及東生

 

 

 

 朝を迎えた雲雀が珍しくベッドのなかで温もりを貪っていた。

 一糸身にまとわぬ上からしっかりと毛布と上掛けを被り、左腕にタトゥのある男の抱擁を大人しく受けていた。

 身動きをとれば昨晩の愛された名残が腰から上へじんわりと響き、甘い疼きをなんとかやり過ごし雲雀は言葉を紡いだ。

「冬きたりなば、春遠からじ」

 なんだそれと、暖房の切れた寝室で白い肌を粟立てているディーノに少しの優越感を覚えながら言葉の意味を教えてやった。

「冬至を過ぎると日が少しずつ長くなるって話したことは覚えているよね」

「そっか。春に一歩一歩近づいているってわけか」

「その通りだよ」

 今から一つ先の季節の話しをしてもディーノにはピンと来ない。

 それよりも肌を刺す寒さをなんとかしなければと、エアコンのコントローラーを手探りで探した。

 シーツの波の間に埋もれていたコントローラーはすぐに見つかり、ピッと電子音を立てて作動し始める。

「あー恭弥。今晩、招かれているクリスマスパーティーは何時からだっけ?」

「十七時からだよ」

「だったら、午前中はゆっくり部屋で過ごすか。昼からパーティー用のスーツを買いに行けばいいし」

「いらないよ。あなたからはもう充分なくらい買って貰っている」

 遠慮をする恋人に駄目だと語気を強めて言った。

「恭弥を着飾らせるのが楽しいんだ。俺のささやかな楽しみを奪わないでくれよ」

 まるでお気に入りの着せ替え人形と同じ扱いだなと息をつきながら、仕方ない人だねと雲雀は頷く。

 意外と頑固なディーノの性格は付き合い始めてから嫌というほど思い知らされていたので、今さら抵抗しても無駄な時間と体力を消耗するだけだ。

 この短期間の間に雲雀は実に建設的な思考を持てるようになった。

「そういえば、このホテルでもクリスマスの催しがあったな」

十二月に入ってロビーに張り出されていたポスターのことを思い出す。

「チャリティーコンサートが昼から催されるんじゃなかったのかい」

「おお、そうだったな」

 今日は慈善団体が主催するクリスマスパーティーまで仕事は一切入っていない。

 そう気をまわしてくれたのは何を隠そう彼の部下たちだった。

 生まれて初めて好きな人と過ごすクリスマス・イヴに胸躍らせるディーノに部下たちは心から恋の成就を祝福してくれた。

 男でも女でもどちらでもいい。

 当初は異を唱える者たちも少なくはなかったが、一目雲雀の美しさを目の当たりにした異議者たちはディーノのお眼鏡の高さにひれ伏した。

 キャバッローネの当主の心を射止めたその容姿は妖艶で美しく、その美はすでに男女の垣根を超えていた。

 主がひと時も離れず傍らに置いておきたいと思う気持もわからなくはないと納得をした。

 頭も切れ器量良しで度胸も気の強さも一級品とくればキャバッローネにとっても願ったり叶ったりだ。

 兎に角、幼い頃からディーノの成長を見守ってきた者たちにとっては、彼が一角の男として落ち着いてくれたことが何よりも嬉しいクリスマスプレゼントとなった。

 シャワーを浴び、久しぶりに朝食をルームサービスで頼んだ。

 食事を終えると雲雀は最後の一仕事あるからと言い残して、ゲストルームへと籠ろうとする。

 今までは不本意ながらも散々それを黙って見送っていたディーノだったが、今日に限っては世界中の恋人たちが共に過ごす日だとわけのわからない意見を主張して、ゲストルームのドアノブを咄嗟に掴んで呼び止めた。

