山口市菜香亭 トップページ サイトマップ
 
 ◎明治編
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
◎大正編 
 
 (以下、大正編続編に続きます) 
 
 
 
 
 

◆大正の有名人続々来亭

 料亭菜香亭には大正時代にも引き続き政府の高官や文化人、著名人が来亭され、「山口の迎賓館」の様相を呈しました。
 ここでは大正元年から6年までの来亭者を年表風に紹介します。
 大正政変後ののちに政党政治内閣の総理大臣となる、加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸が来亭しています。


大正2年(1913)

≪2月11日 第3次桂太郎内閣総辞職(大正政変)≫

■2月20日 小郡~山口駅の山口線開通。夜五時より料亭菜香亭で慰労会開催。毛利元昭公爵、山口県前知事・現知事、鉄道院側の人々その他3、40名を招待して夜会。

毛利元昭((もうり もとあきら/1865~1938)は最後の藩主毛利元徳の子。江戸時代に生まれたためでしょう最後の殿様と呼ばれました。明治30年家督を継ぎ、公爵に。料亭菜香亭を贔屓にしていました。

■3月11日 毛利敬親夫人の葬儀委員のうち東京その他より来山したもののうち帰省を急ぐ50余名、祭官一行14名、午後四時より盛大な慰労会。翌日に残余の者や地方委員らの慰労会。

■5月7日 山口町料理屋飲食店同業組合の委員会を開催し、新たに設置される保健組合の組合長に齊藤泰一が選ばれる。

齊藤泰一(さいとう たいいち/1873~1970)は三代目菜香亭主人。初代主人幸兵衛の四男。明治20年代前半に上京し、井上馨の書生をつとめながら上野精養軒で西洋料理の修業。帰郷後、菜香亭で本格的西洋料理を出す。明治32年兄の二代目甲兵衛が他界したとき、その長男吉之助(のち四代目)が幼少であったため、一時家業を継ぎました。

■5月16日 立憲同志会の江木翼が晩餐会。

江木翼(えぎ たすく/1873~1932)は、現在の岩国市で酒造業を営む家に生まれました。のち江木千之(貴族院議員・文部大臣)の養子となります。内務省に入省後、大正元年(1912)より桂内閣、大隈内閣、加藤内閣など憲政会系の政党で書記官長を務めました。大正5年(1916)10月5日より貴族院議員に勅選されました。その後も司法大臣・鉄道大臣を務め、総裁候補と言われました。

■5月24日 若槻礼次郎前大蔵大臣、箕浦勝人の歓迎会。山陰巡遊の帰途立ち寄る。歓迎会で若槻氏、日本の財政について講演。

若槻礼次郎(わかつき れいじろう/1866~1949)は松江藩の貧しい足軽の家に生まれました。帝国大学を首席で卒業。大蔵省に入り次官まで上り、大正元年桂内閣で大蔵大臣を務めて以降大臣職を歴任。大正5年憲政会に参加し副総裁。大正15年加藤高明首相が在職中に死去したため首相となります。その後再度首相を務めたあと重臣を務めました。
箕浦勝人(みのうら かつんど/1854~1929)は大分県にあった臼杵藩の武道師範の子。慶応義塾出身。郵便報知新聞社に入社し、のち社長。立憲改進党に参加。明治23年第一回衆議院議員選挙で当選。大正4・5年逓信大臣。


■菜香亭での宴会例1
6月15日 山口電燈所十周年記念会開催。200人参加。新作「光る君」、山口芸妓によって披露。大広間の会場に各国旗が縦横に吊るされ、食卓に珍味佳肴に盛花。庭前にはビヤホール、氷店、蕎麦、善哉の模擬店がならぶ。

■8月8日の広告

 

   謹告 
暑中御機嫌伺奉申上候今般都合により休業仕候間乍勝手非礼以紙上厚く御礼奉申上候恐惶頓首
 山口町祇園
八月七日 菜香亭 


≪10月10日 桂太郎死去≫

■菜香亭での宴会例2
11月3日 第四回山口警新懇親会開催。抽選で席次を決め着席。署長挨拶にて、かくし芸をさらけ出すように、出さないものは洋盃または盃洗で一杯飲むべしと。開宴すると数名の芸妓が酒間を斡旋。妓お妻の踊り瀧尽しに始まり、踊りやら二輪加(にわか)やら手品やらかくし芸が出た。

