* *

 

 

 

『あなたの名前を考えてきました』

 

『雲雀恭弥。あなたにぴったりの名前だと思いませんか?』

 

 懐かしい彼の声がした――――

 

 

 

 

 

「お前に時間をやる。ディーノに別れを告げてこい――」

 待っているぞと、赤ん坊はホテルの屋上にあるヘリポートへと向かった。

 雲雀は小さな背中に向かって小さく一度、頷いた。

もうイタリアへ行くとは言わないことをリボーンは知っていた。

 問わずとも彼の面を見ればわかる。

 自分が何者なのか、すべてを思い出した。

 雲雀はディーノとの思い出の詰まったスィートルームへと向かった。

 エレベーターで最上階へ下り、事後処理に追われる黒服たちと目が合う。

 慌ただしく駆け回っていた黒服のひとり――年若いマイケルが足を止め、皆が沈黙するなか雲雀の前へ立ち憚った。

「お前、ボスを見捨てるつもりか? いい奴だと思っていたのに…。なんでだよ?」

 苛立ちよりも、哀しみの方が勝っていた。

 だんまりを続ける雲雀の襟首を掴みあげ、マイケルは激しくその身を揺さぶる。

「ボスは本当にお前のことを愛しているんだっ」

 若さの表れか、激情した様子で叫ぶマイケルの言葉には一同の思いが込められていた。

「…知ってる」

「恭弥」

「知ってるからこそ、僕はあの人のところへ行くんだ――」

「こんの、わからず屋!」

 パシンと頬を張られた。

避けることなく雲雀はあえて正面から受け止め、ぶたれた反動で横面を赤くさせた。

「おい、マイケル…っ」

 ボスの恋人に手を上げることがどういうことを示しているのか、取り乱すマイケルの両脇をすかさずイワンとボノが抑え込む。

「落ち着け。恭弥だって、辛いんだよ」

「離せ、離してくれ。俺はこのわからず屋にボスの気持ちを――っ」

「うん」

「わからせなきゃ…」

「わかってる」

 静かに首を垂れる雲雀にマイケルはそれまで締め上げていた襟元を開放させた。

 まだ、蟠りのある面をしていたが、冷静さを取り戻し大人であろうと自身に言い聞かす。

「行けよ」

「…ありがとう。マイケル」

 スィートルームの前で門番をしていた黒服も大人しく道を開けてくれた。

「ありがとう」

 初めて耳にした雲雀の感謝の言葉に一同は目を見開き、そしてこれが聞き納めかと寂しい気持ちでその背中を見送った。

 外では深々と雪が降りだしていた。

 通りで肌寒いわけだと、窓の外の景色を眺め雲雀は納得をした。

 初めてこの部屋に連れて来られた日、ここから見る景色は最高なのだとディーノに教えられたことを思い出す。

(つい、数日前のことに思えるよ…)

 彼と過ごす日々はいつも刺激的で楽しく、瞬く間に時が過ぎていった。

 まさか、こんな風に別れの日が訪れようとは、愛を誓い合った頃には到底想像できやしなかった。

「ディーノ」

リビングに彼の姿はなかった。

雲雀は寝室へ繋がる唯一のドアを開けた。

 そして、広々としたベッドを眺める。

ここで数えきれぬ時を過ごし、ディーノに愛された。

(この僕が…不覚だよ、ディーノ…)