「ちょっと、離してくれない」

「俺をひとりにするな」

「…あなた歳は幾つ?」

 それを訊かれると胸のあたりが痛い。

 心だけが少年のまま大きく成長してしまったのだと、苦し紛れな言い訳の一つも口にしてみれば恋人の秀麗な顔が歪められた。

「恋人同士にもプライベートな時間は必要だよ」

 その手を退けてとドアの間から凄む恋人につれないことを言うなとディーノの方も必至だった。

「退かないと、この指輪捨てるよ?」

「きょーやー」

 それだけは勘弁してくれ。

 雲雀がチラつかせたのは彼との愛を誓った婚約の証しであるスターリングシルバーだった。

 その指輪を捨てるということは、イコール、婚約の解消を意味した。

 いつの間に新たな脅しの手口を覚えたのかと、ドア口で攻防をしながら舌を巻く。

「恭弥、テメー卑怯だぞ」

「大の大人が情けない声を出さない」

 お前がそうさせているんだろうと、ついには根負けをしてディーノはドアノブから手を離した。

 急に力を感じなくなった雲雀は一瞬の間ぽんかとしていたが、すぐに気を取り直すと「あとでコンサートでも見に行こう」と言ってドアを閉めた。

 その一言が幸いにしてディーノの心の支えとなった。

 部屋に鍵穴がないので一人掛けのイスをドアの前に置いて、一先ずは安堵する。

(誰のために時間を割いていると思っているのさ…)

 全く持っていい気なもので彼は世界一間抜けな幸せ者だ。

 完成を目前にしたマフラーを紙袋から取り出し、雲雀は自らを奮い立たせた。

 

 

 

 

 

 クリスマス・チャリティーコンサートと書かれた看板をコンサート会場である一階のメーンロビー前にスタッフは飾り終えた。

 今日はクリスマス・イヴということもあり、朝からイベント関連の仕事に追われ大忙しだった。

 毎年恒例となったチャリティーコンサートは国外で活躍する一流の演奏者や歌手を呼んで催されるホテルにとっても一代イベントとして定着していた。

 コンサートは無料で鑑賞することができるが、それと同時に寄付を受け付けている。

 毎年のように多額の寄付を贈ってくれるキャバッローネには敬意を表して最前列の席を用意していた。

 集まった寄付金は全額、ホテルが支援する国際援助団体に寄付され助成に活用されている。

 円形状になったロビーの中心にグランドピアノを設置し、それを囲うように椅子を螺旋状に並べていく。

 三階まで突き抜けになったロビーホールは閑散としていたが、演奏時間間近になれば人の群れで埋め尽くされることになるだろう。

 その光景を想像しながら、スタッフたちは手際よく各テーブルの上に花を飾り、用意されたグラスの中のキャンドルを置いて行く。

 着々とコンサートの準備を進めて行く現場を横目に通り過ぎてゆくひとりの男がいた。

 長身で短く刈られた黒髪に顎の刀傷が印象的だった。

「ここに雲雀がいるのか?」

 どうしてすぐに思い出せなかったのだろう。

 あの日、雲雀を連れ去って行った男。

 映画男優のように顔が整っており混じりけのない金髪に涼やかなはしばみの瞳、トレンチコートの袖から伸びた手の甲から覗いたタトゥが妙に引っ掛かり、帰ってからすぐに手元にあった資料の山をひっくり返した。

(あの場で気づいていれば)

 雲雀を連れ去るとき、ディーノははっきりと意思を持ってこちらを見ていた。

 これ以上近寄るな。

 殺傷力抜群の刃物のような鋭利な瞳に睨まれ、身が凍りついた。

 これまで数々の場数を踏んで来た自分が思わず怯んだ。

 普段は決して触れることのない資料のファイルを捲り、血眼になってあのタトゥの情報を探した。

(なんて皮肉な巡り合わせだ…)

 雲雀は彼が何者か知っていて共にいるのか。

 ホテルに到着するまでの間、彼是と想像を巡らせたが、実際、雲雀に会って真実を問い質すのが一番だと思い余計な詮索はやめた。

 それにしてもと男は思った。

 あの日、再会を果たした雲雀の自分やヒバードへ対する反応の薄さが気になってならない。

 自分を映し出していたあの目は例えるならば、初対面の者へと向ける無関心さと何ら変わりはなかったのだ。

 メーンロビー奥の円柱柱の陰で新聞を読んでいる男、二階の吹き抜け口からコンサート会場の設置を傍観しているように装っている男。

(つけられている)

 いつからと思い返せば、ホテルに入ってからすぐだ。

 何者かなんて愚問だった。あのタトゥの男の差し金だ。

 一般人とそうでない者の見分けくらい臭いでわかる。

(さーて、どうする俺)

 手ぶらで帰ることは選択肢にはない。

 是が非でも雲雀を彼の元へ連れて帰らなくては、あまり時間が残されていない。

 雲雀の居場所は調べがついている。

 このホテルの最上階にあるスィートルームだ。

 ここ数年来、ディーノ・キャバッローネは決まってこの部屋を貸し切り、根城としてることは調査済みである。

(正攻法で真正面から乗り込むのは自殺行為だな…。だったら、ヒバードを使ってヒバリを呼び出すか…)

