君を抱きたいと、何度思ったことか。








薄暗い天幕の中。

ヒースは寝転がったまま首だけを横に向け、となりに眠る娘を見る。
月明かりが娘の横顔を照らし、そのなめらかな皮膚は仄かに発光して見えた。

娘は彼の恋人である。二人の関係に気付いた仲間が時々、
気を遣ってこのように二人きりにしてくれることがあった。

しかし、ヒースにとってこの時間は苦痛でしかない。

彼は彼女がとなりに眠っていても指一本触れようとしないのだ。
それは彼は彼女の身分を知ってから、最も禁じていることだった。
彼女は大国エトルリアの名門、カルレオン家の令嬢である。

自分とはあまりに身分が違いすぎて、共に暮らそうなどとは口が裂けても言えない。
いずれは必ず別れなければならぬ人。
ならば、彼女に男の匂いを残してはいけない。
自分のことを忘れ、身分の釣り合った男と幸せになるために。

彼はそう思っていた。




―――このまま時が止まってしまえばいい。


ヒースは彼女を遠くに連れ去って、永遠に自分のものにしてしまいたかった。
それは彼にとっては雑作もないことだ。
無理やり連れ去って、彼女がどんなに抵抗しても一生閉じ込めて離さなければいい。
彼にはそれだけの力があるし、彼女がそれを許してしまうくらい自分を愛していることを知っている。

でも、彼女がどれほどカレルオンの義父母を愛しているのかも彼は知っていた。


彼女の思いを踏み躙ってでも自分の思いを通そうなどと、
そんな非情なことはヒースにはできなかった。

彼は優しすぎた。

自分の幸せより、娘の幸せの方が遥かに大事だった。





ヒースは体を起こし、娘を見下ろす。

あと数センチ手を伸ばせば、柔らかな赤銅の髪に届く。
もう数センチ手を伸ばせば、穏やかな寝息をこぼす唇に届く。

手を宙に彷徨わせたまま、ごくり、と息を呑んだ。



―――遠い。

彼女までの数センチが果てしなく遠かった。













「抱いてください」



ふいに娘の唇が動き、ことばを紡いだ。

ヒースは驚いて目を見張る。





瞳を閉じたまま、娘は続ける。



「ヒースさん、わたしはあなたを忘れるつもりはありません」



娘の瞼がゆっくりと開く。


深緑の炎。


そこには堅い決意を秘めた瞳があった。




呆然と見つめるヒース。

娘は体を起こした。
若草色のヒースの瞳をまっすぐ見据える。


「あなたにも、わたしを忘れて欲しくないのです」


震えるヒースの口元を、細く冷たい指が這う。
口元を這った指は、ゆっくり移動し、彼の頬を撫ぜた。

娘は祈るように、優しくヒースに触れる。


「連れて逃げろなんて言いません」



娘の両親への愛を知っているヒースが、そんなことを言うはずがないと
ヒースを愛している娘自身が、よく分かっている。



「でも、わたしを・・・忘れないで欲しいんです」


恐る恐る、ヒースが手を伸ばす。
娘は彼の頬に指を置いたまま、再び目を閉じて彼の指を待った。


「君を抱きたいと、何度も、何度も・・・思ったんだ。
その度に必死に耐えてきた。でももう・・・耐えられそうにない」


ヒースの硬い皮膚が、娘の青白い頬に触れた。


「弱い俺を許してくれ・・・」


娘の咽喉から、はぁっ、と深い吐息が漏れる。


「どうしてあなたが謝るのですか。これは私の我侭。
望んだのはわたし。弱いのは、わたしなんです・・・」



「・・・プリシラ・・・さん」


ヒースが呻くように娘の名を呼んだ。
熱を孕んだ低い声が脳髄を駆け抜け、背筋が泡立つ。

頬を辿る指。その感触。温もり。

永遠に得ることができないと思っていたものを得る事ができた。

プリシラは歓喜の涙を流した。



「・・・待っています、いつまでも」



背骨が軋むほど強く抱き締め合う。








互いの吐息が混ざり、

唇が触れあう瞬間。




「愛しています」




どちらともなく、囁いた。