Essay 〜書きおろし〜  Daisuke ISHIKAWA
山口新聞「東流西流」連載
「新しい街の胎動」
 昨年11月、山口市商店街を会場に行う結婚式「ハッピーロードやまぐち」の公募に私たち夫婦が選ばれた。"車いす利用者"の主役は、今回がはじめて。スタッフは大変苦労されたことと思う。なのに、終了後の「応募してくれて本当にありがとう!」には感涙した。それは本来こちらのセリフ。ふり返れば、準備期間中、何度も連絡があった。「車いすの横幅は?」「抱え上げるときは、どうすればいい?」…それらの内容は私にとって切実な問題。でも聴きにくいからか、普段はあまり言われない。「わからないことばかり、遠慮なく何でも言って!勉強になるから」という本音が嬉しかった。だから、自分の障害をありのまま見てもらい、どうすればよいかを一緒に考えてもらった。過去二回とは勝手が違う経験、仕事を終えてからのミーティングは、連日遅くまで続いたそうである。「本当は設備を改善できればと思う、でも財政面は大変で…」という言葉が印象に残る。出来ることから一歩ずつ、そのためには、まず障害当事者の声を聴こうという姿勢に、この街の今後の可能性を見た。このイベントをきっかけに何が変わったのか、今から真価が問われる。この出会いを大切に、障害者と商店街の相互理解を深めるためのパイプ役になれるよう、これから努力していく。目には見えない、心のバリアを街と共に見つめていきたい。


「療養所生活」
 私の病気、筋ジストロフィー症は、全身の筋肉が徐々に破壊され、筋力が弱くなっていく特徴を持つ。症状は、長い距離が歩けない、床に座り込んでしまうと自力では起き上がれないといった具合。今は地域の中で暮らしているが、14歳から18歳の間は広島県にある、筋ジス専門の国立療養所で過ごした。そこは、昭和30年代に作られた結核療養所の跡地で、地域社会から分断された山奥にあった。病気の特質上、終の棲家になる可能性が高く、現に多くの友だちを見送ってきた。仲間と語りあえば、本心は、生まれ育った地で暮らしたいと願っていることが分かった。同じ人間なのに、なぜ筋ジス患者だけが閉じ込められ、一生そこで過ごさないといけないのか。なぜ社会から分断されるのか。病気や障害があるために、自由の権利が剥奪される社会の矛盾に対し、怒りと疑問を抱き続けた4年間。だから、病院の職員や併設の養護学校の教員から、どんなに激励の言葉を受けても、彼らが勤務を終えて帰宅する姿を見れば、生きる世界の違いを感じ、反抗と議論を繰り返した。しかし、それは自分にはない自由を持つ人たちへの憧れと嫉妬の心。そのことに気づくまで、15年の歳月を要した。今ようやく、"障害者が地域の中で当たり前に暮らす社会"をつくる活動の原点に辿り着いた。


「15年前の進路」
 私が福祉を学ぼうと志したのは、広島にある筋ジストロフィー症専門の国立病院で生活していた18歳のとき。管理型の福祉に疑問を持ち、ならば自らが勉強して世の中を変えようという熱い思いを抱いた。しかし、受験前から多難を極め、それはまさに「針路」。今でこそ福祉が注目され、各地に大学や専門学校があるが、15年前、大阪以西には6校しかなかった。一番近くて香川県。担任の先生と母親へ、進学希望の気持ちを伝えた時のことはよく覚えている。先生には「合格したとしても、生活は?それに大学が受け入れてくれるかどうか…」と言われ、母には「香川県?そんな遠くダメ、病気になったときどうするの!お願いだから山口か、せめて福岡くらいにして」と。母校の養護学校からの大学受験は私が初めてで、大騒ぎになった。「君の体力と学力で大学へ行こうなんて無理だよ!」とまで言う先生がいれば、反対に、放課後に勉強を見てくれる先生もいた。反対されれば俄然やる気に、応援されれば更にやる気に…自分の気持ちを押し通し、母をはじめ周囲を納得させ、受験することに。大学からは、合格すれば入学に問題なし、そして男子寮があるとの提案まで届いた。受験から2週間後、幸運にも合格通知を手にし、翌春、私は病院を出て、希望を胸に四国の地に立った。


「寮生活で学んだこと」
 筋ジストロフィー症専門の国立療養所での四年間の生活後、香川県にある四国学院大学社会福祉学科へ進学。15年前の当時は、ノーマライゼーション〜障害を持つ人も、持たない人と同じように社会の中で普通に暮らすことが当たり前という考え方〜の理念が未だ一般的ではなかったが、大学の中には浸透していた。それは、北欧のノーマライゼーション理念を日本へはじめて紹介した教授陣の影響であり、学風であったと思う。「障害を持つ学生のための学内改善委員会」があり、学生の持つ自治権に基づいて、大学側と交渉をすすめ、今日でいうバリアフリーへの取り組みが実践されていた。寮にも自治の考え方が貫かれ、私の入寮希望に対しては、寮生による話し合いが連日行われたと、後に聞いた。それは「障害を持った学生を受け入れるのであれば、同じ寮生として差別無く接していくことが当たり前。設備が使いやすいことはもちろんだが、寮の伝統行事へも一緒に参加することが大切」との内容だったらしい。寮は上下関係の厳しい世界であったが、先輩のお陰で、障害者だからという特別な扱いは一切なく、楽しいことも辛いことも、同じ釜の飯を食う仲間として味わった。言葉では表れなかったが、その寮生活の精神こそがノーマライゼーションの実践であったようにふり返る。