 どちらにせよ、一筋縄ではいかない相手を敵にしていることは確かだった。

 こちらの素性を明かすことは許されいないので、どうしたものかと首を大きく巡らせた。

(こーなりゃ、出て来るのを待つしかないか…)

 長期戦になりそうだと確信した男はロビーすぐ横にあるラウンジへと脚を伸ばす。

ホット珈琲と軽い軽食を注文し、小脇に抱えてあった最新号のスポーツ雑誌のページを広げた。

 メーンロビーが見渡せるテーブルを陣取り、注文を聞きに来た若いウエイトレスに親しみを込めて話しかけた。

「こんちわ。今日って、何かあるんですか?」

 人好きする笑顔と爽やかな男の凛々しさに好印象を抱いたウエイトレスは少し頬を赤らめたのち、自然と零れ落ちた笑顔で説明をしてくれた。

「午後からチャリティーコンサートが行われるんです。世界的に有名なオペラ歌手や演奏者たちが出演されるそうですよ」

 いまではすっかりこのホテルの恒例イベントとなりましたと話すウエイトレスに男は相槌を打ちながら、読んでもいないスポーツ雑誌のページを一頁捲る。

「へぇー。それじゃあ、ここに滞在しているディーノ・キャバッローネも今回のコンサートに多額の寄付をするのかねぇ?」

「ディーノ様をご存知なのですか?」

 かま掛けにまんまと嵌まってくれたウエイトレスはまるで恋する少女のように瞳を輝かせ、その男の名を口にした。

「知っているもなにも。彼はこのホテルでは名の通る有名人だろう?」

「そう…ですね」

 ウエイトレスの視線が次第と険しくなってゆくことに気づいた男は懐から一枚の名刺を取り出して見せた。

「かくゆう俺はしがない二流雑誌の記者でしてね。いま経済界で活躍をしている若きイタリアの貴公子にアポなしインタビューを試みているんですよー」

 よろしくと挨拶代わりに名刺を受け取ったウエイトレスは客がどうして事情通なのかを知った。

 警戒心は解け、そういう事情ならばとディーノがチャリティーコンサートに主賓として招待状をホテル側から送っていることを教えてくれた。

「いやー。貴重な情報助かりました。ディーノさんが出席するかどうかはわからないけど、この機会を逃す手はないよなー」

 勿論、君が教えてくれたことは他言しないよと念のために告げる。

「それにしても、ディーノさんって男の俺からみても惚れ惚れするくらいイイ男っスよねー。ああいうのを世紀の美男子っていうのかな。このホテルにもディーノさんのファンっているんじゃない?」

 いつしかフレンドリーに話しかけてくる男の口車にのり、「そりゃいますとも」と頷いてみせた。

「ディーノ・キャバッローネは罪深い男だね。あの美貌と財があれば、女の子なんて選り取りみどりだ…って言いたいところだけど」

 はぁ、と大袈裟にため息をついて男は注文したホット珈琲を口にする。

「新しい恋人でもできたのかな。社交界でも色恋沙汰が激しかったディーノ氏からめっきりその手の噂をきかなくなってね」

 どうやら、日本にやって来てからみたいだと呟いて、トントンと人差し指でテーブルを叩く。

「秘密裏に聞いた話によると、そのお相手というのがどうも日本人らしい」

 超玉の輿だよなーと羨ましげに感想を述べる。

「あと、有能な秘書も雇ったらしいね。名前はなんだったかなー。ちょっと変わった名前だったから、覚えているんだけど。えーっと、確か…」

「雲雀恭弥さん」

「あー、それだ。それ」

 忘れないように書き留めておこうと、男はスーツの胸ポケットに差していたボールペンを取ると、雑誌の端切れにカタカナでその名を走り書きする。

「雲雀…恭弥っと。年齢不詳の謎の麗人」

 プロフィールは俺が勝手に捏造したことだからと笑って言い、「あ」と我に返ったように言葉を漏らした。

「ここまで来るともう仕事の粋を超えているな。失礼」

 一応は紳士的な雑誌記者を自負しているのだろう、つい口が滑ってしまったと詫びる男にウエイトレスは「どういたしまして」と長居し過ぎたその場を立ち去ろうとした。

「あ、ごめん。肝心なことを聞き忘れていたぜ。ここって、珈琲のお代わりは自由?」

 

