防府市(ほうふし)の史跡

@宮市(みやいち)
秋良貞温の墓
あきらさだあつのはか


長州藩家老浦靭負(ゆきえ)の家臣。明倫館で学び、松陰の父や玉木文之進とも親しかった。また、尊王攘夷思想家で月性とも交遊が深かった。維新後は教部省で諸神社の宮司を務め、1890年(明治23)年に80歳で亡くなりました。お墓は、国分寺霊園の一番高い場所にあります。

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防府天満宮
ほうふてんまんぐう


奇兵隊は防府での本陣を桑山(くわのやま)に置きました。そして、天神山の防府天満宮には応援の陣を置きました。

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暁天楼
ぎょうてんろう


暁天楼は宮市で旅篭を営んでいた「藤村屋」の建物の一部で、一階は漬物置き場、二階は隠れ座敷になっていました。
幕末には志士達の密議の宿となり、竜馬、中岡慎太郎、高杉晋作、桂小五郎らがここを訪れています。現在ある建物は復元再建されたものです。

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大泉坊
だいせんぼう


防府天満宮の中の九つある社坊の一つで、幕末には諸士の屯所となりました。

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宮市の本陣跡
みやいちのほんじんあと


兄部家(こうべけ)は鎌倉時代から続く旧家で、都濃、佐波、吉敷郡内の合物(塩魚・干物)を手広く扱った豪商です。宮市では本陣を務めました。

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岡本三右衛門旧宅跡
おかもとさんえもんきゅうたくあと


岡本三右衛門家は繰綿や木綿を扱う商家でした。久坂玄端をはじめとする志士たちを援助し、中谷正亮、大楽源太郎らも出入りしました。
また、1862年(文久2)2月3日の中谷が久坂に寄せた手紙には、竜馬がここにに滞在していることが記されています。

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A三田尻(みたじり)
桑山
くわのやま


諸隊のひとつである御楯隊の調練の場所となりました。

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御堀耕助の墓
みほりこうすけのはか


御堀耕助(太田市之進)は長州藩士で、御楯隊の総督を務めました。1868年(明治元)、山形有朋らと共にヨーロッパ視察に行きましたが病気のために帰国、1871年(明治4)5月13日に亡くなりました。享年31歳。
桑山公園内にある防府市護国神社の本殿裏にあります。
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野村望東尼の墓
のむらもとにのはか


桑山(くわのやま)の山腹大楽寺域にあります。

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貞永屋敷跡
さだながやしきあと


現在の防府高校の体育館のあったところに、大庄屋格の貞永庄右衛門(さだながしょうえもん)の屋敷がありました。貞永庄右衛門は塩田から得られる収入で、長州藩に多額の献金をしています。また、高杉ら多くの志士が訪れています。

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野村望東尼終焉の宅
のむらもとにしゅうえんのたく


野村望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れです。「望東尼終焉之地(もとにしゅうえんのち)」があったところから、ここに移築されました。

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梅田幽斎の旧宅跡
うめだゆうさいのきゅうたくあと


梅田幽斎は蘭法医です。大村益次郎は18歳の時に梅田幽斎の門下生となり、ここで医学を学びました。

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望東尼終焉之地
もとにしゅうえんのち


野村望東尼は、1867年(慶応3)62歳で亡くなりました。その時まで住んでいた家(野村望東尼終焉の宅)は、大楽寺の下に移築されています。

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正福寺
しょうふくじ


三田尻の御茶屋に滞在中の七卿警衛のため、奇兵隊は、1863年(文久3)9月に下関を引き払い、同月5日には小郡・秋穂に移り、さらに同月25日に三田尻に移りました。その際に奇兵隊が本陣としたのがこのお寺です。

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三田尻の御茶屋跡
みたじりのおちゃやあと


脱藩した竜馬は、上関より船で三田尻に上陸し、長州藩の公館三田尻御茶屋の中の招賢閣(しょうけんかく)に宿泊しました。


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三田尻の本陣跡
みたじりのほんじんあと


五十君(いぎみ)家は三田尻の本陣を務めるとともに、酒造業を営んでいました。当時は宮市の兄部家とともに、代々の藩主の初入国の際には、肴と酒を献上する豪商でした。

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梅田幽斎の墓
うめだゆうさいのはか


お墓は防府市光妙寺にあります。

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住吉神社の石造灯台
すみよしじんじゃのいしづくりとうだい


三田尻は萩城に往来する表玄関として栄え、御船蔵の港口には灯台が建てられました。

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三田尻御船倉跡
みたじりおふなぐらあと


1611年(慶長6)に長州藩の水軍の本拠地である御船倉が、下松より三田尻に移されました。御船倉には藩主御座船仁風丸のほか大小の船が常置され、修理所としての作事蔵・御船具蔵などの倉庫が立ち並んでいました。

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三田尻塩田大会所跡
みたじりえんでんおおかいしょあと


塩業は多くの人の関与が必要であったため、統括する機関として各塩田所に会所が置かれました。そして、その各会所の中心となったのが大会所です。

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釜屋の煙突
かまやのえんとつ


釜屋は塩水を煮つめて塩を取り出すための建物です。長州藩による「防長四白(塩・紙・米・蝋)」の一つとして奨励されたこともあり、三田尻浜では塩業が盛んに行われました。三田尻塩田記念産業公園の中に当時の煙突が残っています。

