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僕に名はない。 なかったと言った方が正しいか。 主のために生まれ、主のために死ぬ。 決して短くはない月日を生きてきた。 いまだ出会わぬたった一人のために生き、そして死ぬこと。 なんの疑問も抱いたことはなかった。 初めて目にした彼はまだあどけなく、年端も僕とそう変わらなかった。 この子供が大人たちのいう【特別】なのか。 少し怯えたような眼差しで僕を見る。 見た感じから、脆弱で息してゆくのがやっとのような生き物だった。 でも、こちらが何も危害を加えないとわかるとたちまちに人懐こい仔犬のような瞳に変わった。 感慨深さも嬉しさもなにも感情が湧いてこない僕に彼は話しかけた。 名を尋ねられた。 『そいつに名はない』 彼の背後に立っていたアレが代わりに答えた。 酷く狼狽する表情。 どう言葉をかけていいのかわからず、逆に滅入った様子だった。 これから死にゆくものにソレが必要なのか。 ただ認識ができる属性と色があれば充分だったのに、彼はとても悲しそうに顔を歪め僕を見ていた。 数日後、彼は再び僕の前に現れた。 『あなたの名前を考えてきました』 とびきりのニュースと無邪気な笑顔は一輪の花のようだった。 そして彼は天高い大空を指差した。 どこまでも自由で何者にも干渉されない自由な大空を。 一羽の鳥が優雅に飛んでいた。 それを僕はあおりみる。 ああ、確かあの鳥の名は・・・ 『――――。あなたにぴったりの名前だと思いませんか?』 下の名の二文字は礼儀正しく慎み深い、もっとも一番と言った意味だと彼は僕に教えてくれた。 これを僕が護る。 彼のために死ぬのか。 そのとき僕は授かった名前と共に命を吹き付けられた。 一陣の風が過ぎ、僕と彼を撫でつける。 ああ、それも悪くはないかもね。 君のために死ねるのならば。 『気に入って貰えましたか?』 大事に大事にされている彼の名のために死ぬ。 世界の理など至極単純な仕組みで、運命は生まれたときからそう定まっていたのだ。 妙に納得できて、僕は一つ頷いた。 それから、彼は僕に大空を与えてくれた。 天高く舞い自由であれと。 四方を柵で囲まれた僕には高望みだった世界がいまこの手の中にあった。 霜始降 屋台で買ったホットドッグを口いっぱいに頬張り、男は青みがかった芝生の上に敷いたシートの上に寝転がった。 他人にはおよそ聞かせられない、間の抜けた欠伸が口から洩れる。 昼食時間は多忙な彼にとって、唯一息抜きの時間だった。 都会のオアシス―― 人々の憩いの場として親しまれている都心の一等地にある広大な公園はいま、彼と同じく昼食時間を満喫しているサラリーマンやOL、親子連れなどが長閑で平和なひと時を迎えていた。 (平和だな) 無邪気な子供たちの笑い声が右から左へと流れていく。 世界は丸く一つに繋がっているというが嘘ではないことを男は実感していた。 目を閉じればここが日本であることも忘れてしまう。 愛する祖国にも子供たちの笑い声はいつも絶えず、こんな平和なひと時を数えきれないくらい迎えた。 (日本に来てもう三日か) 男は雲ひとつない澄んだ青空を眺め、はしばみ色の瞳を細めた。 喉の乾きを覚えれば、頭上にあるバスケットの中からよく冷えたペットボトルを取り出し、そしてミネラルウォーターを呷った。 食後は決まって午睡を貪る。 胸ポケットに引っ掛けていたサングラスで色素の薄い色素の目を被い、レジャーシートの上で大きく伸びをする。 この瞬間がなによりも至福だった。 書類にサインを求める部下の追い立てた声も小言もここにはない。 まさにここは唯一の楽園だ。 日本では今の季節を霜降と呼ぶそうだ。 秋も深まり霜が降りる頃、そんな意味を持っている。 実際に霜が降りるのは暫く先のことだが、しかし、朝晩は冷え込み、日も短くなって秋の深まりを実感できるという。 暫くすると湿った風が東から吹いてきた。 時々、ゴロゴロと嫌な音が耳をつく。 空に透ける金髪がいよいよ風に煽られてくると、男は彫りの深い目蓋を開けて徐に目を開けた。 ワイシャツの袖を僅かにずらし、覗いた腕時計の刻む針を見つめ、それからもう一度、空を見上げた。 (一雨くるか?) 空は変わらず青かったが、遥か彼方の雲行きが怪しい。 頃合だと見計らった男はワイシャツに細々と散った食べカスを手で払うと、帰り支度を始める。 レジャーシート折り畳み、残った食料と共にバスケットの中へ仕舞い、急ぎ足で公園を立ち去った。 途中、思い出したかのように慌てて元居た場所に戻ると、背の低い植木の上に引っ掛けていた上質のスーツの上着を手にした。 小さな木の葉屑が上質のスーツに絡みついていたので傷つけぬよう軽く手で払い、今度は肩に引っ掛ける。 脚は真っ直ぐに、彼の城があるオフィス街へと向かっていた。 (ここ、は?) 突然、開けた地。 黒髪の青年の視線が三百六十度のパノラマで見渡し、ここが見知らぬ街であることを知った。 車のファンクションや雑踏の音。 色とりどりの電工版にあちこちで目にする巨大看板。 鉄籠に囲まれた機械仕掛けの街に唯一ある自然は、四角く切り落とされた青い空だけだった。 遠い空から聞えた轟きに思わず肩を竦めた。 黒の上下のスーツを着込んだ細身の青年は突如、視界に飛び込んできた様々な情報量にパンク寸前だった。 ぼんやり立ち尽くしていると、道行くビジネスマンと何度か肩がぶつかりそうになり、直ぐに歩道脇へと身を寄せた。 それから暫くの間、考え込んだ。 (僕はここで何をしている?) 目的はなんだと自問するが、答えは見つからない。 不安に駆り立てられていく青年の横を数え切れないほどの人間が無表情のまま通り過ぎていく。 誰ひとりとして、困っている自分に声をかけてはくれない。 疎外感と孤独に胸が苛まれた。 途方に暮れて、もう一度空を見上げた。 すると、頭の端で大きな爆発音がして、一瞬、地面が震動した。 途端に泣き叫ぶ人の声が後方でした。 何が起こったのかと体ごと振り返ると、そこは血の海と化していた。 「なに…?」 半分から上が完膚無きまでに吹き飛ばされたオフィスビル。 炎上する隣接の建物。 爆発だ、救急車を呼べと周囲の人々が声を荒げて騒ぎ出す。 爆破の煽りを受けて、血を流して倒れている者もいた。 それを助け起こそうとしている者も。 平和だった街が一瞬にして、恐怖と混乱が蔓延する地獄絵図に変わった。 「あぶねぇ!」 背後から迫る男の声。 振り返る前に頭から抱かかえられるように抱擁され、そのまま一メール先の地面へと倒れ込んだ。 「…っ」 鈍い痛みを背中に受けたと同時に頭上のビルの窓ガラスが次々と割れ、破片が砕け散った。 太陽の光りを受けながら、粉々に砕け散ったガラスの破片がまるで宝石のように輝く。 綺麗だ。 黒髪の青年の目には花火か、無数のカメラフラッシュのように見て取れた。 今度は後ろで重い音で何かが割れる音がした。 ふたりが元立っていた場所に観葉植物の植木鉢が落下し、真二つに割れていた。 砂塵が乾いたアスファルトの上を舞う。 もし、これを頭に喰らっていたら一溜まりもなかっただろう。 「あ…」 青年を庇うようにして上から覆い被さっている男の金糸が絹糸のように豪風に靡いていた。 (なんで庇ったの?) 落ち着いた色調――ダークグレーのスーツを身に纏った金髪の男の足元には、散乱した昼食とバスケットが転がっている。 「あなた…」 咄嗟について出た言葉は思った以上に落ち着いていた。 黒髪の青年の首筋に顔を埋めていた金髪の男の目蓋がゆっくりと開かれる。 日本人とは明らかに異なった容貌をしていた。 年の頃は二十代後半かそれよりも上か、襟足は肩に若干かかるくらいの金髪で、瞳は樺の木を連想させるはしばみ。 高い鼻梁に端整な顔立ち、伏せられた金色の睫毛は豊かで長かった。 「ってー。…お前、怪我はないか?」 男の意識はしっかりとしていた。 発せられた声は良く通るテノールで、心地良く青年の鼓膜に響く。 「ここは危険だな」 早く安全な場所へと、青年の両脇に両手を添え、男はその身を起こしかけた。 顔が近いと嫌悪感を示そうと思った刹那、また悲鳴がした。 何事かと天をあおり見ると、それにつられてふわりと風圧で金髪が視界の端で揺れた。 「な…」 ドンドンと地の底から轟くような爆発音が立て続けに起きる。 今度は至近距離からの爆発だった。 吹き飛ばされそうな爆風に男の一張羅の背広があおられる。 「く…っ」 男は反射的に青年の細い身体を抱きしめ、再び地に伏した。 爆音はすぐに止み、暫くすると遠くから消防車のサイレンが聞えてくる。 「あなた、血が…」 今の爆風でこめかみ辺りを切ったのか、白い肌に真っ赤な血が貼り付いていた。 「どうってことねぇ」 「でも…」 どうってことないわけがないだろう。 どう考えても、自分を庇ったせいで彼は傷を負った。 それなのに目の前の男の目はどこまでも落ち着きを払い、冷静を保っていた。 人々が混乱に逃げ惑う白昼夢、青年の頭は真っ白になってゆく。 「こっちだ」 にょきりと伸びた腕が力強く青年の手首を掴んだ。 ワイシャツの袖口から余るように肌に浮かび上がっていたのは刺青だった。 「……」 外見はビジネスマンスーツに身を包んだ外国人紳士に見えるが、堅気の者ではないのかと疑問が掠めたが迷っている暇はなかった。 兎にも角にもここにいては危険だと頭の中でシグナルが点滅する。 「走れるか?」 「え…」 「ここから抜け出すぞ」 金髪の男は最後まで冷静さに欠けることなく、青年を連れて走り出した。
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