 今更、彼に抱かれたことに後悔はしていない。

自分も彼の存在を認め、そして受け入れた。

「どこにいるのディーノ」

 最後に残った扉は一つ。

 そこは嘗て雲雀の部屋として与えられたゲストルームだった。

 ディーノに愛されるようになり、ゲストルームで過ごすことはなくなったが、この部屋には大事な物が置いてある。

雲雀は緊張に息を呑み、そしてドアノブに手をかけた。

「ディーノ?」

 そこにもディーノの姿はなかった。

 シングルサイズのベッドの横には紙袋が置かれたままで、雲雀はその中から真っ白な毛糸で編まれたマフラーを取り出す。

 これをディーノにクリスマスプレゼントとして贈るつもりだった。

「別れる僕から手編みのプレゼントなんて、重たいだけだよね…」

 俯いたまま呟き、雲雀は自嘲する。

 今更ながら彼に対する未練がたらたらで、どうしていいのかわからない。

「恭弥」

 寝室のドア口にマイケルが立っていた。

その表情はすでに冷静さを取り戻していたが、やや急いているようにも見えた。

「なに?」

 悟られぬよう濡れた睫毛を指先で拭う。

「ボスを探しているんだろう。俺も気づかなかったが、ボスは抜け道を使っていて、ここにはいない」

 マイケルの顔は深刻に思い詰めたものだった。

「どこにいるの?」

「ボスは――」

「……」

「リボーンさんのところだ」

「!」

ディーノが赤ん坊のところに。嫌な胸騒ぎがした。

マフラーを手にしたまま、雲雀は踵を返す。

「待て。行くな!」

 駆け出す雲雀の前に今度こそマイケルは立ち憚った。

「邪魔しないでっ」

 胸のざわざわがおさまらない。

気持ち悪いと雲雀は秀麗な表情を歪ませる。

「ボスに任せておけば、悪いようにはならない」

 だからと続けるマイケルに「きみは何もわかっちゃいない」と声を荒げた。

「赤ん坊の強さを見くびってはだめだ」

「でも、ボスが本気になれば――」

「あの人を鍛えたのは赤ん坊だよ? 僕は赤ん坊の強さをよく知っている」

 年若いマイケルはリボーンの武勇伝を口伝にしか知らず、その鬼神の如き強さを目の当たりにしたことはなかった。

 敬愛しているからこそ、ディーノがマイケルにとって最強の存在だと信じて疑ったことはなかった。

「そこ、どいて!」

 さもなければ、君のところのボスが死ぬ番だよと脅されマイケルは後ずさった。

 

 

 

 

 

 雲雀はヘリポートのある屋上へと向かった。

「ディーノ!」

 ガコンと分厚い鉄の扉を開く。屋上は強風で吹雪いていた。

 視界に白い花のような雪がチラつき、鋭い刃物のような北風が雲雀の頬を切り刻む。

 叫んだ声は吹雪にもみ消され、ディーノは雲雀に気づかない。

「よっ、ヒバリ」

 ドア口の外に刀傷の男が立っていた。

「山本武」

「やっと、思い出したみてぇだな。記憶が飛ぶなんて副作用、十回に一回の割合だって、小僧が話していたぜ」

 苦労した甲斐があったぜと苦笑する山本を一瞥し、雲雀は戦況を尋ねた。

「それで、どうなの?」

待機するヘリの前でディーノは小さなヒットマンと対峙していた。

 ディーノの手には跳ね馬の鞭、リボーンの手には指南するときによく使われていた十手が握られていた。

「いまのところ、互角だぜ。両者とも決定的な一撃は繰り出せてねぇ。勢いは――跳ね馬の方がある」

 そうと頷き、雲雀は視線をふたりへ向けた。

「そんなオモチャじゃ、俺は倒せねぇぜ。銃をとれよ、リボーン!」

 俺は本気だと告げるディーノの目には殺し屋としての殺気が漲っていた。

 そんな彼に「へなちょこが一端の口をきくようになったじゃねぇか」と嬉しそうに口角を上げてせせら笑う。

 いまだリボーンは弟子に指南をしているつもりなのか。あれから十年の歳月が経ったというのに。

彼に相手にされていないことは一目瞭然だった。

 ディーノが無傷なうちにこの戦いを止めなくてはと雲雀はドア口から身を乗り出そうとした。

「待て、恭弥」

 突然、後ろから羽交い絞めにされ身動きがとれない。

 その声の主はディーノの腹心、ロマーリオのものだった。

「あなたのボス、殺されてしまうよ。なぜ、止めないの?」

 身を捩る。手元にトンファーがあれば、容易にこの眼鏡を振り解くことができたというのに。

得意の体術に持ち込ませ、ロマーリオを捩じ伏せさせることも考えたが彼とて最後まで主の戦いを見届けたいだろう。

(面倒くさい…)

