毒とるMIHIのほろほろ日記

 皆さんはほろ苦く甘酸っぱい学生時代を思い出しては、独りニヤッとすることって有りませんか?
青春時代は気持ちも行動もほろほろと揺れ動きますよね。”ほろほろ”に”ほろ”苦さを味付けして”ほろほろ日記”を綴りました。
 パソコン通信;維新ネットにおいて連載したものをまとめ、併せてお寄せ頂いた<感想>も掲載しました。
医学生日記は約20年近く前のこともあり、記憶をたどりつつ書きました。
正確に書いてはまずいとか、記憶のあやふやなところは少しはフィクションになったところもあります。
おおよそは、ノンフィクションです。


<ドクトルまんぼう医局記VS毒とるMIHI医局記>

毒とるMIHI医局記;そのきっかけについて。

ある日維新ネットの掲示板に
「93/04/07 ASUKA
 ところで 4/6のサンデ−山口において週間ベストセラーの第三位のどくとるマンボウ医局記(北杜夫 中央公論社)は読まれた方はいらっしゃいますか?医療関係の方が多いのでどうかなあって思って・・・。もしおられたら感想を是非アップしてください。私も読んでみようっと!!!
------------------------
とありました。丁度その時 ”どくとるマンボウ医局記 ”を読み始めていましたので、---------
>もしおられたら 感想を是非アップしてください。私も読んでみようっと!!!
どくとるマンボウ医局記は今日読み始めました。そのうちきっと、ね!
ASUKAさんの方が読み終えるのが早かったらASUKAバージョンをアップしてね。

こうして” ドクトルまんぼう医局記VS毒とるMIHI医局記”は生まれました。
------------------------------
 奇人変人の多い医者の集合体である大学の医局は、北杜夫氏のいた慶応大学医学部だけじゃなくてですね、自慢じゃないが某山大医学部も負けてはいませんですいね!例えば、机の引き出しをすうっと開けて、”にたー”と笑い、「MIHIさん(彼は自分にとって恐い人しか”先生”を使わなかったような気がします)、このちくわオイシイよー。」と言いながら顔が近寄って、銀縁眼鏡の奥の潤んだ瞳は怪しく光る訳です。
「い、いや、僕は・・・。」
「そう、残念やネー。昨日買って、しまってあったんだけど。」
 ちなみに、この話の時期は7月です。ちくわ以外に机の中に食物がぎっしり。半なまと、おかきをはじめとする乾きモノが大得意。引き出しを開けると全てがミックスした怪しげな匂いがつーん!つーん!
 このドクターちょっと危ないので、患者を受け持たせてもらえなかったのです。かなり暇を持て余してました。4月に日本循環器学会総会が終わり一安心。教授回診の終わった日の夜は医局の花見と決まってました。ある時、宇部の護国神社で医局の花見が開かれ、彼も参加しました。

 医局の医者達は彼が酒を飲んだときの様子を知りません。
某先輩が「おい、飲むか?。」に、「はあ。」
止まる事を知らず飲み始め、10分もしない内に絶好調!
何を思ったか突然桜の木に登って、
「ムササビじゃー。」
木から木へ・・・の積もりだったんでしょうが
どたっ!!!グシャッ!で2日間、自宅安静。

 地方新聞が取材にきてました。翌日の新聞に、今まさに飛び移ろうとして木から離れた瞬間のムササビ毒とるの姿が、桜をバックにくっきりと!新聞のタイトルは「護国神社、花見の狂宴」でした。この新聞は教授室にも配達されるので気の効く某毒とるが、教授の留守を見計らって教授室へ新聞をすり替えに侵入。知らないのは教授だけでした。多分?

 医者と言えば奇人変人大集合ですいね!ムササビ毒とる落下を目の当たりにみた毒とるMIHI

<ドクトルまんぼう医局記VS毒とるMIHI医局記>
 第1章では、M教授が医局員を獲得するために入局試験を行った際、全員を合格させている。我が医局を振り返ってみると、入局試験などすれば入局医師は激減するかも知れない恐れがあった。勿論、どの医局も入局試験は無く、宴会に始まり宴会に終わった。初めの宴会は少し地味であるが入局しそうになると宴会は豪華になり、本決まりで再び地味になったような印象であった。卒業試験は医局員獲得のために有るようなモノ。試験場に派遣された先輩医局員は、あらかじめ目星の付けている学生をマークする。試験時間のほとんどはその学生の援助が中心で、試験監督とは名ばかりであった。
 最初は解答が間違っていると「おい!」と、こづく。それでもだめなら小声を出して教える。挙げ句の果ては鉛筆で書く!試験監督は講師と助手が行うが講師と助手を合わせた人数よりも圧倒的に監督の数が多いのは珍しくもない。ただ、こんなことはどの医局も同じであった事を付け加えておく。自分が入局する科は、入局してから嫌でも勉強しなくてはならない。だから卒業試験くらいは教えてやろうと言うわけである。最近は決してこの様な事はないようで、かなり厳しいものであるらしい。

 第3章で、「白衣は一種の隠れ蓑」。たとえインターンでも、患者の前では「先生」と呼ぶ。卒業したばかりで教科書でしか病気を知らない研修医程度の医者も、先生には違いない。患者から「先生」と呼ばれている内に、自分自身を冷静に見る目が加速度をつけて荒廃して行く。荒廃した精神を白衣が包んでいる。この荒廃した精神が、自分の無力さを知ったときに露呈する。こうしてデプレッション(うつ)状態を経験する。これを経験しない医者は最も危ない。

 指導医をオーベンと呼ぶのは今も変わらない。指導を受ける側を子ベンと呼んだ。オーベン次第で新卒医師は育つし、何よりも患者が早く治る!?。これはいつわざる事実である。大学病院はもとより大病院に身を委ねるときは注意を要する。通常、患者は器(病院の大きさ)に判断が揺れるのは良くある事だ。

 第4章で北杜夫が入局した頃、その医局の医者にはまともな人間が殆どいなかったそうである。北杜夫氏だけに、話半分としよう。幸い我が医局には数人の変人奇人しかいなかった、と思う(と思いたい)。回診は夜しかしないゴキブリドクター、医局の花見の時に木から木へ飛び移って落下したムササビドクター、薬屋さんの受けを狙って?20種類以上の薬を同時に処方して患者受け持ちを外された論外ドクター(この方は現在は医師をしていないとか)等など。あっ、結構居るのかな?

 第5章で電気衝撃療法(エレクトリックショック)が出てくる。私は、悪友のいる某病院に心電図診断を依頼され、遊びがてら訪問した経験がある。詰め所に座って心電図を見ていると、お年寄りの先生が「先生の見た事の無い治療をお見せしましょう。」それがエレクトリックショックであった。横になった患者の頭に電極が付けられる。「いきます。ハイッ。」の号令で放たれた電気の衝撃が一瞬にして患者を鎮静へ導く。その一瞬は”電気にはじける”としか表現が出来ない。目が覚めると平静の世界にいるのだそうである。確かにその患者は電気ショックの瞬間はじけて、全身の筋肉が弛緩し寝入ってしまった。
 循環器の医師として、年に数回、心臓に電気ショックを行うことがある。1回400ワットをかけた瞬間に、体がまさに跳ねてベットから数センチ飛び上がる。循環器的にはこの電気ショックを、除細動とかカウンターショックと呼ぶ。400ワットでは「パチッ。」と言う音とともにタンパク質の焦げる臭いが漂う。効果は絶大!しかし、どちらもご勘弁願いたいものには違いない。

