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霎時降 まるで真綿に包まれているような暖かさだった。 いつまでもこの真綿に包まれていたいと思ったが、それを許さなかったのは雲雀の体に染み込んだ習慣というやつだった。 規則正しい生活習慣をこの体は忘れていないようだ。 ぼんやりとぼやがかかった視界、まだ完全な覚醒を迎えていない雲雀の視界に溢れたものは甘くくすぐる金色だった。 「……」 半開きだった瞼を無言のまま見開けば、やけに高い鼻梁と豊かな睫毛が目についた。 心地良い睡眠をいまだ貪っている金髪の彼の腕はまるでお気に入りの縫いぐるみを抱きしめるかのように雲雀を抱いていた。 キングサイズのベッドの中央に大の男がふたり。 雲雀に至っては昨夜まで身につけていた衣服は下着を残してどこにもなく、その代わりにと申し分程度に雲雀の体を包んでいたのは柔らかな肌触りをした黒地のガウンだった。 (なんで…) 漸く今の状況を把握した雲雀はそれまでゆるんでいた身を瞬時に硬直させ、肩を戦慄かせた。 (どういうこと?) 頭を高速回転させ、昨晩、自分が意識を手放すまでの記憶を手繰り寄せた。 そうだ、昨日は確かディーノと食事をした。 最初に口にした食前酒があとになってまわりはじめ、店を出る頃には脚がフラついていた。 (それから…) 情けないと自らの失態に恥じ入りながらも、曖昧で頼りない記憶をなんとか呼び起こす。 どうにも自分ひとりで歩けなくなった雲雀をディーノは丁重に部屋まで送ってくれた…はず。 最後は彼に抱き上げられ、ベッドまで運ばれた。 そう彼のベッドへ。 介抱されながら、気分がすっきりするからとミネラルウォーターを勧められ、それから彼と少し会話を交わした。 その内容を雲雀は覚えてはいない。 そろそろと視線を落とし、雲雀は自らの体を可能な限り隅々まで確認した。 どこも昨晩と変わりない。 ホッと安堵すると、いつからかこちらを注視している視線を感じた。 「Buon giorno. 恭弥」 「!」 いつ目覚めたのか。 朝の挨拶に相応しい爽やかな微笑みを顔に浮かべ、端整な顔をした男の瞳は穏やかにこちらを見つめていた。 おはようなどとにこやかに挨拶を返すほど、平静ではなかった。 心中は静かな嵐のざわめきで掻き立てられ、彼の蕩けるような極上の微笑みに対して開口一番、口走った科白は―――― 「噛み殺す」 ガツ。 肉を殴打する鈍い音が静かな寝室に響き渡った。 ――何、コノ感覚? 雲雀が繰りなした右ストレートは見事、ディーノの左頬に決まった。 「――っ」 痣として残らないものの、ディーノは相当痛がっていた。 そんなに強く殴った覚えはないと僅かに怯んで我が拳を見つめたその隙にリーチの長い腕が伸びてきた。 「こんのじゃじゃ馬」 「…っ」 全てはディーノの演技だった。 どういうつもりだと、ディーノの両腕が雲雀の細い首根っこを掴み、深くベッドの海の底へ沈む。 それまで惜しみなく浮かべていた笑顔が――柔和だった彼の瞳が一瞬にして、狩人のそれに変わった。 軽い眩暈。 雲雀は目を瞠って豹変したディーノを見上げた。 ガウンの下から覗くのは無駄なく鍛え上げられた肉体。 剥き出しの二の腕もすっきりと引き締まっており、並の成人男性の肉体からはかけ離れていた。 何よりも雲雀を驚かせたのは、彼、ディーノの左上半身に刻まれた幾つかの刺青。 特に目を引いたのは左腕に描かれた飛翔する馬のシンボルだった。 どういう意味を成しているのか。 彼はただの青年実業家ではないのか。 湧き出した一つの疑問は、あとからあとから湯水のように溢れ出て様々な疑問を生み出した。 「このタトゥーはあなたの趣味?」 追い詰められている状況下のなかでも、雲雀は落ち着いた口調で彼に尋ねることができた。 すると、それまで首を拘束していた戒めが解かれ、ディーノは雲雀から離れた。 「すまねぇ」 乱れたガウンの合わせ目を直しながら、雲雀の目はこちらに背を向けて立っている彼の背中を眺めていた。 背中越しにもディーノの刺青は見てとれた。 心なしか、ディーノの後悔の色がひしひしと伝わってくる。 どうやら自分は触れてはいけない彼の部分に触れてしまったようだ。 「ごめんなさい。ディーノ」 素直に出た言葉にディーノはいつもと変わらぬ笑顔で振り向いてくれた。 寝室の隣、リビングに向かうと間もなく黒服の部下がワゴンで朝食を運んできた。 普通のホテルならば、ルームサービスの類は客室係りが行う仕事だ。 だが、それらの仕事をディーノはすべて自分の部下にやらせていた。 世界を股にかけて飛び回る会社経営者ともなると色々と勝手が違うのだろうか。 とりあえずはそう想像を利かせ、雲雀は寝間着のまま食事の席に着いた。 「スーツを着たままだと休んだ気がしないだろう?」 アプリコットをのせたライ麦トーストを口元に運びながらディーノは何でもないように言ってのけた。 