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 ◎明治編
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  (以下、大正編に続きます) 
 
 
 
 
 
 

◆山口初の西洋料理

 料亭菜香亭の建物の移築後に、使われなくなった襖の下張から、明治時代後半の台帳が出てきました。<1>
 これらの中に、洋食のメニューが書かれたものがありました。当時のメニューがわかるというのは大変珍しいことです。ビフテキ、フーガデン、オムレツ、フライなどがよく食べられていたことがわかります。<2>
 食された方の名前に「隈本」とあります。<3> 山口では珍しい名字で、もしかしたら、明治24年から27年まで山口高等中学校の教頭を務めた隈本有尚かもしれません。<4>
 もしそうであるなら、明治24年7月に初代齊藤幸兵衛が亡くなっていますから、これらを書いたのは長男の2代目主人齊藤靏槌(鶴蔵)<5>とおもわれます。
 また、洋食器は明治30年に3代目主人齊藤泰一<6>が購入したのが現存しています。フランスのピリヴィ社製とオランダのペトルス・レグー社製<7>です。宮内庁にピリヴィ社製の食器が残されていますので、当時の高級食器だったとおもわれます。


※明治19年刊行「西洋料理法独案内」より会食図。
 当時の菜香亭でもこういう感じで食されていたのかもしれません。



 【注】
<1> 発見された襖の下張
 

  

(画像はH22年の企画展「料亭菜香亭の建具展~襖・窓硝子・欄干・鬼瓦~」より)


<2>
襖の下張から出た洋食メニューの一部
  弐 洋食
1 えびのフライ
2 フウガデン
   ミルクソース
   マメ
  洋食
 ヲムレツ
 キヂシチュー
   洋食二皿
 泡雪フライ
  アンチヨビソース
  ユズ
 トリシチュー
  ミルクソース
  ウラゴシ栗
   洋食
 かきフライ
   ユズ
 とり
  カツレツ
 ■ぬぎ
   洋食弐人前
一 パン
一 ソツプ
  ミルク
   玉子
一 エビフライ
   ユズ
一 ヲムレツ
   洋食
一 ビステキ
二 ヲムレツ
三 トリノシチユー
四 サラダ
ナシ 大弐ツ
■■はまぐり
 

<3>
隈本の名が記されたメニュー
   洋食弐皿
 パン粉フライ
 ハトシチユー
   玉ネギ
右隈本様
    洋食弐皿
  フイツシュソテー
   ミルクソース
  ○くずな半本
  小トリノグレヱー
  ○小とり弐羽
右隈本様
   壱人前
 ビステッキ
 フライ
 ヲムレツ
隈本様
   洋食弐皿
 キヂノカツレツ
  マワシイモ
 フウガデン
  ミルクソース
右湯原様



<4> 隈本有尚について
  隈本有尚(くまもと ありたか)【万延元(1860)年~昭和18(1943)年】
 藩士の子として久留米に生まれました。
 明治11年、東京大学理学部に第一期生として入学。卒業後、東京大学予備門教諭となり、夏目漱石・正岡子規・秋山真之らに数学を教えました。厳格な性格で、かつ、授業は英語で行い、そのために正岡子規らが落第。しかし子規や漱石ら生徒は、幾何学という西洋の学問を根本より会得したと、後々まで隈本を尊敬しました。
 明治18年、福岡の修猷館(現修猷館高校)初代館長に25歳で就任。
 明治23年、山口高等中学校の教頭(数学・天文・物理)に就任。
 修猷館での教育を評価され、明治24年赴任。表裏のない人格者で生徒に親切、英語で授業するが古武士的風格があり、生徒から一番人気があったといいます。当時の防長新聞の投票で地元の博識家1位に選ばれました。
 明治27年修猷館長に戻ります。その後は、東京高等商業学校教授、長崎高等商業学校初代校長などを歴任しました。

  ※山口高等中学校
 山口大学の前身。帝国大学への進学機関及び地方最高学府として全国に7校設立された高等中学校の1つで、明治19年設立、明治27年山口高等学校に改称。