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光宗寺
こうしゅうじ


萩西田の商人らで編成された市勇隊(しゆうたい)の屯所となったお寺です。また、1867年(慶応3)11月、奇兵隊は薩長同盟に基づいて他の諸隊とともに京都へ出陣するために、華浦に転陣しましたが、その際に正福寺から光宗寺に本陣が移されました。

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妙玄寺
みょうげんじ


奇兵隊が正福寺から華浦の光宗寺に本陣を移した際、妙玄寺は、一・二・三・四番砲隊の陣所にあてられました。

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中根市之丞の墓
なかねいちのじょうのはか


幕府の使番である中根市之丞ら一行は、長州藩が関門海峡で外国艦を砲撃したため、それを中止させるために命令書を長州藩に持参しました。しかし、小郡の三原屋で長州藩の諸隊士に襲われ、逃げた中根も中関西泊沖で殺されました。その後、中根が殺された中関西泊の岩場に慰霊の碑が建立されました。防府マリーナの敷地を通行し(事務所に一声掛けて下さい)防波堤の上を島裾側に行って、テトラポットの下をくぐって降ります。そして慎重に岩場を歩けば女性でもたどり着けます。ただし、干潮の時でないと無理です。


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 <潮汐表>

B江泊(えどまり)
法輪寺
ほうりんじ


奇兵隊が正福寺から華浦の光宗寺に本陣を移した際、法輪寺は病院にあてられました。

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C勝坂(かっさか)
勝坂砲台跡
かっさかほうだいあと


1863年(文久3)長州藩は、新しく政治の中心とした山口を外的から防衛するために、勝坂に関門を設置し、東西両側の高地に砲台を築きました。

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D佐野(さの)
籠立場
かごたてば


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E大道(だいどう)
大楽源太郎の碑
だいらくげんたろうのひ


大楽源太郎は、1832年(天保3)に萩藩家老・児玉若狭臣山県信七郎の長男として誕生しました。そして12歳の時に大道に来て、同じ児玉家家臣・大楽助兵衛の養子となり大楽家を継ぎました。その後、月性の「清狂草堂(せいきょうそうどう)」で学び、梅田雲浜、西郷隆盛らと交友を深め、親友の久坂玄端らと国事に奔走しました。繁枝神社には、大楽の石碑が建てられています。

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大楽源太郎の墓
だいらくげんたろうのはか


長州藩士大楽源太郎は、大村益次郎暗殺未遂事件の疑いを掛けられ九州に逃げました。しかし1871年(明治4)3月16日、潜伏先である久留米の高野八幡宮で暗殺されました。享年40歳でした。久留米の遍照院にもお墓があります。
お墓の入口に案内があります。その近辺に車を置いて、山道を5分ほど上がればお墓があります。

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西山塾跡
せいざんじゅくあと


大楽源太郎は1866年(慶応2)5月、郷里の大道に西山塾を開きました。しかし、1869年(明治2)に門下生の神代直人・団伸二郎・大田瑞太郎らが大村益次郎を襲撃する事件を起こし、大楽は首謀者して処分を受けました。また、陸軍の大将・寺内正毅もここの門下生です。

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妙蓮寺
みょうれんじ


大楽源太郎は、大村益次郎襲撃事件の首謀者として大道から山口に連行されました。しかし、途中、山口の小鯖付近で捕り方から逃れここに潜伏しました。そしてその後、姫島に脱出しました。

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団伸二郎の墓
だんしんじろうのはか


団伸二郎は大楽源太郎と同じ児玉若狭の家来で、西山塾の門下生でした。1869年(明治2)9月4日、同じ塾生である神代直人・大田瑞太郎らとともに大村益次郎を襲撃し、共犯者である久保田藩の金輪五郎、越後の五十嵐伊織らとともに北陸方面に逃走しました。しかし、同年9月7日に捕らえられ、他の共犯者である奥州白河の伊藤源助、信濃藩の関島金一郎とともに、同年12月29日、京都粟田口刑場でだん斬罪に処せられました。

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F富海(とのみ)
大和屋政之助の墓
やまとやまさのすけのはか


富海の飛船問屋、大和屋政之助のお墓です。大和屋政之助は、高杉晋作の下関脱出を助けたり、中山忠光をかくまったりした、幕末の志士を支えた商人です。

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富海の本陣跡
とのみのほんじんあと


富海は徳山藩に属し、山口県内を通る山陽道で海に面するただひとつの宿場でした。ここの本陣は、東隣の福川宿や西隣の宮市宿が混雑する時に利用されました。

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大和屋の舟倉
やまとやのふなくら


2階が客室、1階が台所や物置、地下室が倉庫になっていて、船を地下倉庫に直接横付けして乗客や荷物を乗せました。高杉晋作や中山忠光卿ら多くの志士がかくまわれました。

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入本屋礒七宅跡
いりほんやいそしちたくあと


1864年(元治元)6月、イギリスから急きょ帰国した井上馨と伊藤博文は、横浜港に到着し、その後姫島に渡り富海の入本屋礒七宅に上陸しました。そして、山口の政治堂に向かいました。

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伊藤井上両公上陸の跡
いとういのうえりょうこうじょうりくのあと


上記の入本屋礒七宅跡(現、宇多村家)の庭に、井上馨と伊藤博文が上陸したことを示す碑が建てられています。

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