徳川家康起請文


慶長5年(1600)10月10日、徳川家康が毛利輝元・秀就父子に対して、身命の安全を保証し、防長2か国を与える旨を誓った誓約文である。
豊臣秀吉死後の政局は、現体制の維持強化をめざす石田三成ら五奉行と、政権の実権を握ろうとする徳川家康との対立を基軸に展開していた。家康との対抗上三成は、安国寺恵瓊を通じ、前田利家の死後は五大老中家康に次ぐ実力を有していた毛利輝元に接近した。輝元もまた秀吉の遺命を守ることと、豊臣政権との一体化を図ることで領国支配の安定をめざす目的から三成に味方した。そして三成の挙兵にあたっては、同じく大老の宇喜多秀家と連名で諸大名に参陣を促している。その後も伊勢路・大津城の攻略で毛利軍は主力となったが、三成に敵対し、西軍の勝利を疑わしく感じていた吉川広家(輝元の従兄弟)が、毛利領国の保全を条件に家康と和睦し、毛利一門の重鎮であった福原広俊もまたそれに同調したため、毛利勢は関ヶ原での戦闘には参加せず、家康勝利の一因となった。
しかし戦闘の終結後家康は、三成の挙兵に積極的に賛同した輝元の責任を問い、その領国を没収しようとしたが、関ヶ原での毛利勢の活動に免じて、周防・長門両国(山口県)の領有のみ認めたのがこの証文である。
この証文は、江戸時代には毛利氏による防長2か国領有の根拠として非常に大切にされ、現在もなお金蒔絵の豪華な納箱に納められている。