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――縁(えにし)の糸に引っかかったと言えば、お前は笑うだろうか? どれくらい走ったのか。 安全だと判断した場所は、先程まで昼食時間を過ごしていた公園だった。 「待ってて」 有無を言わさずベンチに座らせると、黒髪の青年は噴水の方へと駆けて行った。 ああ、喉が渇いたのかと思ったのも束の間、青年は上着のポケットから白い木綿のハンカチを取り出して、それを水に浸し始める。 浸してぐっしょりと濡れたハンカチを絞るとベンチに座っている自分の方を向いた。 (可愛いことしてくれるな…) 今度はゆっくりとした足取りで、近づいてくる姿に男は思わず眉尻を下げた。 「じっとして」 青年は男の正面で跪いた。 濡れたハンカチを無言のまま男のこめかみ、先程の爆風で切れた傷口にハンカチをあてがった。 「つめてっ」 「情けない声、出さないで」 大の大人が情けないよと、ツンケンとした口調で黙らせた。 助けてもらったくせになんて高慢な態度だと思ったが、傷口を清潔に拭う仕草は細心の注意を払っていた。 「……」 手当てをする真剣な眼差しは混じりけのない深い漆黒で、思わず魅入ってしまう。 (綺麗だな…) 爆破騒動のときには相手の容姿をじっくり観察する暇などなかった。 漆黒の髪は黒猫の毛並みのように艶やかでしなやか、短くシャギーを入れたサイドは微風にもふわふわと靡く。 鋭くつり上がった目は凛としていて肌はきめ細やかな白雪、唇は紅蓮色に薄く色づき引き結ばれていた。 身長は成人日本人男性くらいで線が細く、黒のスーツを纏っていることも手伝ってやたらと腰の細さが目を引いた。 無遠慮な男の視線に気がついた青年は「なに?」と表情を変えず問う。 「あ、いや。手当てをしてもらったお礼をと」 「必要ないよ」 軽やかなアルトには性別を問わない艶やかさが混じっていた。 どこまでも真っ直ぐな瞳にやましさを抱いた覚えはないけれど、男は僅かに視線を逸らせまた言葉を忘れかけた。 「いや、でもちゃんと礼くらいは…」 取り繕った男の言葉に、それまできつくつり上がっていた目がやや緩んだ。 「お礼を言うのは僕の方だ。あなたが助けてくれなかったら、あの時、僕は死んでいた」 「大袈裟だな」 流暢に日本語を操る金髪に青年は謙遜しなくていいとかぶりを振るった。 「あなたは勇気があるね。軟弱な草食動物とは大違いだ。危険を顧みず、僕を助け出してくれたのだから」 草食動物という単語に「ん?」と外国人は首を傾げながらも「どういたしまして」と慎み深くその言葉を受け取った。 こうして面と向かって美人に褒められると悪い気はしない。 「助けてくれてありがとう。えっと――」 「ディーノ。ディーノ・キャバッローネ」 「ディーノ…」 あれこれと想像していたどの名よりも響きが良く、彼らしい名だと青年は思った。 「日本へは観光で?」 「まさか。ビジネスで三日前から滞在している」 「ふぅん」 印象的なはしばみにみつめられると、なぜか心がそぞろになる。 クンと袖を引っ張られたような感じだ。 不可解な感覚を覚えながら、雲雀は濡れたハンカチをディーノに持たせる。 「それじゃあ、僕はこれで」 礼を述べると、ピンと伸びた背が翻り雲雀は踵を返す。 彼が行ってしまうと思った途端、ディーノの口から言葉が飛び出した。 お前、名前は? まるで女を口説く時と同様の台詞が口をついた。 目の前から立ち去ろうとする大和美人を何とか呼びとめた結果がこうだった。 日頃、如何に自分が女に現を抜かしているか、堕落した私生活を送っているのか思い知り、内心で駄目だししていると以外にも青年は歩みを止めてくれた。 「僕の名前なんか聞いてどうするの?」 「いや。なんて言うか…、袖振り合うのも多少の縁っていうだろう?」 「あなた外人のくせに難しい言葉知ってるんだね」 多少なりとも感心を示したのか、雲雀は嬉しそうに瞳を細める。 「ひばりきょうや」 「え…」 「僕の名前だよ」 日本語でどう綴るのかまではわからなかったが、響きの良い美しい名だと思った。 (キョウヤ…) 縁の糸みたいなものをディーノは感じ、彼の名を大事に宝物のように繰り返し半濁した。 「なに?」 雲雀は怪訝そうな顔をして、ディーノを見つめた。 (本当に綺麗だ) その瞳は純粋で濁りのないものだった。 一方のディーノは足を止めてくれた雲雀に年甲斐もなく胸を躍らせる。 「いい名だと思って」 「そう?」 「どう書くんだ? ほら、日本人の名前ってさ、漢字一つ一つに色々と意味が込められているんだろう?」 