 第7章に医局対抗野球の事がある。当時の慶応大学では親善野球であったらしいが山口大学では違う。医局対抗野球は六大学の野球のごとき熱戦で、学生時代野球部に在籍した経歴は学生時代の成績の評価と同等に優先される。特に連敗をしている医局はことさらである。しかも、ピッチャーであると大学から派遣された遠い病院からでも、医局対抗野球大会の度に呼び戻される。私の知っているドクターは野球のために、毎週教授命令で宇部と小倉を優勝戦まで往復して投げぬいた。そのドクターは剛速球で鳴らしていた。優勝戦の時は対抗相手の医局が重症患者を剛速球ピッチャードクター宛に送り込み、試合出場不能にさせる作戦を練っているなどと、結構ありそうな噂が流れた程である。

 教授回診が金魚の糞のごとき行列であることは慶応大学も山口大学も、そして今も昔も変わらない。我が医局に関しては、豪傑の先輩で雀荘から教授回診に出向き、自分の順番が終わると雀荘に帰って行くという実話を残した方がいらっしゃる。飲み屋で夜明けを迎え、家に帰って水を浴びそのまま教授回診に現れたドクターも居た。

 第9章に裸になって自分の尿や糞を身体に塗りたくる女性がでてくる。循環器病棟ではここまではないが私が病棟に行ったある夜の事。エレベーターを下りると風呂敷を1つぶら下げた見覚えのある患者さんが一人立っていた。

「こんばんわ。どうかしました?。」

 うつ向いたまま。その瞬間、今日の教授回診でみたCCU(心臓の集中治療室のこと)に居るはずの急性心筋梗塞の患者さんであることを思い出す。”おかしいなア。あの人、スワンガンツ(心機能をチェックするために細い管を心臓付近まで入れる管のこと)が入ってるはずなのに?”と思ったとたん血相を変えて看護婦さんが飛び出してきた。

「せんせー。その人捕まえてえー!。」

 その患者さんはCCUへ舞い戻り。今までいたベットには血だらけになったシーツと、惨めな程にとぐろを巻いたスワンガンツカテーテルがお出迎え。閉鎖された環境、心筋梗塞の不安が入り交じってのCCU症候群と判明した。安定剤で事なきを得た。しかし、一体どうやってスワンガンツカテーテルを抜いたのだろう?1、2針は縫合してあったはずなのに。

 第10章医者を売り飛ばす話。表現の違いはあるが医局から外の病院に赴任するときに”売り飛ばされる”という。この事は余りに生々しいので書くまい。医局の医者のほとんどは売り飛ばされているわけだから。売り飛ばされるのを嫌って実力行使をしたドクターを私は知っている。ローテーションと言えば聞こえが良い?数年に一度の病院めぐりを経験していろんな意味で成長して行く。中にはひねくれるドクターも当然いる。ローテーションで、大学へ帰る予定なのに一向に帰ってこない。裏日本の今までいた病院にはいない。暫くして、瀬戸内海を飛び越えて四国に渡っていたことが判明した。たまたま結婚式でお見受けしたが、照れ笑いをしながらも鎖から解き放たれた犬の如く(良い表現ではなくて失礼)表情はすこぶる明るかった。「センセ、どうしたんね?」「エッヘッヘ。」ですと。

 第11章に「あの患者さんは死んだようでいて、そのくせまだ生きているようなかすかな兆候がある。ぼくたちにはもう判断がつかないから、あなたが調べてください。」と医局長に頼むくだりがある。
 1分も経たない内に医局長が帰ってきて、「先生、あの患者はとうに完全に死んでますよ。だって、もう臭っていますよ。」と言ったとか。

 学生時代に臨床実習で何回か患者さんの死に遭遇することがある。しかし、その時の”死”の診断は、勿論、主治医である先輩が行う。卒業して主治医になると、”死”の診断は自分一人が行わなければならない。医師になって初めての「ご臨終です。」を何時、どのようなタイミングで言うかは最初の最大の試練である。死を告げる件で同級生に聞いた、今も鮮やかに記憶に残っている台詞がある。
 「簡単だよ。自分が死んだと判断しても、暫くは看護婦さんに心臓マッサージをしてもらっておくんよ。出来るだけゆっくり病棟を1周して、それでも心電図が真っ直ぐ1本線だったらご臨終を告げれば間違いない。」
 その年の新卒医師達の間ではご臨終を告げる前に病棟を1周するのが流行した。では病棟が小さい病院ではどうするか?答は簡単。”絶対死んでいると判断してから30分間、心電図が1本線で、どうしても生き返らないことを確認することであった。この30分間、看護婦さんの「ご臨終です、って言って下さい!」視線を浴び続けることになる。心臓マッサージをしながら数秒間手を休めた時に、1本線の心電図を見て生き返ってない事を確認するのである。それでも、まだ死んだと言うのは不安であった。更にこれを30分続けるのはまさに針のむしろに裸で寝かされて、その上身体に漬物石を2、3個乗せられたような気分である。患者さんの胸に当てた手のひらの汗(冷や汗?)で、心臓を圧迫するとき”グチュ、グチュ”と鳴りだす。そして、患者さんの身体の体温が下がってきたのが手のひらで感じるようになる。看護婦さんの、「先生、早くご臨終を!。」という声無き声を堪え忍ぶ。ようやくドクターの「ご臨終です。」で家族は、「ワアー。」と泣き崩れる。ドクターはアブラ汗にまみれて、患者さんと家族に深々とおじぎをする。そして、看護婦詰所へ帰る。

 死亡診断書にペンを走らせるまでの数分間に、走馬燈のように生前の意識があった頃の患者さんとのやりとりが巡る。ふっと我に帰って死亡時間、死因を書き込む。

 医局へ帰ると疲れが、雪崩の如く押し寄せる。

--------------------------−
<感想>
93/08/08 23:19:02 K
 MIHI先生、楽しく読ませていただきました。北杜夫氏のように作家になれば(^^)という気がしてしまいます。ただ、北氏の場合、超ド暗い作品も結構ありますけど、MIHI先生にも
ああいう面があるのかなー、などと考えてしまいます。あと、北氏の場合、私が好きなのは山の話です。前にも書いたと思いますが、「白きたおやかな峰」という本が好きなんです。ムササビ先生の話は以前も出ていましたが、また笑ってしまいました。医局の試験の話もなかなか・・・でした。前ちょっと書かれていたラジオの・・・風の文章も期待しています。

93/08/08 23:57:39 M 医局記読ませていただきました
 毒とるMIHI医局記(1)(2) 医学・医療界の内幕というべき近年それらの問題が決して個別的ではなく、大きな命題のもとに発せられていることと思います。ある程度ベットを抱えた病院ともなると、1名の医師では病院は機能しないこと。複数の勤務医(大学の医局人事による移動)に頼らざるほかない。隠岐海峡、周防灘、関門海峡を渡って響灘とやってくる勤務医は様々。裏日本に位置する病院へ派遣された医師の背景。何となく活気がない。医師と接する機会の多い医事職員、大きい病院ともなると医事課長のポストが2つ。電算課長から医事課長へ、医事課長から施設課長へと、細川新内閣をあてはめてもおかしくはない。(世代交代が著しい)医局会議で名指しされる事務職員。
「こいつ、弱っとるやぁー」 賞与の査定はいかに。

93/08/09 00:20:13 A 医局記 とってもおもしろかったです。
 いやはやお医者さんは大変だ。「ご臨終です。」を告げるところなどはとく大変そう。私は そういった場面に立ち会ったことはないのですが。でもMIHI先生みたいな先生がいると 病院も楽しそう・・・患者さんも 看護婦さんもぉ (`。^)(^。^)(^。^)医局記はつづくのかなぁ?

