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 ◎明治編
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  (以下、大正編に続きます) 
 
 
 

◆洋食堂オープン

 明治19年10月22日、地元の新聞「防長新聞」に次の記事が掲載されました。<1>
「●洋食会 これまで山口には西洋料理がないので西洋料理好きの先生方は東京出張の時を待っているという有様であるが、以前より紳士方が洋食会というのを設け、西洋料理店を山口に置くようにしたいとしきりに計画しているところ、今度いよいよ会員でコックを雇い入れ、諸器具などを買い入れ、祇園社内齋幸方で料理させることに決したと聞く。」<2>
 「祇園社内齋幸方」とは料亭菜香亭のことです。当時は「齋幸亭」という表記も新聞記事に散見されます。 
 そして明治20年7月1日、山口で最初の本格的西洋料理が食せる場として、料亭菜香亭に洋食堂が新たにオープンしました。7月3日付の防長新聞に次のように掲載されています。<3> 
「●菜香亭 以前より工事中だった祇園菜香亭の洋食堂新築は、さきごろ落成したので、おとといより三日間にわたって開業式を行い、人々を招待している」
 洋食堂は、料亭の建物とは離れて新築された2階建ての建物で、1階に調理場と日本間、2階に洋食室がありました。<4>
 当時山口県初代県会議長および防長新聞社長だった吉富簡一が、ここを「迎賓館」と呼ぼうと主唱しました。<5>


 ※現在の洋食堂。外観を昔のまま再現。内部の梁は昔のまま。<6>



【注】
<1> 防長新聞明治19年10月22日記事
    

<2> 国内および県内の洋食受容の歴史
   (青字は国内の動き。緑字は県内の動き。赤字は西洋料理に関する動き

・安政4年(1857)
下田条約締結
吉田松陰、松下村塾開く
長崎の日本料理店が西洋料理屋を兼業。 なかでも「先得楼」「迎陽亭」「吉田屋」は外人用に指定。

・文久2年(1862)
公武合体運動盛ん
横浜で牛鍋屋開業。

・文久3年(1863)
薩英戦争
藩庁が萩より山口に移る。下関戦争。
長崎に初の西洋料理専門店「良林亭」(のち「自由亭」に改名)を開業。最初は生家の六畳一間から開始。一人前は現在の金で一万八千円。

・元治元年(1864)
山口の祇園社(八坂神社)が山口大神宮境内より現在の位置に移る。
アーネスト・サトウを下関大阪屋に招いて伊藤博文が洋食を提供。メニューは、くろはぜを煮た料理、鰻の焼いたもの、すっぽんのシチュー、鮑の煮たもの、鶏肉の煮もの、柿の味醂づけ。食卓に醤油、塩、ごはん。 アーネスト曰く、「この饗応は、日本のこの地方で洋食の食事を出した最初のものだったに違いない」

・慶応3年(1867)
大政奉還。王政復古の大号令
東京に初の西洋料理店「三河屋」が開店、フルコース38品は、いまの米価で計算すると8万円以上した。
福沢諭吉、「西洋衣食住」を出版し、西洋料理の知識を紹介。


・明治元年(1868)
明治改元。天皇、東京に初めて入る。
木戸孝允、横浜でコーヒーの道具購入。

・明治4年(1871)
廃藩置県。廃刀散髪許可
浅草で牛肉屋繁昌。
初代県知事中野梧一赴任。中野の12月20日の日記に、山口客館で杉孫七郎らと「西洋料理を食す」とある。「これは当県旧士族にて西洋料理修行として大阪へ参り居る者、帰郷せし故その試しなり。この人宮内内膳撰挙のはずなり」

・明治8年(1887)
三審制開始。三菱商会、横浜-上海間の航路開く(初の外国航路)。
第二代県知事関口隆吉。住まいは安部本陣(翌年次男出生。のちの新村出)
宮中で正式に西洋料理が採用される。

明治9年(1876)
廃刀令公布。日本の人口3555万人。
萩の乱。
横浜のグランドホテルが日本初の本格的フランス料理始める。
築地精養軒が上野支店開業(上野精養軒) 。1ヶ月後、上野公園開園式に臨んだ天皇皇后両陛下が、帰りに精養軒に立ち寄り、各大臣、参議、各国公使、武官と盛大なる祝宴を賜ったのが最初の宴会。  


