今日から自動車運転中の携帯電話の使用を禁止する法律が施行されます。禁止と言っても別に罰則を科せられるわけではなく注意を促される程度。しかし携帯電話を使用していて交通の危険を生じさせたり、事故を起こすと反則2点と9千円の罰金を科せられます。
運転中にどうしても携帯電話を使用しなければならない場合にはどうすればよいのでしょうか?。それは、ハンズフリーにすることです。ハンズフリーとは携帯電話装置を手に持たないで話す方法、換言すれば車に装着してしまうのです。そうすれば反則2点と罰金は免除されます。最近各メーカーから便利なハンズフリー装置が販売されいるのでこれを購入しましょう。
カーナビゲーションも対象になっており、画面を注視してはいけないそうで、注視とはじっと見つめることでチラッとみる分には問題なさそうです。でも、これは事故を起こしても見ていなかったと言えば誰も目撃者が居なければどうしようもありません。パトカー、消防車そして救急車にも通信機器が搭載されてますが、これは前記のハンズフリーの対象に入るので問題ありません。同じようにアマチュア無線も車に無線機を搭載してますがこれもOKだそうです。(但し、ハンディ機の使用は不可)
今日この話題を取り上げたのはほかでもない昔通信しながら運転中に追突したことがあるからです。20年前、運転中アマチュア無線のモールス通信をやりながら都内から首都高速に入り京葉道路の浜野料金所へ近づきポケットをまさぐっていたらドカーンと前の車に追突してしまいました。暫く電波が出ないので相手の局から事故でも起こしたのではないかと心配してましたと言われ、はいそうです追突してしまいましたと答えました。
この事故も実際には通信中での事故ではなくて他の事に気をとられている隙に起こしたもので、携帯電話も同様着信時に携帯電話機を探すとか、相手に掛けるために番号操作をするときが危険なのです。自分は今でも市内をモールス通信をやりながら走ってるので一層の注意をしなければと思っております。読者の皆さんも事故のないようくれぐれも注意されて下さい。参考までに無線機と電鍵(key)を装着した写真を掲載しておきます。
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今年の夏休みもそろそろ終わりに近づいてきました、最近の子供たちは夏の間に何度海水浴に行くのでしょうか?。都会の子供たちの海水浴といったらそれはもうは大変なんです。子供の小さい頃、外房の御宿、勝浦、九十九里と何度か連れていきましたが行きはよいよい帰りは恐い、たった数十キロの道程だけど渋滞に次ぐ渋滞で我が家に辿り着くのに10時間なんてこともありました。
話は昔に戻ります、私の小さい頃よく海水浴に連れて行ってもらいました。ある夏、隣に住んでいる信ちゃんちの超美人の叔母さん(歳は20代後半)達と白土海水浴場に行きました。その当時の水着といったら女性はシミーズにパンツ男性はフンドシが相場でした。その叔母さんが海から上がってくるとスケスケでとてもなまめかしかったことを今でも思い出します。
我々子供たちには海水パンツなんて無い頃なのでもっぱらキンツリをを愛用しておりました。キンツリって皆さんご存知ですよね、そうストリッパーのお姉さまがやってるあの三角布そのものなんです。それもできるだけ小さくするのがもっともかっこよかったのです。キ○タマをツルからキンツリとは良く言ったものですね。そうしたらストリッパーのお姉さんたちのはクリ○○○ツリとでも言えばよいのかなぁ〜、語呂合わせでクリスマスツリとも読めるんだけど、そんならついでに靴下でもぶら下げてればオヒネリ頂けるという寸法だ。
海のすぐ側に住んでいたので夏になると毎日が海水浴でした。でも本当はどこも遊泳禁止区域なんです。宇部港の入り口に赤灯台と白灯台があってその300メートルの間を船が通過しています。陸続きの白灯台の岸壁から跳びこんで泳ぐのです。油がイッパイ浮いていて上がったら顎の廻りは油だらけになってしまいます。ついでに腰のあたりをみたら、”アレ〜ッ・・・”キッ、キンツリが大事なキンツリが無い!。さっき跳びこんだときに紐が切れてどっかに流されていたのでした。困ったゾー、家から裸のまま来たからなぁ〜。
中学生とはいえ、もう立派な大人の印が生えているのです。家まで約1Km、その間には炭住街を通り抜けなければなりません。とにかく走りました、しかし走れば走るほど例のイチモツが両腿を往復ビンタして走れたもんじゃない、別にたいした物でもないのに邪魔になるのです。仕方ないので片方の手で握って周りも見ずに一目散に駆けてヤット家に辿り着きました。それからというもの暫くは恥ずかしくて外に出れませんでした。
