アドリア海

 

 

 

 縋っていた肩に揺すられて目が覚めた。

「恭弥、見ろ。あれがアドリア海だ」

 陽光を受け輝くサファイヤの海。

豊かな緑が幾重にも折り重なり成す山々。

 吹き下ろす風はさわやかで、懐かしくも優しい匂い。

海沿いの道路をひた走る黒塗りの車の窓から顔を出した雲雀は、黒髪を潮風に靡かせながら「ワォ」と感嘆した。

空港に降り立った後、アウトストラーダ(日本で言う高速道路)に乗りひたすら陸地の移動をはじめた。

長時間のフライトで疲労が溜まっていた雲雀は初めて目にするイタリアの風景を楽しむことなく意識が朦朧として、フェードアウトした。

そして、ディーノに揺すり起こされ、目覚めて一番に見たのがアドリア海だった。

アウトストラーダから一般道へ下りた車は切り立った崖の上を走っていた。

崖の下にはサファイヤの海が広がっている。

 絵葉書や写真で見たようなオレンジ色の屋根の集落が海沿いにある。

 アドリア海のブルーと木々の濃淡にオレンジ色。

「月…?」

見渡せば、集落をかたどる地形は弓なりになっていて、離れた場所から見下ろすとまるで三日月のように見える。

「ここが代々キャバッローネの治めているシマだ」

 ディーノが話していたとおり、どこにでもある小さな港町だった。

 町の中心にはロマネスク様式の教会が聳え建ち、鐘楼が町全体を見下ろしている。

「恭弥、あの教会はボスが建て直したんだぜ」

 運転手をしていたロマーリオが徐に口を開き、ガイドよろしくに説明をする。

「ふぅん」

 そう言われて、雲雀は改めて窓から高くそびえ建つ教会を見上げた。

 傍から見ても立派な外観と歴史的な趣を醸しだしている。

 とても数年前までは朽ちていた教会だったとは思えない。

「大袈裟だぜロマーリオ。俺はただ教会に寄付をしただけだって」

「でも、ボスのポケットマネーから捻出したもんにはちがいねぇだろう?」

 大人たちのやり取りに然して興味も湧かず、雲雀はじっと窓の外を眺めていた。

 雲雀のために車は速度を落とし、ゆっくりとシマのなかを走った。

 海にはヨットやボートが多く泊まっており、ちょっとしたリゾート地の雰囲気を演出していた。

「冬が過ぎればここも観光客でごった返す。夏場は特にな」

 小さな港町は水産業のほか、観光産業もそれなりに潤っているようだった。

 肝心のキャバッローネ本邸は、港町から少し離れた小高い丘の上に建っていた。

そこからはシマが一望することができる。

糸杉並木が道の両脇にあらわれ、陽気な港町の雰囲気から空気は荘厳なものへと変わった。

 自然と雲雀の身は引き締まってゆく。

 暫くの間、車は静かな糸杉の並木道を走り、それからルネッサンス風の巨大な屋敷が姿を現した。

 屋敷というよりは一つの城と称した方が相応しかった。

「……」

 三メートルはある鉄門を雲雀は睨み据えながら、魂を抜かれた境地だった。

 車から降りた雲雀は広大な敷地の中に佇むキャバッローネ本邸を値踏みするかのように首を巡らせる。

 並盛にあるボンゴレ別邸の比ではない。

 ディーノはマフィアのボスだと散々聞いてはいたが、まさかここまで立派な根城を持つ主だとは思いもしなかったのだ。

「ねぇ、これがあの人の家?」

 試しに傍にいた側近に訊ねてみると、「そうだが」と答えが返ってきた。

 雲雀はその言葉を噛みしめてから、ひとり「悪くないね」とほくそ笑えんだとか。

 正門から屋敷まで、一キロは走った気がした。

一体、庭師を何人雇っているのか想像が尽かないなと、息をつきながら雲雀は幾何学式の庭園を脇目に手招きをするディーノの元へと向かった。

久しぶりの我が家に戻って来て、ディーノは安堵しているようだった。

重層な扉が開かれ、黒服たちが「お帰りボス」と口々に主を出迎える。

ディーノは態々迎えに出てきた部下たち一人一人に声をかけ、気さくに挨拶を交わす。

黒服たち以外にも屋敷の中から使用人たちが数多くディーノを出迎えた。

皆、一様に笑顔で、心から主の帰りを喜んでいる様子だった。

「こいつが俺の婚約者、雲雀恭弥だ。みんな、仲良くしてやってくれ」

 堅苦しい挨拶は抜きにしてディーノは簡単に雲雀の紹介を済ませる。

 黒い瞳に黒髪の東洋人は、まだ年端もいかない少年だった。

 どこか近寄り難い空気を帯び、高貴な顔立ちをしている雲雀は誰の目から見ても魅力的で謎めいていた。

 その片鱗に誰よりも早く気がつき、ものにしたのがディーノ。

長年、特定の情人を作らないでいた美貌の主のハートを見事、射止めた雲雀を皆は興味津々に眺めていた。

「お前の部屋、まだ決めてねぇんだ」

「僕の部屋?」

 玄関ホールで立ち止まり、ディーノは意地悪い光りをはしばみに浮かべながら恋人に話しかけた。

「これから、ここで暮すんだ。自分の部屋は恭弥自身が選んだ方がいいと思って、敢えて用意はしなかった」

 今夜はもう遅いから明日、決めればいい男は穏やかに告げる。

「あなたの部屋はどこ?」

「俺の部屋は二階の角だ。行ってみるか?」

「うん」

 豪奢なシャンデリアが吊るされた玄関ホールの中央には、二階へと続く階段があった。

 雲雀はディーノにエスコートされるように階段を上る。

「寝室は別々?」

