0.1. 系統と年代
ヒッタイトは、インド=ヨーロッパ語族のアナトリア語派に属している。紀元前1650年から紀元前1180年の間、ヒッタイト語話者は、北部アナトリア(注:アナトリアとは黒海と地中海の間の広い高原で、昔の小アジア、今のアジアトルコ)内陸部に住んでいたことが立証されている。ヒッタイト王国の首都は、アンカラの南東210㎞のところにあるHattusaであった。ヒッタイトの側にはいくつかのアナトリアの言語があり、紀元前の1000年代では楔形ルウィ語など、紀元前最初の千年期では象形文字で書かれたルウィ語やリュキア語やリュディア語などがあったことが証明されている。紀元後では、ヒッタイトの直接の子孫に当たる言語はない。
0.2. 資料と書写法の特質
ヒッタイト語は、ほとんどがHattusaの王家の倉庫でみつかった数千枚の粘土板に記録されている。ヒッタイト語の情報は比較的最近の業績によるもので、それは今世紀初頭のHroznyの研究(Hrozny(1917))である。ヒッタイト語は楔形の音節文字体系で古代の近東と共通していて、それはすでに西洋の学者が前世紀に判読していた。元来、楔形文字は紀元前2000年代のシュメール人によって作られたもので、表意文字であった。すでにシュメール語では、表意的なものであった楔形文字は音節的にも発達していた。ヒッタイト語の楔形文字は、古バビロニアの文字の変異形に最も似ている。この変異形の一つはセム系の言語のアッカド語で使われていた。すでに述べたことだが、シュメール語の楔形文字は表意的であり、音声的(音節的)読みも持つものであった。この特性はアッカド語に保存されていた。翻訳のために表意的な読みを与えられたであろう記号は、アッカド語の文章の翻訳の中のシュメール語の形に認められる。これは、活字の使用の中で気付かされる。例えば、DINGIR-lim,'(the)gods'の形に見つけることができる。DINGIRは音声的にはanと読まれるべき記号の表意的なよみである。一方、limは形態的な情報(複数)を補助するもので、アッカド語の形態(アッカド語の形態で'gods'を表すのはilim)に関係している。
そのような理由により、ヒッタイト語の楔形文字の語法はシュメール語、さらにアッカド語が保持する文字と比べて複雑である。例えば、ヒッタイトの王であったHattusiliという個人名は、音声的にはmha-at-tu-si-li-is、表意的にはmGISPA-si-DINGIRLIM-isと書かれる。最初の形は、Hattusiliという名前は、主格で単数(-sで終わっている)であり、男性の個人名の限定符であるmを付けている。なぜなら、それは表意的には'I'を表すからだ。2番目の形で、同じ限定符を比べてみる。
0.3. 伝波と情勢
実際にヒッタイト語が話されていた範囲は未解決の問題である。新ヒッタイト時代(0.4参照)の人口はほとんどルウィ語話者であり、ヒッタイト語は支配者階級の言語であった。数人の学者は、ヒッタイト語はもはや話しことばではなく、書くためだけに使われいたと言っている。しかしながら、この仮説はヒッタイト語の発展に関わる通時的なデータと矛盾する。
0.4. 言語の段階
ごく初期から、ヒッタイト語研究者は、ヒッタイト語の粘土板の中に、さらに古い言語の段階の書記の特性を含み、おそらくその特徴を保持している古いテキストの存在に気付いていた。しかしながら、異なった形態は、文の年代を推定するのに当てにならないようだ。それゆえ、書きことばの習慣の発展は、年代学の資料として成功をもたらしたということのみが知られている。形態上の信頼のなさというものは、おもに文が写されるときに部分的に筆記の習慣が新しくなっているからである。古いヒッタイト語ともっと後の写しを比べたときに、このことは明確になる。幸運にもわれわれは、同じ段落内に異なったタイプの書体を持つヒッタイト語の成文律の写しをいくつか持っている。それは、より古い形態論的なもの(また、時には統語論的なもの)が部分的に保存されていて、それが部分的に書記によって変わっていることを明確にしている。
最も広く一般に知られている年代学によると、われわれは、一般的にヒッタイト古王国、ヒッタイト中王国、ヒッタイト帝国(新王国)として知られている3つの歴史的に異なった段階のヒッタイト語を調査しなくてはならない。4つ目の段階として、ヒッタイト王国の最後の2,30年間の言語と関係のある新ヒッタイトが時々加えられる。(注:新ヒッタイトとは、他の諸民族に支配されたヒッタイト人がシリア地方へ移住したもの)
古王国と中王国のヒッタイト語での名詞の屈折、格の融合、動詞のボイス、不変化詞と連結詞の使用などの違いは、中王国と新王国の違いよりも大きい。最も重要な特徴は、中王国期にすでに発達していたのである。