◆企画展「料亭の屏風絵展〜華麗なる調度品〜」


 ◎平成25年3月2日(土)から4月7日(日)まで、大広間で、山口お宝展参加企画「料亭の屏風絵展〜華麗なる調度品〜」を開催しました。


 料亭菜香亭では、数々の屏風を所蔵しており、公民館式結婚式などで使用されていました。(左画像は白石地域交流センター所蔵)
 



 このたび、その料亭菜香亭で使用されていた屏風を5点展示しました。
 こちらは雲谷等■(らく=王+楽)の作品です。
 雲谷派は山口県で栄えた地方最大派閥の画派で、等らくの作品はこれぐらいでしょうか。貴重な屏風です。
(※展示した屏風の解説は下記に掲載しています)
 結婚式でも使われた屏風。懐かしい方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 




◎展示屏風解説

■柳に孔雀・鳳凰図屏風 雲谷等●(うんこく とうらく)筆 6曲1双
 背後を全面の金地として、右隻に柳樹、つがいの白孔雀を描き、左隻に同じく柳樹と優雅に舞い飛ぶ白い鳳凰を描いた鮮やかで装飾性に富んだ屏風である。江戸中期にかかる頃の作品であるが、描く景物をかなり近接拡大化し、それらを大胆に配する構成は、桃山期の大画形式を思わせる古様な雰囲気ももっている。ただ、そのすっきりと整理された構図は、江戸期以降の総金地屏風の典型的なスタイルといえるだろう。作者の雲谷等●[生年不詳〜宝永4年(1707)]は、雲谷等作の長男として生まれ、寛文11年(1671)に父親の家督を継ぎ、法橋にも叙せられた画家であるが、現存する遺作は比較的少ない。

■柳・竹図屏風 作者不詳 6曲1双
  金地の6曲の画面に柳と竹を描き分けた水墨作品。 残念ながら落款を欠くため、作者を確定できないが、その画風から江戸初期から中期にかけての雲谷派の画人による作品と位置付けたい。 簡素な絵柄であり、いささか平面的な描写であることは否めないが、竹の描写に見られるしっかりとした力強い筆致や、片隈風に描かれた雪が積もる柳の枝の伸びやかな描法などには、作者の画技の高さを見てとることもできる。 類作などとの関連から、寛文から元禄期に活躍した画家、雲谷等?(うんこく とうはん)あたりを髣髴とさせる画風をもった作品といえる。

■山水人物花鳥図屏風  伝 雲谷等益(うんこく とうえき)筆 6曲1双
 人物、花鳥、山水、走獣などの絵が、押絵貼り形式で各扇に貼りつけられた屏風である。また、各扇にはそれぞれ「雲谷」の白文瓢印と「等益」の朱文方郭印が捺されている。このことにより、この絵の作者は萩藩お抱え絵師集団の雲谷派の2代目である雲谷等益と考えることになるが、残念ながら捺される印は等益の基準印とは異なるもので、等益以後の雲谷派画人が等益の作品を模写したものであろうと推測される作品といえよう。画風も等益のスタイルをかなり忠実に祖述しながら真、行、草の三体に描き分けたものであるが、なかには等益スタイルと異なるものもあり、等益の手本のないものを描き足した可能性もある。

■山水図屏風 佐伯圭山(さえき けいざん)筆 2曲1双
 佐伯圭山[享和3年(1803)〜明治11年(1878)]は、名を敞、字を藻壁、通称を季八、驪八郎、また桂林、痴絶とも号した。絵を萩藩お抱えの南画家、林百非に学び、また兵学を吉田松陰に学んだという。かつて師の松陰は、圭山のことを体格が堂々として、清貧の生活ながらも剛毅の気風をもった人物だったと評している。
 「山水図屏風」は、おそらく四季の山水を水墨で四面に描いた作品とみられるが、雄大な景観をその独特な皴法(岩などの皴の描き方)を駆使して描ききっている。この作品で見せる柔らかい筆さばきと、スケールのある大画面に迫力ある山水を展開するその構成力には、萩藩における幕末期南画系画家の名手として、林百非や矢野括山らと並び称せられる圭山の面目躍如たるものがある。