 二ヶ月間の恩義さえ感じなければ、手加減などしなかった。

 雲雀は口惜しそうに唇を歪ませ大人しくした。

「あれは男同士の、お前を賭けた一対一の勝負だ」

 だから、俺たちが手出しする権利はどこにもねぇ。

ロマーリオの声は淡々としていたが、胸の内は熱く激情に震えていた。

「ボスが勝てば恭弥、お前は俺たちと一緒にイタリアへ渡る。だが、もし、ボスが敗れたときは――――」

「言わなくていい。あの人へなちょこだから、どんなことを考えているのか…。僕には手に取るようにわかる」

 慈愛の満ちた瞳で雲雀は戦う男の姿を追っていた。

「ほんとうに…どうしようもないバカだ……」

 もう既に、気持ちは決まっているというのに。

 再び動き出した運命の歯車は、ディーノでさえも止めることはできない。

 ロマーリオは拘束していた腕を解き、雲雀の隣に立つ。

 雲雀が両手に持っているのはディーノのために編んだマフラー。

 一見、落ち着いて見えるが、心情は自分と同じだろう。

 ディーノの振るった鞭がコンクリートを叩きつけ、リボーンの持つ十手を弾き飛ばした。

 弟子の成長ぶりに目を見張りながら、リボーンはフンと鼻息をつきひっそり笑った。

「そんなにヒバリのことが好きか?」

 世界最強のヒットマンに立ち向かってでも渡したくないくらいに。

 そう訊ねる嘗ての師にディーノは答える間もなく、次々と鞭での攻撃を繰り出した。

 その動きに迷いはなく、小さな標的がのらりくらりと鞭を交わす俊敏な身のこなしに舌打ちをする。

「いい目だ。ディーノ」

 幼い頃、お前が散々なることを嫌っていたマフィアの目だと、リボーンは皮肉なかたちで弟子の成長を褒め称える。

「だが、まだなっちゃいねぇな」

「なっ」

 武器もなくフェンスまで追い込まれたリボーンは焦るどころか余裕の笑みすら浮かべていた。

 ディーノは知っている。

 一流の殺し屋は最後の最後までとっておきの奥の手を隠し持っているものだ。

 だから、ディーノも彼を追い詰めたからといって決して手を抜くような真似はしなかった。

「これで終わりだ!」

 ガシャンとフェンスにリボーンの靴の踵が触れた。

 雲雀を手に入れるためには鬼にもなろう。

 鞭を持つ反対の手が懐に入る。

 ショルダーホルスターからディーノは銃を抜き、銃口を師に突き付けた。

「ほぅ…。銃も撃つのか」

「あんたには教わらなかったがな」

 教えてもらったのは鞭使いだけだ。

 二十二歳のときにリボーンはディーノの元を――長年住み慣れたキャバッローネを去った。

 ディーノが就任時、傾きかけていたファミリーの財政は遠の昔に立て直っていた。

それどころか、キャバッローネは勢力を広げ、同盟ファミリーの一翼を担うまでの力を持ち躍進し続けている。

リボーンはディーノがマフィアのボスとして生きるための知識と術を与えただけだ。

そして、もう何も教えることはないと判断したとき教え子の元を去ったのだ。

 あれから、十年の月日が流れた。再会の喜びは束の間だった。

「チェック・メイトだ」

 そう赤ん坊が唇を動いた。

「ディーノっ」

「ボス!」

 互いに突きつけられた銃と銃。

 零コンマを数える間にリボーンの帽子の上で大人しくしていたカメレオンがその形状を変え、一丁の銃となった。

 それを今、リボーンは手にし、銃口をディーノに突き付けていた。

「お前のヒバリに対する気持ち。ぜってぇ、忘れんじゃねぇーぞ」

「今更、なんだよそれ?」

 軽く聞き流す元教え子にリボーンは「ふぅ」と息をつく。

 改めて対峙した。次で勝負が決まる。

(ふたりの目に躊躇いはない)

 大きく吹きぬけていく風。ハラハラと舞う粉雪。

 どちらが先に相手を仕留めるか、雲雀の手は知らずと左手の薬指にあるリングに触れていた。

(ディーノ…)

 

 僕にあなたは勿体ないくらいの人だった。

 あなたに愛されて、僕は本当に幸せだった。

 ありがとうディーノ――

 

 ガーンと二発の銃声が重なり、そしてコンクリートに薄く降り積もった雪の上に鮮血が散る。

 

 

「ディーノっっ」

 

 

 手にしていたマフラーが風に舞った。

 

 

 

* * *

 

 

 

