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 ホテルのロビーに到着したのは午後七時をまわった頃だった。

 一歩足を踏み込めば、厚手で柔らかな赤絨毯の感触が心地良かった。

 上を見上げればホールは三階までつき抜けで、星の輝きのように煌びやかなシャンデリアがゲストを照らす。

 ホテルを定宿にしているとディーノから聞かされた時は、シティホテルやビジネスホテルの類を当初想像した。

 だが実際、ディーノが利用していたのは要人が多く利用する並盛でも最高ランクに値する高級ホテル。中学生の雲雀にとっては、いつ来ても慣れぬ場所だった。

 このホテルをディーノはいつも最上階から数階分を貸し切る。

 護衛面を考慮すると、ホテルの階ごとファミリーで貸しきる方が楽なのだ。ホテル側は金に糸目をつけないディーノを上客としてもてなし、どんな要望にも応えてくれていた。

「ボス、三十六階の日本料理店の個室に席を用意してあるぜ」

「ああ。わかった」

 黒服の中でも恰幅の良い四十台前半くらいの男がディーノに近づき、ホテルのカードキーを渡す。その時、黒服はチラリとだが、雲雀の方に視線をやり、それからすぐに主の方へと戻した。

「恭弥、すぐに飯でも構わないか?」

「いいよ」

 豪華絢爛なホテルに不釣合いの学ランを羽織った雲雀をディーノは慣れた手つきでエスコートし、エレベーターで日本料理店へと向かう。

 エレベーターに乗る時も、少数の黒服がディーノを囲うようにして乗り込んできたので、雲雀の眉尻が上がった。

(そういえば、この人、マフィアのボス…だったけ)

 忘れていたと、彼のプロフィールに付け足して、雲雀は特に黒服たちを意識しないように努めた。

「日本食を食べるのは久しぶりだな。恭弥は何が食べたい?」

「秋刀魚」

「おう。そうだったな。そのために、態々、来てくれたんだったよな」

 機嫌よく笑うディーノは取り巻きたちを空気とでも認識している振る舞いだった。例え少数とはいえ、黒服たちに護衛されながら、とても会話を楽しむ気分にはなれない。

 どうかしていると、ディーノの神経を疑いながら、雲雀はひとりエレベーターから望める夜景に息を呑んだ。雲雀が夜景に見惚れていると、チンと音がしてエレベーターのドアが開かれた。

「着いたぜ」

 ポンと肩を叩かれ、我に返った。

 一歩、足を踏み入れたそこはフロアの四方がガラス張りで海と山が一望できる、落ち着いた感じの日本料理店だった。

「まさか、個室にまでついて来るんじゃないよね?」

 それは我慢ならないと言った口ぶりで問いかけると、黒服たちはディーノ合図で蜘蛛の子のように散った。散ったというよりも、予め決められたそれぞれの持ち場で待機をしている。

「グイードは個室の外で待機させる。これだけは、勘弁して貰えねぇか?」

 そう言ってディーノが指差したのは、先ほどの恰幅の良い大男だった。

(ふぅん。こいつが、ヒゲ眼鏡の代理…か)

「わりぃな。恭弥」

 こういうルールなんだと、大人の笑顔で頼まれれば、渋々と頷くしかなかない。

 

 

 

 

 

