毛利博物館


毛利博物館(毛利邸)の歴史

用地の選定と建設
毛利博物館の前身である公爵毛利家の本邸(防府邸・多々良邸)建設は、これより先に定められた「家憲」の規定にしたがい、旧藩士であった維新の元勲井上馨(いのうえかおる)によって、明治25年(1892)この地での建設が決められたという。しかしその後相次いで発生した日清戦争・日露戦争の影響によって着工が遅れ、ようやく準備が整った大正元年(1912)9月に建設が開始され、大正5年(1916)、6年弱の歳月を経て完成した。
この邸宅は、東京芝にあった高輪邸や、既に防府に存在していた三田尻邸(現英雲荘)などと区別するため、その所在地から防府邸ないしは多々良邸とも呼ばれていた。

公爵毛利家の本邸
この邸宅は公爵毛利家の本邸にふさわしく、構内には当主一家が居住する本館だけではなく、毛利家職員の執務場所である用達所(ようたつしょ)および彼等の役宅をはじめ、毛利家の始祖天穂日命(あめのほひのみこと)以下の歴代当主を祀った祖霊社、毛利元就以下の画像を配した絵画堂など宗教的な空間も設けられている。また邸内には神代杉や神代欅などの伝統的な良材だけでなく、鉄筋コンクリートやトタンなど当時最新鋭の建材もふんだんに用いられていた。邸内の電力はすべて自家発電でまかなわれ、湯殿には給湯施設が設けられただけでなく、各部屋部屋はインターホンで結ばれるなど、伝統的な和風建築と最新技術とを融合させた建築として目を見張るものがあった。
また完成直後の大正5年(1916)には大正天皇、同11年(1922)には貞明皇后、昭和22年(1947)には全国巡幸中の昭和天皇、同31年(1956)には昭和天皇・香淳皇后も宿泊し、公爵毛利家の本邸としての面目を施している。

財団の設立
昭和30年(1955)、山口県文化財保存顕彰規程によりこの邸宅は「毛利邸庭園」として山口県名勝に指定された。しかしなおこの壮大な庭園と建物を文化財として永く維持するには不十分なものであった。そこで毛利家をはじめとする関係者が種々協議した結果、昭和41年(1966)明治百年を記念して毛利家より邸宅・庭園ならびに伝来の国宝・重要文化財をはじめとする累代の家宝、さらにはこれらを永く維持していくための基本財産の寄付を受け、財団法人防府毛利報公会を発足させた。財団ではこれらの国民的文化財を維持するため、有料で一般に公開することとした。

博物館の開設と新収蔵庫・第2展示室建設
財団発足の翌昭和42年(1967)、邸宅の子ども部屋を改造して展示室を作ったが、これだけでは展示スペースが足りず、廊下の一部にも展示ケースを設けて博物館を開設した。
博物館所蔵の文化財は本邸内の土蔵に収蔵され、また展示室も本邸の一部を改装して作られたものであったため、災害や盗難などに対する危惧が指摘されていた。そこで、博物館開設より20年を迎えようとする昭和60年(1985)、国・山口県・防府市の補助を受けて新収蔵庫の建設に着手した。翌昭和61年(1986)からは郵政省・日本船舶振興会をはじめ、県内各所・東京・大阪地区の各位からの寄付を得て、第2展示室の建設に着手した。昭和62年(1987)7月に完成したこれら新収蔵庫は、建築面積500m2、鉄筋コンクリート2階建て、第2展示室は建築面積333m2、鉄筋コンクリート造り、平家であり、以後文化財の収蔵環境は格段に整い、展示の質も向上した。



収蔵庫

第一展示室

第二展示室