2010年
3月8日(火) 開場18:00 開演18:30
曳舟文化センター(墨田区)
交通:京成曳舟1分、東武曳舟3分
3月9日(水)
江東区文化センター
交通:東西線東陽町、京葉線潮見

いよいよ公演せまる!〜熱帯びる実行委員会
劇団はぐるま座の『峠三吉・原爆展物語』東京公演(3月8日・墨田区、9日・江東区)に向けた第2回実行委員会が11日(金)午後2時から墨田区緑町のみどりコミュニティセンターで開かれた。当日は雪が降りしきる悪天候のなか都内各地や川崎市からこの日を楽しみにしていた人人が駆けつけた。
会ではまず事務局がとりくみの現状を報告。現在、江東区、墨田区、台東区の商店をはじめ、江東区では103町会、墨田区では120町会、台東区では10町会で掲示板にポスターが掲示され、前売券を預かり回覧も回そうと受け止める町会長との出会いもあり、ポスターは総計3150枚貼り出されている。また、これまでに墨田区八広2丁目老人会、小梅地区ひまわりサロン、亀戸2丁目長寿会、すこやかホーム東陽町、春慶寺食事会など老人会や高齢者の方たちとの紙芝居会も実現し、紙芝居終了後には、堰(せき)を切ったように体験が語られ、これからの日本をどのように立て直していくのかという思いとともに論議が深められていることが報告された。
このうち、亀戸2丁目長寿会では紙芝居終了後、思わず挙手して立ち上がった八八歳の男性が、「私はハルピンで召集され、ノモンハンに行かされた。ソ連軍は戦車、自分たちは騎馬隊でとても勝ち目はないとハルピンに引き揚げたら、“逃げてきた”ということで南方に送られた。それが沖縄だった。3月24日に艦砲射撃が始まり北谷から米軍が上陸。自分は南風原で米軍の捕虜となり軍事裁判にかけられた。米兵を殺したという罪で半年間の基地での強制労働をさせられた。戦争では“天皇陛下万歳”といって死んだ者はだれもおらず、みんな“お母さん、お母さん痛いよー”といいながら死んでいった」と一息に語った。
そして続けて、「翌年浦賀へ帰港し、東京へ帰ったのが3月9日。秋葉原辺りから一面焼け野が原で、亀戸駅に着くとなにも残っておらず駅前の慰霊碑にたくさんの人がお参りに来ていて尋ねると、昨年の3月9日、10日に大空襲があり、まだたくさんの人が埋まっているといわれて初めて空襲のことを知った。亀戸2丁目の自宅に戻ったが家の跡形もなく、家族もみんな死んでいた。今まで捕虜になったということが気にかかって話したことは一度もない。いつかは話したいと思っていたが今日初めて話させてもらった。戦争は絶対にやってはいけない」と強い思いを語った。参加者は初めて聞いた痛切な体験に驚きと感動の声をあげていたことを紹介。
また町会や商店を訪ねるなかでもたくさんの体験が語られ、千石町で材木商を営んでいた男性は、「自分は近衛部隊で士官学校に入っていたため内地配属だった。4年から5年かけて士官を育てるはずが、時間がないといって10カ月でおこなう訓練は壮絶なものだった。終戦間近には川崎の部隊に配属され米軍上陸に備えていた。あの戦争はおかしな戦争だった。三八歩兵銃はまったくなく、イタリア製の小銃とマンドリンの自動連発銃では話にならなかった。これまで戦地の体験は語ろうにも語れなかったというのが正直なところで、黙ってなにも語らず死んでいった人も多い。近衛師団は天皇の直属部隊でルソン島に送られ全滅し、戦友をたくさん亡くした。優秀な人材が次次に死んでいった」と語り、このような活動は大切なことだとポスターを掲示し前売券も預かるなど熱い反響が相次いでいるとのべた。
さらに今回のとりくみを通じて、訪ねる先先で語られる深刻な東京大空襲の体験や戦争体験を若い世代に語り伝える運動に発展させようと高校生への働きかけが重視され、若い世代が積極的に受け止めて論議が発展していることを紹介。
