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* * * 満足な買い物ができて良かったなとディーノは喜んでくれた。 今日一日、商談で駆け回った彼の顔には笑顔では覆い隠せない疲労感が滲み出ている。 疲れているんじゃないのと喉元まででかかった言葉を呑み込み、雲雀は相変わらず人のいい笑みを浮かべている男のことをそっと窺い見た。 「お帰りなさいませ。ディーノ様」 フロントでルームキーを受け取ると、初老のコンセルジュがいた。 彼の存在に気づいたディーノはすぐさま声をかける。 「シニョーレ。今日は恭弥が大変お世話になった」 まるで親が世話になった子供の礼を述べるようなお決まりの台詞に雲雀の右眉尻が僅かにあがる。 彼は周囲に対して感謝の気持ちを常に忘れず、コンセルジュに対して礼を述べた。 大事な常連客であるディーノ直々に声をかけられたコンセルジュは幾分頬を緩ませ、目尻に年輪の皺を刻ませる。 「またいつでもお声をかけて下さい。あなた様のお力になってみせます」 「ああ。頼りにしているよ」 一時はどうなることかと思っていたが、いまでは一張羅のスーツを身に纏っている雲雀の姿を見るなり、心から喜んでくれた。 「ディーノ様のお見立てが良いお陰で、益々見麗しくなられましたね。本当に黒が良く引き立っていらっしゃる」 そう言われると悪い気はしなかった。 確かにディーノが選んでくれたスーツはセンスが良かったし、雲雀自身も気に入っていたのだから。 しかし、肝心のお礼がいまだ言えていない。 人に感謝の気持ちを抱いたことが過去に幾度あったのだろうか。 記憶を失っている雲雀には思い出すことはできなかったが、彼が自分に尽くしてくれて当然だとは思っていない。 だから、感謝の意も示さないのはどうかと考えながら、最上階のスイートルームのあるフロアへと到着した。 フロアにいた黒服たちは雲雀の見違える格好を見て「馬子にも衣装だな」と愛情を込めて冷やかしの言葉を浴びせられた。 たちまち機嫌を損ね、毛を逆立てる雲雀をディーノは慌てて宥め、猫をからかう部下たちを叱咤した。 全く、これ以上、恭弥を荒らしてくれるなと。 「やっと我が家に戻ってきたな」 疲労もピークに達していたディーノの足取り普段よりもはるかに重かった。 「ボス。品物は全部リビングに置いていいのか?」 「ああ。そうしてくれ」 ショッピングを楽しんだと言わんばかりの大量の紙袋にはどれも世界的に有名なブランドのロゴがプリントされていた。 荷物持ちを仰せ遣わされたマイケルはそれらをリビングの応接セットの傍に置く。 「それじゃあ、俺はこれで戻ります」 「おー。今日は本当にご苦労だったな。マイケル」 「ボスこそ。今晩はよく休んで下さいよ」 マフィアにしては自分と似ていて優しい気質の若者にディーノはありがとうと頷く。 「あ、恭弥。俺、明日からお前のお目付け役に任命されたから」 文句があるならボスに言ってくれと明るくさらりと言われたものだから、雲雀は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。 余計なお世話だと言いかける言葉をマイケルは感極まる声で遮った。 「キャバッローネに入って初めての大役なんだ! ボスは優しいよな。記憶喪失のお前のことを気遣ってくれているんだぜ?」 俺の自慢のボスだと誇らしく胸を張る。 「明日からよろしくな」 頼みもしないのに握手を要求され、雲雀は言葉を詰まらせる。 「Buona notte. キョーヤ」 親愛の情の証しか、両手を大きく上下させマイケルはにんまりと微笑む。 去り際、お目付け役の彼は「ボスを労わってあげろよ」と言葉を残し部屋を出て行った。 「労わるって、何をだい」 わけがわからないと言いながらも、頭の中では何となくどうすればいいのか理解していた。 それから雲雀の足は彼のいる寝室へと向かう。 寝室に入ると、肝心のディーノは着替えもせず泥のように寝ていた。 「さしもののボスもガキのお守りは疲れたんだろうな」 くたびれきった寝顔。 振り返ると主の様子を見に来たのであろうロマーリオがドア口に立っていた。 「わかっちゃいたが、まさかマイケルをお前につけるなんてな。俺たちは日本へ来るときは少数精鋭と昔から決めている。