チョコレートの魔法

 

 

 

 学校に行かなくては。

 起き上がろうとすると頭の中身がぐるぐるとまわる錯覚に囚われた。

 どうしようかと思ったとき、上掛けからはみ出していた掌を握りしめられて、真上からキラキラと眩しい黄金色がこちらを覗き込んでいた。

Buon giorno. 恭弥」

 まさか、ずっと傍にいてくれたのか。

 気分はどうだと微笑みかけられて、雲雀は昨晩最後に彼がしたことを思い出した。

(でも、昨日はおやすみのキスをされて、それから――)

 彼は逃げるように部屋を出て行ったではないか。

 一晩中、ディーノの寝室を占拠した雲雀は覇気のない様子で男をぼんやりと見返す。

「…ずっといたの?」

「ずっとじゃねぇけど時々、様子を見に来てた」

「呆れたね」

 部下が代わるという声もきかず、ディーノは雲雀の看病を続けながら短い間隔の睡眠を貪っていた。

 それはさすがに辛いのではと思いかけたが、当人が元気そうに微笑んでいる。

 他人の心配など、らしくないと雲雀は俯いて小さく自嘲した。

「熱は……まだあるな」

 ひんやりとした男の手が伸びてきて、猫の額にそっと触れる。

 熱を測り終えた家庭教師は躊躇することなく「今日の修行はやめだ」と弟子に告げた。

「どうして。やろうよ」

「熱がある癖に無理すんなって」

「ムリなかんじゃ、ない。時間がないんだ。僕は雲の――っ」

 焦燥感を含んだ声を覆うようにして塞ぐ。

雲雀の唇にやわらかな感触が合わさった。

 また、だ。雲雀は瞬時に体を強張らせ、眉根を切なげに寄せる。

「お前は必ず雲の守護者になれる。カテキョーの俺が言ってんだ。何にも心配しなくていい」

 真摯な眼差しとぶつかり、雲雀は上掛けをきつく握りしめた。

「あなたを信じていいの?」

「ああ」

 クシャリと黒髪を撫でつけ、ディーノは揺るぎない瞳で語りかける。

「だから、今日は大人しく寝てろって」

 俺はどこにも逃げたりはしないぜと微笑み、雲雀のために着替えと湯桶とタオルを部下に運んで来させた。

 身支度が整ったらリビングに来いと言い残してディーノは寝室から出て行った。

ディーノが用意してくれた着替えは、真新しい黒のパジャマとロング丈のガウンだった。

 朝食は野菜を混ぜたお粥、雲雀のために用意された病人食となっていた。

「お粥なら、食べられそうか?」

 着替え終わった雲雀に近づき、寝乱れた髪を撫でながらディーノは優しく問いかける。

「ほかに食べたい物があれば、すぐに用意させるが…」

「これでいい」

「ん。わかった」

 席に着こうと保護者顔負けにディーノは雲雀の腰に腕をまわして促せる。

 気安く触わらないでと、顰め面をしてみせたがトンファーで振り払うまでの力はなかったので大人しく付き合うことにした。

 全くイタリア人はやたらとスキンシップを好み油断ならない人種だ。

 最初の頃こそ、腫物を扱うかのようにディーノと接していたが、出会って三日目にもなると随分慣れてきたものだった。

(それだけ僕の神経も太くなったということか…)

 一方のディーノの朝食はカプチーノとビスコッティを摘まむだけだった。

 朝からしっかりと食事をとる雲雀には信じ難い光景、聞けばイタリア人の大半はこんなものだという。

「だったら、今までのあなたはどうだったの?」

「え?」

 ポカンととぼけるディーノに雲雀は苛ついた。

「とぼけないで。あなたいつも僕が作った朝食を食べていたじゃないか――」

「恭弥、おまえ…っ」

 思い出したのかと、椅子を蹴り落とさんばかりの勢いで立ち上がった。

「なに?」

 雲雀は無意識に過去のことを口にしていた。

「ずっと忘れることができなかった。恭弥…、お前が俺の前から去って、毎日が絶望と空虚の日々だったよ。何度諦めようと思ったことか…っ」

 忘れることも諦めることもできなかった。

 片割れになってしまった婚約指輪を捨てられなかったと、ディーノはワイシャツの大きく開いた胸元からネックレスに通された指輪を雲雀に見せた。

「どうしてあなたが僕と同じ指輪を持っているの?」

 だってこれは綱吉が僕にくれたもの。

 それが真実でなかったのかと雲雀は瞳を揺るがす。

「これは俺がお前に贈った指輪だ」

「!」

 雲雀は危機迫るものを肌で感じ取った。

「国籍、性別、年齢差――。お前がどれも厭わないというのなら、もう一度やり直したい」

「あなたなに言って…」

「愛してる」

 きつく抱きしめられ、その力強さに意識を持っていかれた。

「恭弥…」

 お前のすべてが愛おしくてたまらない。

 濃厚な、恋人同士が交わすキスを一方的に押し付けられ、声がくぐもった。

「恭弥、恭弥…っ」

ちゅ、ちゅと音を立てていたそれが頬をナメクジのように伝った。

「あ…」

 慄く雲雀を横抱きにして、時を惜しむように大股で寝室へと向かう。

 ベッドの上に横たわらされると、着替えたばかりのパジャマの釦を外され前を寛がされた。

「やだ。やだ、やだっ」

 怖い。

 来ないで。

 僕に触れないで。

 自分の中でなにかが変わってしまいそうで、雲雀は生れて初めて恐怖を感じた。

 両足を膝で割られ、男が圧し掛かってくる。

 僕をどうしようというの。

 何の恨みがあってこんな酷いことを。

 今の自分は脆弱な、小刻みに震える子ウサギのようだった。

「離せ。いやだ。もう、これ以上――っ」

 僕に触れるな。

 

