この世の果てで

 

 

 

 闇夜に目が慣れてきた頃、少年は湖が広がる深い森の奥底を歩いていた。

 どこまでも、どこまでも続く静寂。

 先程まで降りしきっていた雨水を含んだ草を靴底で踏むたびに、この無声音な世界を薄気味悪く感じとる。

(僕はいったい…)

 ここで何をしている。

 どうして、森に迷い込んでしまったのか。

 天井を見上げても、星の輝きひとつもない。

 誰がこんなふざけた余興を? 

 面白くないと苛立ちながら、少年は更に森の奥深くへと進んでいく。

 進めと、本能がそう言うのだ。

 暫くの間、黙々と進んでいくと頑丈そうな蔦が湖に浮かんでいた。

 それまでは湖の外周を歩くばかりだったので、試しにと蔦の上に足を置いてみた。

 思い切り踏みつけてもビクともしない。

「僕、ひとりくらいなら平気そうだね」

 湖の上を歩くなんて、滅多にできない体験だ。

 少年の瞳に好奇心の光りが燈り、綺麗に引き結ばれていた唇の端がつりあがる。

 意を決めれば、それからの行動は素早かった。

 タン。

走る姿はまるで水辺を飛ぶ水鳥のよう。

 湿気を含んだ風をはらみ、なびく黒髪をもて遊ぶかのように撫でていた。

 

『それで、並盛一だって?』

 

 井の中の蛙だなと、彼はやゆる。

 

『全く追いつけてないじゃねぇか』

 

「………っ」

 癇に障る嫌な声だった。

あのときの屈辱も、彼の顔すら思い出したくない。

(――ろ。消え失せろ…)

 かぶりを軽く振るって、きつく前を見据えた。刹那、ガクンと左足の反応が遅れた。

「なっ」

 少年は我に返り、後ろへと引きずられていく左足をまるでコマ送りを見ているかのように見届けた。

 左足が太い根の蔦に絡まったのだ。

 通常ではありえない落ち度だ。

(あいつの所為だ…)

 低く呪ったのと同時にバシャンと勢い良く水面が弾けた。

 体勢を崩した体は盛大に転んだ。

 幸いにも体は覆い茂った蔦の上に留まり、掴まった左足だけが湖の中へと沈む。

(最悪だ)

 少年はうつ伏せになったまま拳を地に突きつけた。

 頬にひんやりと冷たい水が打つ。

 いまだこの世界は不気味なくら静寂で、虫の音も聞こえやしない。

(一体、ここはどこ?)

 思い出すのは、あの男の言葉ばかり。

 もう疲れたと投げやりに目蓋を閉じ、一秒でもはやくこの夢から覚めることを願った。

 

 

 

 薄い目蓋一枚を通して、感じる光りの存在感。

 その光りの暖かさを確かめるべく、少年はゆっくりと目を見開いた。

 花だ。水辺に浮かぶ一輪の太陽。

 湖に覆い茂る蔦は目の前で途切れ、溢れんばかりの優しい白乳色の光りに包まれている。

少年は言葉もなくただ魅入っていた。

 連想されたのは、ドビュッシー作曲の月の光。

 この光景に最も相応しい曲だと思ったのだ。

 

―――その花を何と呼ぶのか知っているか?

 

 不意に胸がチリと熱くなった。
 首からさげている指輪から、その熱さを肌一枚隔てて感じる。

「こんなときに…」

 長い歴史と伝統を受け継ぐ血塗られた指輪。

「知らないよ。そんなこと」

 嘘だ。本当は知っている太陽の花の名前。

 しかし、少年は頑なにその花を拒む。

 そう、この花はとてもあの男に似ていたから――――