イチモツといえばすごいのがいました。街のチンピラ(中学時代の後輩ですが)と一夜を共にしたときの話です。彼が取り出したのはなんと形容していいのか解りませんとにかくすごいんですまた長いんです。 横に回したら臀部まで届くんです。股の下から後ろに回してお尻の間からはみ出した部分だけでも、小生のよりはるかに長いんです。オイオイこんなの使い道あんの!!!。小刀の鞘に大刀を収めるようなもんで余った部分はどうすんだい。あれから彼とは一度も逢っていないのでその後の様子は定かでない。一夏の思い出でした。
通信傍受法案が今国会で可決される見通しです。野党の連中は猛反対の姿勢のようですが、一体何に反対しているのか私にはどうも良く理解できません。私事で恐縮ですが別にこの法案に賛成しているわけではありませんので念のため。国会で議論されてることは別にここで言及しなくても読者の皆さんがよくご存知なので省略することにします。
今年の国会で審議された法案は沢山ありました。「日米防衛ガイドライン」、昨年8月31日の北朝鮮ミサイル発射問題による「TMD構想」、「国旗、国歌法」、「道路交通法改正による自動車運転中の携帯電話の使用について」そして次に浮上してきたのが「破壊活動防止法の改正」等々である。今までの日本は戦後の平和ボケによって危機管理意識が欠乏していたのは否めない事実でもあり、それが与党にとっては渡りに船の感がしないでもありません。
オット話が逸れたので本題に戻ろう。「通信傍受法」、野党はこれを「盗聴法」と云ってるようですが、盗聴とは何か?、電波法にはこんな条文があるのをご存知でしょうか、「何人も特定の相手方に対する通信を傍受し、その知り得た内容を窃用してはならない」と、これに違反した者は○○万円以下の罰金または○年以下の懲役に処するとある。換言すれば、誰でも通信を傍受することは自由であるが、傍受した内容を他人に漏らしたり利用してはいけないといっているのである。
私の実体験でこんなことがありました。警察無線や消防無線は146〜148MHzのFMが使われております。ところがあるグループがポランティアかなんだか知らないけれどこの警察無線を傍受して、事故事件があるといち早く現場に急行して仲間と連絡を取り合い、事故事件の当事者を割り出す、或いは犯人の逃亡を追跡するなど警察まがいのことをやり警察に情報を流してあたかも我々は治安維持に協力しているんだと甚だ勘違いもいいことをするヤカラがおって、これには警察当局も相当困惑をしておったようです(このグループは後で相当の非難を浴びて止めさせられましたが)。
警察もこれはたまらんというので、最近では通信内容を聞かれないようにスクランブルをかけております。スクランブルとは民間の衛星放送を無料で受信できないように暗号化した通信方式のことです。だけどこんなことは一方が防御すれば他方が解決するといったイタチごっこみたいなものでやろうと思えばいくらでもやれるのが技術の進歩というものでしょうか。携帯電話、自動車電話なんてものはチョットした受信機があればいくらでも傍受できるのである、アナアナ油断めさるな(通信傍受のベテランとして一言申し上げておきます)。
野党の連中はやれプライバシーの侵害だなんだと言ってるが、プライバシーの侵害なんてそんなものとっくの昔から破られているのです。お上が個人の通信を傍受してなんの得があるというのでしょうか?。私だったらチョットやばいこと聞かれてもこちとらになんら被害がなければ一向に気にしません。それよりも治安維持、組織的犯罪の壊滅等々易があればよいのではないでしょうか、読者の皆さんはどう思われますか?。
後編 では「大塊炭」が新宿三越裏の中島商店から東京ガス(株)「ガスの科学館」に移ったんだと話しました。東京ガス(株)に問い合わせると同時に中島商店にも次のような手紙を出したところ返事が返ってきました。東京には中島商店なる名称の会社が20数社あったのですが一発で命中したわけです。
(株)中島商店様
初めてお便りさせて頂きます。私、○○(株)の武山と申します。突然の手紙で失礼の程お許し下さい。実は、以前御商店様にあったといわれる「大塊炭」の件、先日「炭鉱−戦後50年のあゆみ−」宇部市発行、平成7年度版の写真で拝見しました。そこで、御商店様の所在をインターネットで調査したところ東京には同じ名前の商店が沢山あったのですが、その中に「石炭商」と書かれている御商店様ではないかと思い筆をとらせて頂きました。私が入社したてのころ弊社本社玄関ホールに「大塊炭」が展示されておりました。立派な石炭だなあと暇さえあれば眺めておりました。