■12月11日 23日に立ちあがる故桂太郎系の立憲同志会の大浦兼武若槻礼次郎島田三郎長島隆二江木翼の歓迎会開催。みな立憲同志会支部発会式のため来山。芸妓、仮舞台で「月の巻」「唐人」披露。

大浦兼武(おおうら かねたけ/1850~1918)は薩摩藩出身。戊辰戦争に参加。警察官になり警視総監まで上りつめました。明治26年から各地の知事歴任。明治28・29年山口県知事。明治36年から桂内閣で大臣職歴任。このときは前内務大臣。大正4年収賄罪で起訴。政界を引退しました。
島田三郎(しまだ さぶろう/1852~1923)は幕府御家人の家に生まれた。早稲田大学の前身東京専門学校の創立期の一員。立憲改進党創立に参加。第一回衆議院選挙から連続14回当選。大正4年~6年衆議院議長を務めました。
長嶋隆二(ながしま りゅうじ/1878~1940)は埼玉県の村長の子。東京帝国大学卒業後大蔵省入省。桂太郎の三女と結婚。桂内閣の内閣総理大臣秘書官を務めました。大正3年から衆議院議員となり、昭和7年まで断続的に務めた。また恩賜財団済生会の参事を創設以来30年近く務めています。



 大正3年(1914)
■1月28日
菜香亭が新年会を兼ねて、山口座前新築家屋落成祝い。野田町及び中河原付近の人々、各芸妓置屋料理屋魚類商其他特別関係ある者百余名を招待し、芸妓数十名が杯盤のうちを斡旋し、すこぶる盛況。

■2月4日広告
 料亭菜香亭は「鶴の家」という旅館を新たに別に開館したようです。

 

予て新築中の家屋落成致し二月一日より開業仕候間何卒御愛顧の程奉願上候
  山口中河原(山口劇場前)
旅館幷に御仕度 鶴の家 
 齋藤幸兵衛
 電話二二〇番 

 
■4月21日 大森房吉博士の談話会が菜香亭で開催。山口高等商業学校校長他教授教師参加。

大森房吉(おおもり ふさきち/1868~1923)は越前福井藩の下級武士の家に生まれました。東京帝国大学院で気象学・地震学専攻。のち帝国大学地震学教授となり、日本地震学の父と呼ばれています。この年1月桜島大正大噴火が発生し調査に入っていました。

■6月10日 山口町会議員二級選挙で齊藤泰一当選。



 大正4年(1915)
■1月3日 福島安正将軍来山。大殿小学校で講演会。夜、宿泊先の旅館で面会謝絶して「剛健」など五十余枚揮毫。翌朝十四五枚揮毫。それでも白地の絹百二十余枚が残されたという。

 ※福島安正(ふくしま やすまさ/1852~1919)は松本藩士の家に生まれました。戊辰戦争に参加。陸軍省に入り、明治20年からベルリン公使館に駐在。明治25年帰国に際し、ロシア経由で馬で横断して実地調査しながら帰国、「シベリア単騎横断」として世界的に有名になりました。日露戦争では満州軍参謀を務め、大正3年陸軍大将、予備役に入りました。帝国在郷軍人会副会長。

 

