下関市(しものせきし)の史跡

@下関駅周辺(しものせきえきしゅうへん)
白石正一郎宅跡
しらいししょういちろうたくあと


豪商であった白石正一郎の屋敷は、幕末の志士たちの活動の拠点となりました。高杉の奇兵隊結成もここで行われています。
脱藩した竜馬と沢村惣之丞は、三田尻より長州に上陸し、その後ここを訪れました。また、竜馬はここで、土方楠左衛門、桂小五郎、時田庄輔らと薩長和解の話し合いをし、中岡慎太郎の連れてくる西郷を待ちました。

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ひょうたん井戸
ひょうたんいど


刺客から追われた高杉晋作が、丸一日身を隠した井戸として伝えられているそうです。

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高杉東行終焉の地
たかすぎとうぎょうしゅうえんのち


妻のマサが下関へ来ることになったために、高杉晋作は桜山からここ上新地の林算九郎宅に移りました。しかし1867年(慶応3)4月14日、27歳で息を引き取りました。

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中島名左衛門の墓
なかじまなざえもんのはか


名左衛門は江戸時代後期の兵法家。高島秋帆(しゅうはん)の門で西洋砲術を学び、1863年(文久3)に長州藩に招かれ、砲術教授、砲台築造に関わりました。
享年47歳でした。

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萩藩新地会所跡
はぎはんしんちかいしょあと


新地会所とは下関の港湾業務の管理や警備を中心とする、萩本藩の下関における拠点です。功山寺で挙兵した高杉晋作は、ただちにここを襲って占拠しました。

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厳島神社大太鼓
いつくしまじんじゃおおだいこ


1866年(慶応2)の四境戦争小倉口の戦で、幕府軍に勝利した高杉晋作は、小倉城のやぐらにつるされていた大太鼓を戦利品としてもち帰り厳島神社に奉納しました。

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高杉東行療養之地
たかすぎとうぎょうりょうようのち


1866年(慶応2)7月、幕府軍との戦いの最中に肺結核で倒れた高杉晋作は、医師の薦めで白石家から空気のよい桜山の高台で療養することになりました。

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桜山神社招魂場
さくらやまじんじゃしょうこんじょう


高杉晋作らの提案で招魂場設置が計画され、1865年(慶応元)8月3日に完成しました。最前列中央の吉田松陰神霊碑を一段高くし、両脇に高杉晋作、久坂玄端、そしてそのまた両脇に、入江九一、吉田稔麿と松下村塾四天王が並んでいます。

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了円寺
りょうえんじ


高杉晋作率いる80人足らずの決起隊は、新地会所を襲撃した後にしばらくここに立てこもりました。本堂の柱には、兵士たちがつけた刀傷が今でも残っています。

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大歳神社の大鳥居
おおとしじんじゃのおおとりい


大歳神社の大鳥居は、1862年(文久2)に白石正一郎が寄進したもので、柱の裏側に「文久二年歳次壬戌春正月吉日 白石正一郎越智資興建」と彫ってあります。かつては有明山の山上にありましたが、関門国道トンネルの工事のためここに移築されました。現在、下関市内に白石正一郎の顕彰碑はありませんが、この柱の裏側と中国電力前の白石正一郎宅跡に唯一彼の名前が残っています。

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東光寺
とうこうじ


新地会所を襲撃し了円寺に立てこもった晋作たち決起隊は、その後東光寺に本陣を移しました。

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光明寺
こうみょうじ


1863年(文久3)4月27日、久坂玄端率いる浪士隊30人は萩から下関に来ました。そしてここ光明寺を宿舎とし、光明寺党と称しました。

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A唐戸(からと)
亀山八幡宮
かめやまはちまんぐう


当時はこの大鳥居の下は海で、周辺から九州へ渡航する船が出ていました。また藩の船番所もおかれて、出入りする人びとの検問が行われていました。
1865年(慶応元)閏5月、竜馬は現在の北九州市八幡西区の黒崎から船で海峡を渡り、ここの下にあった堂崎の渡しに上陸し、下関に足を踏み入れました。

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亀山砲台跡
かめやまほうだいあと


海上防備のため、亀山八幡宮の境内に砲台が築かれました。アメリカ商船ベンブローク号に対し、久坂玄端らが攘夷の第1弾を撃ちだしたのがここ亀山砲台でした。

本陣伊藤家の墓
ほんじんいとうけのはか


竜馬の下関での活動の拠点となった、伊藤助太夫(すけだゆう)のお墓です。
引接寺(いんじょうじ)の正面から左奥に入ったところにあります。すぐ裏には、高杉晋作に資金援助をした、入江和作のお墓もあります。