93/08/12 13:39:52 B 医局記、
 プリントアウトして、職場に持って行きました。みんな、くすくすっと笑いながら読んでいました。(所長まではまだまわっていませんが)好評ですよ。

93/08/13 12:41:20 D 医局記
 真剣に?読みました。全く患者の家族の立場で,父,母を亡くしてまして,全く医局記のとおりで(病院を一周したかは知らないですが・・),家族から医者の立場にたって見るとそうなんでしょうね!10数年前に母を亡くしたときは,担当医が医者に成り立てというか若い人で全くオロオロしていて,看護婦さんに促されて処置してたのを覚えていますが・・いまでは,立派な医者になってるんでしょうね!ただ,いつも医局にいて,この人はいったいいつ眠っているのだろう・・ってちょっと心配になるくらいのハードな仕事だと思います。看護婦さんもそうですが・・・(某企業の健康管理所はどうかな?)とてもハードな仕事で,なんといっても人命と直結していますので苦労もたいへんだと思います。改めて感謝!Dでした。

<毒とるMIHI医学生編>
教養課程編(1)ある山口の病院で同級生同士がはちあわせ

 冬になると体育の授業はアイススケートかマラソンのいずれかを選択します。
M君はアイススケート授業の最後の日、スケートリンクの端から端まで一気に滑ろうとしました。
もう少しでゴールと言うところでスケート靴は宙を舞い、力いっぱい後頭部を氷にぶつけてしまいました。
倒れたM君に集まった友人たちが聞いた言葉は、スケートリンクの様に友人たちの心を凍りつかせるのに十分でした。
「大丈夫、大丈夫。ここ何処だっけ?。下宿へ帰らなきゃ。」
そう言うと、M君はスケート靴を脱ぎ始めました。
「M!病院行こうな。」
「どうして?。」
「ま、いいから。」
「そうか?。」
 バスの中、付き添った2人の友人はM君の記憶が戻らなかったらどうしようかと思ったそうです。
 病院に着いた頃、M君の記憶は戻っていました。
 院長の言葉を聞いた3人は、顔を見合わせました。
「えらく医学部の学生がうちの病院に来るもんじゃなー。昨日入院したのはあ んたらの同級生じゃないか?」
 名前を聞いたら確かに同級生でした。そういえば今日はいなかった、ということで病室へ。
インド人のターバンみたいに頭を包帯でぐるぐる巻にしたF君がベッドにいました。
「どオしたんや?。」
 友人としたたか酒を飲み自転車の二人乗りで帰る途中のことだそうです。
自転車からこぼれ落ちたF君は、路肩で頭をうって記憶が薄れて入院したらしいのです。
 頭をうって、一時的にせよ記憶を失った医学生がはちあわせするとは!恥ずかしいったらありゃしない。
 そこへ入ってきたY院長先生、
「おまえらもう帰れ。なんちゅう後輩じゃ。」

 卒業後にネオン街で、ぐでんぐでんに酔ったそのY院長とすれちがったんです。
”院長先生!転んで頭うたないようにねー。”と、私は呟いたんですよ。

教養課程編(2)値切った友人達

 冬休み間近でした。
化学の試験も終わり、数日後には帰省する前夜。
悪友7人組はK君の下宿に全員集合。フェアウエルパーティにつきものは、”値切り”でした。
酒屋、ダイエーにペアで出発しました。
<酒屋にて>
「ビール30本とレッド1本。」
「はいよ。」
「おばちゃん、まけてんか(彼は和歌山出身で大阪弁です)。」
「コップならあげるけど。」
「ええわ、そやったら、別なモン無い?。」
「ピーナッツじゃったらすこしは。」
「しゃあないなあ。じゃ、コップ3個とピーナッツにしとくわ。」
「ええー!。」
「M!ちゃんともらっときや。まいど。おばちゃん釣り20円はええからな。」
「あんたら、どこの学生さんね?。」
「経済(ウソついてご免なさい)。」
「しっかりしてんのね。」
「あ、そうですかー?。どうも。」
<ダイエーにて>
1階でおつまみを買った後、
「ひげそり買いに行くわ。ここで浮いた金でサバ缶買おうや。」
そこで、電気売り場で
「このひげそり下さい。」
「はい、3980円いただきます。」
「まけてくれんの?。」
「ええ、ちょっとそれは。」
「ああっ。おにいさん、これ傷がついとるし3500円にしようやー。」
「いえ、新しいのとお取り替えいたします。」
「いや、これでええから、3500円でええわ。どうせ売れへんのやから、ええやろ?。ダイエーもその方が得やんか。」
「上司に相談して参りますので、少々お待ち下さい。」
少しして、
「3500円で結構です。」
差額はサバ缶4個、サンマ蒲焼き缶2個になりました。
後にも先にもダイエーで値切ったのはこれきりでした。ホント。
<感想>
--------------------------
93/09/08 22:53:23 かん res>毒とるMIHI医学生日記
(1)(2)楽しく読ませてもらいました。特に(2)の方は思わず笑い声が・・
パソコンに向かって、と思うとちょっと・・・(^^;私も学生時代 学園祭の打ち上げで胴上げ中に滑り落ちて頭を強く打って救急車で病院に運ばれたという友人がいます。今ではすっかり立派になっちゃって東大で助手かなにかをやってます。あの時頭から落ちたのがよかったのでしょう。ひょっとしてそのMIHI先生のお友達も今はすっかり名医になっておられる!?私も学生時代まけてもらった訳ではないのですがタダ風呂に入ったことがあります。パソコンでプログラミングかなにかをしていた時だと思うのですがもうパソコンの前から離れられなくなって面倒だなと思いながら銭湯に行ったのですが帰ってみると持って行った財布の中味が減っていないような自分でも自信がないんですよね。日常の行動でどうも・・わざとという訳ではないのですが何かに熱中しているときはついつい別のことがおろそかになってしまい、時々とんでもないバカをやって・・。ということで話がそれましたが続編期待してます。>MIHI先生            か  ん
--------------------------
教養課程編(3)コーラの蓋を口で開けようとして失敗した友人

 F君は空手部で、頑張っていました。
 実家はお寺で、弟さんがあとをとっているらしいのです。
彼が夏休みに帰省すると、檀家回りの手伝いがあって忙しいと言ってました。彼は生粋の九州男児です。
 ここで申し上げておきますが、私達の学生時代に飲んだコーラはほとんどが瓶に入っていました。
現在のようにプルトップやプラボトルは有りませんでした。
 コーラの栓を開けようとしたとき、どうしても栓抜きが見つかりません。
「わしに、かせや。」
おもむろに歯で、
”ガジッ!”と言う音と共に下唇から血がだらだらと・・・・
「ほれ、開いたぞ。」
F君の口も差し出したコーラの口も、赤いモノが付いてました。
のぞき込んだK君は「あ、血がでよる!。」
F君は慌てず騒がずタオルで抑えて、
「だ、大丈夫や。」
K君は、
「病院へ行こうや。保険証は俺のがあるから。」

 数人の酔っぱらい集団がF君を先頭にS病院へ到着したのは、夜の10時を過ぎてました。
F君が当直医が空手部のOBであるのに気付いた時、椅子から腰が浮いていました。
「F!おまえこんな所でなにしとるんや・。」
「お、オスッ。ちょっと酔っぱらって、ころんで・・・。」

 まさか、コーラの栓を口で開けようとしたとは言えません。
「アホなやっちゃ、麻酔は無しじゃ。看護婦さん!縫合!。」
「オスッ。」
カルテに目をやった先輩は、
「おまえ、いつからKになったんか?。」
「ふぁ?。」
「まあ、ええ。」
無事、3針縫合して帰りました。
「帰ったらアルコール消毒せにゃあ。」
大宴会の翌朝、F君の唇には縫合糸は残っていませんでした。
目覚めると、彼の枕は赤く染まっていたそうです。
しばらくは、2つ折りの座布団が役に立ったと言ってました。