「寝室? ああ、夫婦部屋のことか」

 部屋は余るほどあるしなと言う男に雲雀は「そう」と呟く。

「ここが俺の部屋だ」

 アドリア海を照らす太陽のように微笑んでディーノは恋人の肩を抱き、自室へとエスコートした。

 ディーノの部屋には暖炉があった。

壁にはシマを描いた風景画が掛っていた。

 掃除の行き届いた深海色の柔らかな絨毯の上には、ホワイトタイガーの毛皮の敷物が敷かれ、その傍にはアシンメトリーな曲線が個性的な白のカウチソファが置かれている。

 木目が優美なセンターテーブルの上には庭で積まれたラベンダーと野の花が花瓶に活けられており、ディーノが読み掛けのままにして日本に発った本が数冊積み重ねられていた。

「俺の寝室はこっちだぜ」

見るかと誘うディーノはさっさと寝室に入り、クローゼットを開けて着替えを始めていた。

上質なスーツを脱ぎ、彼は屋敷で過ごし易い服装を選んだ。

長袖のシャツにジーンズ、傍から見ればとてもマフィアのボスには似つかわしくない装いだった。

寝室には現代的にエアコンが設置されており、オーディオ、パソコン、書棚、車の模型とディーノの私物が至る所に詰め込まれていた。

「ふぅん…」

 こちらの部屋の方が余程生活の匂いがした。

 CDやDVDが敷き詰められた戸棚を横目で眺め、イタリア語で綴られたCDタイトルを一枚手にとった。

どんな音楽を彼は好んで聞いているのか純粋に興味を持ったのだ。

余った下の段の棚の上には赤色の優美な曲線が美しいイタリア車の模型が幾つも並べられている。

ベッドサイドのテーブルには車のカタログ冊子が重ねて置かれており、近々、新車でも購入するのだろうかと雲雀は想像を巡らせた。

気にかけていたベッドは天幕の付いたキングサイズのベッドで、洗い立てのリネンのシーツがマットレスの上で白く光っていた。

清潔感漂う寝室に雲雀は一安心堵し、ここでなら夜を過ごせそうだと思った。

「気に入ってくれたか?」

「え?」

 背後から急に話しかけられて、雲雀はドア口の方へと振り返った。

ドア口には着替え終わったディーノが立っていた。

「夫婦部屋のことだ。さっき、別に用意するって話した時、恭弥あんまり嬉しそうにしていなかったから…」

「……」

 婚約中の恋人同士にとって夜の営みは大事なことだからと言うディーノに雲雀は「別にどこでもいい」とぶっきらぼうに答えた。

 どこで寝ようが、この金髪が洩れなくついてくるのは確かだから、どこでも同じと。

 それを聞いたディーノは恭弥らしいなと笑みを零す。

「じゃあ、今日からここが俺たちの夫婦部屋兼、寝室な。恭弥の分の寝具はあとで用意させる」

「わかった」

 漸く落ち着ける場所ができたと、雲雀はバフンとスプリングのきいたベッドの上に倒れ込んだ。

「よく跳ねるね」

 さすが跳ね馬のベッドと皮肉って、横になったままディーノを見上げた。

「ねぇ。やっぱり、マフィアのボスの寝室ともなると、どこかに抜け道とか、武器を隠し持っているの?」

 興味津々に訊ねる子供にディーノは困った奴だなと笑ってみせる。

「この城の警備は完璧だ。万が一なんてことはありえねぇよ。それよりも腹が減っただろう?」

話題をすり替え、ディーノは雲雀を一階の食堂へと誘った。

「あなたの家、まるで迷路だね」

「ハハ。そのうち慣れるって」

 前菜は野菜のグリルだった。

 郷に入れば郷に従え。

基本、一皿ずつ片さなければ、次の皿は運ばれてこない。

 そういうルールなのだと教えられていた雲雀は面倒だなと思いながら、左右に並べられたナイフとフォークの数を眺めてうんざりとする。

「これも覚えなくちゃいけない?」

 ねぇ先生と、殊更なことを言うものだからディーノは甘い顔をつい見せてしまう。

「恭弥に箸を持ってきてくれ」

 ディーノは給仕に命じて箸を持って来させた。

 使い慣れた箸の方が断然、食べる意欲もあがる。

第一の皿はパスタ。

器用に二本の箸で食する雲雀に給仕や警護役の黒服たちは豪く感心していた。

 パスタを食べていると、空いた平皿に給仕がスティック状の長細いパンをのせてきた。

「グリッシーニだ。そのままでも食べられるが、生ハムを巻いて食べるのも旨いぜ」

 イタリアのレストランでは前菜として籠に盛られ提供されていた。

 一口食べるとスナックのような食感がした。

「食べすぎると次の料理が食べられなくなるから注意な」

「言われなくてもわかってるよ」

教師面で彼是と言うディーノに雲雀は味見しただけだと、グリッシーニを平皿の上へ戻した。

 第二皿はいわゆるメイン料理で、雲雀は肉料理をディーノは魚料理をそれぞれ希望した。

 豚肉のローストを食べていると副菜のサラダも出てきた。

「無理して全部食べなくていいからな」

「次からは僕が食べられる量を出してよ。この人に合わせられると、あとが辛い」

 足りなかったときはお代わりをするからと可愛らしいことを言う主の恋人の言葉をその場にいた給仕たちは重々と聞き入れた。

 雲雀はドルチェのジェラードを一番嬉しそうに頬張っていた。

黒服や給仕たちはその様子を微笑ましく見守る。

 一方のディーノは甘い物をとらない主義だったので、別に用意されていたチーズを摘まみ、ワイングラスを空けた。

 

 

 

 

 