だから、正直なところ一つでも蜘蛛の手足が減るとフォローがきつい」 「…文句があるなら、君の上司に直接いいなよ」 自分だってありがた迷惑なんだと言う雲雀にロマーリオは「違いねぇ」と嘆息をつく。 「まるでガキなお前のために東奔西走して…。こういうお人よしの上司を持つと、俺らは面と向かって何も言えなくなる。お前のことを目の仇にすることしかできねぇ」 珍しくロマーリオは愚痴を他人に吐露した。 「嫌なことを言って悪かったな。明日からはお前も臨時とはいえキャバッローネの一員として働く身だ。今夜はよく休んで英気を養うことだ」 腹が減ったらルームサービスでも頼めと言い残し、彼は去って行った。 雲雀はとりあえず、彼に買ってもらったスーツやその他衣類を寝室にあるクローゼットやワードロープへ仕舞ってゆく。 どれもディーノが買ってくれたものだから、これから先も長く大切に使ってゆきたいと思う。 「お礼、まだ言ってなかったな」 寝息を立てる寝顔を見つめ、雲雀は風邪を引かぬよう上掛けをかけてやった。 今は食欲よりも睡眠の方が勝っているのだろう。 不意に雲雀はリビングに設置されている簡易キッチンのことを思い出した。 それから何かを思い立ち、寝室を出た。 向かった先は、コンセルジュがいるフロントだった。 空腹を覚え目が覚めると、室内の照明はサイドボードのライトのみになっていた。 着替えもせず先に眠ってしまったのだなと自分の身なりを見て思い出した。 (恭弥…?) 寝ても覚めても恭弥、恭弥。 迷子で記憶喪失の彼は自分の恋人かと、薄く笑いながらリビングの部屋に通じるドアの僅かな隙間の光を見つけた。 上体を起こすと恭弥の手によって緩められたのであろうネクタイを引き抜き、それからワイシャツの襟元のボタンを外した。 音を立てずにドアを開けた。 テレビでも見て寛いでいるのだろうかと応接セットのある方角を最初に見たが、雲雀の姿はなくテレビもついていなかった。 視線を巡らせると、ある方角から何かが煮立つ水音と食欲をそそる匂いがした。 (あれは…) 見慣れた黒髪の後姿が簡易キッチンにあった。 白い割烹着が物珍しく、ディーノはまじまじとその姿を観察する。 雲雀は料理をつくつているようだった。 腹が空いているのならばルームサービスを頼めばいいものをと思ったが、今は雲雀が手掛けている料理の内容が気になった。 いまだディーノの存在に気づいていない雲雀は濡れた手をタオルで拭くと不意にこちらを振り返った。 「あなた、いつ起きたの?」 「あ…。ついさっき」 それよりもと言葉を続け、ディーノは雲雀の元へと歩んだ。 クッキングヒーターの上には底の深いパスタ鍋が一つあった。 「土鍋で作れなかったのが残念だよ」 「なんだこれ。ミソスープか?」 興味津々に鍋の中身を覗き込むディーノに「違うよ」と告げる。 「見ればわかるだろ。鍋だよ」 「ナベ? ミソスープとどう違うんだ?」 「全然違うよ。鍋の方が具材が豪華だろ」 白菜に水菜、長ネギにはじまり、エノキ、マイタケ、木綿豆腐と日本人ならば誰もが知っている鍋の定番がきちんと行儀よく並んでいた。 「ほら、目が覚めたのならさっさと席について。遅くなったけど、晩御飯にするよ」 「俺も食べていいのか?」 嬉しそうに声を弾ませるディーノに勿論だよと雲雀は頷いた。 「こんなにたくさん。僕ひとりで食べられるとでも思っているの?」 「優しいな。恭弥は」 「……。そこ、どいて」 「おう」 鍋掴みを嵌めた大きな手でパスタ鍋の取っ手を持ち、雲雀は一歩一歩慎重に足底の感触を確かめながテーブルへと向かう。 「お前、料理するのか?」 するよと答えて、鍋敷きの上にパスタ鍋を置いた。 「さっきあなたの部下から聞いたけど、あなた相当食生活が乱れているみたいだね」 自覚のないディーノは「そうか?」と無頓着そうに答え、パスタ鍋のなかの未知なる料理を興味深々に眺めていた。 「よくないよ。そういうの」 生活習慣病になったらどうするつもりと、妙にリアルな話題を振られディーノは返答に詰まる。 「あなたピザが好物なんだってね。ひとりで何枚でも食べるって」 「ああ。ピッザァは美味いぜ」 お気楽に答えるディーノに雲雀はフゥと溜息をついた。 「そんなんじゃ、あと数年もしないうちに下腹がでるよ?」 