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入江和作の墓
いりえわさくのはか


入江和作は高杉晋作が四国に亡命する際の旅費などを援助しています。1905年(明治38)73歳で亡くなりました。引接寺(いんじょうじ)にある本陣伊藤家のお墓の裏にあります。

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白石正一郎の墓
しらいししょういちろうのはか


竜馬らを支援した白石正一郎のお墓で、藤原義江記念館の奥にあります。
また、白石正一郎のお墓は、下関中央霊園と東行庵にもあります。

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下関の本陣跡
しものせきのほんじんあと


伊藤家は下関の大年寄で、参勤交代の大名が宿泊する際の本陣を務めました。
竜馬はお竜とここに居住し、「自然堂」の看板をかかげて薩長同盟の活動の拠点としました。また、11月15日夜の京都近江屋での竜馬の死を、お竜はここで三吉慎蔵から聞きました。


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赤間神宮
あかまじんぐう


もとは真言宗寺院で聖衆山阿弥陀寺(あみだじ)と称しました。1863年(文久3)6月に赤間関の豪商白石正一郎家で結成された騎兵隊は、隊員増大のため6月13日からこの阿弥陀寺に移りました。

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極楽寺
ごくらくじ


当初、奇兵隊の本陣は白石邸に置かれていましたが、手狭になったことと白石邸が西部に偏在していたために、阿弥陀寺(現、赤間神宮)と極楽寺に移されました。

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大阪屋跡
おおさかやあと


徳川幕府は江戸時代、吉原など全国25か所に花街を公許しました。下関の稲荷町はその一つで、大阪屋は稲荷町では最大の妓楼でした。現在は東京第一ホテル下関が建っています。
竜馬や高杉晋作らはここの常連客でした。

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末廣稲荷神社
すえひろいなりじんじゃ


現在の赤間町の一部に稲荷町と呼ばれた花街がありました。
竜馬は伊藤家から近い稲荷町に出入りすることもあったらしく、それが原因となりお竜と痴話喧嘩をしたという話が残っています。稲荷神社は竜馬が遊んだ稲荷町の面影を残しています。

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戦士之塚
せんしのつか


四境戦争で戦死した山田鵬輔(ほうすけ)と奇兵隊士のお墓です。

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教法寺
きょうほうじ


1863年(文久)8月、高杉晋作の結成した奇兵隊と本藩で結成した先鋒隊との争いが、先鋒隊の宿舎であった教法寺で起こりました。その際、奇兵隊士宮城彦助が激昂して先鋒隊士1名を切ってしまい、切腹をしました。

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入江和作の旧宅跡
いりえわさくのきゅうたくあと


入江和作は酢の醸造業を営む商人で、高杉晋作の活動を経済面で支えました。
竜馬も、1865年(慶応元)閏5月1日にここを訪ねています。

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馬関越荷方役所跡
ばかんこしにかたやくしょあと


長州藩の越荷方の役所があったところです。越荷方とは、藩によって設けられた、倉庫兼銀行のようなものです。

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厳流島
がんりゅうじま


宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われた島(無人島)として有名ですが、お竜の回顧談「千里の駒後日譚拾遣」に、1867年(慶応3)の春ごろ、竜馬と共にひそかに花火をあげにいった、というエピソードが残されているそうです。


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B壇之浦(だんのうら)
壇浦砲台旧跡
だんのうらほうだいきゅうあと


この一帯は軍備の上からも重要であったため、江戸時代末期には砲台が設けられました。

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前田御茶屋台場跡
まえだおちゃやだいばあと


前田の砲台跡で、関門海峡の東入口に面しているところから下関攘夷戦の戦場となりました。1863年(文久3)6月5日のフランス軍艦砲撃のときには、砲撃ののち上陸され、1864年(元治元)8月5日からの英米仏蘭四国連合艦隊襲来のときも再び上陸され、焼野原となりました。御茶屋というのは、かつてここに藩主の別荘があったためです。

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C長府(ちょうふ)
長府藩主の居館跡
ちょうふはんしゅのきょかんあと


現在の豊浦高校の敷地に長府藩主の居館がありました。

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串崎城跡
くしざきじょうあと


長州藩の支藩である、長府藩の初代藩主毛利秀元(ひでもと)は、1602年(慶長7)串崎城に入城しました。しかし、1615年(元和元)の一国一城令により城郭が壊されたため、すぐ側(現在の豊浦高校)に館を構えて城下町を築きました。

