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キャバッローネにおいて雲雀は客人扱いという待遇で黒服の部下たちは皆接していた。 手渡された大きな紙袋と時間と場所が記された紙切れ一枚を彼の腹心の部下から手渡され、それを着て書かれた場所へ行くようにと告げられた。 ロマーリオが言うには普段、ディーノは自室で食事をとることが殆どらしい。 それが、どういった心境の変化か、今晩は雲雀とホテル内のレストランで食事をすると言い出したそうだ。 ディーノの姿は先ほどから室内には見当たらず、特に何もすることのない雲雀はずしりと重い紙袋の中身を取り出して思わず目を見張らせた。 約束の時間きっちりに雲雀は指定された場所へ赴き、御用聞きに歩み寄ってきたフロアスタッフに名前を告げた。 雲雀の名を聞くとすぐにフロアスタッフは「お待ちしておりました」と恭しく頭を下げて彼を薄暗い店内へと通した。 彼が今宵の晩餐に選んだレストランは木の温かさと、鉄の力強さ、そしてガラス製のタワー型ワインセラーの透明感など、様々な素材が調合したインテリア構想だった。 店内の照明が仄暗いのは夜の雰囲気を醸しだすために態と凝らしたものだ。 フロアは全面床張りで歩むたびに、コツコツと硬質な靴音を響かせる。 埃だらけになったスーツの代わりにディーノが用意してくれたものは、チャコグレーの品のある上質なスーツだった。 ワインレッドのネクタイを丁度いい締め付け具合までに調整し息を吐く。 この店に一つしかないというビップ専用の貴賓室の扉が開かれる。 密閉された窮屈な空間を想像していたが、大きな間違いだった。 人が優に十人は座れる丸い円錐のテーブルと、ゆったりとした肘掛のついた座椅子はブラウンの色調で統一され、シックで静かな大人の空間を演出していた。 「似合ってるぜ。そのスーツ」 BGMは静かなピアノ演奏と女性ヴォーカルの軽やかな歌声。 先にブランデーを少量口にしていたディーノはグラスをテーブルに置くと、上品な笑みで雲雀を出迎えた。 「どうも」 ディーノもディナー用のスーツに正装しており、白のスーツの襟元には真紅の薔薇が一輪、嫌みなく飾られていた。 場慣れした装いと物腰で、空いた席の一つを雲雀に勧めた。 ちょうど彼の真正面にあたる席だ。 「食前酒は何にする?」 俺はもう勝手に頂いているからと、イタリア人にしては流暢な日本語を操り、フランス語と日本語で書かれたメニューページを捲る。 今の彼はどこから見ても紳士そのものだった。 「今夜は恭弥の歓迎会だ。好きなだけ喰えよ」 にこやかにメニューを差し出されても雲雀は気難しげな表情を変えず、メニューに目を落としもしない。 こういう時は年上の自分がリードしてやらなくてはと思い直し、待ち兼ねていたウエイターにシャンパンを二つ注文した。 ウエイターが出払うと、雲雀は漸く緊張の糸を緩め周囲を見渡した。 「ここには俺とお前しかいない。畏まらなくていいんだぜ?」 そう言われて、雲雀は大人しく腰を落ち着かせていた椅子から立ち上がり、窓辺の方へと足を向けた。 店内は高層階ならではの贅沢さがあり、ウエストサイドとパークサイドの異なる景観が上質の空間を多面的に演出していた。 「あなたの言うとおり、夜景も綺麗だね」 夜景を映した漆黒の瞳が星の粉を散りばめたようにキラキラと輝いている。 絶景に感激する雲雀からディーノは目を外すことができなかった。 雲雀は夜景を、ディーノは雲雀を。 ふたりの静寂を破ったのは、食前酒を運んで来たウエイターの靴音だった。 「食前酒のシャンパンでございます」 差し出された琥珀色の液体を雲雀は繁々と眺める。 まるで初めてそれを目にしたという反応だった。 