◆山口市菜香亭あれこれ

 関ヶ原以後、山陰側の萩に閉じこめられていた長州藩は、1863年に藩庁を山口に置き第二次長州征伐のあと1866年以降は政事堂として防長二州を治めた。
 当時萩にあって藩の膳部職(台所支配人)をしていた斉藤幸兵衛は山口に移住し、他県からの来訪者供応の迎賓館的役割をもつ料亭を開業したが、亭名を後の外務大臣井上馨が斉藤の斉と幸兵衛の幸になぞらへて「菜香亭」と命名する。1864年に井上馨が山口政事堂での会議のあと暴漢に襲われ重傷をおってから10年以後のことで、以来菜香亭は山口市だけでなくけんないはもちろんのこと県外からの政財界人や文化人が活用する料亭として、明治、大正、昭和、平成と130年に及んでのれんに料亭文化を織り込んできた。
 菜香亭には古い日本料亭の特徴を示す152畳敷の大広間がある。かつて日本の代表的な「お座敷」としてテレビ中継されたこともあった。
 この大広間に近代日本の歴史の歩みを感じさせる扁額が並ぶ。
 亭名の名付親である井上馨をはじめ、明治の元勲といわれる伊藤博文、木戸孝允(桂小五郎)、山県有朋、とつづき山口県出身の総理である田中義一、岸信介、佐藤栄作もあるがいづれも自筆であり各々の人間味や個性が感じられる。
 個性といえば1897年に金沢の第四高等学校から、旧制山口高商の前身山口高等学校へ哲学の教授として西田幾多郎が赴任している。西田幾多郎全集の西田日記に次の記述がある。
 1月29日、午後雪舟寺に遊ぶ。
 1月30日、吉敷の滝を見る。
 2月25日、午後より菜香亭にて会あり。
 政財界の奥座敷であったばかりでなく、学都山口に在任した教授陣からも利用され、また旧制山口高商や旧制山口高校の学生たちのコンパの場ともなった。
 ともあれ菜香亭を全国版にしたのは、大正末期に作家の久米正雄が雑誌婦女界に連載した菜香亭を舞台とする小説「天と地と」であった。
 このほか菜香亭は1887年には山口で最初の西洋料理部も開設し、1905年には日露戦争のロシア軍将校の捕虜も収容されている。
 文化庁は料亭として歴史文化の空間を守りつづけたことに価値があるとの菜香亭調査結果を報告している。
 市民に親しまれ、新しい町づくりを創造する山口の文化発信の場でありたい。


(平成17年7月15日発行第2号掲載)