白い手

 

 

 

 白い手が彼を呼んだ。

『ディー…』

 白い病室のベッドに伏せる金髪の美しい女性。

 もう満足に言葉が紡げないのか。

こっちにと、物言うはしばみの瞳の意を汲んで、少年は零れ落ちそうな涙を堪え枕元へと駆け寄った。

『お母さん…』

『わたしの可愛いディーノ…』

 青白い頬に血色の悪い唇。まるで死神にとりつかれた様で目を瞠る。

 ディーノはただ悲しみを堪えるしかない。

(お母さんを連れて行かないで)

 物心つく前から、ディーノの母親は身体が弱かった。

 季節が巡るたび、彼女は入退院を繰り返し、主治医から覚悟を決めるようにと告げたのが今夏のことだった。

 勿論、このことを幼いディーノは知らされていない。

 病室の窓ガラスを乾いた風がカタカタと叩きつけ、窓から見える樹木の枝は彼女の限りある命をあらわすかのように葉を散らし続けていた。

『もうすぐ、お父さんも来るからね』

 だから、しっかりして。目を閉じてしまわないで。

 懸命に話しかける我が子に彼女は頷くばかり。

『ディーノ』

 

 あなたに会えて良かった。

太陽のように輝く笑顔が大好きよ。

だから、最期のときまで笑っていてディーノ。

 

 残酷な願いを口にする母親にディーノは皺くちゃの泣き顔で必死に応えようとする。

(坊ちゃん…)

 なんと気丈な子なのだろう。

 普段は泣き虫で甘えん坊の子が、母親の前では心配はかけまいと振舞っていることは、キャバッローネファミリーの誰もが知っていた。

あとどれくらいの時間がこの親子に残されているのか。

白く薄い甲を艶々とした頬にすり寄せ、ディーノはこれでもかといわんばかりの眩しさで笑ってみせる。

もう、見てはいられなかった。ディーノと共に病院へと駆けつけたロマーリオは、痛ましい親子の傍らで目頭をおさえた。

 キャバッローネ九代目当主に妻の危篤が知らされたのは一時間前。

 仕事先から病院まで、今から飛行機に乗り帰国を急いだとしても間に合うのか。

 病室に備え付けられてある呼吸監視装置が継続的な無機音を響かせ、酸素注入を受けていた彼女が急に苦しみ始めた。

『お母さん!』

 荒立ったディーノの声にロマーリオは我に返り、ナースコールのボタンを押す。

 ロマーリオは容態が悪化したことを口早に告げた。

『お母さんっ。お母さん…っ』

 

 愛しているわ。ディーノ。

 

 母親譲りのはしばみが涙に暮れる。

 涙も鼻水も一緒くたにディーノは母の名を呼び続ける。

 

 死なないで。僕をひとりにしないで。

 もっと一緒にいたよお母さん。

 

 子供はたったの八つ。永遠の別れを知るにはまだ早すぎる。

 血の気を失った唇が上下に動く。

 何かをディーノに伝えようとしていた。

 最後の力を振り絞り、彼女は酸素吸入のマスクを外した。

はしばみの瞳がディーノを見つめ、小さな手をとって自らの胸元へと導いた。

『かあ…さん?』

 小さな手に握らされたもの。

 それは彼女が肌身離さず身につけていた首飾りだった。

 細やかな鎖が輪を紡ぎ、細身の美しい指輪がさげられている。

 

 ディーノ。いつもあなたのことを見守っているわ。

 

 そう、最後に呟いて天国への扉は開かれた―――

 

 

 

*  *  *

 

 

 