一向にグラスを持ってくれない雲雀に困惑しながら、「気に入らないのなら、別のものを」とウエイターに声をかけると、「いい」と静寂を割って彼はグラスを持ち上げた。 「それでは、改めて。今日は色々とあったが、無事でいられたことに。俺と恭弥が出会えたことに乾杯」 「……」 「ほら。こういう時は、笑顔で乾杯するもんだぜ?」 「わかった」 ディーノの持つシャンパングラスが近づいて来るので、雲雀は見よう見まねで自らのグラスもディーノの方へと近づけた。 「乾杯」 チン、と慎ましくガラス音が合わさると、ディーノはシャンパンを一気に飲み干した。 これも真似なければならないのかと、グラスに唇を寄せ、雲雀は泡立つ炭酸の液体を一気に流し込んだ。 「けほっ」 「恭弥?」 顔を顰め、一変した表情にディーノは思わず中腰になった。 一方の雲雀は驚きのあまり、暫くの間、石のように固まる。 いよいよ気分が悪くなったのかと、危惧するディーノを他所に雲雀は「お水、ちょうだい」と声を上げた。 「熱い…」 喉が焼けるように熱い。 それから暫くの間、ディーノが咽び笑う。 一頻り笑い、それから控えていたウエイターにミネラルウォーターとオレンジジュースを追加注文する。 次に運ばれたソフトドリンクを雲雀が気に入ると改めて乾杯をし、それを皮切りにコース料理の前菜が運ばれて来た。 「若鶏と旬野菜のテリーヌでございます」 聞きなれない単語に雲雀はウエイターが運んで来た鋳鉄製の鍋を見上げた。 見上げた鍋はそのまま雲雀の目の前に添えられて、一センチほどの薄さにスライスされた肉片をディーノはナイフとフォークを使って口許へと運んだ。 「焼きあがった後、冷ましてから型取りをしてあるから、熱くはないぜ」 証明するようにディーノはナイフとフォークを置くと、態と手掴みでテリーヌを今度は食してみせた。 「美味いぜ恭弥?」 まるで警戒をする野生の動物に見せ付けるかのようにあやす口調だった。 すると、そろそろと雲雀は自分の皿からではなく、ディーノの皿からテリーヌを一切れ摘まんで、口の中に押し込んだ。 「な、美味いだろう?」 「…うん」 それは柔らかく蕩け、胃の中にすんなりと落ちていった。 そして、自分は酷く空腹であったことを思い出した。 (まるで子供だな…) テーブルマナーなど、追々教えてやればいいことだ。 今は雲雀と過ごすこのひと時を大事にしたい。 目の前の前菜を手掴みで食べる彼を眺めながら、ディーノは我が子にそうしてやるかのようにレモンの輪切りを掴むと、雲雀のテリーヌに絞り汁をかけてやった。 「本日のスープでございます」 運ばれたスープを啜る前に、ディーノは自らのスカーフを外して、それを呈よく雲雀の首に結んでやった。 「どういうつもり?」 「恭弥が心行くまで食事が楽しめるようにと」 「ふぅん」 食事は楽しくするものだ。 亡くなった母親の言いつけを守るディーノは大らかにそう言うと座りなおした。 蓋のように皿を覆うパイ生地をスプーンで割り割いて、白い湯気を燻らせるスープを口元へ運ぶ。 「少し熱いかも知れねぇ」 彼を手本にスープを口許にまで近づけていた雲雀は、当分の間、スープを冷ましてから飲んだ。 雲雀が猫舌だということを記憶してディーノは猫みたいだなと笑んだ。 「トリュフのリゾットでございます」 トリュフでディーノが思い出したのは、昨年イタリアのストカナー地方で掘り当てられた巨大トリュフのことだった。 重さにして一・五キログラムの白トリュフは新聞やテレビで大きく取り上げられるくらいイタリアでは賑わった。 「そのトリュフがマカオの慈善オークションに出品されていると聞いて、ちょうど現地にいた俺は会場に行ったんだ」 「あなたは世界中で仕事をしているんだね」 「ん、まぁな」 羨望の眼差しが少しばかりくすぐったい。 