  ※明治26年全国で話題の寄宿舎騒動
 隈本が厳格な教育で生徒に臨んでいるのに、寄宿舎では舎監職員2人が理の通らないことを行うので、生徒がストライキを起こし、かつ舎監を閉じ込めポンプで水責めにしました。三浦梧楼が仲裁し、全員退学のち復学。責任を取って隈本を含め職員は辞任しました。
  ※夏目漱石と山口高等中学校
 夏目漱石は明治27年、同校赴任を新任校長岡田良平から再三勧誘されましたが断っています。岡田(のち京大総長・文部大臣)は「赤シャツ」のモデルともいわれています。岡田の伝記では「寄宿舎騒動」は生徒が隈本に反発したことになっています。
  ※夏目漱石「坊っちゃん」
「坊っちゃん」の舞台は、始めは「中国辺」(山口)と書かれていましたが、「寄宿舎騒動」を題材に使用したために遠慮して「四国辺」(松山)に代えられたといいます。
(参照:防長新聞、「『坊っちゃん』とシュタイナー 隈本有尚とその時代」河西善治 ぱる出版)


<5> 2代目主人齊藤靏槌(甲兵衛)

  慶応元(1865))年1月24日生。明治32(1899(明治32)年10月6日没。 初代主人幸兵衛の長男。幼名靏槌。妻はモム。子どもは、長男吉之助(4代目主人)を含め二男三女。


<6> 3代目主人齊藤泰一(たいいち)

  明治6(1873)年8月8日生。昭和45(1970)年9月26日没。
  初代主人幸兵衛の四男。萩中学校に学び、明治20年代前半頃に上京。井上馨の書生をつとめながら上野精養軒で西洋料理の修業をしました。山口に帰郷後、フランス、ピリヴィ社製の洋食器を用いて、菜香亭で西洋料理を出しました。兄の三男徳蔵(帝国大学卒理学士)が早世したため、その妻ユキを娶りました。子どもは五男五女。明治32年兄甲兵衛が他界したとき、その長男吉之助が幼少であったため、家業を継ぎました。


 <7> ピリヴィ社製とペトルス・レグー社製の食器

 

「菜香亭の洋食器ピリヴィ里帰り展~3代目齊藤幸兵衛コレクション」(平成26年開催)にて展示しました。そのときの展示品より一部を紹介します。

 
グレーヴィー ボート(ピリヴィ社製)
 
蓋付深鉢(ピリヴィ社製)
 
クリーム入れ(ピリヴィ社製)
 
コーヒー ポット(ピリヴィ社製)
 
砂糖入れ(ピリヴィ社製)
 
蓋付深鉢 (ピリヴィ社製)
 
ゆで卵入れ(ピリヴィ社製)
 
阿蘭陀焼ペルシャの花図皿 (ペトルス・レグー社製)


※ピリヴィ(PILLIVUYT)
 フランスを代表する陶磁器製造会社の一つ。世界50ヶ国以上に販売網を持ち、愛用されています。
 1844年、シャルル・ピリヴィCharles Pillivuyt(2代目)が家業を受け継ぎ、1867年(パリ)、1878年(パリ)などの万国博覧会で受賞を重ねました。ピリヴィのデザインは、フランスらしい華麗な文様による皿や壺などが多い。
 泰一の購入したピリヴィの器底には、ピリヴィの商標が付けられており、そこには、2代目シャルル・ピリヴィの名や、1867年と1878年の万国博覧会で金牌を受賞したことが記されています。
 また、泰一は、自分がピリヴィの洋食器を1897(明治30)年に購入したことを自筆メモで残しているので、これらのピリヴィの製造年は、1878(明治11)年以降、1897(明治30)年以前のことと考えられます。
 ピリヴィは日本で菜香亭以外でもあり、「御即位十周年記念特別展 第六回展 饗宴-近代のテーブル・アート」展(宮内庁三の丸尚蔵館、2000・平成12年)図録には、ピリヴィの《菊花文カップ、ソーサー》(20世紀初頭)が掲載されています。

※ペトルス・レグー(PETRUS REGOUT)
 オランダの製陶会社。幕末から明治にかけて日本に銅版転写陶器(プリントウェア、阿蘭陀焼おらんだやき)を輸出しました。泰一の購入したレグーの皿と同じ模様の皿(寸法が異なる)が、神戸市立博物館に所蔵されています。


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