フランス語
フランス語
語学はとても苦手だった。英語は言う及ばず、第二外国語のドイツ語は頭痛の種。センスないよな、と何度思ったことか。1年のクラスこそとれたけど、2年のクラスは見事に墜落。3年も失敗して、必要な8単位がそろったのは4年生のとき。語学では留年しなかったから、卒業できたものの、これには泣かされた。ドイツが嫌いな訳じゃないが、ドイツ語だけはこの時以来トラウマになっている。Eテレの語学講座を見ていても、ドイツ語だけは、チャンネルを変えてしまう。院入試でも、苦労した(物笑いになった、というべきか)。自分の正確な得点は知らないが、諸般の情勢から判断して、100点満点で10点もなかったはずだ。辞書持ち込み可の入学試験でこれなんだから、如何に泣かされたかわかろうというものだ。
ところが、それじゃ語学は絶対見たくもない、というほどきらいだったか,というとそうでもない。フランス語、にはあこがれた。できてみたい、と思っていた。今でこそラジオ第二のフランス語を聞き倒して勉強して楽しんでいるものの、大学時代は、こいつも挫折した。ただ、これは自分ができなくって、というわけではない。
当時、大学のフランス語教室は、風流で有名な先生がいた。そのときは知らなかったけど、祇園のお生まれだそうで、京の雅を身につけていた先生。単位はとても甘かったので、フランス語で泣かされていた学生にとっては「天使」であった。1回生のコースを落とすあまりに学生が多いので、教養部も困って1回生再履修クラス「FP」を発足させていたその頃。FPってのはFrench primary(初級)、の略だそうだが、学生の間では「フランス語パープリンクラス」っていってた。このクラスはほかの語学をとった学生でも取りに行っていいので、最初の時間に登録がてら行ってみた。フランス語をこれで習えるなあ、なんてちょっとは期待しながらね(ドイツ語の単位もないのに何を言っているんだ、ってところだけど)
さて、「天使」の先生のクラスは、語学の授業って言うのに、大教室。150人は入るかな。その部屋に、満席。座る場所もない。そう、みんな「単位」をとるのに必死。このクラスに登録できさえすれば、単位を取ったも同然だから仕方ない。この大混雑の教室自体、当時の大学にはあるまじき光景だった。
ところが、である。待てど暮らせど先生は来ない。10分、20分、30分、まだこない。学生は、っていうと、第1回を欠席すると登録する資格を失うから,帰るに帰れない。そりゃそうだ。登録しなけりゃ単位はない。将来もない。ということで帰るものはいない。40分、50分、未だこない。そのうちに「休講か?」って声も出る。「誰か研究室に行って呼んで来いよ」なんて声も出る。でもこない。どうしようか、やめようか、どうせ「第三外国語だし・・・」って思ってたところに、きました、大先生。小走りで教壇に立ち、なみいる学生に向かっていきなり、「あ、皆さん、フランス語、話せるようになったら来てください。じゃ、今日はこれで、さよなら。」あ、っという間に帰っちゃった。「え?」「今の何?」呆然とする学生。「先生、登録は?」声もむなしく、先生は帰っていったあと。「単位は?」と色めき立つ学生たち。あるいは、むなしく肩を落とす学生も。降ってくる単位を期待して、待ち続けて、不条理にも先生は行ってしまった。
こちらはというと、せっかくやる気になってフランス語の授業に行ったのに、「話せるようになったら来てください」は、ないよね。なんにも知らないのに、今から勉強しようと思ったのにぃ…ということで、珍しく勉強したいと思ったこのチャンスは、見事に潰えてしまった。その後この「FP」クラスの登録はもちろんしなかったし、フランス語を勉強したい、って気持ちはそれから10数年たってから「パリ」に行って、フランス語がわかんなくてまいった、って思ったときまでこなかった。
さてこの先生。シュールレアリズムの研究では著名な先生らしくて、その画集を訳して出版したんだけれど、何をとち狂ったか、当時の公権力はこれを「わいせつ」としてわめきだした(今から考えたら、何いってんだ、ってほど、どうってことない画集)。文学者をそういうところで「弾圧」するとあとが怖い。頭に来たこの先生、全面戦争を受けて立つ、と公権力と戦うのに専念するために大学をすっぱりやめちゃった。困ったのはフランス語の単位が足りない学生たち。希望の炎が消えちゃった(ほかのフランス語の先生たちはとっても厳しかったらしい)。このときばかりは、友達の一人(当時文学部の学生で今テレビでよく出ている男だけど)は、絶望して「卒業でけへんやんけ!もう終わりや!」っておおさわぎ。おそらく、この声はこの日の大学中の至る所で聞かれたことだろう。なんと罪作りな公権力よ、ね。
2013年1月25日金曜日