教養課程編(4)おしっこで恥ずかしい2題

<道場門前にて私とM君の場合>
 空手部のM君とは仲が良くって、一緒に酒を飲むことが多いんです。
ホントに良い奴なんですが、酔うとところかまわず空手の練習をするのが欠点です。
 ある夜のことです、道場門前(山口市で最も賑わう繁華街です)を二人でほろほろと歩いていました。
「おい、酔ったな。」
「ああ。」
「小便しとうないか?。」
「ああ。」
「何処まで行けるか、やってみようや。」
 私はその意味がすぐ分かりました。すでにチャックに彼の手が掛かっていましたから。
そして、断る気持ちになれなかったのには理由がありました。
その少し前、「トオリャー!!。」といってボコボコになったみじめなブリキの看板を見てしまったからです。
もしも断ってあのブリキの看板のようになってしまうのではないかと思うと、とても断れなかったのです。
2人並んでチャックを下ろしました。せめてもの救いは歩いている人がいなかった事です。
後に残ったのはアンモニア臭のきつい2本線だったことから、2人が何をしたかは想像がつきますよね。
商店街のみなさんごめんなさい。
 翌日、道場門前を二人で歩いていると悲惨な看板は片づけてありました。
「何で、わしの両手こんなに内出血してんのやろ。お前、知っとるか?」 
どうやら、2本線を書いた時には記憶が途切れてたようでした。私はしっかり覚えてます。
<パトカーのボンネットに放尿した先輩>
 当時、学生の足は自転車と相場が決まってました。
 自転車でも矢張り酔っぱらい運転は違反ですよね。これは聞いた話です。
ある先輩が湯田で飲んだ後、自転車に乗ってふらふらしながら下宿へ向かっていました。
挙動不審なその先輩に気づいた警邏中のパトカーは、運転停止を求めましたが無視。とうとう行く手を閉ざされました。
「おい、ちょっと待て。」
「あ、わしのこと?。」
「酔ってるじゃろ?。」
「あ、漏れるー!。」
何を思ったか、小走りでパトカーのボンネットに向かってました。
臭いのきつい蒸気がライトに浮かんだそうです。警察官は一瞬ひるみましたが気を取り直して先輩を逮捕。
そのまま警察へ直行し、1泊したそうです。翌朝、苦虫をかみつぶした学部長引き取りにこられたそうですよ。
今は立派なお医者さんです。念のため。

教養課程編(5)タバコ屋の赤い旗とケロヨン人形
 「酔うと何をしでかすか分からない輩っていますよね。」
月は、物知り顔に言いながら道場門前を照らし始めました。
 M君とK君は土曜日に試験を終えて、道場門前の大衆酒場でしたたか飲みました。
酒1合80円。焼き鳥1本20円。おでんも1つ20円。500円あれば結構。
のれんをかき分けて店を出る頃には、夜中の2時をまわってました。
「M!あれ欲しいやろ?。」
「ああ。」
 Kが指さしたのは白字で”たばこ”と染め抜いた、誰でも知っているあの赤い旗でした。
2人でやれば、外すのはとっても簡単でした。
 数日後、そのタバコ屋さんには真新しい赤い旗が翻っていました。
これを見たKとMは、ある夜、素面で古い旗と新しい旗を交換してしまったのです。
タバコ屋さんの例の古い旗は2度と外せないように針金で結びつけてありました。
 またまた、ある夜のことです。と、月はあきれながら話し始めました。
「M!あれ欲しいやろ?。」
「ああ。」
 それはY薬局の前に立っている、お馴染みのケロヨン人形でした。
ご存じとは思いますが、ケロヨン人形の下の部分はコンクリートを錘にして倒れないようにしてあるため下宿へ持ち帰るのは2人にとって重労働のようでした。
 翌日から、M君の下宿の入り口には番犬ならぬ番ケロヨンが、訪れる同級生たちを出迎えました。
 それから数週間後、矢張り薬局の前には真新しいケロヨン人形が到着しました。
当然、数日後の夜に入れ替わったのは申し上げるまでもないことです。
しかし、このケロヨン人形は、下宿のおじいさんの「Mさん、入り口にエエモンがあるのー。」と言う一言で夜中にY薬局へ帰りました。
その日からY薬局の入り口にはケロヨン兄弟が並ぶ事になりました。

彼らの行動の一部始終を見ていた月がこう語ると、
 ”ほーっ”とため息をつきました。

 アンデルセンの「絵のない絵本」みたいな語り口になってしまいました。

専門課程編

専門課程編(1)解剖実習とホルモン焼き

 専門課程の1年目のメインイベントはなんと言っても解剖です。
 元気をつけるには、宇部中央のホルモン屋Kが一番です。
解剖実習の教科書を持って、体中からホルマリン臭を放ちながら晩ご飯。ホルモンの並は1人前150円。
3人前で直径30cmの皿に一杯です。安い各種臓器がちりばめてありまして、どんぶり飯とキムチが一緒に並びます。

 交わす会話と行動はと申しますと、
「こりゃ、ラング(ルンゲとドイツ語で呼ぶ人もいた=肺)やね。
さすが空気が多いわ。焼くと泡出るもんね。」
 箸で肺をタレの中で抑えると、じゅわーっと熱で膨張した肺胞の空気が出てきます。
古くなったスポンジを食べてるみたいで、お世辞にも、美味しい物とは言えません。
「こっちは、キッドニィ(=腎臓)だね。アンモニアの臭いあるし。」
と言いながら、「通は”まめ”って言うんだよね。」と、焼いた奴の臭いを嗅いでしまうのは、将来の臨床医の素質充分です。
「スプリーン(=脾臓)はレバーより旨いじゃん。」
「このヒダは、ダルム(何故かドイツ語=大腸)やね。ヒダは焦げ易いから焼くのが難しいんよね。
ささっと焼けば良いんよね。」と、ヒダを箸でつっきます。
つっつきながら、ヒダを丹念に広げるのです。フツーの人はしませんね。こんなこと。
「これヘルツ(これもドイツ語=心臓)じゃね。死ぬまでずーっと仕事してるからコリコリしてうまいんよねー。」と、訳の分からぬ事を言うのです。
しかも、こんがり焼けたヘルツを噛みながら、肉の弾力性を口の中でチェックします。
”げふっ、食ったー。”と言って、1人840円払ってのれんかき分けました。
「ブレイン(=脳)って、旨いんやろか?。中華で、猿の脳味噌料理あるよね。
高級料理やろ?あれって。ホルモンの上とか並には入っちゃおらんね。
あれ豆腐みたいだし、揚げだし”脳”!なんてね。
牛の脳を揚げるの大変じゃろうね。ううっ、ちょっと気持ち悪いんやない?」
「あした解剖の帰りに食べに来て、おっちゃんにブレイン有るか聞こうか?。」
「それよか、あのホルモン、犬や猫は入っとらんのやろか?
病理組織学的な検討が必要なんとちゃうか?。」
「旨かったし、安かったし。わし、どっちでもええわ。」
ここまできたら医学生OKかな?

専門課程編(2)薬理学実習と食べられてしまった動物たち
 薬の作用の実験は、医学部には欠かせない実習です。
薬理学の実習動物は、ラット、蛙、モルモット、が中心になります。
しかし、実験の後の宴会に出場する動物となると、話は違います。一番人気は兎、二番人気は蛙です。

 実習動物の場合、重宝されるのは薬物実験をする前に絶命したケースです。
何せ、薬を使っていないので安全ですから。
実験後の場合は、使用薬剤の安全性の確認は本気です。
自分達が、実験動物と同じ運命をたどることだけは回避しなくてはなりませんからね。
この時に会得した薬物に関する情報は、生涯決して忘れることは有りません。
でも、「この薬は人間が食べても死ぬことはない」なんて、あまり役に立ちそうも無いことですが。
 ここで彼らの味についてお話しておかねばなりません。
 兎は肉が堅いので、煮込みが一番です。甘辛く、とうがらしを入れるとなかなか。
これの唐揚げは、お年を召した鳥と同じ味がします。蛙はもちろん空揚げです。
へたな鳥の空揚げよりジューシィで、まったりとしたこくがあります。レモンなんかを搾ると、あの姿からは想像の付かない旨さがあります。
モルモットのつぶらな目を見ると、どうしても口に入れる気にはならず、味は知りません。本当です。
 そうそう、教養課程ではサメの実習もあります。
でも、みんなは知っているんです。
サメは焼くとアンモニアの臭いがきつくてとても食べられる代物ではなく、味噌煮なら辛うじて酒の肴になることを。
だから、サメは余り人気が無いのです。サメで唯一の人気は、三半規管です。
3つのつながったリングはティファニーのペンダントよりも美しく、弱々しく、いとおしいものなのです。
 えっ?兎を食べた後はどうなったかって?やはり気になりますよね。
 ちゃーんと肉は腹に納めて、毛皮は下宿の階段の壁にある金網に張り付けてました。
そろそろ襟巻にと思った矢先に、近所の犬がくわえて走り去ったそうです。
友人(決して私ではありません。念のため。)は、必死で後を追いかけましたが逃げられてしまったそうです。
彼の下宿に行ったとき何度も見た毛皮はりつけ用の金網には、ムササビ姿の兎は消えてました。
薄汚れた兎の毛が僅かに残っていたのが、哀れを誘ったと言ってました。あの犬の毛皮を作ってやる!と呟いたとか。
彼がその犬を食べる気があったかどうかは、定かではありません。