誰かに同じことを言われてもこれほどまでに嬉しく感じたことはなかった。 (恭弥だから?) もしそうだとしたら、この気持ちをどう解釈すれば良いのだろうか。 「当時の予想落札価格は十五万ユーロ。それよりも上か下かで、俺はロマーリオたちと賭けをした」 「それで?」 「俺は上だと賭けたぜ。なにせ過去五十年間で見つかった白トリュフの中でも最大級だったんだからな」 話術の巧みなディーノにすっかりのせられて、雲雀は云々と話しの続きを待った。 「落札価格は二十二万ユーロ。俺のひとり勝ちだったわけだ」 「へぇ。それって、そんなに凄いの?」 よくわからないなと、小首を傾げている雲雀にディーノは言葉を詰まらせ「まぁ…、俺みたいな大人が退屈な社交場で交わす話題程度に凄いんじゃないのか」と答えるに留まった。 どうやら雲雀には社交辞令は必要ないようだった。 「仔牛のフィレとフォアグラのソテー、生姜風味でございます」 雲雀は肉料理が好物らしい。 ディーノも若い自分は雲雀と同様肉料理を好んで口にしていたが、三十も過ぎると脂の滴る肉より魚料理を口にする回数の方が格段に増えた。 年齢と共に嗜好が変わるのは否めない事実なので、今さら過去を懐かしんでも仕方ないことだった。 明らかにペースの上がった雲雀に嘗ての自分を重ね合わせ「若いな」とひとり呟いた。 「アバンデセールでございます」 アバンデセールは直訳すると、デザートの前。 テーブルの上に添えられたのはパイナップルのソルベ、ソーテルヌのジュレ添え。 平たく言えば、パイナップルのシャーベットと貴腐ワインのゼリーだった。 トッピングされた花のようなパイナップルは口に入れた途端、たちまちに溶けはじめた。 「ワォ」 どんな魔法がかかっているのかと驚きのあまり、感嘆の声を上げた雲雀にディーノも「どれ」と一口パイナップルを食んだ。 「このソルベは手が込んでるな」 純粋に興味の湧いたディーノはこれを作ったシェフを呼んだ。 上客であるディーノからの指名であれば、調理場が戦場と化していてもシェフはすぐさま貴賓室へと駆けつけた。 そして、シェフは帽子をとると料理の手順をわかりやすく話しだした。 料理の手順としてはまず、スライサーで二〜三ミリの輪切りにし、シロップに漬ける。 水気を何度も拭きとってオーブンで焼いたものがこのソルベだと説明した。 シャーベットとゼリーも口直しに丁度よく爽やかな味わいだった。 「この貴腐ワインゼリーも美味いな。今度はグラスで頂きたいものだぜ」 甚く賛辞をおくるディーノに雲雀は「こういうものは、ほんの少し食べる方のがおつなんだよ」と日本人らしい見解を説いてみせた。 あとに続くデザートは、ローズマリー風味のバシュランに桃のソースをかけたものだった。 ここまで来るとディーノの手は止まり、甘いそれを美味しそうに頬張っている雲雀を眺めているばかりだった。 「あなたは食べないの?」 「ん。もう、胸がいっぱい」 「胸?」 お腹の間違いじゃないとスプーンでそれを掬いながら、まるで甘い物は別腹だと云わんばかりの旺盛さにディーノは益々胸をいっぱいにさせた。 「恭弥、俺のも食べていいよ」 そっとデザート皿を差し出す。 まさか甘いものが苦手だなんて知らない雲雀は彼の好意をすんなりと受け取った。 断る理由もない。 だって雲雀は何よりも甘いものに目がないからだ。 あとは食後の珈琲を待つばかりだよと言うディーノに「そう」と詰まらなそうに呟いて、ホイップクリームを舌先で舐め取った。 覚束ない足取りだったのは、食事の席で酒をたらふく飲んだディーノではなく、慣れない席で酒を少量勧められた雲雀の方だった。 