 料亭菜香亭には福島将軍のシベリア横断中の姿の掛軸があります。
 また、「砥礪」の扁額もあります。大正4年に書いてもらったものでしょうか。


■2月16日 若槻礼次郎大蔵大臣の歓迎会開催。県知事以下八十九名参加。

■2月18日 米国シカゴ大学神学部長・米国基督教同盟会「教育の理想」会頭セーラー・マシウス博士の官民合同歓迎会。

■5月8日 山口高商十年記念会講演のため来山の三宅雪嶺河上肇両博士の歓迎会を菜香亭で開催するとの告知が行われ、参加者が募集された。

三宅雪嶺(みやけ せつれい/1860~1945)は加賀藩の儒医の家に生まれました。京大学哲学科卒業。自由民権運動に関わったこともあります。明治21年創刊45年改題の雑誌「日本及日本人」に、明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者として雪嶺は主筆を務めました。昭和18年文化勲章受章。
河上肇(かわかみ はじめ/1879~1946)は岩国に生まれる。山口尋常中学校、山口高等学校、東京帝国大学を経て、京都帝国大学の経済学の講師に。大正4年、2年間の西欧留学から帰国。教授となり、大正5年から「貧乏物語」連載。同書はベストセラーになりました。戦前を代表する学者、オピニオンリーダー。



■6月14日 三井銀行常務取締役早川千吉郎、東京音楽学校長湯原元一らの歓迎会。
 湯原「余は山口の静寂なる風光い久しく親しんでいたが、去ってのちも山高くして太古のごとく春長くして青年の如き山口を、常に想思に描いておって今日まで忘れない。しかし汽車は開通する高等商業学校は設立さるる大分文明の風潮にさらわれてハイカラ化したであろうと思いのほか、来てみれば二十年前の山河は依然として緑濃まかに流れ清く、風俗亦純朴にして毫も華奢の俗悪がない、やはり元の教え草はそのまま存じて、何ら現代的風化を受けていないのは意外であった、これもまた今昔の感を禁じ得ないところである」

早川千吉郎(はやかわ せんきちろう/1863~1922)は石川県出身。大蔵省を経て明治34年から三井銀行に入り、常務取締役になりました。のち三井合名会社副理事長、貴族院議員、南満洲鉄道株式会社社長。雪舟の国宝山水図所有をしていたことがあります。
湯原元一(ゆはら もといち/1863~1931)佐賀藩の医師の子に生まれました。東京帝国大学卒業後、文部省に入り、各地の公立尋常中学校で教諭を務めています。明治24年から28年まで山口高等中学校教授。そのとき料亭菜香亭で洋食を食べています。のち熊本の第五高等学校教授に。同僚に夏目漱石や小泉八雲。明治40年より東京音楽学校長(東京藝術大学)。大正6年東京女子高等師範学校長(お茶の水女子大学)。大正10年東京高等学校初代校長。


■7月19日 山口町と下宇野料村の合併により山口町料理屋飲食店組合と湯田町同組合が合併し、山口町料理屋飲食店同業組合発足の総会開催。齊藤泰一が組合長に選ばれる。

≪9月1日 井上馨死去≫

 大正5年(1916)
■2月27日 山口倶楽部員による観世・喜多・宝生三派合同月例会開催。素謡数番ののち、余興として大和座開演中の三遊亭円遊三遊亭一円遊らを招いて落語手踊りあり。晩餐を共にする。

■5月19日 毛利家の毛利元昭公爵が祝宴。5月16日別格官幣社昇格の野田神社奉祝祭の御礼として。木戸孝正侯爵、進十六氏、小早川四郎男爵、長府毛利家の毛利元雄男爵、清末毛利家の毛利元恒男爵、右田毛利家の毛利祥久男爵、永代家老だった福原家の福原俊丸男爵、県下の貴族院議員、衆議院議員など150名参加。
大広間に入らないので、大広間と西階上と分けて饗応。毛利元昭公挨拶。在郷の古谷安民少将謝辞。芸妓30名、紋月のいでたち。会場では有志者の奉祝謡曲がありました。