専門課程編(3)ガラスを突き破った友人達

 専門課程で勉強のために徹夜の練習をするのは何と言っても病理の実習です。
 病気で亡くなった方とご遺族のおかげで、身体を蝕んだ病気について臨床と臓器と組織の総合的な研鑽を行うのです。
2週間、数人で1つのグループを組んで行うものですがこの2週間の間に結論を引き出すのは、いくら時間があっても足りない位大変な作業なのです。
当然、夜を徹する事が多くなります。
顕微鏡を見すぎて吐き気に襲われる奴、保存臓器のホルマリンに酔って?自転車での帰り道、真締川(医学部の前を流れる川です)に落ちてしまった奴がいました。
 I君は真面目な医学生の一人でした。参考書は英語じゃなくてはどうしても気が済みません。
今日は実習最終日、明日は発表という夜のことでした。
いつも真面目なI君はまとめあげて、ほっとしていました。分厚い参考書を抱えて明け方の4時、研究棟を飛び出そうとした時です。
生憎、その日はガラスの扉が念入りに磨かれていました。
 ”グワッシャーン”すさまじい音が明け方の研究棟に轟き渡りました。
居残りの学生と病理学教室の先生が、すぐさま駆けつけました。
ぶつかった拍子にはずれて粉々に割れた入り口のガラスの扉と、顔面から血を滴らせて倒れているI君を見て、皆は声が出ませんでした。
気を取り直した気丈なI君は病棟へ歩いて行き処置をしてもらい、頭に包帯を巻いて実習に望みました。
 発表は無事終わりました。
 教授の最後の言葉は「今回の実習は高くついたなー。」でした。

 もう一人ガラスのショーウインドーを突き破った友人がいました。彼はバスケットのレギュラー選手。
 山口には古くからGと言うケーキ屋さんがあります。コンパの3次回でGに行こうと言う事になりました。
甘い物は苦手な彼でしたが、優しい彼は女性マネージャーのリクエストに答えて、嫌な顔もせずに先頭グループを歩いていました。
少し酔った彼は、Gが見えたとたんに何を思ったかドリブルの格好をしながら走りだしたそうです。
 ”グワッシャーン”
 あわてて駆けつけた友人達がみたものは割れたショーウインドーに頭から突っ込んだバスケット選手でした。顔を数針縫って無事退院しました。
 彼は今、親父さんの跡を継いで立派な院長先生です。
 山口に住むようになって、そのGと言うケーキ屋さんの前を通るとガラスを
突き破った2人を思い出して頬が緩みます。

-----------------
<感想>
93/09/23 00:07:51 かん res>毒とるMIHI医学生日記(3)
>顕微鏡を見すぎて吐き気に襲われる奴
 これって私ですね(^^)。 どうも顕微鏡が苦手で(^^; 特に両目で見るタイプの顕微鏡が苦手です。サンプルを観察してからしばらくの間はどうも気分が悪くなって。最近はちょっとコツを覚えてきました。サンプルを移動するときあまり速く動かすと目の前が酔易いようです。きるだけゆっくり!!
    しかしバスケット選手の方 何を思ってケーキ屋に(^^)。
----------------
専門課程編(4)JAZZと医学生達について

 JAZZと言うと私には、語らずにいられないU君がいます。
 U君は、教養課程時代は山口市の湯田にあるJAZZ喫茶”ポルシェ”と教室、そして下宿しか生活空間を持たなかったと言って過言ではないでしょう。
朝は授業にでると、昼食は焼き飯を食べ”ポルシェ”へ行くのが日課でした。そうでないときは軽音楽部の練習の日々。

ある日突然右利きが左利きになったのです。
私は向かい合って食事をしている時に気付いたのです。左手で一生懸命箸を使って鯖煮定食をつついているのを見た私は、
「おまえ右手痛いんか。?」
「いいや。これからは左利きにするんや。」
「何で?。」
「ベース弾く時、格好ええやろ。」
「ふうーん。」
 スリムな彼は少し猫背になって、歩く時はいつもちょっとスイングしていました。
その後、彼は両手使いを応用して眼科医になりました。
数年後、風の便りで小児科医になったことを知りました。時々いるんですよ専攻が変わる奴が。
現在皮膚科の開業医K君も、数年間循環器の医者をしてたっけ。
 先日会う機会があって、JAZZのライブを見ながら飲んだ時に言ってました、
「循環器やってたら身体もたへん思てな。そやから皮膚科にかわったんや。」
JAZZは好きみたいですよ。何せ、教養課程は軽音楽部でサックスをしてましたから。専門課程では彼は卓球部で活躍しましたけど。
 今は大阪市内で皮膚科医として活躍してます。

専門課程編(5)主治医より医者らしく見えた実習生?

 臨床実習が始まると学生は全員がネクタイを締め、真新しい白衣を着て病棟へ乗り込みます。
一方、卒業したての医者は先輩にこき使われて、Yシャツの洗濯が間に合わないことがあるのです。
ですから、ネクタイ無しのポロシャツに、よれよれの白衣であることは日常茶飯事です。
ベテラン患者さんの時は滅多に有りませんが、ニューフェースの患者さんの時にはちょっとした事件が起きるのです。
実習生が長い浪人生活を送り、かつ新米医者が現役合格者であればなおのことです。
大学病院と言うところは、新米医者には必ず指導医が付いています。
指導医、新米主治医、実習生の間で事件が起こりました。
 患者さんはお年寄りのJさん。脳血栓で入院してきました。主治医は新米医者のT先生。
その指導医は卒業4年目のS先生。実習生は5浪を経験したF君。つまり年齢が若い順に主治医、指導医、実習生だったのです。
J「先生、左手がしびれて物が掴みにくいのですが。」
T「脳血栓ですからねー。」
J「どうしてでしょうねー?」
T「ですから、脳の血管が詰まったんです。」
J「どうしてでしょうね?先生!。」

 ふと気がつくと、視線はT先生を越えてF君へ。F君困って目はT先生へ。そこへ指導医S先生。

J「あなたも学生さん?。」
 S先生は童顔だったのです。F君は身長180cmでたいそう立派に見え、その上老けていたのです。
「T先生!ちゃんと説明してあげなさい。」と言ってS先生は消えました。
介助していたナースYさんが、
「Jさん、貴方の主治医はT先生ですよ。」と、助け船を出したまでは良かったのですが。
J「そのくらい分かりますよ。ネクタイの先生でしょ。」
Y「ええっ。あのー。」
T「また今度にしよう。」
 この間違いは、Jさんが脳血栓であるが故じゃないことは明らかです。だって、後に別な患者さんで同じ様な事件が起きましたから。