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豊功神社
とよことじんじゃ


1864年(元治元)11月24日、長府藩の若い藩士86名が藩祖毛利秀元(ひでもと)を祀る豊功神社に集まり、攘夷戦にむけ署名血判をしました。

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三吉慎蔵の旧宅跡
みよししんぞうのきゅうたくあと


寺田屋で竜馬を助けた三吉慎蔵の旧宅のあったところです。
現在は松岡医院になっています。

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旧野々村家表門
きゅうののむらけおもてもん


野々村勘九郎は長府藩士で、報告隊の都督に任命されました。また、三条実美ら五卿の長府潜居の際には接待役として活躍をしました。しかし藩内の俗論派との抗争で破れ、自刃しました。享年27歳。
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集童場設立の地
しゅうどうじょうせつりつのち


集童場は長府の松下村塾とよばれ、福田扇馬(せんま)の私塾「桜柳亭(おうりゅうてい)」を母体に藩士熊野直介が長府藩の認可のもとに創立しました。乃木希典(のぎまれすけ)らがここで学んでいます。

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覚苑寺
かくおんじ


長府藩は海の近くに居館を構えていたので、幕末には危険をさけるため、山手の覚苑寺に陣を移しました。

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功山寺
こうざんじ


福岡から下関に戻った高杉晋作は、奇兵隊をはじめとする諸隊に決起を促しますが奇兵隊は動きませんでした。しかし、石川小五郎率いる遊撃軍と伊藤俊輔(博文)率いる力士隊ら84名が高杉に賛同。1864年(元治元)12月15日の深夜に功山寺から出陣しました。「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れます!」

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七卿潜居
しちきょうせんきょ


京都政変によって都落ちし、長州に入った七卿のうち三条実美はじめ五卿が潜んだところです。

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三吉慎蔵の墓
みよししんぞうのはか


竜馬が深く信頼を寄せた長府藩士で、竜馬とともに伏見の寺田屋で襲撃されました。竜馬の没後は、遺言によりしばらくの間お竜の面倒をみました。

享年70歳。お墓は功山寺の左から上がっていった右にあります。

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旧白石家門
きゅうしらいしけもん


下関の豪商白石正一郎の屋敷は、当時竹崎の海に接しており裏門が海に面して開かれていました。
竜馬ら多くの志士たちが、この裏門から出入りしました。現在はここに移築されています。

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橋本虎吉、中村元之進の墓
はしもととらきち・なかむらげんのしんのはか


奇兵隊士の橋本虎吉、中村元之進は、四境戦争小倉口の戦の際、関門海峡で小船の衝突事故により死にました。お墓は大乗寺の奥にあります。

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D小月(おづき)
清末藩邸跡
きよすえはんていあと


毛利元知(もととも)が、長府藩から清末村ほか13か村と1万石を分地され、清末藩ができました。よって清末藩は長府藩の支藩にあたり、長州藩からすれば支藩の支藩にあたります。

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E新下関、内日(しんしものせき、うつい)
来福寺
らいふくじ


長府藩の居館は海に面していたために、幕末には危険をさけるため山手の覚苑寺に陣を移しました。その際、藩主の夫人ほか一族の奥方は、さらに山手の来福寺に移されました。

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白石正一郎の墓
しらいししょういちろうのはか


竜馬らを支援した白石正一郎のお墓で、下関中央霊園にあります。

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勝山御殿跡
かつやまごてんあと


1863年(文久3)の攘夷戦で前田砲台が占領された後、長府藩は藩邸の移転を計画しました。そしてわずか7か月で急造し、1864年(元治元)2月1日に勝山御殿に移りました。

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F吉田(よしだ)
騎兵隊陣屋跡
きへいたいじんやあと


1865年(慶応元)に拠点を吉田に移した騎兵隊が、1867年(慶応3)8月から1869年(明治2)11月の解散まで本陣を置いたところです。

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奇兵隊堂の尾墓地跡
きへいたいどうのおぼちあと


堂の尾と呼ばれるところに宗蓮寺というお寺がありましたが、廃寺となったために奇兵隊士のお墓が無縁仏となりました。その後お墓は東行庵内に移されました。ここは宗蓮寺の墓地跡です。

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吉田の御茶屋跡
よしだのおちゃやあと


参勤交代の際に諸大名の宿泊所となる建物が御茶屋です。幕末には、奇兵隊の屯所にもなりました。

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末富家
すえどみけ


1865年(慶応元)、奇兵隊は庄屋末富虎次郎宅に本営を構えました。また、高杉晋作の葬儀も末富家から出ています。山県有明もここの2階に下宿していました。

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長慶寺
ちょうけいじ


奇兵隊の屯所にあてられたところです。

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高札場
こうさつば


幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、庶民に徹底させるために設けた施設です。今日の掲示板のようなものです。