■本所高校での紙芝居では、「戦争体験者の方からアメリカの戦闘機に乗っていた兵士がニタニタ笑って人を殺していたことを聞いたことがある。笑って人を殺すなんて絶対に許せない。国民のことを考えて早く戦争を終えていたらあれだけの人が死ななくてすんだのに、金輪際戦争はしてほしくない」(3年女子)、「歴史は好きだったが、戦争のことは流していた。紙芝居を見て聖路加病院、隅田川など私が住んでいる地名や名前が出てきたので身近に感じた。無差別ではなかったのですね。戦後自分たちが使うものは攻撃しないで残したんですね。計画的だったことがわかった。今日帰って祖父に体験を聞いてみようと思う」(1年女子)、「戦後65年経つのにどうしてまだ戦争が続いているのか、人の命が大切にされていない。会社でも同じことが起こっている。人をもの扱いして上の人の指令でコマのように振り回されてきた。もともと人間が中心なのに大切にされず、人がいなくなったら仕事も国も成り立たなくなるのに、戦争で若者をたくさん殺すようなことをどうしてやったのか理解できない」(卒業生)など真剣な論議が交わされ、次回の実行委員会に参加することや、当日の観劇と劇場の仕込みから参加しようと呼びかけられていることなどが報告された。
会ではその後、劇の内容を紹介した紙芝居をおこない、参加者の活発な論議が進められた。
15歳で東京空襲に遭い、戦災孤児になった遺族会の男性は、「広島の記念館にも行ったが凄い惨状だったんだなぁと思った。東京空襲で母親をはじめ家族四人を亡くした。兄は兵隊で戦地で戦死し、父は病死。父の命日の100日目に東京空襲が襲ってきて母と兄弟が亡くなった。自分は一人、藤倉電線の工場辺りまで逃げて助かった。家族を亡くして戦災孤児になり、行くところもないので上野駅の地下道でしばらく暮らしていた。簡単にいえば乞食だ。区役所に罹災届けを出しに行く途中の道路は足の踏み場もないほどの死体の山で、その死体を踏んで歩いた。当時30b感覚で防空壕が掘られていて、その防空壕で蒸し焼きのようになって人が死んでいた。江東区は掘割の河川が多く、その橋は木造でほとんどが焼け落ちてしまい、一つの町が島のように取り残されていくので、川に入って渡ろうとした人たちがほとんど死んでいった。15歳の自分はそうした惨状を目の当たりにしてきた。この点では広島も東京空襲もまったく同じだったと思う。これらのことをどうしたら後世に語り継いで平和日本を築けるか、これが課題だ。それに役立つのなら私も力になりたい。胸につかえた思いが語れた」と晴れやかな表情を浮かべて話した。
小学3年生のときに東京空襲に遭った婦人は、「空襲警報が一時解除され、おかしいと思っていた矢先、外では火の手が上がっていて逃げる時間はまったくなかった。父は郡長をやっており、責任があるから逃げられないという。地域のほとんどの人たちは菊川小学校に逃げ、私たちが行ったときにはもう建物の中には入れなかった。仕方なく運動場に逃れたが突然大八車が燃え出した。結局菊川小学校の建物内に逃れた人たちが全滅し、入れなかった私たち家族全員は助かった。その後栃木県に疎開したが、東京空襲のことは絶対に語ってはいけないと厳しく口止めされていた。戦時中は大本営発表の嘘の報道ばかりで国民を騙してきたのに、戦後も語ってはいけない、喋ったらいけないといわれ、その影響でほとんど語れていなかった」とうっ積した思いを語った。
参加者からは、「学校で東京空襲について教えず、頼まれて小学校で語っても偏っているとか刺激が強すぎるといって本当のことが語れない」など口口に語られ、戦争を阻止する純粋な運動として今回のとりくみを大きくしていくことが重要だと論議が白熱。
東京空襲体験者の男性は、「戦争反対とか原水爆禁止とかいうと政党がらみになるものばかりだが、そんなことにとらわれない純粋な国民的な運動としてとりくまれようとしているところが今回のとりくみの素晴らしいところであり、戦争を絶対に起こしてはならないという心をしっかり持ってもらうとりくみだ。世界経済の動向も無視できない。あの大国アメリカの経済危機、ギリシャの国家財政破綻、エジプトの政変など食えるものと食えない人人との対立、これが戦争を引き起こす。戦争を引き起こす要因を取り除く運動が平和のとりくみでもある。これを万人に広げることが私たちの使命だ」と語った。
