した会で、当初は名称を「菜香亭・十朋亭をチョッと素敵に後世に残す会」としていた。
 当時の思いを如実に語るものとして当会の設立趣意書を掲載する。

菜香亭・十朋亭をチョッと素敵に後世にのこす会

趣意書

今、また一つ山口の歴史を象徴する貴重な文化財が消えようとしています。「菜香亭」と「十朋亭」。「菜香亭」は明治四年創業の料亭です。「十朋亭」は今から約二百年前の江戸時代に建てられた萬代家の離れの建物です。どちらも明治維新という激動の時代を駆け抜け、維新の志士達と共に、この日本国の創建に関わってきたゆかりの地です。
どちらも山口の歴史を語る上で非常に貴重な史跡です。「菜香亭」は斎藤家、「十朋亭」は萬代家によって今まで代々受け継がれてきました。当時の貴重な書・画をはじめとする様々な文化財が今でもここに生きています。黒光りする廊下が、また、朽ち落ちんばかりの軒が私たちに何をか語りかけています。ここには私たち祖先の生き様が、正に刻み込まれているのだと。
しかしながら、永い年月の間、建屋は老朽化し、個人の所有のまま今後ともこれらの文化財を維持管理していくことは、もはや困難な状況となって参りました。現当主の斎藤清子さん、萬代一平さんより、山口の貴重な文化財の一つとして、山口のためにも是非残していける方法を考えていきたいとの申し出を受けました。山口に生きる私たち市民の手で、私たちの後世にこの「菜香亭」と「十朋亭」を、何とか残していけないものでしょうか。一度踏みしめれば忘れられない廊下のきしむ音、ひんやりとした静寂感漂う亭内の雰囲気を、子ども達に残していきたいものです。
この会はこの様な気持ちになられた市民の方々の自らの意志でつくられた会です。ご賛同下さる方が一人でも多く現れんことを願っております。


                   1998年8月25日


 ■2 菜香亭・十朋亭とは

【菜香亭】
 菜香亭は、明治四年(一八七一)藩庁が山口県庁と改められた頃、祇園社八坂神社境内の一角に料亭として創業された。藩主毛利敬親が萩から山口へ藩庁を移し、後に菜香亭の主人となる毛利藩の膳部職 斎藤幸兵衛(次代は甲兵衛と代々土幸・甲交替)がこれに従い山口へ来たことにはじまった。
 菜香亭周辺は、五百年余り前、大内氏が栄えた場所である。当時は大内教弘が築いた宏大華美な築山館があり、館では明国や挑戦などの交易使節をはじめ、諸国大名の使者などが接待され、当時の名残は一木一石に見られる。菜香亭の庭石にも当時豊後から送られた石があり、雨の夜には「ぶんごへいのう へ」と泣いているかのように聞こえるために、「菜香前の夜泣き石」と呼ばれて今も残されている。
 菜香亭の名は、度々訪れていた井上馨(世外)が亭主斎藤幸兵衛をもじり、それをそのまま屋号としたことにより「祇園菜香亭」と呼ばれ、親しまれてきた。
 その菜香亭の大広間では数々の歴史が繰り広げられた。明治二四年(一八九一)伊藤博文を迎え、旧藩主毛利敬親の法要が盛大に行われ、政友会が誕生したのも、この場所である。日露大戦のあと畳の下にロシアの捕虜を収容したり、竹のアンテナを立て山口で初めてラジオを聞く会が催されたりしたこともあった。また、明治四一年(一九〇八)四月、東宮殿下山口行啓の際には、その御膳部も務めた。後に三代 幸兵衛は井上公に従い東京で修行をし、山口県で初めて西洋料理を出したともいわれる。
 創業以来、菜香亭には多くの人物が訪れている。桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通、山縣有朋などの政治家をはじめ、軍人、文士、画家などは皆、訪れては墨痕を残し、今も菜香亭に飾られている。