 離陸から数十分が経過し、浮上していた意識がフツリと舞い戻ってきた。

 泥のように眠っていたディーノは不意に真横から差し出された物を視界に入れて瞳を瞬かせた。

ファーストクラスのゆったりとした一人掛けシートに深く身を預けるディーノを見下ろす腹心の部下、ロマーリオが通路側に立っていた。

「ロマ…?」

一様に周辺を眺めると乗客たちは思い思いに寛いでいる。

 どうやら、ディーノが眠っている間にシートベルトの解除がおりたようだ。

「ほらよ。ボス」

よく冷えたタオルを差し出され、合点のいったはしばみを次には緩ませていた。

Grazie

 日本を発ったときから、ディーノの日常会話はイタリア語へと切り替わっていた。

「一眠りする前に何か腹にためておくか?」

 コースからアラカルトまで載っているメニューをロマーリオが引っ張り出してきた。

「いまはそんなに腹が減ってねぇ。それよりも何か飲み物がほしいな…。そうだな。ワインがいい」

 芳醇な果実味とブラックチェリーのカシス風味が急に恋しくなった。

 ディーノは望郷に思いを馳せ、彼に喉の渇きを伝えた。

 それから、再びシートへと深く横たわる。

 漸く、すべての事が終わった。

 その実感は波のように押し寄せてくる。

(まだ、教えなくちゃなんねぇことはあるが。焦るほどでもねぇ)

取りあえずは、ヴァリアーを退け安息が戻って来たのだから。

ディーノの右手は無意識に襟元のあたりを彷徨っていた。

しかし、いつもの感触が掴めず眉を顰めたが、すぐにあのことを思い出した。

(そうだったな…)

 ジャケットのポケットの中を手探り、掴んだ硬物を取り出して、ホッと胸を撫で下ろす。

「鎖がないんじゃ話しにならねえな。イタリアに帰ったら、すぐにマウロを呼ぶか」

 その提案にディーノは「ああ」と頷いた。

 マウロとは古くからディーノ屋敷に出入りをする商人だ。

生活用品から高価な装飾品まで、幅広い品を扱う彼に鎖を用立てて貰おうとロマーリオは言っている。

 ディーノの掌にのっている曲線の美しい指輪は、成人した彼の指には嵌めることのできない代物だったから、普段は鎖に指輪を通して身につけていた。

「ボスはそそっかしいからな。イタリアに帰るまで、指輪を失くさないよう気をつけろよ」

「おお。わかってるって」

 部下の心配を余所にディーノは人懐こい笑みを返してくる。

全く後悔の様子がない若き当主にロマーリオは改めて問うた。

「本当に良かったのか? 鎖をやっちまって」

 指輪を繋ぐ鎖を含め、それはディーノにとって大事な母親の形見の品であるはずなのに、なぜ手放してしまったのか。

 そんな問い掛けに、はしばみを一度伏せ当主は穏やか答えた。

「指輪のことを詳しく話す暇もなく帰っちまったからな。あの時、俺にできる精一杯のことをしたかっただけだ」

「ボス…」

 この人はどこまでお人好しなのか。

 時としてその優しさが仇となり、我が身を危険に晒した過去も忘れてはいないはずだ。

 しかし、そんなディーノだからこそ救われた者もいる。

 ロマーリオはそんな人間をこの目で大勢見てきた。

「感傷に浸っている暇はねぇ。イタリアに戻ったら、やるべきことを片付けて、次の課題に取り組まねぇとな」

 相変わらず多忙な身である当主の顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。

 

いいか。その指輪はとっても大事なものなんだ。

 常に肌身離さず身につけていろ。わかったな?

 

 再三、口を酸っぱくさせて言い聞かせた台詞。それを繰り返す度、教え子は面白くなさそうにそっぽを向くばかりだったが。

(しまった。これからは、指輪を指に嵌めてろってまでは教えていなかった…)

 やべーなと、髪をガシガシと掻きあげて大きく溜息をついた。

 あまりの慌しさに、肝心なことは一切触れぬまま日本を発ったことを後悔する。

 自慢の教え子は性格に問題があるものの、根は素直で聡明な子だ。

 鎖に託された思いが彼に伝わっていますようにと、ディーノは祈る。

(俺たちの住む世界は、末恐ろしいものへと変わっていく…)

 動き出した歯車。

 とめられない技術開発。

 交錯するのは常に人の欲と血の雨。

(恭弥…)

はしばみの瞳は、ここにはいない教え子の面影を映していた。