山陽小野田市(さんようおのだし)の史跡

@小野田(おのだ)
来嶋又兵衛誕生の地
きじままたべえたんじょうのち


来嶋又兵衛は、1817年(文化14)長州藩士喜多村正倫(きたむらまさとも)の次男として生まれ、俵山村(現在、長門市俵山)の長州藩士来嶋又兵衛政常の婿養子となりました。

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高泊開作五挺唐樋
たかどまりかいさくごちょうからひ


唐樋とは、汐の干満作用により自然開閉する構造をもった樋門のことで、高泊開作は小野田の高泊湾を干拓し、1668年(寛文8)の汐止めによって完成しました。

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前原一誠旧宅
まえばらいっせいきゅうたく


萩の乱の中心人物である、長州藩士前原一誠の旧宅跡で、当時からの古井戸等が残っています。前原が5歳の1839年(天保10)に、父彦七が藩の郡吏となって萩からここに移って来ました。13歳の時に、一度萩に出ましたが、ケガのために再びここに戻り、陶器製造を手伝いました。そして、24歳の時に、父彦七が御駕籠奉行役に就いたために萩に行き、松下村塾の門下生になりました。

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A厚狭(あさ)
厚狭毛利家居館址
あさもうりけきょかんあと


厚狭毛利家は毛利氏の一門家老のひとつで、3代目の元宣(もとのぶ)が厚狭に居館を構えました。

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