第十四章 女帝になる方法「則天武后」
「全く・・陛下にも困ったものだわ。あのような女にばかりいれあげておしまいになって・・」
女官に髪を梳かせながら、王皇后はため息と共に呟いた。
「私とて陛下が私ひとりでお過ごしになるなどと考えてはいないわ、わたしがここへ来た時にはすでに陛下には多くの愛人がいらっしゃったし・・けれど、蕭氏ひとり、あのように御寵愛なさるのはどうしても気に入らない。」
「どなたか、蕭氏に対抗する者を差し出されたらいかがでしょうか?」
古参の女官は、銀の櫛を傍らの台座に置くと、膝を折って、そう進言した。
「そうね・・」
「おそれながら、感業寺に武氏という女がおります。」
武氏・・王皇后にはその名前に聞き覚えがあった。高宗の皇太子時代、太宗の後宮にいながら高宗と密会を重ねたと噂のあった女性。髪の美しい後ろ姿しか垣間見たことはなかったけれど、凛とした背中は誰の非難も受け付けない自信に溢れる後姿で好感が持てたことを覚えている。
かの人なら・・私の口惜しいこの気持ちをやわらげてくれるかもしれない。蕭氏ひとりが握っている後宮の権力図を変えることが出来る。高宗の寵愛を分散することができれば、皇后である私に恐れるものなど何もないのだから。
「武氏をすぐに、還俗させてちょうだい。髪さえ結えるようになればいいわ。」
けれど、王皇后はすぐに、自分の甘い誤算に気づくことになります。王皇后の思惑通り、高宗は武氏に夢中になり、蕭氏の影は薄くなりましたが、今度は武氏が高宗を独占し、昭儀という女官の九嬪トップの座を与えられ、後宮の勢力は皇后を凌ぐほどになってしまったからです。しかも、武氏は蕭氏とは決定的に違うところがありました。彼女には皇帝の寵愛以上に欲しいもの、当時の女性には珍しい強力な権力欲があったのです。
「昭儀さま、おめでとうございます。」
「ありがとう、これもあなたたちのおかげですわ。」
女官たちに、艶然と微笑む武氏は、絹の扇で顔を隠した。
馬鹿ね・・これで終りだなんて思わないで頂戴。
武氏は、高宗との間に皇子を産んでいましたが、さらに皇女を産みました。皇后が見舞いに来るのは慣例で、王皇后も内心嫌々ながらも武昭儀の部屋へとやってきました。
寝台で眠る子供の頬を触りながら、王皇后は呟いた。
「・・子には罪はないわね、それにしても武氏はどこへ行ったのかしら?」
王皇后は足音で子供が目を覚まさぬようにそっとその場を立ち去った。王皇后が自分の部屋へ着いた頃、切り裂くような悲鳴が聞こえた。
「・・何なの?」
振り向いた所に、女官が転がるように駆け込んできた。
「皇女さまがお亡くなりになりました。何者かに絞め殺されたよしにございます。」
「何ですって?」
王皇后は、この瞬間まだ気づいてなかった。どうして、武氏があの時部屋にいなかったのか。自分が既に大きな罠にかかっていることを。
その夜、王皇后は、高宗から信じられない言葉を聞く。
「恐ろしき女だな、そちは!あのようなか細き首によくも手をかけられたものだ。」
「・・恐れながら、わらわには、君のおっしゃる意味がわかりません。」
「白々しい。今日、姫を見舞ったのはそちだけだそうではないか。それも何ゆえ、昭儀のいない時を狙い見舞いなど行ったのだ!」
激怒する高宗の膝元で、王皇后は首を振り続けた。
「・・どうして、陛下は私を信じてくださらないのですか?わらわがそのようなことが出来る女ではないことは、陛下が一番御存知のはず。」
けれど、自分を見失っている高宗の前では、弁解もふたりで過ごした長い季節も無意味であった。
まもなく、高宗は家臣たちの諌めも聞かず、王皇后は蕭氏と謀って高宗を毒殺しようとしたという嫌疑をかけて位を剥ぎ、庶民の地位へと落としました。この時、武昭儀27歳、この後、武皇后として華やかな未来を約束された武氏に対して、王皇后と蕭氏は悲惨な最期を遂げることになります。
王氏と蕭氏の姓をそれぞれ蠎氏(ぼうし)、梟氏(きょうし)と改めるようにと命令しました。「以後公式の記録には、王氏、蕭氏と書いてはならない。うわばみ(大蛇)、ふくろうとせよ」というのです。しかも彼女達は、後宮に設けられた牢獄の中に幽閉されることになります。日の光、鳥の鳴き声さえ届かぬ、後宮の最奥、彼女達は粗末な衣服と僅かな食事だけに頼る日々を過ごすことになったのです。
しかし、時は流れ、少しずつ武氏という女の強気に嫌気がさしてきた高宗は、ある日、ひそかにふたりを見舞いに後宮に赴きます。
