◆料亭ばなし

 ……だが、不二楼主人としての与兵衛はしっかりものの女房およしと共に商売へ打ちこみ、このあたりの料理茶屋の中では屈指の繁盛を誇っている……これは池波正太郎「剣客商売−赤い富士」に出てくる隅田川河畔の料亭不二楼を書いたものである。
 武士階級から町民に至るまでの酒客を対象とした料亭が江戸に現われたのは、「日本食生活年表」によると1701年(明和8)に深川州崎に升屋宗助が会席料理の店「望汰欄(ぼうだらん)」を開店したのが最初で、幕府老中は田沼意次時代となり江戸市中には、すし、そば、おでん、燗酒の屋台が多くみられるようになる。江戸料理で名高い八百善が山谷(さんや)に開業したのは1803年(享和3)のことであった。1830年代(文化・文政)の頃になると、江戸の料理店は6000軒といわれ、各藩の江戸留守居役や、庶民の職人衆で賑わったという。前述の剣客商売の舞台となった不二楼もこの時代のことである。
 当時江戸の料亭で五指に入るものとして町奉行は八百善、百川、平清、清水楼、川口をあげており、そのうち百川はペリー来航のときの招待料理を担当し、江戸で初めてテーブル席での料理を出した。
 江戸が東京に変わり、慶応が明治になっても、会席膳による料理文化は引きつがれてきた。東京ばかりでなく京都、大阪、名古屋、博多など、とくに戦災をうけなかった地方都市には御座敷の雰囲気を維持している料亭が残っている。
 菜香亭も百川と同じように明治時代にテーブルによる西洋料理を山口市ではじめて提供しているし、大広間には日本の料亭の面影が強い。

  香り名高き菜香亭の酒と肴に
      ヨイトサ夜が更ける

 往時の山口御座敷小唄の一節である。