「新たな道へ続く迷走」
 筋ジストロフィー症のため、中学・高校の4年間を病院で過ごした。そのときの管理される生活に疑問を抱き、福祉の変革を志して大学へ。15年前の気持ちは熱かったが、学びが進むにつれて、内容に疑問を持ち自問自答を繰り返した。原因は明確。福祉の対象だった自分と、福祉を担う人材を育てる大学との立場の違い。当時の福祉教育は、地域から離れ施設で暮らす障害者や病人が快適に生活するための援助方法が主であった。社会は豊かになるが、障害や病気のために、地域から引き離されている人がいる。その矛盾を紐解くことが自分のテーマ。「求めていたものと何かが違う」という焦りと苛立ちが強かった。卒業するために、必ず経験する福祉施設での実習は、揺らぐ気持ちを更に不安定にさせた。そこで見たものは、正に大学入学前の自分の生活そのもの。強く否定していたはずの「地域から疎外され管理される生活」に対し、実習とはいえ、自分は管理する側に立っていることへのショック。「この施設で暮らす人たちに、自分はどのように映っているのだろうか」その後、迷走した生活を続け、「卒業後は福祉以外の道へ。障害者などの弱者も地域で当たり前に暮らせるための支えとなる民間組織の一員として働きたい」との結論に至る。願いが叶った就職先は生協であった。


「初心に返る」
 筋ジストロフィー症のため、国立療養所で過ごした4年間。その経験から、大学では社会福祉を学んだ。卒業後は、地域住民が力を寄せ合って、くらしを支えあう組織で働きたいと思い、生活協同組合へ就職した。福祉分野で自らの経験を説くよりも、異分野を開拓する方が、同じ立場の人が暮らしやすい地域づくりに繋がると考えた。「人一倍努力して認めてもらわないと、障害を持った自分を理解してもらえない」と、社会人を始めるときには随分気負っていた。必死で働いた。職場にも恵まれた充実した毎日。周囲から徐々に信頼してもらい、やりがいを感じる業務を任されていた。一見安定した暮らしを送っていた7年目のある日、事故が起きた。自宅で転倒、腰椎を骨折し寝たきりの入院生活を強いられた。「今ある生活基盤が崩れてしまう…」という不安。同時に、「仕事人間」と化している自分と向き合う時間を与えられた。「障害者が地域で生きていくために…」という、初志を忘れている自分。気がつけば、働いて組織に認められることを目指す、そうすることに自分の存在価値を求める人間となっていた。「一体何やってんだ?」己への腹立たしさと同時に、次への一歩を踏み出す決意をさせてくれたケガであり、入院生活であった。もう一度、初心に戻りたいと思い大学院に進学した。


「母の背負ったもの」
 一人っ子の私に障害があると分かったのは、乳児のとき。以後、親の苦労は、並大抵ではなかったと思う。父はサラリーマン、母は専業主婦。それは、身体の弱い私のことを考えてだろう。母は、たまにアルバイトをしていたが、それも自宅で出来る仕事だった。幼い頃は、元気に野原で遊び、幼稚園、小学校…と、地元の学校へ通った。後に「障害を持つ児童は、養護学校へ通うことが多い時代」だったことを知る。しかし、私がそうでなかったのは、両親が教育委員会や学校へ働きかけをしてくれたのかもしれない。障害を感じはじめたのは、小学校の高学年になるころ。直ぐに転んで、膝は傷だらけ。そんな私の姿を見て、たまに会う父方の祖母は「下を見てしっかり歩きなさい!」と叱咤し、母にも辛くあたっていたことを幼心に覚えている。20年前、中学2年のときに父が他界し、二人の生活が始まる。障害児を育てる苦労だけでなく、経済的な問題まで全てが母の肩へ。「このままでは親子の生活が成立たなくなる」と思った。だから、「家を出て、身体を治療しながら、勉強できるところへ行く」と伝え、広島の療養所へ。それは母の本意ではなかったが、一方ではそうせざるを得ない涙の決断でもあった。大学卒業後、無事就職したとき、母は「肩の荷が半分おりた」と喜んでくれた。


「自分と向き合う」
 大学院での研究テーマは、障害者の生産・労働・消費。自分の障害者としての生き様と、そこから生まれた疑問が出発点。筋ジストロフィー症でも軽度の私は、大学へ進学し、その後就職することができた。それは、施設生活を経験した私にとってのあこがれに近い目標だった。働き続けることができるように、認められるように7年間必死で働いた。しかし、8年目に病院のベッドの上で疑問を抱く。この社会は、働いて暮らしてこそ一人前と扱う。なぜ?――それまでは、自分のことだけを考えていた。給料をもらう仕事に就けない人は価値がないのか。多くの人は、働いてお金をかせぎ、そのお金で生活している。重度障害者の多くは、この一連のサイクルに入ることができない。なぜ?――人の中身や存在よりも、お金をかせげるかどうかを重要視する市場原理に問題があるように思う。だから、障害者の存在を肯定するには、お金のシステムや意味を変えることが大切と考えた。最近話題の地域通貨にその可能性をみる。犬の散歩、お年寄りの話し相手、絵を書くなど、ちょっとした善意やサービスを評価していくことを通じて、人に役立つことが喜びにつながる。人間の多様性を認め合い、相互依存しあう社会が必要だ。ここまでやっと辿り着いた。今後は地域の中で実践活動に参加したい。