「僕を撃ってよ。赤ん坊――」

 飛行を続けるヘリのなか、雲雀は項垂れた状態で呟く。

 後部座席の雲雀の横に座っていた山本はギョとした様子で彼を見やった。

 次第に遠のいていく天空の塔。

 あそこにそれまでの雲雀のすべてがあった。

 瞼から離れないあの男の血。

 もう、なにもかも。

(どうでもよくなって……)

 すべてがこれからだというのに。瞼を開けることさえ、重くて辛い。

 こんなぐだぐだな感覚、初めてだった。

「いいのか?」

 操縦席の隣のシートに座る赤子が帽子のツバを微かに動かす。

「逆十年弾を撃てば、お前のこれまでの記憶が消えてしまうんだぞ?」

 それこそ、ディーノと過ごした二ヶ月間の思い出が根こそぎ持っていかれてしまう。

 珍しく温情を見せるリボーンに雲雀は右口角をあげて力なく笑った。

「これからの僕には必要のない記憶だ…」

「本当にそう思っているのか?」

「…どういう意味」

 未練たらたらじゃねぇかと言いたげな視線が後ろに流れ、雲雀はそれまで伏せていた顔を上げた。

「あのへなちょこが恋しくて仕方ねぇって顔をしていやがる。どこまでほだされたんだ?」

「へぇ…、面白いこと言うね。赤ん坊…」

 迎えに来た君が訊ねるのかいと決して挑発にはのらず、気の強い眼差しで前を見据えた。

「この姿では表舞台に出られないだろう?」

 雲雀の最もな言葉に「だよな」と山本は頷いた。

「どの道、元に戻らなくちゃ。困るのはヒバリ自身だ」

「君もだろう。山本武」

 フルネームで呼ばれ、思い出したかのように山本は「だよな」と無邪気に笑う。

 特殊弾の人体実験に利用されたという疑心の類は持たなかったのだろうかと、そのおめでたい思考を羨ましく思った。

「まずは帰って事後報告だ。お前がいない間、ボンゴレにも色々とあったからな」

 それにとリボーンは続ける。

「キャバッローネで何があったのか、俺も知りてぇし」

「あの人たちは何も…。後ろ指を指されるようなことはしてないよ」

「ああ、わかっている。だが、上の連中はそれだけじゃ納得しねぇんだ」

 上手く言い包めるのはいつだって大人の仕事。

 弾を撃つのはそのあとだと、小さなヒットマンは言い帽子を目深に被る。

「暫く寝る。着くまで起こすな」

「赤ん坊っ」

 話はまだ終わっていないと身を乗り出させる雲雀を「まぁ、まぁ」と山本が宥める。

 うまくはぐらかされた感じだった。

そう、彼はいつだってのらりくらりと巧みに交わして、真剣に取り合ってはくれない。

 だから、大人は嫌いだと唇を噛みしめた。

(全く。どいつもこいつもピーピーと…)

 俺ばっかりに縋りつくな。

 お前たちのお陰で今日は散々なクリスマスだったと目を閉じてリボーンはこれからのことを考える。

(豪く変わったな。ヒバリの奴――)

 人を愛することで、人としての感情を知ってしまった。

 情けや慈悲の心を知り、群れの中で生きることを覚えた。

(ディーノ。余計なことを――)

優しく差しのべられた手は、野生の獣の牙を奪う行為に等しかった。

よりにもよって、保護された相手が彼だったなんて。

 雲雀は相手に恵まれ過ぎた。

 正義を重んじ、深い信頼関係で結ばれているキャバッローネはよく纏まった組織だ。

(どうしてくれる。お前のかけた情がいずれ仇となってヒバリに返って来たら。お前は死んでも死にきれねぇだろう?)

 あれは来るべきときに備え、ボンゴレが育て上げた暗殺屋の卵。

人としての感情など、不要だったのに。

 ああ、全く、頭が痛くなる。

(これから、マフィア界は嵐で荒れ狂うぞ)

 静かに降り積もる雪はひと時の安らぎ。

 いまは英気を養い眠ろうと、赤子は深く瞼を閉じた。

 

 

 

 

第一部                    完

 

 



 長らくのご拝読ありがとうございました。
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 三部構成なのでまだまだ続きます。まだ石は投げないで下さいませ。