かつて一度は愛した女、あまりの不遇さに高宗は愕然とします。
「すまぬ。よもやこのように酷いことになろうとは、朕も思わなかったのだ。暫く我慢していよ。そのうち、武后も気が済むであろうから。」
高宗の思わず呟いた一言に、武后は激怒します。
「牢の中からでも陛下を誘惑するとはいい度胸をしているわね。いいわ、金輪際、そのようなことできない体にしてあげる。」
哀れ、彼女達は鞭打ちの刑を課され、その手足を切断し、酒樽の中に投げ込まれてしまったのです。
「生まれ変わったら、猫になって、鼠になった武后の喉下をきっとかき切ってやるわ!」
というのが、王氏の最後の言葉になりました。
「いいわよ、猫を飼うのはよすから。」
こうして、後宮、いえ宮廷の中で武后にはむかおうなどと考える者は、誰もいなくなりました。高宗は、もともと気の弱いおぼっちゃま皇帝、武后に反論できる力などありはしませんでした。
このとき、皇太子は劉氏が生んだ李忠がたっていました。まずは武后は、李忠を廃して、自分の生んだ李弘を皇太子とします。これは、良くある話です。自分の子供を皇帝にしたいというのはどの時代、どの国の母親も考えること、けれど、武后のこれからの行動は私達の想像を絶するものなのです。
この李弘は、自分が正しいと信じることは母親に逆らってでも直言することのできる剛毅な人物でした。まさしく、武后似の彼は、宮中に幽閉されたままの蕭氏の娘達がすでに30歳を超えているので早く臣下に降嫁させてはどうかと高宗に薦めました。高宗は喜んでこれを許し、李弘と臣下の選別を始めました。
しかし、その直後に李弘は急死してしまいます。
「・・出すぎた真似をしたわね。黙っていれば、皇帝にしてやったものを。」
唐の史書には、はっきりと武后、皇太子を殺すと書かれています。なんと煙たくなった実の息子さえ殺してしまったのです
そして、次に皇太子になったのは、高宗の第6子、武后の生んだことになっている李賢でした。生んだことになっているというのが、実は武后の姉の韓国夫人は早くから未亡人になっておりまして、宮中に出入りするうちに高宗との間にもうけてしまったのがこの李賢なのです。まったく〜高宗、あなたの優柔不断さが悲劇を呼ぶのよと言いたくなるのですが・・。もちろん実の息子さえ手にかける武后のこと、この実の姉韓国夫人も当然殺されています。しかし、この李賢は学識豊な人物で、彼と側近の学者で作った「後漢書」の注訳は今も章懐太子注として高い評価をうけています。しかし、彼もまた屋敷から数百の鎧が発見され、謀反の疑いありとして自殺へと追い込まれています。
その後、皇太子となったのが武后の実子、李哲です。彼は兄ふたりに比べるとかなり劣る人物でした。勝気な母親よりも気弱な父高宗に似ており、しかも恐妻家でもありました。そんなところまで似てどうするのよ?(笑)
そういえば、高宗の影がすっかり薄くなってしまっているのですが、まだ生きていますか?そんな声が聞こえてきそうですが、大丈夫、彼はまだ殺されてはおりませんよ。
名君と名高い太宗李世民の後継ぎが何故、こうまで情けない人物なのか不思議に思った方もいらっしゃるでしょう。もともと彼はその気弱さ故に皇帝に選ばれた人物なのです。性格温順、とりえがないのが無難である。とかく強い個性やカリスマ性をもった権力者のあとにはこういう人物が選ばれることが多いのです。
意志薄弱の優柔不断、大唐帝国の帝王としての剛毅さには欠ける、しかも生まれつきの病弱。しかし、どうも女好きで、のめりこむとすっかり骨付きにされてしまう。武后が皇后になってから5年後、俄かに(←怪しい)激しい頭痛と眩暈に襲われて以後視力も衰え、政務を見ることは出来なくなっておりました。
さぞかし、政務に支障が・・御心配にはおよびません。武皇后が皇帝の後ろの簾の奥に座り、政治の決裁すべてを行っていたからです。
「なんて楽しいのかしら、政治って。」
こんな彼女の「垂簾の政」は約28年間も続いたわけです。
683年、高宗が死ぬと、李哲が即位しました。彼を中宗といいます。父親似の彼の不幸はなんと彼の皇后韋氏が、武皇太后につぐ野心満々の女性だったことです。
「女と生まれたからには、あのようになりたいものだわ。」
高宗をおさえて政治の実権を握っている姑である武后の姿を見て、自分もいつかああなりたいとずっと思っていたのです。彼女は皇后になると、自分の父親を要職につけようと画策し、武皇太后の怒りに触れてしまいます。結局これが引き金となって中宗は皇帝をクビ。即位からわずか2ヶ月、まあ殺されなかっただけ良かったと言えましょう。