雲雀は彼の引き締まった腹筋あたりを眺めて呟いた。 「なんだ。俺のこと心配してくれているのか恭弥?」 「別に。あなたの体型がどうなろうと僕には関係ないけれど、乱れた食生活のせいで健康を損なうことは愚かだって教えてあげているんだよ」 どうしても素直になれない雲雀は早口に言うとそっぽを向いた。 そんな彼の横顔を眺めながらディーノはありがとうと母国語で親しみを込めて呟く。 「…ここ、御茶碗も揃ってないね。不便だよ」 頬を染めながら話題を変える。 簡易キッチンの食器棚にあったのはパスタを盛るのに適したイタリアンプレートや小皿ばかりだった。 「ほんと、イタリア人はパスタのことしか頭にないの?」 嘆く雲雀にそれは偏見だと、ディーノは苦笑いを浮かべる。 全くもって拙い照れ隠しだなと。 コンセルジュに無理を言って頼み込みホテルの調理場から借りた炊飯器の蓋を開けた。 「ライスもあるのか」 席に着くとディーノはいよいよ畏まって、雲雀がご飯を茶碗によそる姿を穏やかな眼差しで眺めていた。 「俺、ライス大盛り」 「ご飯を大盛りによそるなんて、日本では行儀が悪いことだよ。足りなかったら、お代わりをして」 まるで母親のような口振りにディーノは「はーい」と子供のように返事をした。 「お昼食べていないんでしょう? 今日はあり合わせで申し訳ないけれど、量だけはたくさん用意してあるから」 こんな夜分では買い出しに行くことも出来なかったと残念そうに言う雲雀にディーノは彼なりの料理へ対する意識の高さを垣間見た。 「そんなことねぇって。こんなご馳走を目の前に贅沢言ったら、それこそ罰あたりだ。――って、俺が昼飯喰ってねぇって誰から聞いた?」 「あの眼鏡から。僕の…せいだって」 「恭弥…」 品良く綺麗によそったご飯をディーノが座る側のテーブルに置くと雲雀は俯き加減にこちらを見た。 「ばーか。そんなんじゃ、ねぇって。余計な気遣いすんな」 恭弥らしくないと笑い、その艶々とした黒髪を撫でる。 その瞬間、俯いていた雲雀の瞳が揺らいだ。 「恭弥」 思わず身を乗り出していた。 瞬く間に薄い手を温かな両手で包み込まれると、驚いた拍子に上を向いた雲雀の唇にふわりと柔らかなものが触れた。 テーブルを挟んで唇と唇が触れ合っている。 キスを仕掛けた方のディーノの方も一瞬、自分がなにをしでかしたのかわからず状況判断に遅れが生じた。 ゆっくりと離れてゆく唇の感触を名残り惜しむかのように雲雀から離れた。 「わりぃ…」 「……」 狼狽が軽蔑に変わる前にディーノは思いつくままにその場を誤魔化す言葉を口にする。 「これはなんつーか、イタリア式の感謝のしるしで…」 我ながらに浅はかだと後悔をしつつも、それは必死になって雲雀の機嫌を取り繕った。 傍から見ていても大袈裟なゼスチャー交じりに言い訳に力を込めていると、「ふぅん」と納得する雲雀の声がした。 「ここは日本だよ。郷に入れば郷に従えって前にも話したよね?」 「お、おう」 「それに…。男が男に接吻だなんて変だ」 「だよなー」 イタリアではそう珍しくない行為だったが、ここは雲雀に合わせるのが吉だ。 雲雀の方はというとディーノがイタリア人であるということで先程の行為の経緯を納得しかけているようだった。 「ほんと、悪かった。つい、母国での癖がでちまって…」 「気をつけなよ。変な誤解を受けるもとになりかねない」 「ああ」 このときばかりは自分がイタリア人で良かったと思ったことはない。 それに付け加え、雲雀の天然さにも救われた。 ディーノはなんとか雲雀の機嫌と信頼を損ねずに済んだことに一安心する。 「もう二度とあんなことしないで。でなきゃ、次は噛み殺す」 「si. 神に誓って約束する」 こんなセクシーな猫になら噛まれてもいいかなと思いつつも、ディーノは反省の色をその顔から消すことはしなかった。 「わかればいい」 疲れた様子で大きく息をつき雲雀はそっぽを向いた。 それにしてもと、ディーノは頭を掻く。 先ほどとった自らの行動の経緯が納得できず困惑するばかりだ。 横を向く雲雀の頬もいまだ赤く、今し方、触れ合ったばかりの珊瑚色の薄い唇に惹かれるまままじまじと見つめた。 もうこの話題には触れない方がいいだろう。 頭を切り換えたディーノは「美味そうだな」と食卓に並べられた料理へ視線を移して殊更に声を弾ませた。 