 

 

 

 

『ボス、マークしていた例の刀傷の男が動き始めたぜ』

 ロマーリオからの連絡にディーノは電話口でそうかと、短く呟いた。

『今、一階のメーンホールのすぐそばにあるラウンジで珈琲を啜っているそうだ』

 やっこさん大した余裕ぶりだぜと皮肉たっぷりに褒めちぎる。

 念のために部下二名を張らせていると報告する彼に引き続き監視をするようディーノは指示した。

『恭弥はどうしてる?』

「今日は一歩も部屋の外には出させてねぇ。いつものように部屋に籠もって編み物に夢中だ」

『…それは愛されていて何よりだな。ボス』

「どうかな。俺に監視されていることを知れば、なんて言われるか…」

『ボス…』

 ほかに言い訳をする気がない主の口調に部下は何も返す言葉がなかった。

「なぁ、ロマーリオ。今回の刀傷の男の件と東京湾にあがった例の水死体――。何か関連性があると思うか?」

『そりぁ、零とは言い切れねぇな。仮に刀傷の男が…どこかのファミリーに属しているとすれば、可能性はグンと上がるだろうよ』

 だがと翳る口調で部下は続ける。

『だとしたら、俺は必然的に恭弥を疑う。あいつの正体が何者なのか。本当に記憶を失っているのか――』

「……」

『偶然を装ってボスに近づき、暗殺を企てることくらいあんただって一度は考えたはずだ……』

「よせ、ロマーリオ」

 それ以上言うなと低く言い放ち、ディーノは思いつめた眼差しで部屋の隅を飾る花瓶に焦点を合わせる。

『前から言おうと思っていたんだが、この際だ。一度、冷静になって考えてみてくれボス』

 あんたは雲雀恭弥という男に骨抜きにされちまっていると言う部下の進言にディーノは沈黙を守る。

『俺だって、恭弥を疑うような真似はしたくねぇんだ』

 だが、あんたにもしもの事があればと湯水のように溢れてくる杞憂を口にする部下にディーノは意思を込め顔を上げた。

「俺はいつだって冷静だぜ。ロマーリオ」

 やはり、この男はまだ若い。

 恋は盲目と言うが、まさしくその通りだとロマーリオは思った。

『俺たちは何があってもあんたについて行く。例えそれが誤まった選択であったとしてもだ』

「ありがとうよ。ロマーリオ」

『だがよ、ボス。悪いことは言わねぇ。恭弥から手を引け。あいつひとりの存在で身を滅ぼさせるわけにはいかねぇ。それがキャバッローネの当主としての義務だ』

 こうやってディーノは腹心の助言を聞き、幾度も直面してきた窮地を脱してきた。

 いつだってロマーリオの助言は正しかった。だからこそと、ディーノは迷う。

 犬猫であれば情が移るまでに手放せばよい。だが、人となると勝手が違う。

「随分と情けないボスだと思っているんだろうな…」

 ロマーリオは何も答えなかった。

 その代わりに嫌というほどキャバッローネに対する忠誠心がディーノの胸に伝わっていた。

「恭弥の件についてはもう少し時間をくれ。最後まで信じたいんだ…」

『わかった』

「それよりも、明日飛び立つチャーター機の準備はできているか?」

『ああ。燃料も注ぎ込んだしバッチリだ。いつでも母国へ帰れるよう整備はついてある』

 その抜かりのない台詞を聞いてディーノは口を開いた。

「今夜のパーティー後、すぐに日本を発つ」

『ボス?』

 どういうことだと訊ねるロマーリオにディーノは予定を一日早く繰り上げ故郷に帰るだけだと答えるにとどまった。

『また、恭弥のことか…。刀傷の男と恭弥が接触することを恐れているのか?』

 沈黙がディーノの答えだった。

『だが、ボス。あの刀傷の男は恭弥の記憶に関わる重要人物なんだろ』

「ロマーリオ」

 遮るように名を呼ばれロマーリオは触れてはならない地雷かと閉口する。

「恭弥が何者であろうと俺の気持ちは変わらない」

過去の記憶なんて関係ない。

これから未来を築く俺たちには必要ないと口にしながらも、その思いは一方的なエゴであることをディーノは嫌というほどわかっていた。

「午後からのチャリティーコンサートには予定通り出席する。その間、刀傷の男を恭弥へ近づけさせるな。取り押さえて何者なのか吐かせろ。いいな?」

 奴には聞きたいことがあると、低く闇をはらんだ声がしじまに響いて電話は切った。

 子機をテーブルの上に置くとディーノはソファに深く沈みこんだ。

 