■東京大空襲と富山空襲を体験した男性は、「太平洋戦争は日本が戦争をやらざるを得ない状況に追い込まれての戦争だった。裏で平気であくどいことをやるのがアメリカのお国柄で犬畜生にも劣る。あの戦争は徹底した経済封鎖、国際的な孤立状況をつくり出し、巧妙に仕組んで追い詰めた。戦後もそのあくどさは変わらない。だから日本は独立独歩の精神で立ち上がらないといけない。しかしそうなるとアメリカは絶対に邪魔するし、黙っていないだろう。アメリカの経済が悪くなったといっているが、とんでもない。世界中にドルをばら撒いてその金がダブついて今度は物価がどんどん上がる。ドルがガタガタになるときが必ず来る。アメリカ国債を一番持っているのが中国だが、日本も負けないくらい買って持っている。ドル国債を売れば財政赤字が解消できるがアメリカが売らせない。やりたい放題やって今の日本の現状があるのだ。そろそろ目を覚ますべきだ」ときっぱりと語った。
■生まれも育ちも浅草の花川戸で学童疎開をしているときに兄をはじめ家族六人を東京空襲で言問橋で亡くした男性は、「毎年3月10日に東京慰霊堂で慰霊祭がおこなわれるが、うちの家族もみんなそこに入っているから参加している。みんな純粋な気持ちで来ているのに、それが政治がらみになる。挨拶は都知事ぐらいで終わってもらいたいが、墨田区の区会議長から消防署長まで同じ内容の挨拶を延延続けて顔見世、名前を売り込むパフォーマンスになっている。参加者は早くお焼香をあげて慰霊したいのに嫌気がさしてくる。言問橋の慰霊祭も特定の政党の集会にしてしまう。そういう意味で『原爆展物語』は、純粋な気持ちで国民的に語り継ぎ、平和で豊かな社会を築いていく運動だと思う。だから参加しているし、こういうとりくみを進め、純粋に語り継いでいくことが戦争を阻止する力になっていくと思う」としっかりとした口調で語った。
■医師の男性は、「GHQが戦後語らせなかった名残で学校も教えないが、原爆を落とした者が喋るなといっている。また使おうと思っているから喋らさない。体験者は語りたいと思っているが語る場がなく、若い人も知る機会がない。この両者が結びつくことができなかったのだと思う。職場でもそういう場をつくると若い人が強く反応してくるし、両者を結びつけていくことがこのとりくみのなかでできると思う」と話した。
■介護師の30代の男性は、「話を聞きいかに自分が無知かと思い知らされている。中学、高校と日本史を習うが明治維新から第二次大戦までいかずに終わってしまう。東京空襲のあった日は春休み、終戦記念日や広島・長崎の原爆の日も夏休みで学校としてなにか教えるというのはやられていない現状。こうした会に来て初めて知る戦争の真実は衝撃だ。今後の生き方を考えさせられる貴重な体験ができる。子どもたちが学校という枠をこえて体験者から学べる機会ができたら、真剣に学んでいくだろうし、私たち青年もこういう機会ができたら勇気と力がもらえる。体験者のみなさんに心からの感謝の気持ちでいっぱいだ」とはつらつとのべた。
最後に体験者の男性が、「3月8日、9日、墨田区曳舟文化センターと江東区文化センターで上演される『峠三吉・原爆展物語』公演にみなさんの協力をいただき、たくさんの人を結集することが平和運動の大きな第一歩になる。大学生、高校生、若い人たちにももっと参加してもらい大いに語り合おう」と述べ、意気込み高く会を終えました。
期待の舞台は間もなく開演です。

2011年3月8・9日 主催:『峠三吉 原爆展物語』東京公演実行委員会
お問い合せは:047-348−2727(劇団はぐるま座関東事務所)
@開場13:30 開演14:00
A開場18:00 開演18:30
実行委員会の席上でダイジェスト版の紙芝居を上演、多くの参加者から次々と当時の体験が語られました。
劇団員の手で一枚一枚ポスターを掲示。
各町内会でも次々と協力されました。