黒服の部下によって運ばれてきた朝食をふたりは四角いテーブルを挟み、向かい合いながらとっていた。 クランブルエッグをフォークの先でぐちゃぐちゃに掻き混ぜながら、「だからって」と雲雀は語気を強めた。 「何の断りもなく脱がすのは、どうかと思うけど」 殴られたって仕方ないと雲雀は頬を膨らませる。 「そんなに肌を見られたことが嫌だった?」 からかわれていることはわかっていたが、怒らずにはいられなかった。 「ちがう」 あなたが一方的に悪いと言い張る。 「俺は親切のつもりだったんだが…」 「それを日本では余計なお世話だと言うんだよ」 よく覚えておくといいよと、雲雀は黄色くとろみがかったそれを口にかきこむ。 「日本人っていまいちわかんねーな」 奥ゆかしいというか、繊細というか。 「あ。身持ちが固いのか?」 挨拶のキスも許してはくれない。 調子狂うぜと彼は頭を掻く。 「常識だよ。郷に入れば郷に従え。イタリア人の感覚で接しなければ、殴られたりはしない」 不遜に言い放ち、悠長な面持ちの彼をキッと見やった。 「おー。恭弥の右ストレートな。あれ、なかなかだったぜ」 ガラス製のボトルに入ったグレープフルーツジュースを傾けながら、ディーノは思い出したように破顔した。 ボクサーだったのかとからかわれ、雲雀はかぶりを振るう。 「知らない。体が反射で動いたんだ」 「へぇ…。反射、ね」 それにしてはいい筋だったと、興味深げにディーノは紡いだ。 これは下手な世辞ではない。 人とは記憶がなくとも、体に染みついた本能までもは忘れ去ることはないものだ。 それがどうしたのかと、不機嫌そうに見据えている雲雀にグラスに注いだジュースを勧めた。 天然果汁のグレープフルーツジュースはどうやら雲雀の口に合ったらしく、すぐに殺気だった目は大人しくなった。 まるで子供だなと、相手の幼さに苦笑を覚えながらも、頭のどこかで可愛いと思う厄介な自分がいた。 「恭弥。話は変わるが、今日俺は幾つか商談がある。ホテルに帰ってくるのは夜になるが、ひとりで大丈夫か?」 「僕を子供扱いしないで」 ムっと言い返す雲雀にそれは結構なことだとディーノは言葉を続けた。 「お前、いつ記憶が戻るかわからねぇし、これから先、なにかと物入りになってくるだろう」 「だから?」 「今日一日で必要なものを揃えろ。スーツは上等なものを。店がわからなければコンセルジュに相談するといい。あと、俺の部下をひとりお前につける」 「いらないよ。そんなの」 ただでさえ、暖かい寝床と食事を無償で提供して貰っているというのに、言葉には具体的に表さないものの雲雀は彼の温情にとても感謝をしていた。 「駄目だ。記憶喪失のお前をひとりにはしておけねぇ。それに今のお前の持ち物と言えば、昨日俺が贈ったスーツだけだろう? そんなことでは、明日から仕事を手伝わすわけにはいかねぇ」 「本当に僕を雇ってくれるんだ?」 「ああ。働かざる者、喰うべからずってことわざもあるからな。俺に借りをつくりたくないのなら、体で返してもらうまでだ。これで、文句はねぇだろう」 そう言われてしまえば、何も返しようがない。 反論の余地もなく雲雀は素直に頷いた。 「よし。この件はこれでお終いだ」 景気よく手を叩き、切れよく言い締めるとディーノは朝食の席から立ち上がる。 「恭弥はゆっくり喰ってな。俺はそろそろ仕事だからな」 「イタリア人の癖にあなた勤勉なんだね」 皮肉のつもりかとディーノは座ったままの雲雀を見下ろすと、そう思われても仕方ないお国柄かと言葉をそのまま甘受した。 「ま、勤勉な日本人に合わせて組んだスケジュールだからな」 俺がいないと事が進まないのだと明るく言ってのけ、寝癖で絡まった襟足の毛を指先で梳く。 「俺のことを心配するよりも、ちゃんと自分の買い物済ませろよ」 「あなたのことなんか心配してないっ」 「可愛くねぇなお前…」 ディーノは昨晩脱いだままにしてあった上着のポケットから長財布を取り出した。 幾つかあるなかの一枚のカードを引き抜き、無言のままこちらを睨んでいる雲雀の食卓の前にブラックカードを置いた。 「どういうつもり?」 「俺のカードだよ。顔パスみたいなもんだ。買い物するときはこれを使え」 「…そう」 好きに使っていいというのに雲雀は愛人たちとは違い、ちっとも嬉しそうな顔をしない。 どうしたものかとディーノは首に手をあて嘆息をつく。 これではまるで、愛人に札束をくれてやっている嫌な金持ち風情となんら変わりはしないのだから。 出来ることならば雲雀に今日一日付き合って洋服選びから東京の街並みを案内してやりたかった。 行きつけの美味いエスプレッソを淹れてくれるカフェや、メレンゲのように柔らかく滑らかなジェラードを販売しているワゴンカーを教えてやりたい。 自分の好きなものを雲雀にも好きになってほしい。 「ごめん…」 こういうやり方は好きじゃないよなと呟いてディーノは身支度をするために寝室へと向かった。
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