 特にと言うわけではないのでしょうが、医学部と言うところは、往々にして年齢の順番と卒業の順番に番狂わせがあるようです。

大学院生編

<大学院生編>パトカーを先導しつつ酔っぱらい運転

 殺人罪でも15年で時効ですから、もうお話ししてもよろしいでしょう。
 仲良し大学院3人組、別名ブー、フー、ウーは今日も今日とて研究室でお勉強をした後は仲良くネオン街へ。
少しよろつく足どり3軒目。さあ帰ろう!が1時30分でした。
研究室に大事なものを忘れたのに気付いたK先生は、
「ちょっと、病院に行って来るわ。」
「今からか?酔って無いやろなー?。」
「大丈夫、大丈夫。キーも、ほれ、ちゃーんと。」
始動一発。エンジン快調!安全運転?を始めた直後、暗闇からパトカーがついてくるではないですか。
「そこの車止まりなさい!。」
 K先生、あわてず騒がず(内心は死にそうだったらしい)停車。
警察官が近寄ってきたがドアロックして窓をすこーしだけ開けました。
警察官は中を懐中電灯で照らしながら、
「酔っぱらい運転やろ!。」
「大学病院の医者や!緊急電話で患者さんの容態が急変したんで急いでいくところじゃ!
早く行かないと患者さんが!!。間にあわん。」
「それじゃ、パトカーで先導しましょう!!。」
K先生、断れずに、
「早くお願いします!。」
 2台の車が無事病院へ着くと、K先生は病棟へよろけながら走り込んだそうです。
5階の病棟で酔いを覚ましながら下を見おろすと、K先生の車の横には先程のパトカーがいつまでも待機していたそうです。
下宿へ帰ったのは明け方だったとか。

<先輩編>一方通行を逆行した先輩に、お巡りさんが謝った

 宇部空港へ出発の朝のことでした。
朝8時は通学時間です。いつも通っている道が、一時的に一方通行となることは良くありますよね。
 私はW先輩の車に乗っていました。小学生の集団をやり過ごしながら快適に走り、大通りに出る寸前お巡りさんに停車を命じられました。
「ここは一方通行です!。」
W「誰が、何時決めたんじゃ!わしゃここの住人じゃ!わしゃ聞いとらんぞ!頼んだ覚えもないし。」
「でもですねー。」
W「わしゃ宇部医大のWじゃ、この上で何十年も住んどる。署長を呼べ!。学会は遅れてもしょうがない。」
「ここに車を置いては困ります。」
W「じゃから、署長を呼べ言うとろうが!。」
「すいません。早く行って下さい。」
W「ま、今回は勘弁しとこう。気をつけなさい!。」
「ハイ、スイマセン。」
 助手席に乗っていた私は、何が何だか分かりませんでした。
 バックミラーには、真っ赤な顔をしたお巡りさんの顔が見えました。
W先輩は私の研究指導をしていただき、今は大病院の院長先生です。

<研究室編>めざしとスルメのハーモニー

 今でこそY先生は少し酒を飲みますが、私が大学院生の頃は、
「酒を飲む時間があったら、文献でも読んだ方がいい!。」位の人でした。
ところが、何故か酒の肴とお茶の組み合わせは、大好きでした。
ことに、めざしとスルメには目がありませんでした。
「焼こうかね。」
 この合図で実験用のこんろに餅焼き網を乗せます。
大学病院の裏には小串通りと言う商店街の並びがあります。
大学院生のランクでは奴隷の私が先程買い出しに行ってきた、めざしとスルメが網の上に並びます。
(注:当時、”花の応援団”風に、下から順にゴミ、奴隷、人間、神様でした。ただ、ちょっと違ったのは、大学院を卒業すると全て凡人になる事でした。)
待ちかねて、
「まだかね。軽くあぶったらええんよ。勉強せん上に、焼き方もあかんの?。両方教えんとダメか。」
 食べ頃になるとかぐわしい香りが、研究棟の廊下に流れ出します。
「なんか、ええ臭いがしちょるけど?。」
 かぐわしい香りに誘われて隣の部屋の、別の科の講師N先生が入ってきます。
「M先生(いくら奴隷でも対外的には医者でした)、少しだけ分けてあげたら。」
「少しとはケチじゃね。同級生の言葉とは思えんのー。」
「わがままな同級生じゃねー。M先生、お茶も出してあげてええよ。」
こうしてにわかに、お茶会が始まります。時には、N先生の催促もあるんです。
「今日はめざしもスルメも無いんかいのー。」
「たまにゃあ、自分で持ってこにゃー。」
「神聖な研究室に酒の肴を持ってくるなんて、ふとどきなことわしゃできんのー。エエ臭いがしたらまた来るわ。」こう言って去ります。
 N先生に差し入れをしていただいた記憶がありませんが、食べに来られた記憶は数えればキリがありません。

恩師編

 恩師はいつも恐い存在です。恩師はいつも威厳を保っているものですが、時に油断を召されることがあります。しかし、その油断をかいま見るチャンスはなかなかありません。

<M教授の場合>
 私が入局した頃、M教授が怒るのを見ることはありませんでした。先輩達の話を聞くと、「廊下の遥か前方にM教授を見つけると、通り過ぎるまで何処かの部屋に入るなりトイレに逃げ込んだもんだ。」とか、「教授回診のある前の日は緊張して寝つきが悪くってイケナイ。夢の中で、教授に何回も怒られた。」とか、挙げ句の果ては、「学会発表でヘマをしでかすと、頭を丸めるだけじゃ済まない。」等など。

 大学院の1年の夏の事でした。
F先輩は、「Mちゃん、教授のところへ行って、今年はいつ招待があるのか聞いて来いや。」と笑いながら私に言うのです。
「招待って?教授がですか?教授を招待するんじゃなくてですか?。」
「当り前よ。教授がわしらを招待するんよ。」
「で、どうして僕が・・・・。」
「ええから行ってこいや。」
「でも・・・・。」
「行け。」
「ハア。」
教授室をノックすると、
「ハイ。」
「失礼します。あのー。」
「何かね?。」
「F先生が、今年の夏は、あのー。何時でしょうか?って、聞いてこいって。」
私は緊張の余り口が乾いて、これ以上は喋れませんでした。
すると、M教授は笑いながら、
「ああ、それじゃ来週の土曜日にしよう。」
あっけなく決まってしまった。
「ビールを持ってきなさい。去年と同じ樽でいい。」
「ハイ、そうします。」
汗びっしょりになって研究室に戻ると、
「F先生、教授は来週の土曜日がよろしいと言われてました。」

当日は、全員が打ち揃って2本のビールの樽を抱えてM教授宅へ。
「おおう、よしよし。持ってきたか。」
笑顔のM教授ご夫妻が我々をお出迎え。

ビール樽を開けて乾杯。宴会は賑やかにスタート。M教授はビールをぐいぐい。M教授の奥様「貴方、ほどほどにしませんと。」
M教授「わかっとる、わかっとる。」と、ビールをぐいぐい。ちっともお分かりになっていらっしゃらない。M教授の健康を考え、奥様は料理を作られている御様子。今日だけは、肉魚がふんだんに登場。「塩気はええか?。こしょうはええか?。肉は?。」とM教授。「どんどん飲みなさい。」
満腹になる頃、御機嫌のM教授は、
「君達は教養が不足している。音楽でも一つ。知っとるか?これこれ。」
A先輩はM教授に聞こえるような声で「アイネクライネ・ナハトムジークやろ。出た出た。睡眠時間じゃ。こういう時に気の利く後輩は、ウイスキーもって来るんよねー。気のきかんやっちゃのー。」
「ど、何処に?。」
「あそこが格納庫や!。一番高そうな奴を持って来い。」
M教授、そんな声は気にもとめず、
「まあ、聴きなさい。アイネクライネ・ナハトムジークじゃ。」
皆「やっぱし。」
こうして夜は更けてゆきました。

「飯を食べんかね?。」
 で、おいしい漬物と白米。実は、M教授普段は奥様の方針で玄米を召し上がっていらっしゃるらしいのです。今夜は、M教授、力いっぱい白米を。
この風習はM教授が退官されるまで続きました。