 

 

* * *

 

 

 

 Hと白線で描かれたヘリポートの上に一台の待機中のヘリコプターがあった。

 あとは搭乗者を待つのみと操縦士の男は腕時計の盤面をチラリと見つめ、そして緊張感に汗ばんだ手袋を握り締める。

 刹那、ガコンと重い音と同時に鉄の分厚い扉が開かれると黒スーツを身に纏った男が姿を現した。

 彼はゆっくりとした足取りで一歩ずつヘリへと近づいてゆく。

 噂どおり寸分の隙もない男だった。

トレードマークの帽子のツバの上には相棒と言われる緑色のカメレオンが乗っており、並々ならぬ威圧感と存在感に溢れるその男の姿を確認するや操縦士は緊迫した空気の中で表情をほころばせた。

 着々と練られぬ緻密な計画に抜かりはない。

 何度も頭の中でシュミレーションを繰り返してきた。

 いよいよ時は来たのだ。

「―――!」

 憧れの人を呼ぶ声は非常口から放たれた甲高い叫びによって掻き消された。

 何事かと視線を巡らせると、非常口のドア口に一人の少年が立っていた。

 身長も年の頃にしては然程高くなく、平凡などこにでもいそうな顔立ちの少年だった。

 ただ一つ、人の目を引くものといえば、焔色の強い意志のこもった双方の瞳。

 その瞳に見覚えがあった操縦士は思わずその場に居直った。

 少年は男にとって決して近しい存在ではなかった。

 恐れ多くものの存在で、どうして彼がこんなところにと疑問を抱く。

 走って追い駆けて来たのか、少年の小さな肩は激しく上下に揺れていて表情は厳しく緊迫感に引き締まっていた。

「止めても無駄だぞ」

 まるでつま弾くように俺は行くと言い放ち、ビルの屋上に吹き付ける風に飛ばされそうになる帽子のツバを目深に下げた。

「ヒバリさんを連れ戻しに行くんだな?」

「ああ。もう、あそこも安全とは言えなくなっちまったからな…。一足先に向かわせた山本は上手くやっているんだろうか…」

 呑気な男の飄々とした顔を思い浮かべて、男はあまり期待しない面持ちで呟いた。

「一応、ヒバードも連れて行ってる。道案内は大丈夫かとは思うけど…」

「どーだかな。鳥一羽で居所が掴めればも最初から苦労しねぇ」

 何のための組織なのかと鼻でせせら笑う。

 最悪のシナリオにならないことを祈るばかりだと苦々しく口にする彼に少年はまだ何か言いたげに見つめる。

「ヒバリさんの記憶、戻るかな――」

 一番そのことを気にしているのだろう。言い終えると小さな肩を震わせた。

 そんな少年の姿を見兼ねて男は口を開く。

「戻らないと困るのはボンゴレだ。お前の気持ちなんか一々汲み取っちゃくれねぇ。あいつには大きな役目が待っているからな」

「……」

 誰も雲雀の代わりにはなれない。そのことを一番わかっているのは少年自身だった。

「そろそろ時間だ」

 単身乗り込む彼は実に身軽な格好であった。

上着は風をはらみひだを作るように波打つ。

「リボーンっ」

 背中を向ける彼に少年はもう一度、その名を口にする。

「ヒバリさんを…よろしく頼む。こんなこと頼めるのは…お前しかいないんだっ」

 ヘリに一歩足を掛けたまま動作を止め、リボーンは表情を帽子の陰に隠しながらも一つ頷く。

言われなくても、わかっているさ。

そう唇が動いたことを目で確認した少年は別れ際、明るく笑顔をつくり微笑んでみせた。

いってらっしゃい。

誰も傷つかぬように祈っているよ。

雲雀本人が納得するかたちですべてを終わらせてほしい。

それをリボーンひとりに要求するのはお門違いな願いなのか。

それでも、願わずにはいられなかった。

聖なるこの日に無用な血が流れぬよう、少年――沢田綱吉は飛び立ってゆくヘリを見上げた。

 

 

 

 

 