ある時、その「大塊炭」のことを父に言ったところ、以外にもあれは「ワシが沖の山炭鉱で掘ったもんでもう一つは確か三越裏の女性経営者の炭屋へ送ったけど今はどうなってるか分からんが」と話してくれたことがありました。(途中略)東京ガス様にその後の様子をメールにて問い合わせたところ別紙(後編で紹介済)のように丁寧なご返答がありました。父が産みの親であるならば御商店様は育ての親、そして東京ガス様は晴れ舞台に出してくれた親でもあります。本当に長い間大事に労ってくださいまして有り難うございました。亡き父(平成4年11月6日他界)も草葉の蔭で喜んでいると思います。
次いで中島商店様から返事と共に沢山の資料を送って頂きました。何でも同商店は明治32年10月中島薪炭店として創業し大正8年6月に中島商事株式会社と改め、大正13年9月に宇部の沖の山炭鉱株式会社と特約店契約を結ぶとありました。同商店は初代社長「中島か免」、2代目社長「中島キン」、そして3代目社長「中島壽美子」の女性経営者ばかり3代続くユニークな会社である。中島か免、特に2代目中島キンは石炭に対する思い入れは相当〜なもので事業を継いでからは生涯に亙って石炭をこよなく愛し、慈しみ、大事にしたそうである。
中島商店における「大塊炭」の紹介はここで長々と話すよりも同商店発行の「中島か免・中島キン−追悼法要記念−赫き炎に魅せられて」に詳しく書かれているのでそちらを参照されたい(但し長編故社内向けオンリー、忍耐のある方はどうぞ)。その中でトピックスとして次の記事を紹介しておきます。(NHK「テレビロータリー」、NHK「ニュースワイド」)は石炭に対する思い入れ等をインタビューとして放映されました。
前編から始まって、すぐに終わる予定だったけれど次々といろんな情報が集まりとうとう完結編まで書くはめになってしまいました。父の掘った「大塊炭」がこれほどまでに多くの人達の人生の支えになっていようとは今になるまで思ってもみませんでした。それぞれの歴史を歩んできた「大塊炭」達、これからは暫らくの間常盤公園の「石炭記念館」と東京ガス(株)「ガスの科学館」で大勢のお客様達に観てもらえる事でしょう。辛抱強く読んで頂いた読者の皆さん有り難うございました。終わり
今になって考えてみるに、我が家にテレビジョンなるものが入ってきたのは確か高校2年生だったような気がする。それまではフランク永井の歌が流れると近所のおばさんが呼びに来てくれたし力道山のプロレスが始まると近所の電気屋さんにいってよく見たものだった。テレビが入ってからは白黒ではあったがドラマを見るのに熱中した。「裸の街」、「ルート77」、それから「あの波の果てまで」は馬渕春子主演のすれ違いメロドラマに胸をワクワクして見た思い出がある。
23年間の都会勤務の後久しぶりにまた郷里での勤務となり、我々夫婦は両親のいる実家に住むことになった。住みだしてからしばらくして、なんだか様子が変なことに気が付いた。夕飯が済むとオヤジがスーっとどこともなく消えていくではないか。そうすると隣の部屋から聞き覚えのあるメロディが流れ始めた。
「僕の名前はヤンボー、僕の名前はマーボー二人あわせてヤンマーだ、君と僕とでヤンマーだ小さな物から大きな物まで動かす力だヤンマーディーゼル」。このコマーシャルソングは我が家へテレビジョンが出現した当時から流れていたソングである。こんなに息永く歌われそして流されたコマーシャルソングはこれを除いては他にあまり記憶がない。日本人であれば知らない人はいないであろうそれほどポピュラーな存在である。
隣の部屋にいってみると、オヤジがテレビの前に座ってジーッと画面を眺めている。画面の中は「明日の天気は晴れ」なんてやってるのだが、なにがオヤジにとって天気なのか最初はよく解らなかった。それから何週間かしてやっと解ってきた、なんでも孫がそのヤンボー・マーボーのコマーシャルに登場していることが。その孫とは妹の長男で、彼が高校生だったころ実家から学校までが遠いので小生の家に下宿して通学していた。高校では今人気のサッカーをやっておりどこのスポーツ誌の目に留まったのかは定かではないがそれから芸能界の勧誘が始まるのである。彼が大阪の大学に在学中も我が家には頻繁に芸能界からのレターが郵便ポストに入っていた。レターの転送係なんてヤッテランナイヨナぁー、あーアホラシ。