菜香亭


【十朋亭】
 十朋亭は、山口市大殿大路一一〇番地にあり、萬代家の離れの建物である。萬代家は代々醤油製造を業としていたが、三代 利兵衛英備の時、享和年間(一八〇三年頃)に建てられたものである。この頃、大阪の儒者 篠崎小竹が山口を来訪し、萬代家を宿とした。この機会に利兵衛は離れの建物の命名を小竹に依頼した。小竹は、萬代家の商号が亀屋であることから、中国の易経の中から「十朋之亀」の語を取り出し、十朋亭と命名した。
 幕末、長州藩主 毛利敬親は、萩城の地が防長の中心を外れており、今後の政略に不便であることから、文久三年(一八六三)四月に、藩の政庁を山口へ移した。この結果、藩の重役や役人たちは山口へ住居を移し、政務をとることになった。この時、山口の民家を点定して、重役・役人たちの住居とした。十朋亭もまた、その一つである。この時の萬代家の当主は、五代 利兵衛輔徳であった。まず重役の周布政之助がここで起居をはじめ、ついで桂小五郎・久坂玄瑞・坪井九右衛門・富永有隣・白根多助・来島又兵衛・村田蔵六・山縣有朋等の諸士が来亭、起居したと伝えられている。
 また、この頃、英国に留学中の井上間多(馨)・伊藤俊助(博文)の二人は、英米仏蘭の四ヶ国連合艦隊が、先の下関での長州藩による仏船砲撃の報復として下関の長州藩の砲台を攻撃することを知り、元治元年(一八六四)六月、急ぎ帰国して山口の藩庁へ出頭し、外国との交戦を中止するよう進言した。この時、井上・伊藤の両名は、まず十朋亭に入り、旅装を解いて藩庁に向かったという(中原邦平著「井上伯伝」明治四〇年刊)。
 昭和五七年(一九八三)三月二日、山口市の文化財として「史跡」に指定された。

十朋亭

■3 活動内容

◆結成当初(一九九八年八月〜一九九九年一月)

 具体的にどのような活動を行えば、これらの貴重な文化遺産を保存する動きが地域にでてくるかと考え、迷い、試行錯誤を繰り返してきた時期である。
 行政への保存の働きかけや関連他団体との意見交換、保存のための資金の調達方法の考察などを行ったが、菜香亭の保存費用が市の調査結果による屋根の改修だけで五千万円、全面改修では一億五千万円という具体的な金額を聞き、途方に暮れ、挫折しそうになったのもこの時期であるし、「アートふる山口」の期間中に行った署名活動では県内外を問わず四千名もの方に賛同を頂き、意を強くしたのもこの時期である。
 この他、会員個々の活動団体の会合を菜香亭で行い一人でも多くの人に菜香亭を知って貰おうと活動した時期でもあった。

◆清掃活動開始(一九九九年二月〜)

 活動はそれなりに広がりを見せ、徐々に賛同者も増えてきたが、具体的な保存・活用の動きに繋がるにはまだまだ時間がかかりそうであった。料亭としての活動を停止して三年余り、使われない建物の傷みは益々激しくなっている。
 このような状況下、行政の支援を只待つだけでなく、自分たちの手で出来る事を具体的に実行していこうと始めたのが月一回の清掃活動である。
 毎月第三日曜日、午前九時から一〇時まで、老若男女を問わず、参加できる人が参加できる時に掃除を行うという自由度の高い活動である。


 以下は当時の清掃参加呼びかけの文章及びマスコミ報道であるが、この清掃活動が、我々の活動を飛躍的に進展させるとは、その当時誰も思っていなかったように思う

菜香亭の清掃活動の参加者を募集しています

 私たち「菜香亭・十朋亭をチョッと素敵に後世に残す会」では、昨年2月より、毎月第3日曜日の朝9時から約1時間、菜香亭の清掃活動を行ってきております。本会は、第3回アートふる山口の実施直前(1998年8月)に発足させました。その後、具体的にどのような活動を行えば、これらの貴重な文化遺産の保存・活用の動きが地域にでてくるかと考え、迷い、試行錯誤を繰り返してまいりました。これらの場所の利活用方法を具体的に何案も考えたり、行政(山口市)に働きかけをしたり、多くの市民の皆さんに署名を頂いたり(約4000名)してまいりました。
 これらの活動はそれなりに功を奏してきたようも思います。しかし、具体的な保存・活用の動きに繋がるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。そうこうしている間に建物は風化し、傷んで参ります。建物は使われて初めて生きます。料亭としての活動を停止して3年余り。傷みは益々激しくなりました。
 より多くの市民の皆さんに、この現状を知って頂く必要があります。その為に、アートふる山口の時だけでなく、普段でもこの場所を見られる機会を設けることが必要だと考え、毎月1回の清掃活動を始めました。ただ集まるだけではなく、具体的に自分たちの力ですぐに出来ることから始めることとしました。
 毎月1回の掃除では、大した助けにはならないかもしれませんが、自分たちが主体的に関わることにより、文化財の大切さに少しでも触れることができれば、それだけでも意義はあると考えています。参加はどなたでも自由です。この菜香亭を維持していく上でも、市民の自発的な協力が必要です。どうぞ、ご協力ください。
 小さな子供も清掃作業に参加しています。畳を雑巾掛けしたり、廊下を掃いたり、ぬか汁で拭いたり、雑草を除去したり…。子供達にとってみれば、たとえ掃除であってもけっこう新鮮のようです。約1時間の掃除終了後、お后さんが用意されたお団子とお茶を頂くのが、この上ない楽しみです。
 今後は、お茶を頂きながら少しずつ歴史の勉強会でも催せたらなと考えています。私たちは、山口市に住む一市民として、これら菜香亭・十朋亭をきちんと後生に残したいと思っています。同じ気持ちをもたれている方は多いと思います。どうぞ、いっしょに保存・活用の動きをつくっていきませんか。