 大きなガラスが張り巡らされた鏡台の前に座らされ、髪を乾かし、丁寧に櫛で黒髪を梳かされた。

 毎日こんなことをするのかと堪えて訊ねると世話をしていたメイドは「初夜は特別だから」と、肌触りの良い寝間着を持ってきた。

 用意された寝間着に着替え、風邪をひかないよう最後にガウンを羽織ると、ディーノの部屋の前まで案内された。

 少し緊張した面持ちでドアをノックすると、部屋の中からディーノの返事が返ってきた。

 部屋に入るとディーノは白のカウチソファの上で本を読んでいた。

 パチパチと暖炉では火を弾く音がする。

「なにを読んでいるの?」

 咄嗟に口にした言葉はどうでもいい内容だった。

 彼はスクエアなフレームの眼鏡をかけていた。

琥珀色の輝きを湛えた瞳は理知的で雲雀は思わず頬を熱く照らす。

「小説だよ。日本へ発つ前まで読み掛けていた」

「ふぅん」

「恭弥、綺麗になったな」

 手の行き届いた磨かれ様にディーノは満足そうに頷き、薄いレンズの眼鏡を外すとセンターテーブルの上に置いて、扉口に立つ恋人を迎え入れた。

「こっちに来い。そこは寒いだろう?」

 キャバッローネ本邸で過ごすのも、暖炉のある部屋で過ごすのもすべてが初体験だった。

「ここでは、ずっと靴を履いているものなの?」

 自分の部屋なのにと口を噤む。

 どうやら靴を履いたままだと休んだ気がしないのだろう。

日本人である雲雀の生活習慣を汲みとって、ディーノは自ら履いていた靴を脱ぎ捨てた。

「今日からこの部屋は土足禁止な。そういう風に皆に伝えておく」

普段からメイドたちによって部屋の掃除は行き届いている。

流石に規格が異なるこの部屋に畳を敷いてやることは不可能だが、素足で過ごせるようには幾らでもとりなせた。

素足になった雲雀は漸く地に足がついた様子で柔らかな絨毯の上を歩き、踏み心地を確かめていた。

「おいで。恭弥」

 これで不満はないだろうと両手を広げると、雲雀は照れ臭そうにディーノの膝の上に座った。

「漸く、落ち着けるな。どうだ、恭弥にとってこの家は第二の我が家になれそうか?」

 真摯に訊ねてくる男に雲雀は返す言葉を探す。

 寝間着越しに伝わる体温を感じながら雲雀は確かな幸せを噛みしめていた。

「わからない。来たばかりなんだから…」

「そっか。なら、一日でも早く恭弥がここを気に入ってくれるよう努力しなくちゃな」

「そうして」

 ディーノに体を預けたまま他愛もない会話を弾ませ寛いでいると、喉が渇いたなと言ってディーノは傍にあった子機で飲み物を頼んだ。

 飲み物をメイドが運んできたときもディーノは雲雀のことを片時も離すことなく、睦まじいところを見せつけていた。

 一方の雲雀は恥ずかしそうにしてディーノの腕の中から逃れようとしていたが純粋な力比べに成す術もなく、最後は顔を桜色に染めてそっぽを向くに留まった。

「飲めよ。温まるぜ」

ディーノに勧められるまま、雲雀はホットミルクを飲み干す。

「温まったか?」

男は遠慮なく顔を近づけてきた。

「こんなの子供騙しだよ」

 一気に飲んだせいか、ケフと小さく息をつき、雲雀は口の端を手の甲で拭うとディーノの胸を手で押した。

「効き目はあるんだぜ。ガキの頃、よくお袋が飲ませてくれたから」

それから雲雀は改めてディーノの寝室を見て回った。

「恭弥に見られるとなると緊張するな」

 アンティーク調の猫脚のテーブルの上には沢山の写真が飾ってあった。

 幼い頃のディーノと年若い両親。

夫婦共々、美しい容姿をしていた。