「材料さえあれば、もっとちゃんとしたものを作れたよ」 鍋料理なんて誰にだって作れる代物だと呟く彼に「そうか?」と目の前で美味しそうに煮立っている鍋を眺めた。 「それでも俺は嬉しいぜ。なんたって、恭弥が俺のために作ってくれた初めての手料理だからな」 「…そんなこと」 照れて俯く雲雀を見ていると、また訳のわからない衝動に駆られた。 まずいなと頭を冷やし、テーブルの下で拳を握った。 「あなた箸は使える?」 「ああ」 良かったと予め用意していた箸を使いなよと促した。 「箸が駄目なら、フォークとスプーンをと考えていたけど今夜は鍋だからね」 「俺が器用で安心した?」 「別に。ただ、日本食は箸の方が断然食べやすいんだよ」 生まれて初めて口にした鍋料理は殊のほか美味しかった。 これは確かに味噌スープとは違うなと思いながらも賛辞を忘れず、思わぬきっかけで日本の家庭料理を口にすることができたことにディーノの感激は一塩だった。 「恭弥は料理が得意なんだな。その白いエプロンもすげー似合ってる」 「これは割烹着だよ」 「カッポウ? うん。いいな。日本のエプロンはなかなか色っぽいんだな」 「あなた時々、日本語の使い方を間違ってない?」 「そうか?」 腹が空いた分、食事の合間の会話も弾んだ――とは言っても、ディーノの一方的な問いかけから始まるばかりであったが。 「今度はミソスープが飲んでみてぇな。よく聞くぜ。日本ではライスにミソスープは欠かせないって」 「あなた変なところで日本に詳しいんだね。そうだね、あと魚の塩焼きとお浸しがあれば完璧だよ。あなたのリクエストは参考までに覚えておくよ」 「おう。頼むぜ」 綺麗な箸使いで白米を口に運ぶ雲雀の仕草にディーノは思わず見惚れた。 どうやら雲雀にとっては食事中の会話はあまり奨励されないもののようだ。 静かに食事をとりたいのだろうが、相手が悪かったと思えとディーノは内心笑った。 「その鮭には小骨があるから」 「小骨を箸でとるって難しいな。上手く取り分けられねぇ」 長く大きな指にあまる箸。 流石にイタリア人の彼にはそこまでの器用さは備わっていないようだった。 「仕様がない人だね。貸してみて。取ってあげる」 「grazie」 鮭の身を綺麗に寄り分け、小骨を見つけては取り除いていく。 伏せ目がちに、でも真剣な面持ちである雲雀の睫毛の先を見つめながら、ディーノは胸がじんわりと温かくなってゆくのを感じていた。 ふた親を幼くに亡くしたディーノにとって、両親が残したキャバッローネが唯一のファミリーだった。 男所帯のせいか、こんな風に温かで小さな家庭の雰囲気を味わった記憶がディーノにはとんとない。 あったとしてもそれは、遥か昔の記憶で薄靄に白いベールに覆われていた。 ディーノがまだ未熟で若かりし頃には刹那的な恋愛に走り、幾人もの女たちと付き合いをしたこともあった。 彼女らの大半は多くの召使を屋敷に召抱える令嬢ばかりだった。 嫌われ者の立場ゆえか決して祝福されず、恋人の親族から罵声を浴びせられることも少なくはなかった。 「どうしたの?」 さっきからずっと僕の手を見ているねと、然して怒った様子でもなく雲雀は小骨を取り終えた箸を置いた。 「いや。恭弥の手は働き者の綺麗な手だなと」 ディーノに言われてみて雲雀は初めて己が掌をまじまじと観察した。 お世辞にも綺麗だとは言えない掌には幾つも豆が潰れた跡があった。 (この跡は…) 何かスポーツでも嗜んでいたのだろうか。 一体この手は何をして、ここまで酷使させたのだろうと思わず想像を巡らせた。 「綺麗っていうのは少なくとも僕みたいな手ではないよ」 あなたの目は節穴とせせら笑う雲雀の手をディーノは身を乗り出して掴み取る。 「恭弥は綺麗だ。俺が保障する」 「……」 手が、綺麗だと言っているのだろうか。 それとも―――― あまりにも真摯な眼差しだったもので雲雀はかけるべき言葉を忘れた。 思い出すのは先程、あの唇と触れ合ったことばかり。 「わりぃ」 調子に乗りすぎたと手を離す。 「…あなたは、よくわからないな」 本当に手癖が悪いだけなのか、雲雀は重なった時の温もりをいまだ留めたままの掌を見つめ、細く長い息をついた。
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