維新から昭和の政財界大物らが利用             1999/12/24毎日新聞
市民団体が活動 山口
 維新の元勲らが利用した山口市上竪小路の元料亭「菜香亭」の保存を目指し、市民団体「チョット素敵に後世に残す会」が、月1回のボランティア清掃をしている。作業の後には「おごうさん」(おかみ)の斉藤清子さん(82)から昔話を聞いている。
 菜香亭は明治維新直後の1871年、長州藩膳部職(料理番)だった斉藤幸兵衛が開業した。屋号は井上馨が命名、明治から昭和にかけて政財界の大物が数多く訪れた。158畳の大広間には木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、三条実美らの書が掲げられ、1975年には佐藤栄作元首相のノーベル平和賞受賞祝賀会が開かれたが、80年代から経営が悪化、96年6月に惜しまれつつのれんを降ろした。
老朽化が進む建物は、雨漏りがひどい屋根の改修に5000万円、全面改修には約1億5000万円が見込まれる。残す会は昨年8月、地域住民ら約10人が、菜香亭など昔ながらの建築物を保存・活用しようと結成した「市民が建物の歴史を知り、愛着を持つようになれば行政を巻き込んだ保存の気運が高まる」と2月からボランティア清掃を始めた。
 会員と家族ら20人ほどが畳や廊下のぞうきんがけ、庭の草むしりなどをする。
 斉藤さんが用意してくれた和菓子を食べ、お茶を飲みながら、かつてのにぎわいぶりを聞く。今月19日には忘年を兼ねて斉藤さんとなべを囲んだ。
 残す会の発起人の一人、河野康志さん(38)は「菜香亭は、山口の歴史が息づく貴重な空間。今のままでは建物は倒壊は避けられず、失うものは大きい」と言う。斉藤さんは「保存に尽くしていただいて本当に感謝している。この建物をもっと大切にしなければと思い、奮い立ちます」と話している。【錦織祐一】

夢を育む                              2000/01/05読売新聞夕刊
 「西の京」といわれる山口市の中心部。静かなたたずまいの上竪小路に、料亭「菜香亭」がある。長州から排出した明治の元勲、歴代首相らが足を運んだ老舗だが、高齢の亭主に代わる後継者がなく、四年前から休業中だ。
 その菜香亭で昨年末の日曜日、人々が忙しく立ち働いていた。雪が舞い、冷気が足元を刺す中十家族の三十人ほどが畳や障子の桟をふき、廊下をぬかで磨き上げた。「最高亭・十朋亭をチョット素敵に後世残す会」(馬越帝介会長)の面々だ。
 十朋亭は菜香亭の近く、維新の志士たちが宿泊したことで知られる。だが日頃は無人で、荒れることが心配されている。会員たちは「日本を動かした舞台を残したい。できることから。」と菜香亭を昨年二月から月一回清掃している。
 ◇室町時代、日明貿易で財を蓄え西国七カ国を統治した大内義隆は、迎賓館「築山館」で明国使節らを接遇、フランシスコ・ザビエルもここで引見した。菜香亭は、時が移り、八坂神社となった築山館跡の一角に一八七一年(明治四)に創業。屋号の名付け親は井上馨。亭主・斎藤幸兵衛の「斎」の音読みで「菜」、自らの名の「馨」を「香」にかけたといわれる。
 西郷隆盛、大久保利通も足を運んだとされ、伊藤博文を迎えての旧毛利藩主の法要も営まれた。百五十八畳敷きの大広間には井上、伊藤、木戸孝允、山県有朋ら明治の元勲、郷土出身の岸信介、佐藤栄作兄弟宰相らが揮ごうした書がずらりと掲げられている。
 見事な松や庭石を配した庭園に座敷が連なり、黒光りする廊下が入り組む。「残す会」では、これらを茶席や貸間として活かし保存費用に充てるプランも温める。保存を訴える四千人の署名も集め、近く市に提出する予定だ。
 ◇休業中の五代目亭主の斉藤清子さん(82)が、昔ながらの山口弁とともに登場した。
「若い方々が気のいいのがうれしゅうて、楽しいねえた。ぼんやりと、しとられん。」と、"西京の迎賓館"再興を夢見る。
 そんなみんなの心は、子どもたちに伝わる。
清掃に毎回参加する市立白石中三年・宮崎瞬太郎君(14)は、教科書で習った歴史が身近にあるのがうれしくてたまらない。「いずれは中央で学んで、成果を山口に持ち帰りたい」と、その志を熱っぽく話すのだ。まるで維新の志士のごとく・・・。