外国人のディーノに漢字が指し示す言葉の意味が理解できているのかはさて置き、雲雀は命の恩人に対して律儀に名の意味を教えていった。 その場にしゃがみ込むと地面に指で四文字の名を綴りはじめる。 「雲雀の意味は大空を自由に飛ぶ鳥。恭弥は礼儀正しく慎み深いって意味だ」 「へぇ。すげーお前にしっくりくる名だな」 「別に…」 どこにでもあるありふれた名だとは思わないが、こうして自分の名前のことで講釈をたれるのは照れ臭い。 (なにしてんだ。俺…) 相手の名前を聞いて褒めちぎるなど、女を口説き落とす上での常套手段ではないか。 その相手が同性であることを念頭に置きながら、内心かぶりを振るう。 「歳は?」 「さぁ。見たまんまじゃない?」 「まんまって、お前…」 きりりと釣り上った切れ長の目、意志の強さが感じられる漆黒の瞳は先ほどから痛いくらいにディーノのことを見つめていた。 見た目は二十代半ばか、それよりも下か。 物腰が落ち着いて見えるので二十五くらいだろうか。 「俺に歳を言いたくねぇってことか?」 「……」 沈黙が彼の答えだった。 (あんましつこ過ぎて嫌われたか…) 出来ることならば、もっと話がしたい。 この子のことを知りたい。 次から次へと湯水のように溢れてくる願望に全く持って自分の心が理解できない。 自らの気持ちに悪戦苦闘していると今度は雲雀の方から視線を感じて、ディーノは努めて明るく微笑みかけた。 「ん。どうした?」 優しく問いかけると、頭の上からつま先まで縫うように見つめていた視線は不意に離れてそっぽを向く。 内に溢れる思いを溜め込んで、ディーノは相手の出方を見守った。 「…記憶がないって言ったら、あなたは信じてくれる?」 「え」 赤の他人にこんなことを打ち明けるなんてどうかしていると雲雀自身も思っていた。 だが、自らの命も顧みずに救ってくれたディーノなら信じ、力になってくれるかも知れないという根拠のない希望的観測が点在していた。 「名前以外、何も覚えてないのか?」 声音を低くして訊ねるディーノに雲雀はコクリと頷く。 「おかしな話しだけど…。僕は自分が何者なのか、わからないんだ」 雲雀みたいな生真面目なタイプは冗談を極端に嫌う部類の人間だ。 長年、仕事で多くの人間と関わっていると、自然とその人間の部類や系統分けが頭の中でできてしまう。 だから恐らく雲雀の言うことは冗談ではなく真実だ。 (記憶喪失…ね) 再び、言いようもない視線で縋られ、ディーノは参ったなと首元に手をあてた。 こういう場合、警察に彼を保護して貰うのが正しい行動なのだが。 まるで彼の目はそうして欲しくないと言っているようだった。 どうするかと、暫く考えあぐねて一つ決心をした。 「うちに来るか?」 勿論、記憶を取り戻すまでの間という期限付きではあったが、ほかに宛てもない雲雀にとっては願ってもない申し出だった。 「いいの? 僕、お金持ってないよ」 滞在費のことを気にかけているのか、やけにしおらしく口にするのでディーノは「水臭いぜ」と盛大に笑ってやった。 「困った時は助け合う。これ、万国共通の精神だぜ? 詰まらないことを気にするんだな」 「うるさい」 安心させるように、ディーノはまん丸とした雲雀の頭にポンと手を置いて撫でてやった。 いい歳をした大人の男に対してすることではなかったが、何故だかディーノはそうしてやりたかったのだ。 「何も気にしなくていいんだよ」 「でも、あなたに迷惑が…」 と口篭ると、「バカだな」と殊更明るく笑ってみせた。 「うちは大所帯なんだ。今さら、一人や二人、人が増えたって気にする奴らじゃねぇよ」 「あなたのうちは大家族なの?」 「ああ。来たらすぐにわかるけど、事金と人手には不自由してねぇんだ」 「そう…」 「でも、恭弥には少し仕事を手伝って貰おうか。これなら、気兼ねなく滞在できるだろう?」 「きょうや…」 つい口から突いて出たファーストネームにディーノはしまったと焦った。 「――っと。すまん。見ず知らずの奴から名前で呼ばれるなんて、嫌だったか?」 日本人のなかにはフレンドリーに接するとそれを毛嫌いする人種もいる。 雲雀と呼んだ方が良かったかと訊ね返すと、雲雀はかぶりを横に振った。 「いいよ。あなたの方が年上みたいだし。それに、もうあなたと僕は他人じゃないだろう」 「そうか。なら、名前で呼ばせて貰うぜ」 うん、と雲雀は頷いた。
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