山茶開始

 

 

 

 午前七時、起床と分厚い手帳には記されていた。

「起きて。ディーノっ」

 それよりも一時間前に起きた雲雀は身支度をきっちりと終えており、上から下までかっちりとスーツを身に纏っていた。

 ただ、上着だけは皺になってはならないとハンガーに吊るし、クローゼットの中に仕舞ってある。

 糊のきいたワイシャツの上から真っ白な割烹着を身につけているのは、この部屋の主であるディーノのリクエスト。

先ほどまで雲雀は簡易キッチンで味噌スープを作っていたためだ。

「まだ眠い…」

「毎朝、同じこと言わせないで。折角つくった味噌汁が冷めるだろう?」

 大きく膨らんだ上掛けの、彼の肩あたりに両手を置くと体重をかけて大きな図体を揺する。

この仕事を引き受けた当初、彼がこんなにも寝起きが悪いとは予想だにしていなかった。

「起きろ」

「頼むから、布団捲らないで…」

 折角の温もった空気が逃げてしまうとディーノは情けない声を寒さに震わせる。

 日本の暦は立冬を迎えていた。

二十四節季における冬の期間は立冬から立春の前日までを意味している。

日本の気候は然程厳しくはないが、もう昼食を公園でとるには季節を通り越してしまっていると残念そうに呟いていたディーノの言葉を雲雀は思い出す。

 モスグリーンのカーテンを引くと朝日が寝室いっぱいに差し込み、雲雀はディーノが付け放しで眠ってしまったスタンドライトの明かりを消した。

 分厚い窓ガラスをカタカタと叩くのは冬の使者である木枯らしの仕業だ。

 木を枯らしてしまうほど強く冷たい風によって、この国は次第に厳しい冬へと導かれてゆく。

(温かい寝床から離れたくない気持ちはわからなくもないけれど…)

 それでもと、雲雀は心を鬼にして本格的に彼を起こし始めた。

「起きて。もう、五分過ぎた」

 雲雀が気にしているのは置き時計の針が指す時刻だ。

 起床時間から五分過ぎているということは、それだけこれからのスケジュールに遅れがでるということ。

 ホテルを出てオフィスへ向かうまでに遅れた時間を取り戻すことも雲雀の手腕にかかっているのだが、呑気なイタリア人を動かすのは一苦労だった。

「ぐずぐずしている奴は嫌いだよ」

 だから雲雀はとどめとなる言葉を彼に告げる。

「わかった…。わかったから」

 嫌いだなんて言わないでくれと、掠れる声で懇願され雲雀は漸く起きる気になった三十路男に柳眉を吊り上げた。

「だったら――」

 と言いかけた雲雀の腕を不意に布団の中からニョキリと飛び出してきた腕が掴んだ。

 思いがけず力強く、そしてしなやかな筋肉はワイシャツ越しにも伝わった。

 力の差は歴然、雲雀はどうすることもできず手を拱く。

「ねぇ」

 まだ寝ぼけているのかいと、いよいよ呆れ顔に変わる。

「いい加減に起きないと、本当にあなたのこと嫌いに――」

「おはようのキスをしてくれたら起きる」

 もう、声は掠れてはいなかった。

 はっきりと意思を持ち、掴まれていた腕ごと強引にベッドへ引き寄せられた。

「ちょっと」

 細身はいとも簡単に引き寄せられ、まるで天を漂う羽衣を手繰り寄せるかのようにディーノは雲雀を抱いた。

悔しいが、こうなってしまうと自分の力ではどうにもできなくなってしまう。

諦め大人しく抱かれていると、彼の体臭と昨日の香水の残り香が仄かに雲雀の鼻孔をくすぐった。

大人の色香をこういう時、嫌でも感じてしまう。

雲雀は身を固まらせ静かに解放される時を待つ。

一方のディーノはお気に入りの縫いぐるみを抱きしめる子供のように無邪気だった。

「恭弥は柔らかくて、いい匂いがするな…」

清潔で清らかで、味噌スープの匂いがするとディーノは亡き母親の面影を探すように呟く。

「マンマが生きていたら、こんな匂いがするのかな…」

 万国共通の理か、男という生き物の大半は一様にマザコンなのかと雲雀は抱かれながら細く息をつく。

 最近のディーノの扱いといえば、専らお気に入りの縫いぐるみか、亡き母親の投影に過ぎない。

 それが雲雀にとってはとても不満だった。

「あなたの母親はイタリア人だったんだろ。だったら、味噌汁の匂いはしないよ」

だから、僕に母親の面影を重ねないでと勝ち気な瞳が夢見心地の彼に訴える。

相変わらず冗談が通じない奴だなと苦笑すると、ディーノは漸く雲雀を解放した。

「朝ご飯、もうできてるから」

早く着替えて来なよと言い残し、素っ気無い態度で雲雀は寝室を後にした。

少々からかい過ぎたと反省したディーノは起き上がるとタンクトップの上からガウンを羽織った。

(ある種、常習性があるな…)