木戸孝正(きど たかまさ/1857~1917)は木戸孝允の妹と来原良蔵の子。のち木戸家を継ぎ、侯爵に。明治23年から貴族院議員。
進十六(しん そろく/1844~1928)は萩藩士。有備館舎長などを経て戊辰戦争に参加。維新後は裁判所長などを務めました。
小早川四郎(こばやかわ しろう/1871~1957)は毛利元徳の四男。兄が小早川家を再興したが亡くなったので跡を継ぎました。妻は毛利元雄の妹。
毛利元雄(1877~1945)は長府藩最後の藩主毛利元敏の長男。妻は水戸藩最後の藩主徳川昭武の娘。
毛利元恒(1890~1966)は清末藩主最後の殿様毛利元純の孫。妻は陸奥湯長谷藩最後の藩主の孫。小野田セメント代表取締役。
毛利祥久(もうり よしひさ/1860~1941)は最後の右田領主毛利元統の子。妻は最後の阿川領主毛利親彦の娘。第百十国立銀行頭取。
福原俊丸(ふくばら としまる/1876~1959)は、宇部氏の発展を築いた福原良通の子。良通は禁門の変の責任を取って自害した福原越後の養嗣子。)
古谷安民(ふるたに やすたみ/1852~1918)は美祢出身の士族。陸軍士官学校旧2期。陸軍少将。

 

※野田神社前の石鳥居は大正5年5月に建立されたもので、同神社が別格官幣社になった記念に建立されたことが解ります。

 

 ※石鳥居を寄贈したのは、山県有朋、杉孫七郎、井上勝之助(馨の後継)、有地品之允【以上、左柱に記載】、寺内正毅、三浦梧楼、伊藤博邦(博文の後継)、木戸孝正【以上、右柱に記載】です。

 

※野田神社の入り口前、能楽堂脇に立つ石灯籠は、防府町土木請負業粟屋菊次郎が、東京高輪会より山口野田神社への献納灯籠一対として、防長倶楽部を経て建設を請け負ったものです。十月建立。


■11月11日 貴族院議員柴田家門、貴族院議員江木翼の官民大歓迎会。黒金知事ほか50余命参加。

柴田家門(しばた かもん/1863~1919)は萩に生まれ、内閣書記官長、文部大臣を勤めました。明治36年(1903)より貴族院議員勅撰。

■11月19日~23日 忠愛公二十年祭、県庁舎落成式の祝い。11月19日夜、山口町が前知事渡辺融、現知事黒金知事をはじめ九十名招待の祝宴。

■11月29日 山口町下金古曽津江田広吉醸造の盟主千代乃松、第九回山口県酒造組合連合会品評会で優等賞受賞した祝宴疲労。

■12月1日 憲政会山口県支部発会式が龍福寺で挙行。夜菜香亭で懇親会、加藤高明総裁、浜口雄幸総務委員の演説も行われた。

加藤高明(かとう たかあき/1860~1926)は尾張藩士の家に生まれました。三菱入社後、岩崎弥太郎に認められ、娘婿になりました。明治20年(1887)官界に入り、明治33年(1900)から外務大臣を歴任。大正2年(1913)桂太郎主導の立憲同志会に参加し、同年の桂の死後党首に就任。大正5年(1916)10月10日、立憲同志会と中正会・公友倶楽部が合同し、憲政会が結成され、総裁に就任。大正13年(1924)から総理大臣を務め、任期中に病死。
浜口雄幸(はまぐち おさち/1870~1931)は現在の高知市で林業を意ちなむ家に生まれました。大蔵省に入り、次官を勤めたあと大正4年(1915)立憲同志会に入党し、衆議院議員となります。加藤高明内閣で大蔵大臣、若槻礼次郎内閣で内務大臣を務めたあと、昭和2年(1927)憲政会と政友本党が合併してできた立憲民政党の総裁に就任、昭和4年(1929)
から総理大臣を2年間務めました。明治生まれの初の総理大臣でした。任期中に東京駅で襲われ、そのときの傷がもとで死去しました。


■菜香亭の宴会例3
12月11日 県会終了後に、県会議員懇親会。賓客として知事、郡長、町長、署長、新聞記者。
 階上大広間で待合中に余興として麻生梅芳による素人芸の義太夫、菅原伝授手習鑑の寺子屋の一席。七時から階下大広間へ案内され一同着席配膳。膳上には当夜の献立を刷物にして供えてあった。三十余名の芸妓が酒間を周旋。酒がまわったころあいに、二人の老妓による滑稽「喜撰」の一幕。つづいて仮装ダンス、芸妓が洋服男装、丸髷婦人、洋装婦人、
チャイナ服、女学生、男学生の姿に。ダンスのあとは小国旗をかざしてガチャガチャヒュドーンの大騒ぎに大うけ。十時解散。