――コロスナ。

 その音の響きに深く目を閉じる。

 腕時計の羅針盤を見て、隣に立つ雲雀の腰を抱いた。

 吸いつくように腕になじむ雲雀の細腰に腕をまわしたまま、ディーノは覚悟を決めて部屋を出た。

 ディーノたちの姿を確認すると五人の黒服たちがザッとその周囲を取り囲む。

 その物々しい空気に雲雀は彼らのいつにない緊張感を感じ取っていた。

「ディーノ」

 遠慮がちに自分の名を呼ぶ。

恋人の声にディーノはそれまでの険しい思考を遮ってゆっくりと視線を向けた。

「どうした?」

 いつもの余裕に充ち溢れた笑顔だったが、雲雀の不安は拭い去れない。

「とうしたもなにも…」

 あなた少し顔色が悪い。

 相変わらず聡い子だった。

 心配そうな眼差しでこちらを見る恋人に大丈夫だとディーノは笑顔で返し、お前は何も心配しなくていいと艶やかな猫の毛みたいな黒髪を梳いた。

「誤魔化さないで」

「はいはい。してません」

 緊張感の中の微笑ましいやり取りが、幾分ディーノの表情を和らがせた。

 最上階にエレベーターが到着すると先に前衛の黒服たちが乗り込み機内の安全とスペースを確保する。

それからディーノと雲雀が続いて乗り、最後に蓋を閉じるように後衛の黒服が乗り込んでエレベーターのドアは閉まった。

たかがチャリティーコンサートに出席するだけだというのにこの厳戒態勢はどうしたものか。

 普段は広く感じられるエレベーターも黒服が大勢いると狭苦しいものだった。

「…息が詰まる」

「我慢してくれ」

 どう絡んだってこの男は本当の理由を話してはくれないのだろう。

 今日の彼にはそんな節があった。

 エレベーターの各階を数字の点灯で告げる表示板をディーノは黙ったまま眺めていた。

 腰にまわされた手は一向にそのままで退く気配はない。

「なにかあるの?」

「恭弥は何も心配しなくていい」

 それ以上、何を言ってもディーノは答えてはくれなかった。

 一階に到着すると黒服たちに包囲されるというかたちでディーノと雲雀はコンサート会場であるメーンロビーへ向かう。

移動の最中も、その異様さは際立っていた。

 通り過ぎる誰もが黒服の一団を物騒に見つめる。

 一体誰の護衛かと必然的に好奇な眼差しに晒されるが、注目されることに私生活から慣れているディーノにとってはくすぐったくもない様子だ。

 コンサート会場は内外から訪れた一般客でごった返していた。

 円形ホールの中央に位置するステージにはグランドピアノが設置され、最前列には主賓席が設けられている。

 ディーノと雲雀の席は最前列の中央に用意されていて、彼がこのチャリティーコンサートにどれだけ多額の寄付を行ったのかが窺われた。

「こっちだ。恭弥」

 エスコートされるように席を勧められ、雲雀は招待席に腰かけたと同時にそれまで同行していた黒服たちは蟻の子の如く四方に分かれる。

 各自があらかじめ決められていた持ち位置つく部下を確認したあと、ディーノは手元にあった二つ折りのプログラムを広げた。

「ねぇ」

 視線を逡巡させると会場の至る所で彼の部下を見つけ、雲雀はいつになく厳重な警戒網を敷いていることに眉根を寄せた。

「ここまできて僕に隠し事をするつもり?」

「どうってことはねぇ」

 ディーノはこの世に及んでしらばくれてみせる。

 否、騙すならば最初から最後までと決めているのか。

 コンサート会場に着いてまだ半時も過ぎていないというのに随分と疲れた気がする。

「まるで誰かに狙われているみたいだ」

「…恭弥は時々、面白いことを言うな」

「だって、そう見えるんだもの」

 仕方ないだろと唇を子供のように尖らせる。

 そんな仕草を見るたびに、俺が守ってやらなくてはとディーノのなかの保護欲が掻き立てられる。

「用心に越したことはないさ」

「…ボス稼業は大変だね。あなた、色んなところで恨みを買うのが趣味なの?」

「まぁな」

 とだらしなく笑ってみせる。

 どうやら狙われているのはディーノの方だと思い込んでいるらしい。

(まぁ、その方が事を進めやすいか…)

 手放す気など毛頭ない。常に希望はこの胸にある。

 ディーノはあらかじめ用意していたインカムを耳につけると無線で現在の状況をロマーリオに報告させた。

 

 

 

 

 



 いよいよ物語りは佳境へとはいります。