優しい面の父親と長い金髪が綺麗な美貌の母親。

ディーノはどうも母親似のようだ。

「ここに恭弥との写真も飾ろうと思ってる」

 そう楽しげに言う男に雲雀は「まだ早いよ」と意味不明なことを口にした。

「どういう意味だ?」

 背後に立っていたディーノがすかさず擦り寄って問い質す。

「別に…」

「まだ、正式な夫婦になっていなから? 恋人のままじゃ不安?」

「……」

 口では興味のない素振りをしていても、几帳面な雲雀は形式を気にする。

そんな雲雀にディーノは苦笑した。

「恭弥の不安解消のためにも、早く入籍して結婚しないとな」

「十八になるまでは僕と結婚できないんだよ?」

「わかってる。だから早く、十八歳になってくれ」

「無茶言わないで。赤ん坊にでも頼まない限り不可能だよ」

「例の特殊弾か…」

 苦々しくディーノは呟く。

「今の恭弥のまま大人にならねぇと意味がねぇ!」

「だったら、辛抱しかないね」

「ちぇ〜っ」

まるでどっちが子供だかわからない。

自分のことに関しては欲を丸出しにする男が可笑しくてならなかった。

「一緒に写真撮ってあげる代わりに、まずその体型を維持して。精々、僕に愛想尽かされないよう努力することだね。急に老眼になって眼鏡掛けたり、顎が割れたりしてもダメだから。僕は今のままのあなたがいい」

 クンと金髪を軽く引っ張って雲雀は綺麗に笑んだ。

その笑顔は有無を言わせない。

「それって今の俺が好きだってことだよな? 素直に喜んでいいんだよな? 一応、弁明のために言っておくが、今俺が掛けている眼鏡は近視用だからな…」

 小憎らしくも愛しい子供を抱き上げて、ディーノは天幕の付いたベッドの上に横たわらせた。

「恭弥、愛してるよ…」

 遠い東の辺境の国から、連れて帰ってきた宝物。

 それを壊さぬよう慎重な手つきで触れた。

「ふ…ぅ」

 もう、この手の行為で雲雀が嫌がることはなくなった。

 大人のときの記憶がなくとも、こうして今の自分を受け入れてくれている。

 それで十分だった。

「ディーノ…」

 男は滑らかな子供の素肌に何度も口接けをして、欲に濡れた唇は隅々まで探った。

「やぁ…」

 脚の付け根にまで口接けられ、滅入ったように雲雀は声をあげ、顎を逸らして甘く喘ぐ。

「…車」

「ん?」

 細腰を抱きかかえ、ディーノは緩く身体を揺すりながら訊ね返す。

「好き…なの?」

「え?」

 息を整えながら疑問を口にする。

「模型、飾ってあるから…」

 と呟くと「ああ」と男は合点がいった様子で嬉しそうに頷いた。

「車の中でも特にフェラーリが好きだぜ。あの流れるようなフォルムは最高だぜ。イタリアの誇りだ。明日、俺の車を見せてやるよ」

 年相応の若者らしく語る男に雲雀は目を細める。

「今度、ドライブに行こうな。プライベート用の助手席に乗せるのは昔から俺の愛しい人だって決めてんだ」

 屈託なく目尻に皺を刻ませる笑顔。

 この男のすべてが愛おしい。

(この人のこと…)

 これから知ればいいのだ。

「来週の日曜日はオフだから、恭弥も時間空けとけよ」

 

 お気に入りの音楽をかけて、一緒に車からアドリア海を眺めよう。

 生まれて育った土地をもっとお前に知って貰いたい。

 イタリアは日本にも負けず、素晴らしい国なのだから。

 

「恭弥、お前と一緒に帰れて嬉しいよ……」

 

 この恋を諦めなくてよかった――――

 

 

 

 

 



 幸せいっぱいのふたり。お幸せに〜。