美祢市(みねし)の史跡

@伊佐(いさ)
奇兵隊本陣跡
きへいたいほんじんあと


山形有朋ら諸隊は、三条西季知(にしすえとも)・四条隆謌( たかうた)の両卿を警備して萩に向かうため、伊佐に転陣していました。その際、諸隊は大庄屋格の酒造家・池田猪右衛門宅を本陣としました。

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酒造家の村上宅
しゅぞうけのむらかみたく


諸隊が伊佐に転陣した際、山形有朋は市年寄で酒造家の村上宅(現、野村酒店)に泊まっていました。

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友善塾跡
ゆうぜんじゅくあと


1856年(安政3)、文武の稽古場として、在郷藩士の三戸久五郎・高木謙蔵・志道源蔵らが創立しました。

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A河原(かわら)
専正寺
せんしょうじ


大田絵堂の戦いの際、奇兵隊・八幡隊・南園隊の一部は河原に進出し、ここを本陣としました。

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諸隊宿陣跡
しょたいしゅくじんあと


奇兵隊・八幡隊・南園隊の、諸隊の一部が宿陣したところです。彼らは、ここから伊佐に向かって行きました。

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B大嶺(おおみね)
廣岡浪秀
ひろおかなみほ


父の後を継ぎ八幡磨能峰宮(やはたうすのみねぐう)の宮司となった廣岡浪秀(ひろおかなみほ)は、尊王攘夷運動に参加しました。しかし池田屋で新撰組に襲われ、24歳で亡くなりました。下領八幡宮内にあります。

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C四郎ヶ原(しろうがはら)
膺懲隊宿陣跡
おうちょうたいしゅくじんあと


奇兵隊の山形有朋ら諸隊は、萩に向かうために美祢市伊佐に転陣しました。そのうちの赤川敬三率いる膺懲隊は、四郎ケ原宿に宿陣しました。

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本陣河崎家
ほんじんかわさきけ


1850年(嘉永3)8月25日、21歳の松蔭は九州遊学のために萩を出発し、初日は本陣河崎家に宿泊しました。

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吉田松陰投宿の碑
よしだしょういんとうじゅくのひ


本陣河崎家の前には、松陰が泊まったことを伝える碑があります。


楢崎家屋敷跡
ならざきけやしきあと


長州藩士・楢崎頼三(よりぞう)の屋敷があったところです。頼三は戊辰戦争に出陣しました。会津の白虎隊士の少年・飯沼貞吉は、ほかの隊士と飯盛山で自刃しますが一命をとりとめました。頼三は、白虎隊士で唯一生き残った少年をここに連れ帰って養育しました。そして少年を「サダさァ」と呼んで可愛がりました。

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D厚保(あつ)
来嶋又兵衛の旧宅跡
きじままたべえのきゅうたくあと


現在の厚保小学校のプールの場所に来嶋又兵衛の家がありました。彼の妻は、酒造家で永代大庄屋格来嶋清三郎の長女のタケです。結婚1年後には、妻の実家である来嶋清三郎宅横に家を新築して、ここに来ました。

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世外候養痍隠晦之處
せがいこうよういいんかいのところ


井上馨(いのうえかおる)が傷をいやしたところです。湯田で俗論派の襲撃を受けた井上馨は、所郁太郎(ところいくたろう)と母の看病のおかげで九死に一生を得ました。その後、妹厚子(来嶋又兵衛の子息森清蔵の妻)の嫁ぎ先であるここで傷をいやし過ごしました。

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来嶋又兵衛の墓
きじままたべえのはか


美祢市西厚保町本郷の高岡墓地に来嶋又兵衛の墓があります。高速道路をくぐって車を置き、段々畑の右を約5〜6分ほど登って行きます。お墓がたくさんあるところを右手に向かって登って行きます。目印が無いので見つけるのは大変ですが、墓地の一番高いところにあります。


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E美東(みとう)
金麗社
きんれいしゃ


金麗社は、1865年(慶応元)の大田絵堂の戦いの際、諸隊が本陣を置いた所です。高杉晋作や山形有朋、伊藤博文らが会議をして戦勝祈願を行いました。

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奇兵隊戦勝記念燈籠
きへいたいせんしょうきねんとうろう


四境戦争小倉口の戦で、奇兵隊は小倉(北九州市)の延命寺から燈籠を奪い、大田絵堂の戦いの勝利の記念としてここ金麗社に奉納しました。また、この年は慶応三年に当たりますが、徳川慶喜の「慶応」に応じないという意味で、燈籠には元治四年と彫ってあります。

光明寺
こうみょうじ


大田絵堂の戦いの際、金麗社の前に諸隊の本陣が置かれたところです。

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官修墳墓
かんしゅうふんぼ


光明寺の側に、大田絵堂の戦いで亡くなった、奇兵隊・南国隊・八幡隊・遊撃隊などの隊士17名のお墓があります。当初は呑水峠や天神峠などの町内各所に散在していましたが、1915年(大正2)にこの地に合葬されました。

大木津・川上口の戦い
おおこつ・かわかみぐちのたたかい


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藩政府軍先鋒隊士の墓
はんせいふぐんせんぽうたいしのはか


大田絵堂の戦いで敗れた、俗論派藩政府軍兵士、駒井小源太(こまいこげんた)と水津岩之允(すいづがんのいん)のお墓です。

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F秋芳(しゅうほう)
呑水戦跡碑
のみずせんせきひ


大田・絵堂の激戦の決着は、呑水の戦いでした。高杉新作率いる諸隊はここで藩政府軍を襲撃し、萩へ総退却させました。

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絵堂戦跡記念の碑
えどうせんせききねんのひ


高杉新作率いる諸隊は下関の功山寺で挙兵し、山形有朋ら諸隊もこれに呼応して、藩政府軍と対峙することとなり、大田絵堂の戦いが始まりました。

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萩政府軍本陣跡の門
はぎせいふぐんほんじんあとのもん


大田絵堂の戦いの際、粟屋帯刀(あわやたてわき)を将とする藩政府軍の本陣となった旧柳井宅の門です。平成17年、県道改良工事に伴いここに移設されました。

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正岸寺
しょうがんじ


大田絵堂の戦いの際、萩政府俗論党の陣となったお寺です。

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