跳ね馬の夢

 

 

 

 光りの色は水色の夏。気紛れな午後の通り雨のあと、ディーノは恋人とふたり肩を並べてレモン畑を散策していた。

 収穫間近、たわわに実ったレモンの木々は爽やかな柑橘系の匂いを周囲いっぱいに漂わせていた。

 これだけの量だ。

 今晩の食事にはレモンのリゾットとレモンチェッロをリクエストしようとディーノが提案すると、隣の人物は少しこの香りに酔った様子で肩を竦めるだけ。

 背の低い恋人は伸びた枝葉にかかることはなかったが、上背のあるディーノは木のアーチを潜る度に髪の毛や肩、仕舞いには首筋から雨粒が伝わり、「ひゃっ」と情けない声を洩らした。

 それくらい避けられないの? 

銃弾の雨は器用に交わす癖にね。

 年上のだらしない彼に呆れつつ、幼い恋人はその歩みを止めない。

 いちいち立ち止まっていては別荘まで辿り着けないからだ。

 ディーノが地主として治めるこの地域のレモンは他の地域のレモンと比べ一回り大きく実ががっしりとしていた。

「レモンチェッロや料理にはレモンの皮を使うから、無農薬栽培であることが絶対条件なんだぜ?」

 集荷された実は近くのレモンチェッロ工場へ出荷されるのだと説明しながら、ディーノは枝をしならせる幾つかのレモンをもぎ取った。

 両手に持ちきれなくなったソレを恋人にも半分押し付け、「行こう」と促す。

 のんびりとした田舎町。

豊かな自然に囲まれた小さな小さな町。

 レモン畑を抜けると石造りの門が待ち構え、そこをくぐるとディーノ自慢の小さなパラダイスがあった。

五百年も前に建てられた屋敷の周辺には季節ごとに花々が咲き乱れ、甘く芳しい香りが漂う。

 幼少期、避暑地として亡き両親と過ごした思い出のあるこの地を訪れるのは何年ぶりか。

 少なくとも、ディーノがボスに就任してからの年月にはなかったのは確かだった。

(今も変わらねぇな。ここは…)

 変わりゆくのは、人間だけだ。

 歴代キャバッローネの当主たちを優しく迎え入れてくれる豊かな自然とレモン畑は、これから先も変わらないことだろう。

 ファミリーの再建という旗を掲げ、日々仕事に追われていると時々、自分が本当に息をしているのはわからなくなる瞬間があった。

 その度にディーノは両親と過ごした穏やかな日々を思い出という引き出しから取り出しては、安息に心と体を落ち着かせていた。

 それ以外に安らぎを得る術を知らなかったのだ。

 そう、目の前にいる愛しい子と出会うまでは。

(こんなにも穏やかなときを過ごせるなんて……)

 当時のディーノには想像もできやしなかった。ふと、前を歩く丸い小さな頭を見つめ目を細める。

「ディーノ」

 その声一つで世界はまるで塗り替えられたかのようだった。

 鮮やかな青のぺンキで塗られた大空に虹色のアーチがかかる。

 ディーノの視線に気づいた恋人が振り返り名を呼んだのだ。

「虹」

 発せられた声はすんなりとよくのびるアルト。

 いまディーノを真っ直ぐに見つめている者は誰なのか。

 意識して愛しい者の顔を見ようとしていなかったディーノは、今はっきりと目的を持って視線を上げた。

 手の中のレモンをお手玉のようにリズムよく宙に投げ、器用にキャッチする白い手。

 細くしなやかな身体はまだ成長する余地があり、襟元には鎖に繋がれた指輪が二つ光る。

 一つは刻印の刻まれた指輪で、もう一つはほっそりとしたもの。

「なぁ。その指輪、いつも身につけてるけど、どうしてだ?」

 何かの願掛け。それとも、大事な誰からの贈り物?

 こんなにも愛して止まないのに、俺は理由を知らないと、ディーノは焦がれるように見つめた。

 地上に降りた天使画の如く、太陽を背中いっぱいに受けた眩さに恋人の背には翼が生えているのではと、錯覚を覚えた。

「お前って、天使の生まれ変わりか?」

天使は少し待ちくたびれた様子で、上目にディーノを見据えていた。

 一方のディーノは眩しさに目を細めつつ、怖いもの見たさという好奇心で目を凝らす。

(あ…)

 天使は苛立ちを露にして立っていた。

 

何で、そんなに怒ってるんだよ?

安心しろ。レモンチェッロは砂糖半分で頼んでやっから。

お前、子供の癖に甘すぎるの苦手だったよな?

 

 まだ見据える双眸に続けてディーノは微笑みかけた。

 

そんなに睨むなって。お前は充分、可愛いよ。

その顔も目も唇も――ぜんぶ、だ。

気にしている鼻だって、大人になる頃にはきっと高くなっているはずだ。

 

だから、機嫌を直せよと言いかけて、ディーノは口篭った。

 そうすると、唯一のチャームポイントがなくなってしまうのだ。

「俺、実はお前の鼻が一番可愛いって、いま、気づいたんだ。だから、その……」

 大人になるのは、もう少し待ってはくれないか?