 

 

 

 

「熱がぶり返したな」

 ハアハアと苦しげに表情を歪めている雲雀を見下ろし、見兼ねたようにロマーリオは耳から聴診器を外した。

「なにやらかしんだ。ボス?」

 一旦は落ち着き、小康状態だったはずだ。

 雲雀が途端にひっくり返って寝込んでしまい途方に暮れたディーノは慌てて内線でロマーリオを呼んだ。

ヘッドライトの明かりが届かない寝室の隅で彼は表情も乏しく壁に寄りかかっていた。

「あちこちに跡があるが…」

 最後まではしていないとディーノは告げる。

「俺らはボスと恭弥の寄りが戻ればいいと願っているが、恭弥はまだ子供だ。心も伴ってねぇのに無理強いは酷ってもんだ」

 年長者としてロマーリオは敢えて意見した。

「一瞬だが記憶が戻ったようなことを言ったんだ」

「それで、舞い上がっちまったんだな」

「…ああ」

 凄腕の当主といえど、ディーノも愛の前にはただのひとりの男だったのだ。

 嫌がる雲雀の言葉も耳には届かず、胸にずっと溜めていた思いをすべて吐露した。

 愛している。もう一度やり直したいと。

「この恭弥にとって、ボスの愛情は重いな…」

 十年後の恭弥ならまだしも、大人と子供の差なんて歴然だ。

 まして、大人の本気の恋をぶつけられれば一溜まりもない。

「これからどうするつもりだ。ボス?」

 修行は折り返し地点にも到達していない。

 先が思いやられると言われ、ディーノはやりきれなさそうに瞳を細めた。

 雲雀と距離をとることが家庭教師としては賢明な選択たったのだろう。

 だが、こうなってしまった以上、時を遡らせることはできない。

「どうするもこうも、修行に徹するしかねぇだろう」

他に何があるのだと自暴自棄に問う。

目覚めそうにない子供にふたりは目を向けた。

 今は顔を合わせない方がいい。

せめて雲雀の容態が落ち着くまでは。

 そう判断したディーノは嘗て雲雀のお目付け役に命じていた年若いマイケルを呼んだ。

 マイケルは雲雀が回復するまでの世話役を命じられた。

 目覚めると栗毛の線の細い青年が傍らにいた。

「恭弥」

 まるで友人か弟を見るような目で、にこやかに自分の名を呼ぶ黒服は随分と親しげな空気を取り巻いていた。

「正午を少し過ぎたところ。それより、気分はどう?」

「最悪だ」

 憎まれ口を叩く雲雀にそれだけ口がきければ十分だとマイケルは微笑む。

「朝から何も食べてないんだろう。薬も飲まなくちゃってロマーリオさんが言ってたから、とりあえず飯を運ばせるな」

 掛けていた丸椅子から立ち上がり、内線電話で連絡をとる青年の横顔を窺いながら雲雀はふと彼がいないことに気が付く。

 そうだ。あの男はいつだって、こっちが頼まなくても傍にいてくれた。

 うっとおしい金色がいない理由。

 熱で混乱する記憶。

 閉め切っていたカーテンを開け、雲雀の気分を底から明るくさせようとマイケルは花瓶に花を活けたりと細やかな心遣いを忘れなかった。

 そうこうしているうちに病人用の昼食が運ばれてきたが、そこにもディーノの姿はなかった。

(あれは、どういう意味?)

 雲雀は体に散らされた赤い花弁を見つめ、小さく胸を上下させた。

 こんな調子で食が進むはずがなく、サジを握ることなく膳は返された。

 部下が持ち帰ったワゴンの上の皿を見てディーノは言葉もなかった。

 部下たちの間から焦りの声が上がる。

 ボンゴレから預かった大事な雲の守護者候補の子供。

 下手をすれば、これまで友好を保っていた同盟ファミリー間に亀裂が発してしまっても何らおかしくはなかった。

「ボスにハメて貰って寄りを戻してほしいところだが、子供ってのはどうも熱を出しやすくて難儀だな」

「一番の特効薬は愛情っていうだろう。ボス、恭弥の傍にいてやれよ」

「そうだぜ。ボス!」 

 これだから男の大所帯はと下の階の談話室に戻って来たマイケルは勝手に盛り上がっている同僚たちを眺めていた。

「ボスに俺とっておきのチョコをあげますよ」

「マイケル?」

「勇気がでるチョコレートです」

 マイケルの手からピンクの丸い小箱、ピンクシャンパントリュフの入ったそれを手渡した。

 イタリアではエスプレッソを飲むときにチョコレートを摘まむ習慣がある。

 ニコニコとマイケルから手渡されたピンクのパッケージは英国チョコの草分け的存在だった。

「あたたかい紅茶と甘いチョコレートは人の心をも溶かしてくれます」

 きっとそれは万国共通だと告げるマイケルにディーノはそうだなと頷いた。







 いい部下に恵まれるディーノさんでした。

 不意に過去の記憶を思い出すのは十年弾の副作用の賜物です。
 この場合、雲雀にとっては悪く、ディーノさんにとっては良く働いているように見えます。
 あーチョコ食いてぇ(この話しを書いているとき、ちょうどバレンタイン前だったので…)。