<K教授の場合>
 かつて体験したことのない試練が待ち受けているとはご存じなく、赴任されたK教授の初めての夏。

「ホオ〜、Mちゃん。良く勉強するね〜。」
うっ、これは何か有る!F先輩の優しい言葉、後を聞かなくても絶対にヤバイ。
「はいっ。何か?」
「そろそろ、ええんやないの。」
「はア。なんでしょ。」
「教授の招待よ。」
うっ、やはり!
「コーヒー持っていって。何時ですか?って聞いてこいや。」
「ボクがですか?」
本箱の裏から無責任な援護射撃のO先輩。
「当たり前やないか。あんたしかいないの。」

 K教授は吟味した豆と水、そしてサイフォン。全てご自分でされるコーヒー通。いい加減な豆、カルキぷんぷん水道水。サイフォンだけが一緒。味はぜ〜んぜん違う。可愛い医局員が持ってくれば、最大限の優しさで口を付けざるを得ないK教授。

コンコン。
「失礼しまアす。Mです。コーヒー持ってきました。」
K教授は苦笑いで、「あ、有り難う。どうぞ。」
コーヒーを置いてもなかなか出ていかないMに、
「何か?。」
「ハイ。実は前のM教授は・・・。」
大学院生の分際で、教授に向かって招待しろとは言いにくい。
「遠慮しないで言いなさい。」
「ハイ。大学院生は毎年夏にですね。あのー、招待していただくと言うことになっていまして・・・。」
「私が、皆さんを招待ですか?」
「いえ。あ、はいそうです。お宅の方へ。」
「はははは、結構ですよ。どうぞ。じゃ、来週の土曜日。娘も帰っていますからちょうど良い。」
「失礼しました。ビールは樽を用意しますので。」これが精いっぱい。
「来週の土曜日だそうです。」
「よ〜し。だいぶん度胸がついたやないか。これなら国際学会も楽勝じゃ。」
<オイオイ。何を根拠に無責任な。>

 K教授は実験用のアルコールの臭いをかいでも、気分が悪くなる程。下戸なわけでして。いちごショートケーキとビール樽を携えて、K教授宅のドアをノック。
 K教授を先頭に、奥様と笑顔でお出迎え。
「今日はご招待いただきまして、有り難う御座います。」
奥様は、「良くいらっしゃいました。初めてのことなのですが、どうぞどうぞ。」
 やはり、普通は逆でしょうね〜。ひるむことなく侵入すると、テーブルの上にはごちそうが山盛り。
「ビールを持ってきなさい。」
「はい、あなたはこれ。」教授の前にジュース。
「オーディオ凄いですね!」
「君は分かるの?」
「はあ、少し。」
 笑顔での説明は、アンプの出力や真空管の音の暖かさ。果ては、バスレフスピーカーに至るまで。理解を超えた我々は、箸だけが一心不乱に仕事をしているワケで。全員の耳は、最初から休憩状態。

「そろそろ、ピアノでも。」
一瞬静寂。お嬢様登場!
「何か弾いてさしあげなさい。ショパンか何かを。」
 演歌なんかがお酒には良いんだけど、言えないなー。「津軽海峡冬景色」が最高だけどなー。なんたら言う静かな曲が、部屋中を充満してしまった。ま、まずい!居眠りするのは、演歌好みのF先輩。ピアニッシモになると、「ンゴー」が顔を出す。Mの足はテーブルの下で空を舞い、もう一人の「ンゴー」O先輩の足に見事命中。続いてF先輩の足を襲う。その瞬間、「ンゴー」合戦は休戦へ。

「やはり、良いですね。ショパンは。」この一言で、どうやら演奏が終わったらしいことを察知。Mはみんなの覚醒を誘う拍手。うとうと組は、少しタイミングを外してパチョパチョと拍手。
「ビールがありませんね。洋酒で宜しければ、押入に色々あると思いますよ。お好きなのをどうぞ。」もう少しで「その御言葉をお待ちしてました!」って、口走るところでした。目覚ましとして十分な効果。扉を開けると見たこともない洋酒。両手と脇を使って、高そうな奴を4、5本。K教授は延々とジュース。酔いが回って、
「先生、ジュースよりこのウイスキー飲みませんか?まろやかですよー。」
「いや、ボクは。」
 夜中の2時にお開き。残った高級ウイスキーは、ドアを開けるとき1本落下。玄関一杯のアルコール臭で、むせるK教授。睨むF先輩。
 K教授の階下にお住まいの、某助教授。
「こないだの夜中、騒いどったんあんたらやろ!」
「すんませ〜ん。」
「K教授の奥さん、楽しかった言うとったヨ。」

 この良き習慣は、現M教授のお宅でも続いているのだろうか。

<海外学会編:テキサスの巻>

<インディアンのおばちゃんと仲良くなったこと>
 私が大学院生の時、テキサスのヒューストンで学会がありました。
私は共同研究者ということで、W先輩と二人でアメリカ大陸にのりこみました。
「質問があったら、わしの代わりに答えるんぞ。」なんて、プレッシャーは聞こえないふり。
発表は勿論、W先輩。私は、どこどこは何が美味しいとか、あそこは見に行かねば等、完全に物見遊山気分。
 途中でサンフランシスコのメディカルセンターの研究室に数日間見学しました。
この時くらいですね、緊張したのは。
先輩の友人にホテルを予約して貰ったら、フィッシャーマンズ・ワーフの結構高いホテルに泊まることになりました。
経費を節約しようことになりまして。晩の食事はケンタッキーフライドチキンとリンゴとビールが多くなってしまいました。
あれ以来、私はケンタッキーおじさんことカーネルサンダースに風貌が似通ってしまったような気がします。

テキサスでの発表も無事終わって、
「外人に教えてやったー。さあ遊びに行こう!。」(ホントは私たちが外人なのに)
 インディアンリザベーション(居住区)へ、レンタカーでドライブ。
 公園に立ち寄ると、この土産物屋にはインディアンのおばちゃんがいました。
ちょっと見ると、どこにでもいそうな浅黒い日本のおばちゃんとしか見えないのです。
「あんた達、何処から来たんね?。」
「日本じゃけど。」
「あたしゃ63才じゃけど、日本人見たんは初めてよ。」
「そうね。このベルトまけてえね。」
「あかんよ。」
「わざわざ日本から来たんよ。」
「しょうがないね。ハンカチサービスしとくよ!。」
「おばちゃん、有り難う。」
 大体こんな会話(一応、英語です)で、インディアンのおばちゃんと仲良くなりました。
学会の内容は思い出せません。

(おまけ)晩ご飯はロデオを観ながら

 学会の計画したツアーは、さすがにテキサスだけにロデオを見ながらの夕食でした。学会終了が19時。
リムジンバスに乗り込んだ一行は、ハイウエーで一路ロデオ見物出発!とまではよかったのですが。
時速150Kmで約2時間、と言うことは距離にして300Km!
こんな距離のところに、夕食に出かけようと言う発想は普通は無いですよね。
泊まっているホテルの20階からテキサスの平野を見おろしたときもそうでしたが、人生観が変わってしまうことばかりでした。
大地も心も同じ位、大らかさに溢れてました。小さいことは気にしない、気にしない。

 屋根付きのロデオ会場。
世界各国のドクターは、皿とフォークを持ってステーキや煮豆、ソーセージ、を一列に並んで皿にのせてもらいます。
 食べながらのロデオ観戦です。肉の大好きな私は、ステーキコーナーに3回並びました。
3回目はステーキコーナーのカウボーイのお兄さんと顔見知りになって、一番大きい奴を1枚(1枚が250gかな?)サービスしてくれました。
帰りかけたら「ドクター!!」。振り向いたらもう1枚ステーキを乗せてくれました。
「サンキュー。」。大らかなんですよ実に。