本気で考えはじめるディーノに天使は今度こそ、怒りの拳を振りかざすのであった。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

「ボス。並盛に着いたぜ」

 移動中の車中で眠っていたディーノは、ハンドルを握っているロマーリオの一声で意識が浮上した。

 イタリアから成田空港までの長時間のフライトは日々多忙なディーノにとって睡眠がむさぼれる貴重な時間。

並盛までの移動手段は専ら車で、ディーノの見知る風景が車中から一望することができた。

並盛に着いたのだと、欠伸を噛みしめ、一つ伸びをした。

「随分、よく寝ていたな」

「ああ。ついでに変な夢まで見ちまった」

「夢?」

 現実主義者のディーノが夢の話をするなんて珍しいことだ。

「少し先の未来だったかな。俺と恋人がキャバッローネの別荘でひと夏を過ごす夢…」

「へぇ。それで、ボスの未来の恋人はどんな娘だったんだ?」

 興味津々に訊ねるロマーリオにディーノは「さあな」と肩を竦めてみせる。

「その子の顔を見ようとしたところで記憶が飛んでるんだ。ただ、鮮明に覚えているのは――殴られた感触だけだ」

 未来の恋人に殴られたと言うディーノにロマーリオは思わずハンドルに突っ伏しそうになった。

「殴られたって、ボス。そいつは、とんだじゃじゃ馬だな。一体、どこの誰にやられたんだ?」

「それがわかってりゃ、苦労はしねぇんだよ」

 頭をガシガシと掻きながら、照れを浮かべるディーノはぶっきらぼうに答えた。

「そうに違いねぇな。最初から誰だかわかっていれば、部下がボスの花嫁探しに躍起にならなくて済む」

「…頼むから、その話しは止してくれ」

 幾ら、ボンゴレ九代目に尻を叩かれたからといはいえ、はいそうですかと、簡単に結婚相手など決められないのだ。

 右から左へと流れていく並盛の街並みを眺めながら、ディーノは不思議な夢の続きを語る。

「二つの指輪を首からさげていた」

「指輪? そいつはもしかして、今、ボスが身につけているヤツか?」

「あ…」

 先代夫人――、つまりディーノ亡き母親の形見のことをロマーリオは示していた。

 そう言われるとそんな気もし、ディーノはおぼろげな夢の断片を必死にかき集めようと頭の中で作業を繰り返す。

「だめだ…。全く思い出せねぇ」

「はは。そう焦るなよ。俺は今の話しを聞いて少しは安心したぜ。キャバッローネはボンゴレと違い、代々ボスの座は世襲制だからな」

「そう言われると、立つ瀬がねぇな」

 世間一般でいう二十二歳は、恋や仕事に揉まれ人間として著しく成長する年代だ。仕事は一人前にこなすディーノだったが、恋愛経験はそれほど多くない。いや寧ろ、皆無かも知れないとロマーリオは思った。

 マフィアのボスにしては勤勉で真面目、愛人を侍らすこともせず、息抜きは若者らしくドライブなのだから。

(夢の中の俺は、あの子を愛してた?)

 満たされた優しい空気。恋人を見守る穏やかな眼差し。

 嘗て父と母が出会い、愛し、そして自分が生まれたように、いつか誰かを本気で愛せたらと思いはすれど、いまだ出会えぬ恋人をディーノは待ち続けている。

 もしかしたら、その相手とはもう出会っているのかも知れない。

 ただ、ディーノがその運命に気づかないだけで。

 目蓋を閉じて思い浮かべるのは、金色の太陽を背にいっぱい浴びてこちらを見る天使の恋人。

 その白い襟元には光る二つの指輪。

 パズルのピースが埋まらない。真っ白なキャンバスに何を描けば良いのかわからない。

 甘い痺れにも似た切なる感情がディーノ胸に零れたインクのように滲み広がってゆく。

「あまり深く考えるなよボス。運命なんて、どこに針が向くかわからない羅針盤みたいなものなんだからよ。気侭に身を任せていればいいさ」

「呑気だな。ロマーリオは」

 それくらい悠長でないと気が滅入ってしまうと、年の功でディーノを諭した。

「それよりもボスが見たその夢は、ブラッド・オブ・キャバッローネが成せる力かも知れないな」

「ボンゴレ一族みたいに、そんな能力がキャバッローネにもあるのか?」

 そんな類の話しを聞いたことがないとディーノが笑うと、ロマーリオはその笑いを打ち消した。

「全てを否定するには未確定要素が多すぎるぜ。ボス」

「ロマーリオ」

 それにあんたも薄々気づいているんじゃないのかと、見透かすように彼は続けた。

「こんな話しを聞いたことがある。歴代の当主のなかでも、潜在能力が高い者にはボンゴレと同様の奇跡が起きると。九代目には残念ながら、その能力はなかったみたいだが、初代キャバッローネにはあったらしいぜ。不思議な力とやらがな」