遠ざかる後姿に、娘は祈る。 ―――他の人を愛してもいい。 ―――でも、どうか私を忘れないで。 ”必ず迎えに来ます” そういって飛竜に跨り、飛び去った男は 愛した娘の元へ二度と訪れることはなかった。 迎えに来ると、男が口にしたときから娘には分かっていた。 それは嘘だと。もう二度と会えないのだろうと。 どんなに彼女が会いたいと願っても、 娘はエトルリアの伯爵令嬢。男はベルンの逃亡兵。 二人の間にある絶対的な身分の差。 彼女は身分など気にしなかったが、 男は彼女の名誉のために、 そして彼女を慈しみ育てた養父母のために、 決して会いに来ないだろうと。 それでも娘は待った。 誰の元にも嫁がず老女となり、 こうして病を得て動けなくなっても 来ない男を待ち続けた。 「ヒース」 深い皺が刻まれた老女の目元を 涙が伝う。 飛竜に跨り戦う、その勇猛な姿。 柔らかい若草色の髪。 すこし青味がかった深緑の瞳。 わらうと八重歯が覗く口元。 彼女の名を呼ぶ、低く優しい声音。 硬く、節くれ立った暖かな手指。 目を閉じれば、彼女の瞼は在りし日の男の像を 寸分たがわぬ姿で描き出した。 どんなに月日が経っても、彼はいつもそこにいた。 深い孤独の中にあっても、 それだけで彼女は幸せだった。 ベッドの傍の窓から穏やかな風が吹き込み、カーテンを揺らす。 殺風景な部屋の中央には簡素なテーブル。 上には小さな鉢植があって、勿忘草が一株植えてあった。 その小さな青い花は、主の運命を知っているのか、 首を垂れて悲しげに揺れた。 「ヒース・・・」 かすかに布ずれの音がして、 老女の腕が力なくベッドから滑り落ちた。 ―――迎えに来たよ、プリシラさん。 ―――あぁ・・・やっと来てくださいましたね。 遠のく意識の中で老女は夢を見ていた。 別れの日から何度見たか知れない、幸せな夢だった。 飛竜の羽ばたく音と共に、 男が自分を迎えに来る夢。 ―――あなたがあんまり遅いから、私はすっかり皺だれけですよ。 優しく微笑み、ヒースが手を伸べる。 プリシラは手を伸ばし、その手をとった。