・明治10年(1877)
西南戦争。
料亭菜香亭、八坂神社境内に開業。
神戸、徳島、金沢、仙台で西洋料理店開業。

・明治12年(1879)
函館、熊本で西洋料理店開業。
岡山に初の西洋料理開業するも高価なことなどからすぐに閉店。


・明治13年(1880)
新潟、鳥取で西洋料理店開業。「手軽西洋料理法」(望月誠著)発行。

・明治14年(1881)
管弦楽が初演奏される。
大阪で西洋料理店開業。福岡で西洋料理の広告。

・明治14年(1882)
井上馨が天長節祝賀パーティを主催(日本初のダンスパーティ)。
松山、松江、鹿児島、福島で西洋料理開業。

明治16年(1883)
鹿鳴館開館。東京の明治会堂で西洋風舞踏会開催(ダンスパーティの初め)。
龍福寺に興隆寺釈迦堂が移建 。今道小学に国木田独歩少年転入(明治20年まで在住)
名古屋、佐賀、山梨で西洋料理開業。

明治17年(1884)
華族令公布。
「防長新聞」創刊。
仙台の西洋料理店が客少ないため閉店。すぐに別の店開店。

明治18年(1885)
初代総理大臣伊藤博文。
明治天皇、山口に行幸。
宇都宮、盛岡で西洋料理開業。銚子のヤマサ醤油が初めてウスターソースを製造。

明治19年(1886)
イタリア人チャリネ曲馬団興行大人気。
鮎川義介少年、この頃亀山付近に居住し、亀山でよく遊ぶ。
即席、和洋折衷料理店がふえる。例えば新橋新富楼では、パンと日本酒を添えた和洋折衷料理を25銭で売り出し、さしみ、酢の物、焼き魚に、ソップ、ビフテキ、フライ、サラダなどを組み合わせて客に供した。
長野、岐阜に初の西洋料理店開業。東京日本橋に珈琲の店開店(喫茶店の始まり)。福神漬が考案製造される。 東京女学校で教科に西洋料理を初採用。


明治20年(1887)
料亭菜香亭に洋食堂開室。宿屋の藤村六郎、下竪小路洋食屋開店(上五八銭、中三八銭、下二八銭) 。東京の新聞に、山口では西洋料理店が相次いで開業したので同地の牛肉の値段が高騰したとある。

参照資料
◎ミニ電子展示「本の万華鏡」第81回常設展示 西洋料理から洋食へ(国立国会図書館)
◎「明治西洋料理起源」 前坊洋著  平成12年 岩波書店
◎「とんかつの誕生 明治洋食事始め」岡田哲著 平成12年 講談社選書メチエ
◎「漱石、ジャムを舐める」河内一郎著 平成20年 新潮文庫
◎「新聞集成明治編年史」中山泰昌編 昭和57年 本邦書籍㈱発行
◎「木戸孝允日記」日本史籍協会 平成8年 マツノ書店
◎「中野梧一日記」 平成7年 マツノ書店  ◎防長新聞  ◎山口市史
 


<3> 防長新聞明治20年7月3日記事
    


<4> 洋食堂開設

(ⅰ)
明治10年当時の料亭平面図(昭和初期料亭主人作成変遷図より。以下同)

※左端の建物が創業当初の料亭菜香亭。その右に八坂神社の参道があり、さらにその右には、二軒長屋や元三国屋料亭というのが記載されています。


(ⅱ)明治20年料亭増築図

※明治20年に、二軒長屋に接して畠だった土地を買取り、洋食堂が新設されました。


(ⅲ)明治20年料亭増築図拡大

※八坂神社参道に面して入口がありました。


(ⅳ)明治20年料亭増築図 洋食堂拡大(1階)

※1階の部屋は日本間。その隣に西洋料理の調理場がありました(現在の事務室あたり)。


(ⅴ)明治20年料亭増築図 洋食堂拡大(2階)

※2絵画洋室で、畳31枚半の広さがありました。
 現在の2階へ上がる階段の位置に創業当初も階段があったことが分かります。


(ⅵ)明治28年刊行「古社寺取調書 吉敷郡神社(上)」(山口県文書館所蔵)より。

※右端の2階建ての建物が洋食堂。その左に八坂神社参道があり、参道から入る門があるのがわかります。参道の左の建物が創業当初の料亭菜香亭の建物。その左、現在は八坂神社参道になっているところに建物があり、その左に現在も残る写真館があります。


(ⅶ)明治末年撮影「亀山々顛より県庁を望む、其他 (山口市亀山公園)」(山口県文書館所蔵)より。

※右端の縦にならぶ建物群の真ん中が菜香亭の洋食堂ででしょうか。左側の建物は写真館。


(5)明治20年料亭増築図 記載

「二階洋室下日本間 迎賓館として故吉富簡一様御主唱推奨」
と記載されています。


(6)平成15年移築作業で洋食堂の梁をそのまま移している様子です。とてもよい材木が使われているとのことです。

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