■松鶴図屏風 大庭学僊(おおば がくせん)筆 2曲1隻
 大庭学せん[文政3年(1820)〜明治32年(1899)]は、名を百合吉、四郎。はじめ南江と号して、字を王鶴といった。徳山の刀鍛冶であった三好與次兵衛の二男として生まれ、やがて長ずるに及び朝倉南陵、原文暉らに絵を学んだといわれ、京都において同じ周防出身の小田海僊に師事した。幕末期に萩の町絵師として活躍したのち、明治以降は東京において、絵画共進会や各種の博覧会に出品、中央画壇の中心作家として活躍した。
 「松鶴図屏風」は、松樹に二羽の鶴がたたずむ祝儀的意味あいをもつ屏風であるが、端正な画風のなかにも、南画的な柔軟な筆致と、的確で写生的な描写が融合された幕末期から明治初期にかけての典型的な折衷画法を見てとることも可能な屏風である。


◆特別展 屏風絵 華麗なる調度品
 屏風は「風を屏(ふせ)ぐ」という字意からもわかるように、風や人目を遮蔽するための調度品として使用された。古代中国では「い」と呼ばれる衝立を席の後ろに立て、天子の権威の象徴としたともいわれている。「屏風」という名称は、すでに中国の前漢の時代には文献に表れ、その表面上に絵を施す「屏風絵」も描かれたとされている。また六朝時代には、漆や螺鈿などを用いた装飾的な屏風も流行したといわれる。
 一方日本においては、7世紀後半の白鳳時代に、新羅(しらぎ)からもたらされた進物品のなかに「屏風」の名称を見出すことができる。さらに奈良時代には、『東大寺献物帳(けんもつちょう)』に宮廷の調度として「屏風」と記されるとともに、実際に現存するものとして正倉院遺物のなかには8世紀頃の制作とされる「鳥毛立女屏風(とりげりゅうじょびょうぶ)」など数点の屏風がある。ただ、奈良・平安時代の屏風は、現在のような形式ではなく、各面ごとに縁(ふち)をめぐらせて、革紐などでつないだ、あたかもパネルを連結したような形であって、前後に折れ曲がり可能な蝶番(ちょうつがい)による自立形式である現在のような屏風が登場するのは鎌倉時代以降のことである。
 さらに屏風は、中世以降、諸外国に対する日本の輸出品や贈答品としても重宝され、遣明船の朝貢品にもしばしば使われた。たとえば文書に記された例として、室町時代に権勢を誇った大内氏(大内義隆)が、中国への献物用として天文10年(1514)に狩野元信へ「三十五貫文」で屏風一双を注文したことなどがあったという。 室町時代に、この周防の地に住んで活動した雪舟も、大画面の屏風をかなり制作したと思われ、現在その真筆として知られる京都国立博物館蔵の花鳥図屏風(旧小坂家本)などもある。また近世初期にはヨーロッパとの交易品、つまり南蛮貿易の輸出品としても屏風は使われた。「ビオンボ(BIOMBO)」と発音されるポルトガルやスペインで使われる単語は、まさにこの屏風形式の衝立をさす語であり、当時日本からもたらされた屏風から生まれた言葉であった。
 このたびの展示は、上述のような古い時代の屏風ではなく、近世(江戸時代)から近代(明治時代以降)にわたる比較的新しい時代に制作された屏風絵が中心となっている。それらの画題も、山水から花鳥、人物など様々で、ヴァラエティーに富んでいると同時に、横長の大画面をうまく利用した構成、あるいはいくつかの個別の画面を貼り交ぜたものなど、その形式もまた変化に富んでいる。公式儀礼やお祝いの席などを飾ったこれらの屏風が、どのようなハレの場を演出したのか、そうした思いや想像を浮かべながら鑑賞することも楽しいことでしょう。
 (企画展監修 菊屋吉生 山口大学教授)

菊屋吉生プロフィール
菊屋吉生(きくや よしお)  山口大学教育学部教授  専門は美術史(とくに近世、近現代絵画史)
主な論文・著書
『昭和の美術』(毎日新聞社、共著、全6巻、1990~91年)
「感性の眼から理性の頭脳へ―昭和前期の新しい日本画」(『日本美術絵画全集23』講談社、1993年)
『山口県の美術』(思文閣出版、共著、1995年)
『日本美術館』(小学館、共著、1997年)
「昭和前期における院展とその派生団体との関係」(『日本美術院百年史第7巻』日本美術院百年史編纂室、1998年)
「珊瑚会論考」(『美術研究第377号』東京文化財研究所、2003年)
「大正初期から中期における小団体、小グループの相関関係―行樹社と八火会を中心として―」(『大正期美術展覧会の研究』東京文化財研究所編、中央公論美術出版、2005年)
『大正期新興美術資料集成』(国書刊行会、共著、2006年)
『別冊太陽 東山魁夷 日本人が最も愛した画家』(平凡社、監修・共著、2008年)など。