 秋の旬な素材を生かした和風料理に舌鼓し、雲雀は殊更、満足げな様子で箸を動かしていた。

 興味がなければ、全く食べないときもある雲雀の好みを熟知するのは難しい。

 だからこそ、こうして食欲旺盛に食べてくれると提供する側も嬉しいというものだった。

 膳を上げ下げする女将もにこやかに雲雀を見やって、上客であるディーノに挨拶すると、世間話の一つ二つを交わす。

 腹も満て、帰ろうかと素振りをちらつかせる雲雀を留めさせるのは、本日のディーノに課せられた大仕事だった。

「ごちそうさま」

 とりあえずは、ご馳走になったことに礼を一言述べた。

「それじゃあ」

 帰ると踵を返し、エレベーターに乗り込もうとする雲雀の細腕をディーノは反射的に掴んだ。

「今度はなに?」

 一度ならず、二度までもと、疑いの眼で彼を見上げた。

「あ。えーっと。部屋に…ドルチェを用意してある。あと、恭弥に土産も。紅茶。色々、買い揃えてあるんだぜ?」

 紅茶好きだろうと、世界各国の有名な銘柄を指折りあげていくうちに、漆黒の瞳がチラリとディーノ方を見た。

「ふぅん。僕に?」

「ああ。気に入ってくれたら、全部やるよ」

 その一言に機嫌よくした雲雀は「いいよ」と承諾した。

 最上階はペントハウスになっており、部屋に入ると色鮮やかなキャンドルが室内に燈されていた。

 彼のこういうロマンチックなところは嫌いではない。

 テーブルの上にはディーノの言うとおり、ジェラードと銀皿に盛られたフルーツが用意されていた。

「楽にしていいぜ」

 ディーノはミニバーからグラスを二つ持ってきて、飲み物を適当に見繕う。

 雲雀は言われるまま座り心地の良さそうなソファに腰掛け、オレンジジュースの注がれたグラスを受け取る。

 ディーノは当然のように雲雀の隣に座って、距離を詰めてきた。

「やっと、落ち着けるな」

 彼の手には芳醇な葡萄の香りがする解禁されたばかりの赤ワインが並々とグラスのなかで揺れていた。

 テーブルの横には赤や青、緑色のリボンでラッピングされた包み箱が山積みに置かれていて、一目でそれが雲雀への贈り物だということがわかった。

「恭弥が好きだって言ってた紅茶はどれだったかな…」

 フルーツ皿から葡萄を一口摘まみして、ディーノは山積みのプレゼントを漁った。

「こんなにたくさん、どうしたの」

「仕事先で色々と探したんだ。日本で販売されてないやつとか、恭弥がまだ飲んだことのないだろうなって思ったやつもついでに買った」

「……」

「あー、これこれ。これだ」

 包みを開けて取り出した缶の銘柄を雲雀は目で確認して、機嫌よく頷く。

「よく、覚えていたね」

「恭弥の話すことは、一言一句忘れねぇよ」

 熱ぽい視線で話しかけられ、雲雀は咄嗟に視線を逸らした。

 正直、こういう時のディーノは苦手だ。

 どう接していいのかわからない。

「別に頼んでもいないのに恩着せがましいことをして…。あなたにお礼なんて言わないからね」

「おう」

 素直でない雲雀の性格を熟知しているディーノは微笑んで頷いた。

(それにしても…)

 ディーノのまめさに雲雀は感心していた。

 包み紙に記された銘柄をざっと目にしただけでも、彼が何カ国渡り歩いたのかが知れた。

「あなたって、ちゃんと仕事してるんだ…」

 ポツリと呟いた雲雀の一言にディーノは「当然だろう」と、はにかんだ。

 いまだマフィアのボスとは信じて貰えていない節があるようで、どうしたものかと溜息をつく。

「恭弥の喜ぶ顔が見たくて、買い集めたんだからな。わかってるなら、ちょっとはそういう顔を見せてくれよ?」

「無理だね」

 あなたバカじゃないと憎まれ口を叩いて、グラスを口許へと運ぶ。

(やっぱ、そうだよな…)

 どこまでも気位が高い雲雀を見下ろし、ディーノは大方予想ができていた答えに項垂れる。

 惚れた弱みか、それでも構わないと思いながら、徐に雲雀の細腰に腕を回した。

「ちょっと、重い…」

 もたれかかっているのだから当然だ。

 あからさまに迷惑そうな顔をする雲雀は手でディーノを押し退けようとする。

「笑顔が無理なら、イタリア式で感謝のしるしをくれよ」

「なにそれ?」

 目を大きく瞬かせる雲雀に、ディーノは更に体重を傾けてきた。

「キスがほしい」

「な…」

 冗談はやめろと、耳の端を赤くさせ、腕の中で雲雀はもがく。

 しかし、本気のディーノはがっしりと雲雀の体をホールドし、退く気は更々ない様子だ。

「ふざける…なっ。誰が、あなたに……っ」

「キスの一つくらいいいだろう。減るもんじゃないし。イタリアでは挨拶ついでにするんだぜ?」

 懇願されて、はいそうですかと了承するレベルの問題ではなかった。

「ここは日本だよ…っ」

 自由になる脚をバタつかせる度に背もたれのクッションが次々に床への転げ落ちた。

「やだ」

 近づいてくる端正な顔を爪で引っ掻き、幾つもの筋を残す。

 自慢の金髪は揉み合ううちにぐしゃぐしゃになり、ソファとふたりを支える床が悲鳴をあげそうだった。

「いらない…」

「恭弥?」

「お土産なんて、いらない」

 ふしだらなことをするために、あなたの部屋に来たのではないと、はっきり自分の意思をディーノへ告げた。

 雲雀はきつくディーノを睨む。

 目尻には生理的な涙が薄っすらと滲んでいた。

 すると、不意に体が軽くなった気がした。

 試しに目の前の胸板を押しやるとその身は簡単に動き、雲雀はその隙間から転げ落ちるようにして逃れた。

(なんなの。急に…?)

 呼吸を整えながら、雲雀は訝しげにディーノを見上げた。

 俯き加減の表情は雲雀のいる位置からはよく見極めることができなかった。

「帰る」

すぐさま身形を整え、散らばるようにして落ちていた学ランを拾い上げた。

 ドアノブをまわし、ペントハウスの外に出ると、雲雀の前にグイードがひとり立ち憚っていた。

「どいて」

 低く言い凄んでみせるが、番人であるグイードは動こうとはしない。

 まるで、聳え立つ石造のように雲雀の行く手を遮っていた。

「死にたいの?」

 仕込みトンファーを取り出すと、男の腹面の前にトンファーを突き出した。

 それでも、動こうとはしないグイードに雲雀は眉根を顰めた。

「あなた、僕の言葉がわからないの?」

 苛立つ口調で急かせたが、グイードが真っ直ぐに見ていたのは開かれたドアの奥だった。

「ボス」

 野太い声が主を呼ぶ。しかし、部屋からは何の反応もない。

 そのことに雲雀は胸を撫で下ろし、もう一度、壁を睨み上げた。今度は容赦しないと。

 雲雀がトンファーを振り翳すと同時にグイードは主を呼んだ。

 これで止めだと確信した瞬間、腕に鞭が絡みつき、握っていたトンファーが音を立てて転がった。

「な…」

 どういうことだと漆黒の瞳が大きく瞠られる。

「悪かったな。グイード」

「ボス…。出過ぎた真似をした」

「いんや。お陰で、大事なモン、失わずにすんだぜ。あんがとな」

 腕を軋ませていた鞭からすぐに解放された。背後に立つ影にゆっくりと首を巡らせると予想通り、ディーノが立っていた。