◆署名・清掃活動の継続そして議会請願へ(二〇〇〇年一二月)

 清掃活動は毎月淡々と継続され、新聞、テレビはもとより、市報、コミュニティー誌等、いろいろなメディアに取り上げられ始め市民の関心も如実に高まっていった。また署名活動も着実に数を増やし活動自体は順調であったが、具体的な保存への道は未だ見えてこなかった。
そんな折り、大内文化まちづくり協議会の福田礼輔会長より、五千名を超える署名を市民の声として、市議会に対して保存活用の請願をしてはどうかとの提案が投げかけられた。
 会員で協議の結果、現在の場所を離れるのは非常に忍びがたいが、現在の場所でこのまま朽ち果てていくのを見ることはそれ以上に忍びがたいとの結論に達し、この提案を受け入れることとした。
 ニ〇〇〇年一一月ニ四日、当会と大内文化まちづくり協議会の連名で市議会議長宛に請願書提出し、一二月市議会に於いて満場一致で採択された。これにより、菜香亭の移築保存が正式に決定された。

◆保存決定から現在へ

 保存決定後も毎月の掃除会は毎月欠かさず行われ、二〇〇二年二月で三年目に突入した。
 また、署名、清掃活動と平行して、移築前の菜香亭を一人でも多くの市民の目に焼き付けて貰うため、他団体の協力も得て、左記のような事業を二〇〇一年一一月三・四日(アートふる山口開催時)に開催した。

・「菜香亭の年表、写真等の展示・ビデオ上映」主催NPO法人デジタルアーカイブやまぐち
内容:菜香亭の館内紹介ビデオの上映、菜香亭の歴史年表、菜香亭で行われた結婚式や斉藤家、歴代関係者等の写真展示
 
・「菜香亭いま・むかし おごうさんと語る会」主催NPO法人デジタルアーカイブやまぐち
内容:菜香亭及びおごうさんに縁の深い人々がおごうさんを囲み、菜香亭に係わる昔話に花を咲かす。そしてそれをデジタルアーカイブすることで、市民に菜香亭がどういう場所であったかを知って貰い、関心を深めて貰う。

・「甦る菜香亭」主催NPO法人デジタルアーカイブやまぐち
内容:菜香亭移築後の活用方法並びに維持運営システムを市民の立場から提案して貰い、それを行政に投げかけていく。
  
・「祇園菜香亭 ひと夜の夢」主催 菜香亭・十朋亭をチョッと素敵に甦らせる会
内容:一般の市民がなかなか入ることの出来ない夜の菜香亭の趣を多くの方に楽しんで貰うため、ギター、津軽三味線、尺八のコンサートを開催した。


■4 今後の展開

 菜香亭の移築保存が市民の思いで実現したことは、非常に大きな成果であり、関係者並びに活動に協力していただいた市民の方々一人一人にお礼を申し上げたい。
 ただ、菜香亭に関しても、具体的な保存方法や今後の運営形態など、不明な点が多いのが現状である。山口市のシンボルとして、また市民文化活動の拠点として今まで以上に活用できるよう、行政や関係者に働きかけをし、名実共にチョッと素敵に甦らせていきたい。
 また、十朋亭に関しては、全く手つかずの状態である。これに関しても保存活用が実現できるよう、今後ともねばり強く活動を続けていきたい。