ドラッグよりもやばいと、ディーノはせせら笑う。

雲雀を抱きしめていると、時々世知辛い世の中のことなどどうでも良くなってくることがある。

喰うに困らぬ程度の生活さえ送れれば、全てを手放して楽になりたい。

この両手足を拘束する枷を切り離して、自由に大空を飛べればと。

そして、自分が生まれて初めて自由を感じたとき、傍らに雲雀が居てくれればとここ最近思うようになった。

だが、そんなときディーノは決まって五千の部下たちの顔を思い出す。

自分がいなくなれば一体誰が彼らの生活を守ってやれるのか。

そこでディーノの夢は潰える。

結局のところ、自分の居場所はこの爛れた世界しかない。

命よりも大事なファミリーを天秤にかけたとき、それに勝るものを選び取る勇気がない。

「ただのヘナチョコ・ディーノだよ…」

捨てることのできないファミリー。

自分にとってかけがえのないファミリー。

亡き父親が遺した唯一の居場所。

そこに立つことを決めたのは自分自身だ。

ふっと自嘲的な笑みを浮かべ、ディーノは混じりけのない金髪をクシャリと掻いた。

「きょーやー。悪かったって。機嫌なおしてくれよー」

 撫で声で愛しい猫の名を呼びながらリビングへと向かう。

 ドアを開けると割烹着姿が眩しい秘書はフイっとそっぽを向き、「早くして」と朝餉の支度が済まされたテーブルに腰を下ろすのであった。

 

 

 

 

 

