・4月20日
グリーンバーグvsチョムスキー、すなわち、類型論vs生成文法という対立を前提に話が進められている。しかし、それぞれのアプローチの仕方、分析対象とする言語の数などは大きくかけ離れていて、お互いが相手方の理論について言及するのは無駄なことのように思える。将来、類型論が生得性、生成文法が多様性についてどこまで踏み込むのか分からないが、帰納的に導き出された普遍性と演繹的に求めた普遍性が同じ結果を生み出すとは限らない。と思った。
・4月27日
文法構造を、生成文法では極度の抽象化によって定義している。しかし、1つないしごく少数の言語から導き出しているわけであるから、他の言語での例が反例としてあがってくることも多々ある。それをどのように解消するのか、あるいは組み込むのか、詳細は知らないが見事な方法だと思う。
また、類型論においても、説明するために「主語」や「目的語」のような用語が使われている。それが「抽象的だ」と批判されるが、ある物事を説明するうえにおいて、ある程度の一般化はまぬがれないと思う。仮に、一つの個別言語をその言語の中だけで説明してしまっても、それはただ単に自己満足で終わってしまうのではないか。もちろん、広く深くというのが理想的ですが。
・5月11日
絶対的普遍性や傾向、また含意普遍性などにより、人類言語の一般特性というものにより近づくことができると思った。しかし、100に対して現れた1つの例外も、現れたということは人類言語に有り得る形ということだから、簡単に切り捨てていいのかどうか迷うところではある。どの程度の例外ならば普遍的傾向と言えるのか。
しかしここでも、一般特性の解明、すなわち一般化というものに重点を置くと考えると、普遍的な傾向というのが重要になってくると思われる。
・5月18日
今回のメインは説明についてである。文法だけでなく、機能面、認知面、語用論的に捉える、ということである。
たしかに「普遍性としてこんなことがある。」で終わってしまっては単なる観察である。それに説明を加えなくてはならない。そこで様々な面からの説明が必要になってくる。例えば、「1・2人称に再帰代名詞があれば、3人称に再帰代名詞がある」という普遍性(含意)について、なぜ3人称のほうが現れやすいかというとことを機能的に説明すると、例えば英語で、He hit himself.ではheとhimselfは同一人物であり、He hit him.ではheとhimは別人物をあらわす。I hit myself.,*I hit me.では、ともに同一人物をあらわす。すなわち、3人称再帰代名詞の方が必要性が高く、効率的で機能的なのである。言い換えれば、「3人称に再帰代名詞を持たず、1・2人称で再帰代名詞を持つ」ということは逆機能的なのである。というように、説明力を持つ。
今流行(?)の認知言語学、僕は少し学んだけど、イメージ・スキーマ、トラジェクター、メタファーなどの用語が飛び交い非常に難解・・・
・5月25日
最初はフンボルトの話だった。フンボルトは「言語は、その1つ1つが個性と固有性を自らのうちに担っている」と個別性を強調しているが、一方で『真の文法諸概念』という類型化し抽象化した言語普遍のような概念をも提唱している。おそらく、言語の差異と普遍、両方を把握することが重要であるということなのだろう。コムリーも普遍性と類型論の研究は並行して進められると書いている。
また、色彩語について、異なった言語だと比較できないというような相対論に対し、バーリンとケイは境界ではなく焦点という考え方を使い、色彩語についての階層関係を発見した。しかし、言語と文化は密接に関わっていると思う。どこまで影響を与えるのか?
紫
白 緑 オレンジ
→赤→ →青→茶→
黒 黄 ピンク
灰
(Berlin&Kay,1969)
・6月1日
母音の有無というのをパラメータとするのは類型論的には有効でない。硬口蓋鼻音と前舌円唇母音というのは互いに関連性がなく、パラメータ選択としては恣意的である。このように、ただ単に言語を類別するだけのパラメータではあまり意義がないようだ。また意義あるパラメータでも、例えば、イディン語の有生性に関しては全体的類型化とは言えない。1つの現象を取り上げるだけでなく、それが全体に関与しているのかどうかということも考えないといけない。やはり、類型論には個別言語の研究も必要である。並はずれた観察力、洞察力が必要なのだろう。
・6月8日
形態的類型論は、形態的構造のタイプについて概観を与える上では有効だが、他のパラメータとの相関性を示すという意味では有意義かどうかは分からない、ということである。この形態的類型論についての部分は、フンボルトやサピアの言及したことのコムリーなりの再解釈らしい。
サピアは、次のように4つに分類している。「統語的な関係は純粋に持つが、語幹要素の意義を接辞や内部変化によって修正する力は具していない言語」「統語関係を純粋に保つとともに、接辞や内部変化によって語幹要素の意義を修正する力を具えている言語」「統語関係は、具体的な意義が完全には欠けていない概念と必然的に関係づけられて表現されるが、このような混合を別にすれば、接辞や内部変化によって語幹要素の意義を修正する力を具えていない言語」「統語関係は、具体的な意義が完全には欠けていない概念と必然的に関係づけられて表現され、さらに、接辞や内部変化によって語幹要素の意義を修正する力を具えている言語」・・・。大変難解である。
そして、サピアはこの分類の利点として、特定の議論の必要に応じて、精密にすることも簡単にすることもできる、という点をあげている。しかし、術語を後生大事にしすぎてはならない、とも言っている。
結局のところ、単純な基準では類型化をおこなうのは困難である、ということであろう。
(参考:Sapir『言語』,安藤貞雄 訳 岩波文庫)
・6月15日
意味役割というと、動作主、道具、自然力、経験者、被動者・・・とたくさんある。それを客観的にどう定義するのか、また、その数はいくつあるのかというような問題もあるようだが、ここでは比較的狭い領域に限って考え、離散的なものの集合ではなく連続体として考えるようだ。とくに制御(Control)という概念を使う。例えば、
(1)ツルがジョンを行かせた。
(2)ツルがジョンに行かせた。
この2つの文では、(2)のほうがジョンがより大きな制御力を保持した可能性があるというわけである。日本語の例を見ると納得できるわけだが、悲しい哉、ラック語やチカソー語の例を出されても、形態の違いならまだしも制御の違いは分からない。やはり類型論は難しい。
・6月22日・6月29日
休む
・7月6日
英語とロシア語を例に、文法関係、意味役割、語用論的役割、形態的格の相互作用を検証した。
英語は語順と文法関係が密接に結びついていて、ロシア語では形態的な格が中心となっている。
では、日本語ではどうだろうか?意味役割と形態的格の関係を見てみると、
(1)ツルが 酒を 飲んだ
(2)ツルから おわびを 申し上げた
(3)ツルが 奥さんから 叱られた
(1)では「が」が動作主をあらわし、(2)では「から」が動作主をあらわしている。(3)のような受動文では「から」が動作主をあらわしている。「動作主=主格」ではないようである。
・7月13日
引き続き、英語とロシア語での検証だった。英語に比べて、ロシア語は意味役割に忠実である。英語は、そこに規則性があるというわけではないが、語順が大切である。ロシア語は逆に語順の自由が利く。日本語はどうだろうか?語順は概ねSOVであるが、「ベーシックをツルが破壊した」のようにOSVとなることもある。しかし、これは名詞化して「ベーシックのツルの破壊」とはならないので基本語順ではないのである。いつも思うのだが、母語でさえ、語順に関してどこまでが許容範囲か分からないのに、まったく知らない言語に出くわしたときには大変であろう。
もどる