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松林寺
しょうりんじ


奇兵隊の屯所にあてられたお寺ですが、火事で本堂等は喪失しました。

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法専寺
ほうせんじ


奇兵隊が吉田に本陣を置いたとき、この法専寺にも一部が分宿しました。また、四境戦争の際には野戦病院になりました。

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首切り六地蔵
くびきりろくじぞう


法専寺の境内には、若い隊士が心の高ぶりにかられて首を切ったと伝えられる、首切り地蔵があります。

笹尾道場跡
ささおどうじょうあと


笹尾羽三郎と笹尾万次郎の兄弟が開いた道場で、来嶋又兵衛や千葉周作らもここで試合をしました。

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常関寺
じょうかんじ


ここのお寺も法専寺と同じく、四境戦争の際に奇兵隊の病院となりました。

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奇兵隊士の墓
きへいたいしのはか


常関寺(じょうかんじ)の墓地に奇兵隊士のお墓が七基あります。


G東行庵(とうぎょうあん)
東行庵
とうぎょうあん


「東行」は高杉晋作の号です。遺言によって、騎兵隊の陣屋があった吉田の清水山に葬られた高杉晋作の菩提を弔うために、愛人・おうのは出家し、谷梅処として生涯、東行庵を守りました。

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東行墓
とうぎょうぼ


高杉晋作のお墓で、墓碑にはその号である東行により、「東行墓」とだけ刻んであります。

寄進の灯篭
きしんのとうろう


高杉晋作のお墓の前に、桂小五郎、井上馨、伊藤博文が寄進した灯篭があります。桂小五郎は大江孝允、井上馨は源馨、伊藤博文は越智博文とそれぞれ名前を変えて刻んでいます。

福田公明の墓
ふくだこうめいのはか


福田公明は山形有朋とともに奇兵隊の軍監(副将)を務めました。戊辰戦争後下関で亡くなり、本人の遺言により高杉のお墓の横に葬られました。

梅處尼の墓
ばいしょにのはか


高杉晋作の愛人、おうののお墓です。高杉の死後、剃髪して梅処尼と名乗り、東行庵初代庵主として高杉の墓を守りました。1909年(明治42)死去、享年67歳でした。

杉家累代之墓
たかすぎけるいだいのはか


高杉家代々の墓で、晋作の妻の雅子、長男の東一、孫の春太郎らが埋葬されています。

白石正一郎の墓
しらいししょういちろうのはか


竜馬らを支援した白石正一郎のお墓は、他に、下関赤間神宮裏山の紅石山と下関中央霊園にもあります。
ここのお墓は、1973年(昭和48)に新しく建てられたものです。

赤根武人之墓
あかねたけとのはか


1995年(平成7)に赤根武人の遺族が建てたお墓です。

佐々木祥一郎の墓
ささきしょういちろうのはか


佐々木祥一郎は、長州藩の家老、国司家の家老格でした。奇兵隊の幹部として活躍しましたが、維新後の脱隊騒動で他の首謀者とともに山口市柊(ひいらぎ)で処刑されました。

小藤平蔵・四郎の墓
ことうへいぞう・しろうのはか


小藤平蔵・四郎は福岡藩の藩士で兄弟です。平蔵は忠勇隊士として蛤御門の変で戦い、その後奇兵隊士として尊攘倒幕運動に奔走しました。また弟四郎は、高杉晋作の命によって姫島に幽閉中の野村望東尼を助け出しました。

奇兵隊士の墓
きへいたいしのはか


奇兵隊士を初め長州諸隊士の多くは青年であったために子孫もなく、そのお墓の多くが無縁仏となりました。これを不幸に思った東行庵の三代目の庵主、谷玉仙(たにぎょくせん)が、各地から隊士のお墓を集めて供養しました。

H綾羅木(あやらぎ)
中山忠光の墓
なかやまただみつのはか


中山忠光は、下関の外国船砲撃に加わるなど尊攘派の公家として活躍しました。

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I豊浦(とようら)
中山忠光朝臣遭難の所
なかやまただみつそうなんのところ


1864年(元治元)11月15日、中山忠光は身の危険を感じ四恩寺に非難しようとしましたが、途中、田耕村(現、下関市豊北町)の長瀬の渓谷で闇討ちにあい暗殺されました。享年20歳。


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大田新右衛門旧宅
おおたしんえもんきゅうたく


俗論党に追われた中山忠光は、ここに20日間隠れ、その後暗殺されました。

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