 午前八時半、ホテルを出発。

 来年建設予定の商業複合地の視察兼、共同出資者との三度目の顔合わせ。

「急いで、ディーノ。忘れ物――ハンカチは?」

 戸締りを兼ねて最後に部屋のドアを締めるのは雲雀の役目だった。

「予定時間より十分も遅れてるよ」

「いいじゃねぇか。たかが十分くらい」

 日本の新幹線は一分一秒として違わず出発し到着するまるで奇跡のような乗り物だ。

 そんな気質と精神を雲雀も受け継いでいるのか、定刻どおりに行動しようとする新米秘書を微笑ましく思いながら、ディーノの腕はさり気なさを装い彼の細腰にまわされた。

 寝食を共にし始めてわかったことだが、ディーノはスキンシップの多きイタリア男だった。

 やましさはないと思いながらも、それを受け入れなければならない雲雀の胸中は複雑だ。

「視察は十時からだろ」

 今から出発をしても十分間に合う時間だと言う彼に高速が混んでいたらどうするのだと口をへの字にさせた。

「あなたの言うことは聞かない。昨日も同じことを言って遅刻しかけた」

「あれは、またまた高速で事故に出くわせたからだろ?」

「でも、そんな言い訳、大事なビジネスの現場では通じないよ」

 相変わらず手厳しい物言いにディーノは苦笑する。

エレベーターを降りると雲雀はいまだしゃんとしていないディーノの小脇を肘で小突いて先を促した。

「人前でダラダラしないで」

 益々マンマだなとディーノは内心喜びながら肝に銘じる。

「いってらっしゃいませ。ディーノ様」

 フロントを通り過ぎていく金髪にスタッフたちは一礼をしながら、尚、後ろ姿を目で追う。

 いつからだろう、カリスマの塊である彼に若く美しい秘書が専属で付くようになったのは。

 ふたりが並ぶとまるで一つの絵画のようにおさまりがよく華やかで眩いものだった。

「おはようございます。ディーノ様」

 正面玄関にはロマーリオが運転手を務める黒塗りの車が止まっていた。

 滞在期間が二週間を過ぎるとホテル従業員との間にも信頼関係と親近感が湧いてくるものだ。

 見慣れた金髪と黒髪の秘書がやって来るとドア・マンの若者は爽やかに明るく挨拶をした。

「待って。あなた、ネクタイが曲がってる」

 すぐさま雲雀はディーノの懐に入って曲がったネクタイを結び直す。

 綺麗な人だな。

 毎朝繰り返す微笑ましい光景。

ドア・マンの男は少しだけディーノのことを羨ましく思った。

 彼は部屋を出る時にはきっちりとネクタイを締めている。

 外に出たところを計らって、雲雀に見つからぬようわざとネクタイを緩める現場をスタッフが何人も目撃したことがあるのだ。

「これでよし。いつになったら、あなたは満足にタイが結べるようになるんだろうね。僕と出会う前は部下にでも直してもらっていたの?」

「さぁ、どうだったかな…」

 真意をはぐらかす大人の笑み。

 下心に気づくことのない雲雀は三十路を超えている男を見上げて行く末を気にしていた。

「いまは恭弥がいるから心配ねぇよ」

「僕はあなたの母親じゃないからね」

 雲雀がロマーリオから言い渡された仕事はディーノ専属の秘書として働くこと。

 多忙極まるディーノが本務に専念できるように必要なあらゆる業務・雑用を一手に引き受け行うことだが、そのなかにネクタイを直してやる条項は書き記されてはいない。

 その際に手渡されたのが分厚い手帳であり、ひと月の大まかな行事やスケジュールが書かれていた。

 最初は秘書という仕事に戸惑っていた雲雀も最近では要領を得て来たのか、今では社長であるディーノを完全に尻に敷き公私あわせて彼の手綱を握っていた。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

キャバッローネの新米秘書の噂は一部の者たちの間でも広まっていた。

下馬評好きな男たちは近年活躍が目覚ましい若きキャバッローネの当主の手腕、美貌、そして輝かんばかりのカリスマ性を陰から疎んでいる。

表面では友好的に握手を交わすものの隙あらば奈落の底へと突き落してやりたい。

酒の席で賭け事とどうでもいい世間話に飽きた頃、同ホテル内のステーキハウスに憎き敵(かたき)であるディーノと噂の秘書が訪れた。

「遠巻きに見ても実に美しいな」

 男たちのなかの一人が雲雀を見てそう評した。

「あれを東洋の真珠と呼ぶのかね」

 恰幅のよい中年男がスラリと均等のとれた雲雀の後姿を見てため息をつく。

「キャバッローネの子倅はあの真珠に心奪われたという話しは本当か?」

「全く、後姿も絵になる」

 小さく引き締まった尻に男たちの興味は注視される。

 あの身体を好きに扱ってみたい。

 手段はどうでもいい。

 脅しでも大枚をはたいてでも。

 剥きだしになった柔尻を左右に割って、その奥に隠れている蜜口に欲望の丈を突き入れる。

 あと三十年若かったら、跳ね馬のように彼に声をかける勇気があっただろうか。

 否、できなかっただろう。

 泥の底から這い上がってきた死臭漂うこの身には、彼、跳ね馬のようなカリスマ性も美貌も輝かしさも持ち合わせてはいない。

 醜いヒキガエルはどうあがいたって白鳥にはなれないのだ。

 既に人生も終盤を迎えた男たちにはどんなに金を積んでも得られないものがあった。

 若さ。

 そう、欲しいのは恐れを知らぬ若さだ。

 昔を懐かしむように彼らは談笑し、そして水を打ったかのように静まり返る。

 そこへ聞こえてきたのは若い男たちの笑い声だった。

 ディーノが彼の耳元で密談をしていた。

 一見、冷たそうに見える鋭利な目は一心にディーノだけを見つめており、彼に寄せる信頼の深さを窺わせた。

「ぜひとも、お近づきになりたいものだな」

 テーブルに運ばれてくる焼けた肉料理を雲雀は次々と口許へと運んでゆく。

 肉汁の滴る赤みのさしたレア肉をまるで獣が食するように引き千切る。

 尖った犬歯がチラリと見え、男たちは欲情に駆られた。

 歯形が残るまで強く噛みつかれてみたい。

 食欲という欲求を満たすそんな彼の仕草を見るだけで、酷く喉が渇いた。

「なんでも彼らは同じ部屋で寝起きを共にしているそうではないか」

「では、彼はもう跳ね馬のお手付きか?」

「どうでしょう。見たところ潔癖症にもうかがえるが」

 その方が色をそそると食事の席では不似つかわしい下劣な言葉が淡々と飛び交った。

 脂で濡れる口元をナプキンで拭き、ディーノが注いだワインを一口飲んですぐに頬を赤く染め上げた。

 酒はからっきしの様だ。

 薔薇色の頬をディーノは楽しげに見つめている。

「みろ。あの跳ね馬を」

 かなりの情が滲んでいるなと呟く。

 その深さはファミリーに対してと同等か、それ以上か。

「あれは上物だな。ワインに例えるならばヴィンテージもの。跳ね馬が大事に寝かせて熟したあと隙を見て横取りをするというのはどうだろうか?」

「では、ここにいる誰かのために策を練りましょう。私はいまだあの跳ね馬が煮え湯を飲まされたところを見たことがない」

 その場にいた一同の意見が一致したのか、クツクツと喉を鳴らせて笑った。

「あの真珠を手に入れて、跳ね馬に一泡喰わせる。一挙両得を実践できる策を誰かお持ちかな?」

 