「この絨毯、ふわふわするよ」 幾重になっているのと、わけわからないことを言い出し後ろから見守るように歩くディーノを冷や冷やとさせた。 今頃になって食前酒の酔いがまわりだしたのか、雲雀は普段よりも口が滑らかで元気に前をフラフラと歩く。 腹も心も満たされレストランを出ると、その足でエレベーターに乗りそのまま最上階へと向かった。 最上階のフロアには数人のディーノの部下たちが待機していた。 彼らは交代でディーノの周辺を警護しているボディガードだとロマーリオから聞かされていた。 そういえば、食事の席でも一度お手洗いに向かったディーノの後を黒服がついて行っていた。 貴賓室の扉の外にも彼らは待機していて、ディーノの身の安全を守っていたのだ。 食事の席でディーノと二時間も居座っていたというのによく飽きもしないなと雲雀は内心彼らの忠誠心に感心していた。 「おかえり。ボス」 無粋にも雲雀との食事はどうだったかと訊ねる者はいなかった。 ご機嫌な雲雀の様子を見ていれば、一目瞭然なのだから。 「ほら、恭弥。我が家にご到着だぞ」 「ここ、知らない」 「もう忘れたのか。今日からここが恭弥の根城だろう?」 部屋に戻る頃には口数もめっきりと減り、とろんと虚ろな目が金色を映していた。 雲雀を支えたままゲストルームのドアを開けるのも面倒になったディーノは、すっかり温もった体を抱き上げて自分の褥に横たわらせた。 その時、感じたのは彼が見た目以上に身軽なことだった。 上背がある分、そこらの女と一緒くたにしてはならないとわかっていたが、まるで性別を感じさせない中性的な整った面に、これまで共に夜を過ごしたどの者よりも美しく映った。 呼吸も忘れ、ディーノはその表情に魅入った。 「恭弥、水持ってくるな」 「ん…」 ディーノの呼びかけに鼻で微かに反応する。 完全に酔い潰れているのではなく、寧ろこれは甘えに近いなとディーノは笑った。 相手が女だったら、間違いなく拡大解釈をしてベッドインしていただろう。 (いけねぇ…) 雲雀との距離に危機感を覚えたディーノは線引きをするように身を離した。 隣りのリビングに向かうと備え付けの冷蔵庫の中からミネラルウォーターのボトルを取り出して、再び寝室へと戻る。 「恭弥。水だ」 「…みず」 舌足らずな幼い言葉回し。 相当動揺しているなと苦笑しつつ、フラフラと宙を掻く彼の手にペットボトルを握らせ、「しっかりしろ」と上体を起こさせた。 「クラクラする」 「これを飲めば、すっきりする」 ひんやりと冷たい飲み口を薄い唇にあてがった。 赤くテラテラと濡れた唇が美味そうに水を飲み干してゆく。 生気を取り戻したかのように雲雀は長く息をつくと、幾分落ち着いた眼差しで介抱をしてくれるディーノを見やった。 「あなた。どうして、優しいの?」 「え…」 雲雀の口から突いて出た言葉にディーノははしばみを瞬かせる。 「見ず知らずの……僕でさえ、自分が何者かわからないのに。あなたは――――」 手を差し伸べてくれた。 物言いたげな真摯な漆黒の眼差しとはしばみがかち合う。 「ディーノ…」 ありがとうと動いた唇。 雲雀の手からひんやりと冷えたペットボトルを受け取ると、「ああ」と少しばかり気後れて頷く。 そのまま雲雀の意識は遠のいていった。 「本当に記憶喪失なんだな。お前…」 疑ったりはしないよ。 ディーノは恭しくその艶やかな黒髪に唇を落とす。 その仕草は親愛の情にも似た穏やかな春のそよ風。 「さて、俺も頭をさっぱりさせるか」 最後、名残惜しげに唇を離すと、ディーノはひとりバスルームへと向かった。
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