甥っ子はとてもハンサム(小生のほうがチョット上)でその後も 芸能界から頻繁に勧誘の話があり本人はその気になっているのだが妹とその旦那が許可しないのである。芸能人は売れれば良いが売れない日には生活が大変だというのが理由である。でも諦めきれない甥っ子はそんな親に内緒でそのコマーシャルに出演したのだった。最初は半年間放映されていたようだが、そのあとまた2度目のCFの撮影に入ってまた半年間流された。CFの撮影には東京迄の旅費、宿泊費向う持ちの出演料が4万円也、有名人だったら幾ら払うのであろうか。素人相手の制作費用は安上がりでスポンサーにとっても好都合である。だからこれほど長くやれたのだろうかと勘ぐってみたりする(スポンサーさんごめんなさい、本当は業績の良い超優良企業です)。結局甥っ子は大坂の会社に就職して結婚をし普通の人生を歩んでいるのであった。
中編で大塊炭が常盤公園の「石炭記念館」に展示してあると書きました。ところが、他にもまだあの大塊炭があったのです。それは「炭鉱−戦後50年のあゆみ−」宇部市発行、平成7年版に次のような説明で写真が掲載されていました。「東京新宿に沖の山炭−昭和31年新宿三越裏の中島商店に展示された沖ノ山炭の大塊炭(高さ1.3m、重さ3トン)現在東京ガス(株)の展示室に身をよせている−」。何気なく見た上記書籍の大塊炭の写真でまたまた忙しくなってきました。
早速東京ガス(株)のホームページからE−mailで次ような質問を発信しました。
「はじめまして、武山@宇部興産株式会社ともうします。お願いの件あってメールさせて頂きました。」
「炭鉱−戦後50年のあゆみ−」宇部市発行、平成7年版に「大石炭塊」の写真が掲載されておりました。そこには当初、昭和31年に新宿三越裏の中島商店に展示された沖の山炭の「大塊炭」現在、東京ガス(株)の展示室に身をよせているむね説明がありました。もう一つこれと同じ「大石炭塊」が以前、弊社宇部本社の玄関ホールに展示してありました(現在は撤去されていますが)。
実は、この大石炭塊は私の父(武山武)が沖の山炭鉱で掘ったもので、一つは弊社の本社にもう一つは確か東京の炭屋さんへ送ったと生前話してました。40年も前の事ですからその大石炭塊は既に無くなっているものとばかり思っていたところ、上記書籍にその後の行先が書かれておりました。今度、INTRANETにその大石炭塊の紹介をしようと計画しております。大変不躾なお願いですが、中島商店から御社に移ったいきさつと、もしもまだその物があるようでしたら展示場所、できれば写真があればご提供願えないでしょうか?。宜しくお願い申し上げます。
すぐに、東京ガス(株)から返事がきました。
「東京ガスホームページの運営を担当している古沢と申します。」
「大塊炭」についてお問い合せいただいた件について、以下の 通り回答させていただきます。なお、より具体的な事項については、誠に申し訳ありませんが 当社「ガスの科学館」(下記連絡先)にご連絡いただきます様お願い致します。
【現状】
・当社の「ガスの科学館」に展示している。
・小学生をはじめたくさんの来館者に見ていただいている。
・中島商店の奥さんとお嬢さんが懐かしがって時々見に来て下さっている。
【経緯】
昭和61年に上記の「ガスの科学館」を設立するにあたり、化石燃料の展示物の一つとして、中島商店様から購入させていただいた。
【ガスの科学館】
住所:〒135-0061 東京都江東区豊洲6-3-16
電話:03-3534-1111(受付時間 9:00〜16:30)
URL:http://www.tokyo-gas.co.jp/science_museum/
担当:高桑、中島
これであの大塊炭を追っている理由(ワケ)が判明したと思います。実は私の父(オヤジ)が掘ったものだったのです。従って「石炭記念館」の物もそうでした。何故かって?、オヤジは生前よく云ってました「大塊炭を掘るときはいつもワシのところに依頼がきた、旧玄関ホールも新宿の中島商店にあるのもそうだけど依頼があればどこへでも行って掘ったものだ、山陽無煙にも行ったなぁー」。本来オヤジの仕事は仕繰(シクリ)といって坑道の枠の構築や補強、改修等を専門としており炭(スミ)を掘るわけではないのです。スミは採炭夫が専門に掘りますが、唯掘ればよいだけで形はどうでも良いのです。大塊炭を掘るには相当の熟練と技術を必要とし、唯一それができるのがオヤジだったのです。
この原稿を書いてる最中に例の中島商店からその後の経緯を詳しく書いた書類がどさっと届きました。続きは続編で!