 

 

 

 

 晩御飯を外で済ませ、ディーノと雲雀はホテルへ遅くに戻った。

 四角く切り落とされた都会の空には月一つが蒼白く浮かんでいるだけだった。

「見ろよ恭弥。クリスマスツリーだぜ」

 十一月も半ば、ホテルの迎賓口――アトリウムロビーには一足早くクリスマスツリーが飾られていた。

 カナダから輸入してきたモミの木に色とりどりのオーメントと雪に見立てた綿が豪奢にデコレイトされ、一段と館内を華やかに演出している。

「あと一月足らずでクリスマスだな」

 もう年の瀬を迎えるのかと、感慨深く一年の締め括りとなる大イベントに思いを馳せディーノは目を細めた。

「まだ一月もあるよ」

「歳をとると月日の流れを早く感じるものなんだよ」

「…年寄りくさい」

 雲雀は食事の席で酒を飲まされたせいかぐったりとし、ディーノに寄りかかるようにして立っていた。

「クリスマスの予定はどうなっていた?」

「……あなたに休暇なんて二文字はないと言いたいところだけど、クリスマス・イヴの翌日は丸一日空白だよ」

「珍しいこともあるな」

「こういうときは素直に喜べば?」

「ん。そうだな…」

 ふと傍らを見ると一組のカップルがライトアップされたクリスマスツリーを眺めていた。

 それをディーノと雲雀は黙ったまま見つめる。

「あなたも――」

「ん?」

 一旦言葉を詰まらせ、支えられているディーノの胸に頭を預けながら口を開いた。

「あなたもクリスマスは誰かと過ごすの?」

「気になるのか、恭弥?」

 口にした後に後悔が増した。

「別に…。あなたのスケジュール管理は僕の仕事だからね。予定くらい知っておかないとと思っただけだ」

「左様ですか」

 欲しかった答えとはまた違っていた。

 内心落胆しながら、ディーノは少し考えて口を開いた。

「そうだな。今年のクリスマスは予定があるから、決まったら追って恭弥に知らせるよ」

「――そう…」

 雲雀は距離をとるようにディーノから離れた。

「ひとりで歩けるのか?」

「バカにしないで」

 と呟いて、フラフラとした足取りでアトリウムロビーを頼りなく歩いて行く。

 時々、平衡感覚を失って、右や左に歩行が逸れて、柱や壁に何度もぶつかりそうになった。

 そんな危なっかしい様子をディーノと同じく夜勤のスタッフも固唾を飲んで見守っていた。

 勿論、雲雀の身に何か起こればすぐさま手を貸す用意はあった。

「見てらんねぇな」

 非難されることを覚悟しディーノは追い駆け、そして背後から細身を引き込んだ。

「ちょ…」

「縋ってろ。文句はあとできく」

「やだ」

「黙って言うことを聞けって」

「離せっ」

 気安く触らないでと両腕をもがきまわし、そのはずみでディーノの甲に爪があたり引っ掻き傷ができた。

「…っ」

 思わず動きを止めた。

 手の甲に一筋の線が走り、スゥと赤い血が浮かび上がる。

 明らかに動揺の声が漏れた。

 ディーノたちを見守っていたスタッフや取り巻きの黒服たちも騒然とし固唾を呑む。

「いい子だから、大人しくして。恭弥?」

 飼い猫が爪を立てたくらいにしか受け止めてないのだろうか。

 眉ひとつ動かすことなくディーノは声音を優しくして語りかける。

 僕はあなたの飼い猫じゃない。

 雲雀は無言のまま体を預け、大人しくディーノに縋った。

 

 

 

 

 




 ディーノさんの専属秘書としてキャバッローネで働くことになった雲雀。前途多難な生活の幕開けです。
 恋も仕事もそつなくこなせるようになるのはいつの日になることやら…。
 ふたりともなかなか自分の気持ちに素直になれません。