◆菜香亭の洋食あれこれ

 明治初年、菜香亭が市内八坂神社脇に開店した頃、山口出身の井上馨が店主斉藤幸兵衛の名前を借用し亭名を菜香亭として以来、『祇園菜香亭』を訪ねた政、財、文化の人たちが遺した筆蹟は山口市史の証でもある。
 それは蒐集された著名者の筆蹟ではなく、菜香亭を直接に訪れ、古いことばで表現すると文人墨客たちの筆蹟なのである。
 明治日本の総理伊藤博文は帰郷の際には菜香亭で酒宴を開き、当時として珍しいワインを飲むなどの会席内容の記録が菜香亭に保存されている。
 菜香亭主人斎藤幸兵衛の三男泰一は、井上馨に紹介されて東京上野・精養軒でも働き西洋料理も修得する。
 西洋料理は、文明開花を語ってあます所がないと解説する岩波書店「明治西洋料理起源」に、東京は精養軒、大阪自由亭、横浜崎陽亭、そして山口菜香亭と熊本開陽亭などが明治の西洋料理起源で記述されている。
 1887(明治20)年に菜香亭は本館の一部に西洋料理部屋を開設する。それは山口ではじめての西洋料理提供となった。
 洋食が提供できたせいか1904〜1905(明治37・38)年の日露戦争のとき、ロシア軍の将校捕虜数十名が菜香亭に収容され大広間の畳は裏返しにされたという。
 菜香亭に現在も保存されている扁額は伊藤、山県、木戸など明治期の人たちや、寺内、岸、佐藤、田中角栄、竹下登の大正・昭和期それに平成の安倍晋三など保守系だけでなく加藤勘十など革新系もある。また政界の来亭者のみでなく大正末期には作家久米正雄が菜香亭を主題にした小説「天と地と」を婦人雑誌に一年間連載する。
 周南市出身の写真家林忠彦は2階から菜香亭大広間の大屋根を眺め丸い眼をさらに大きく開いた。


(平成24年9月26日発行第26号掲載)