 大正6年(1917)
■1月9日 広告
 料亭菜香亭は久保小路にも支店を出しています。 

 

 和洋お料理
  幷に御仕出し
 山口町久保小路(元大賀楼跡)
 菜香亭支店
 電話一七一番


■1月15日 山陽電気株式会社新年宴会。
待合時間中階上広間で足立蘆光による薩摩琵琶「威海衛」の弾奏。田口光三・吉見安太郎・中山岩吉三氏の鷺流狂言「末広がり」あり。

鷺流狂言=江戸時代には幕府の式楽として大蔵流・和泉流・鷺流が三大流派をなし、長州藩お抱え狂言方には大蔵流と鷺流がありました。明治維新によって各流派は衰退の危機に直面し、なかでも鷺流は家元が廃絶、かろうじて佐渡に本家仁右衛門派の流儀が、山口に分家伝右衛門派の流儀が町民によって現在にいたるまで伝承されています。

■大正6年 井上馨侯爵法要の為一族夫妻来山。有志による井上勝之助侯爵夫妻歓迎会。黒金前知事ら名士三十余名参加。芸妓の大内踊、山口の盆踊りあり、賓客の感興を博す。

井上勝之助(いのうえ かつのすけ/1861~1929)は井上馨の兄の次男として生まれ、のち馨の養嗣子となりました。大蔵省、のち外務省に勤めました。大正4年(1915)馨の死去に伴い侯爵を襲爵。大正6年(1917)12月から宮内省の宗秩寮総裁を4年間勤め、大正10年(1922)から式部長官を5年間勤めました。

■4月26日 当地の池坊華道同好婦人連による生花会開催。山口の池坊による初の展示会。

■9月23日 田中義一参謀次長、早川千吉郎ら商務省参事官の歓迎会開催。百三十余名参加。

田中義一(たなか ぎいち/1864~1929)は、父が藩主の駕籠かきを務める萩藩士の家に生まれ、萩の乱で初陣を飾りました。20歳で陸軍に入り、大正4年(1915)から参謀次長を務めました。大正7年(1918)からは陸軍大臣を務め、大正14年(1925)政党の政友会総裁に転身、昭和2年(1927)総理大臣に就任しました。

■10月7日 山口町碁客二段山田亀之丞主催県下囲碁競技大会開催。百余名参加。大広間で囲碁のトーナメント。

≪10月19日、山口市出身の寺内正毅が総理大臣に就任≫

■11月5日 大演習陪観のため東上の途中、特急列車の出るまで時間が空いたので、長谷川好道朝鮮総督、来山。菜香亭で歓迎会。

長谷川好道(はせがわ よしみち/1850~1924)は岩国藩士として生まれ、戊辰戦争に出陣。維新後は陸軍に入り、日露戦争後に陸軍大将に進級。大正4年(1915)元帥。大正5年(1916)伯爵。同年より3年間、総理大臣に就任した寺内正毅の後任として朝鮮総督を務めました。 

 

 大広間下の間に、長谷川好道の扁額が飾っています。
「和気致祥」(わきはさいわいをいたす)
 和やかな気持ちを保てば祥いをもたらすという意味です。


■12月7日 安部家伝来ならびに所蔵その他の書画骨董品総数八百点を売却する会が開催。売上総高1万3千円。
 森寛斎祝儀物双幅は1250円で下関市の井本氏落札。
 狩野常信三幅対は250円で下関市の安部氏落札。
 小田海僊松上鶴大幅は270円で下関市の古竹堂落札。

安部家は、現在の山口市道場門前(安部橋そば)に居を構えていた家です。江戸時代には山口町の大年寄役・年寄役を務めた有力町人でした。山口町の経済・文化に大きな影響力を持っていました。また、屋敷は脇本陣として利用され、維新期に大久保利通・黒田清隆などが滞在しました。


館長挨拶 施設概要 貸室利用案内 交通アクセス案内 月間行事予定 菜香亭トピックス 菜香亭サポーターズ リンク