ここで苦虫をかみつぶしたような人物がひとり。
「まずい・・兄上も何て馬鹿なまねをしてくれたのだ。私が皇帝になってしまったではないか。」
「まずは、おめでとうございます。」
「何がめでたいものか!母上の生きている間に皇帝になって、無事で済むと思うか。」
「御意・・」
「あ〜どうする。私は皇帝などなりたくないぞ。」
武后の三男李旦は睿宗となりました。ひたすらじっとして、何もしない皇帝の職。彼はひたすら、母武皇太后に政治権力を預けました。「母じゃ、母に聞け。わしに聞くな、わしに決済を決してもってくるな。」大臣達にそうきつく言うと、自分は決して政治の表舞台に立とうとはしませんでした。
して、その皇帝の母はというと・・。
「・・皇太后さま、本日のお勤めはここまででございます。」
「もう終わったの?・・つまらないわね・・」
武皇太后は、大きなため息をついた。
「薛懐儀をよんで頂戴。」
この頃、武皇太后には怪しい僧侶薛懐儀という愛人がいました。
「李姓の唐王朝にかわり、武姓の新しき王朝をたてるというのはいかがでしょうか?」
薛懐儀は、武皇太后にそう告げた。
「・・面白そうね、昔、高宗について行った封禅の儀式、女ということだけで泰山に登ることができなかった。あの時の悔しい思いは今も忘れられない。」
中国では昔から、皇帝と自然現象を結びつける思想がありますが、彼女は、これを使って新王朝の成立と女帝の出現を宣伝しました。紅いすずめが産屋の屋根に止まったとか、龍がきたとかですね。彼女は社会文化の各方面に独自の新制度を設け、内外ともに万端の準備を整えました。後に則天文字と呼ばれた新しい文字を作ったのもこの時期です。
水戸光圀の圀の字、あの字こそ武皇太后の生んだ字なのです。
690年9月、傅游芸という男が団長となって人民900人を率いて皇太后に皇帝になってくれるよう請願を起こしました。
「民たちは、皇太后さまの即位を望んでおります。ぜひとも、我らの願いを聞き届けていただきたく・・」
「・・そのような、大それたこと。」
皇太后は首を振りました。
言うまでもなく打ち合わせどおりのお芝居でした。それならと今度は6万人の官吏や僧侶、異民族の酋長などが請願にやってきました。
・ ・まだ、まだよ・・もう少し・・
「どうか、これ以上、私達民を悲しませないで下さい。願いが聞き届けられないとあれば、私達はここで自害する覚悟。」
「・・仕方ないわね、そこまで言われてしまったら・・」
そうして、彼女はやむなく皇帝位を引き受けることになるのです。
唐王朝を周として、あの睿宗は、李姓を捨てて「皇嗣」という名目になりました。62歳、彼女は中国史上唯一の女帝となるのです。
皇帝となってからの彼女は、薛懐儀の薦めで弥勒菩薩の化身を気取り、仏像、寺院などを造営し盛大な法会を催したりしました。しかし、薛懐儀に飽きると娘の太平公主に殺させ、美少年張兄弟を寵愛すようになりました。彼女は76歳、張兄弟は20代であったといいますから、武后のパワフルさが偲ばれますね。誰ですか?羨ましいなどと言っているのは。(笑)
ほぼ半世紀に渡った彼女の時代に農民の暴動はほとんどありませんでした。彼女は人の能力を見抜く力があり、人材の登用に見事な手腕をみせました。彼女は事実有能な政治家だったのです。そう、今のわが国の大臣達が束になってかかっても足元にもおよばないような。
晩年、病気がちになって病床についた武后の傍を張兄弟は片時も離れることが出来ませんでした。何故なら、宮廷中が彼らの命を狙っていたからです。
宰相張束之は、皇太子を伴い、張兄弟を斬り、武后に退位を迫りました。83歳だったと言われる彼女には、もうこの時それを拒否するだけの気力も力もありませんでした。
「私が死んだら、皇帝としてでなく、皇后として葬って欲しい。高宗の皇后として・・。」
彼女は遺言どおりに今、西安の西、乾陵に合葬させられています。退位してからは、則天大聖皇帝とよばれ、死後は則天皇太后に落ち着きました。日本では則天武后が一般的ですが、中国では武則天と呼ばれています。
女であり、妻であり、母親である前に彼女は政治家だった。彼女の前では実の子供さえも道具でしかなかったのです。ただ、彼女が死んでからの来世を妻として生きようと望んだことが彼女の凄まじい人生の中唯一救いのように私には思えるのです。