 ”大らか”で思いだしました。世界心臓学会が東京であったとき、歓迎パーティがありました。
招待された世界各国のドクターとその家族は、皿に寿司とテンプラを山盛りにして食べる、食べる。
気に入ったら何度でも並ぶ。こんな光景、日本人だけのドクターのパーティじゃ見たことはありませんね。

<海外学会編:タイの巻PART1>

<突然、ディスカウント、プリーズしか言わないドクター>

(タクシーの場合)
 タクシーはメーターが付いていても、日本の中古の物のようで当たり前に作動していません。
ホテルでおよその値段を聞いておいて出発。通りに出ると、先ず手を挙げます。
乱暴に止まったタクシーの窓に頭を突っ込んで、行き先を告げます。
タクシードライバーは早く乗れと言いますがここで、
「いくら?。」
「○○円。」
「ディスカウント、プリーズ。」
 ここで突然、「ディスカウント、プリーズ」しかしゃべらない外人になってしまうのです。
タクシードライバーは笑顔で、
「△△円。」
「ノー。ディスカウント、プリーズ。」
タクシードライバーはむっとして、
「□□円。」
 そこで初めて□□円より易い値段を提示します。
怒った顔して、「OK。」さっと乗り込むと、猛スピードで目的地に。降りる時に、彼は最後の抵抗を示すのです。
「サンキュー。□□円。」
「ノー。お前は間違っている。タイの人は信心深い、嘘が付けない国民だ。だから嘘を言ってはいけない。」
 一気にしゃべると、最初の値段を支払って降りてしまいました。
当然、帰りのタクシー代はもっと安い値段で交渉が開始されるし、成功します。
いつも「ディスカウント、プリーズ。」と言ってたのは私だったっけ?。

<海外学会編:タイの巻PART2>

<後ろで閉まったトタンの扉のこわーい話>

これも、やはりタクシーなんですね。

 アジア太平洋心臓学会が、タイのバンコクでありました。
学会は市内の大きなホテルで行われました。
自分達のホテルへタクシーを使っての帰り道。
妙に愛想の良いタクシードライバーでした。
自分達のホテルが見え出したとき、タクシーはゆっくりと薄暗い路地へ曲がりました。
”あれっ?”と思ったら、正面に4、5m位の高さのトタンの扉がしずしずと開きました。
タクシードライバーは笑顔のまま、しゃべりながら入って行きます。
後部座席にいたF先生とK先生が叫んだのです。
「あっ、閉まるぞ!。」
タクシーが入ってきた入り口のトタンの扉が一気に閉まったのです。
今度は、助手席に乗っていた私の番です。
「いっぱい誰かが来ます!。」誰ともなく、「ドアロック!。」
闇の中から7、8人の男達が私たちの車へ集まってきました。
笑顔でドアを開けようとしましたがドアは全てロックをしていました。
笑顔を絶やさずにタクシーの窓をノックして、早く降りるように催促するのです。
闇に目が慣れてきて状況が分かりました。
そこは、どうやら特殊入浴施設の集まった所で、男達は客引きでした。
「お前!GO!XXホテル。言うこと聞かないと、ぶっ飛ばすぞ!」
(日本語と英語がごちゃ混ぜなのは、動転している証拠です)車の中は「GO!GO!。」の大合唱となりました。
しぶしぶタクシードライバーがエンジンをかけると、後ろのトタンの扉は静かに開きました。
こうして無事にホテルへ帰る事が出来ました。
「M!。お前が運ちゃんに愛想振りまくから、こんなことになったやないか!わし、死ぬかと思った。」と、
F先生にきつーく怒られました。

MIHIセンセは、日・タイ友好にと思ったのにイ。

<海外学会編:フィリピンの巻PART1>:またまた、デパートでディスカウント、プリーズ

タイでのタクシーのお話をしている内に思い出しました。

 アジア太平洋胸部疾患学会がフィリピンの首都マニラであったんですわ。
学会発表は同級生のK先生。私は、一応は共同研究者?
 学会で印象に残ったことは二つありました。
いまだにアジア地方に結核が多いこと、そして、日本では普通に行っている検査が、大病院でしか出来ないこと。
日本の医者であることを感謝しつつ、デパートへお土産を買いに行きました。
日本で値切ることは余り無かったのですが、旅の恥はかきすてと言うか。
日本人が見ていない開放感が私の冗談心の扉を開けてしまったのです。

ある売り場で、売り子のオネーサンに
「こんにちは。」
「いらっしゃいませ。良い物が色々ありますよ。如何ですか?。」
「これいくら?。」と、木彫りの象を指さしました。
「800バーツです。」
「2つ買います。ディスカウント、プリーズ。」
「ちょっと待って下さい、相談してきます。」
「1つ750バーツにしましょう。」

そこへ、先輩F先生。

「なんや?えっまけてくれるって!そんなら、わしも2つ。」
そこで私は、オネーサンに、
「私には友達がいる。その友達も買うからもう少し安くならない?。」
「相談してきます。」と言って、オネーサンは奥へ消えました。帰ってくると、
「特別に、1つ700バーツにします。」
「有り難う!友達も私も嬉しい!。」そこへ、悪友K先生登場。
「どしたん?。そりゃあ、買わにゃあ。」
私はオネーサンに言いました。
「私にはもう一人友達がいる。」と言ったとき、彼女は
「No More!。」と泣きそうな顔で言うのです。
優しい私は、彼女に言いました。
「1つ700バーツで買いましょう。今度は、もっとたくさん友達を連れてくるね。」

あんなことでは、日比友好にはひびは入りませんよね。

<海外学会編:フィリピンの巻PART2>:お前チャンピオン、だから高い!

 フィリピンにはパグサンハンと言う有名な滝があります。
カヌーで(勿論、漕いで貰って)その滝まで川を上って行くツアーに参加したときのことです。
カヌーの前と後ろに長い棒を持った現地の人が乗ります。その間に客が3人で一つのグループでした。
私と先輩F先生が乗り込み悪友K先生がまさに乗ろうとした時、前の漕ぎ手のお兄さんが言いました、
「二人はチャンピオンだから、これ以上はダメだ。」
つまり、私達の体重が2人で3人分だと言うのです。
「金は2人分でいいのか?。」
「いや、船は1艘だ。だから3人分だ。チャンピオンは高いのだ。」
こうして出発。途中から川岸に寄り始めると、
「親戚の所に、ちょっと寄ってもいいか?。」
「OK。」

 実は、川沿いに店を出している親戚でした。
そこには椰子の実と焼き鳥を売っていましたので、行きがかり上買う羽目になりました。
椰子の実は、なたで素早く割ってストローを刺してくれました。
このストローはちょっと薄汚れていて、口を付けるのには少し勇気がいりました。
一口含んで薄いヨーグルトの様だなと思った時、
「オレの親戚の椰子はうまいだろ?。焼き鳥も大きくて旨いぞ。」
こうなったらいってしまえ!
「焼き鳥3本!。」
「M!、旨いか?。」
「大丈夫か?じゃ、わしも3本。」
 結局6本売れて、網の上の焼き鳥は全て2人の胃袋へ。
 船が岸を離れると、その親戚の叔父さんは焼き鳥の準備にかかったのです。
篭の中にいれてあった鶏を取り出した時、後ろの漕ぎ手が何やら叫びました。
親戚の叔父さんが手をふった拍子に鶏を地面に落としたからたまりません。
「くわーっ、くわーっ。」と鳴きながら走り回り、追いかけまわす叔父さん。
 その後の鶏の運命は確認していません。

 この時の学会に、山口大学の外科から教授と2人の講師も参加しました。
私達内科は大学院生の3人組。それから10年近く時が過ぎました。
その後、この時の外科の講師だったS先生と長い間一緒に仕事をするようになるとは思ってもいませんでした。
出会いと言うものは大事ですね。

 毒とるMIHI医学生シリーズは海外学会編(恥さらし珍道中?)をもちまして、ようやく完結しました。


Copyright(C)DocMihi.1997

MENUへ招き猫