◆日露戦争のロシア兵捕虜

  ことし13回目の”アートふる山口”も市内外の人気をあつめてにぎやかに開かれた。この催しのあった大殿・竪小路を中心とする山口の歴史文化ゾーンには、明治時代まだ山口町の頃に異国人集団が一時期居留をし町民をおどろかせている。
 1904(明治37)年・1905(明治38)年の日露戦争で日本軍の捕虜となったロシア軍の将兵は7万2千に及び、松山、姫路、福岡など日本各地29ヶ所に収容されたが山口町にも546名が収容された。
 山口市史1955(昭和30)年版に以下の記述がある。―1905(明治38)年4月4日、奉天(現瀋陽)から護送されたロシア兵捕虜約500名が広島の宇品から山陽鉄道で小郡に到着、見物の町人がひしめくなか護衛されつつ徒歩で洞春寺、瑠璃光寺、龍福寺、法界寺の収容所に各々入った。2日後には捕虜将校の一行100名も小郡着、直に馬車で70名は祇園菜香亭へ、30名は伊勢小路の来島亭(後の愛山荘)に収容される。菜香亭では大広間を区切り寝台と椅子を持ち込み玄関には第一捕虜収容所の看板が出され一般町民の出入は禁止された―と。
 当時の新聞報道によると捕虜への対応は山口連隊の管轄であったが国際法に基づき比較的寛大で、将校・兵士共に湯田温泉へ入浴、将校は市中見物と商店街での買物を許可され、兵士は香山園を散歩し大殿小のグランドで運動するなどのゆとりもあり、食事もパンやスープが提供されたが菜香亭はすでに1887(明治20)年には西洋料理部を開店していた。
 収容所は1906年(明治39)年早春には閉鎖され捕虜たちは帰国したが、当時を偲ぶ資料がアートふる山口のエリア内に残存してはいないか気になる明治の山口でもある。


(平成20年10月25日発行第12号掲載)