前編掲載の直後、「なんでも、常盤公園の「石炭記念館」にあるという噂を聞いたので行ってみてはどうか」と東京・経理Gの櫻田さんからE−mailが入ったのでさっそく行ってみることにした。10月30日(土)朝ベッドから起き上がるときギクッときた、「イッテテェ〜」ぎっくり腰である。うつ伏せになり、腕立伏せの姿勢でやっと起き上がった。顔を洗おうにも前にカガメない、エイッ〜・・・今日は不て寝ダァー。
次の日の朝、ヤッパリ腰が痛い。昨日と同じようにして起き上がり洗面台にぶら下がって顔を洗う。午前中家でゴロゴロしていたが、どうしても常盤公園の「石炭記念館」が気になる。やっとの思いで車までたどり着きスタート、自宅(東梶返)からほんの数分の距離なのですぐに現着した。カメラをぶら下げ、常盤公園入り口で「市民優待券」を見せて中に入る(よそ者は大枚460円徴収される)。公園の中は昔と違ってとても奇麗に整備されていた。入口を入ってすぐ右側の小高い丘の上に高いヤグラを乗っけた「石炭記念館」が建っている。そこまでそろりそろりと歩いて行った。
「石炭記念館」の1階は炭鉱の坑道を模した造りになっており、その奥に石炭を掘る現場が再現されている。一周グルリと回ったがどこにもあの「大塊炭」がないので2階に上がってみることにした。2階の奥の真ん中に何か黒くて大きな物が並んでいるのが見える。近づいてみると、アッタ、ありましたあの「大塊炭」が、それも大きなのが3個も並んでいるではありませんか。3個?・・・、よく見ると左から大嶺炭、宇部炭(五段炭)、そして同じく宇部炭(五段炭)との説明があった。その3個の「大塊炭」をよく眺めたのだが、どうも旧玄関ホールにあったものとどこか違うようなきがしてならない。強いて言うならば一番右側のヤツがそれらしき形をしているがどうもよく分からない。取り敢えず写真をパチリ、「石炭記念館」を後にした。
その後数日して、あの3個の「大塊炭」のルーツを探るべく常盤公園に勤務している幼なじみの椎山君を訪ねた。彼にそのことを話してみたが、自分は分からないので「石炭記念館」の館長に聞いてみればなにかつかめるかもしれないが、と武田館長を紹介してくれた。翌日武田館長を訪れてそのことを聞いてみた。しかし館長は「ここにきてまだ3・4年なのでその当時の経緯は知らない」とのことでした。「あの一番右側にあるのがそれらしきような気もするのですが?」。館長「そういえばあれだけはどこから来たのかリストに載っていないんです・・・」。「でもあれはチョット小ぶりなので違うようにもあるんですが?・・・」。館長「運搬途中、角が崩れて小さくなりましてね、今では針金で縛ってるのです」。続いて、「もしかしたら、この「石炭記念館」の設立に関わった浅野正策さんという人が知っているかもしれないが」と住所と電話番号を教えて下さった。
さっそく浅野さんのお宅へ電話したらすぐに出てこられた。これまでの経緯を手短に述べて、「大塊炭」の件をお伺いした。そこで一つ分かったことは、真ん中のヤツは昔渡辺家にあったものを提供してもらったそうである。渡辺家と言えば、あの初代社長渡辺祐策翁の家系である。浅野さんは「炭鉱−戦後50年のあゆみ−」宇部市発行、平成7年版の編集委員でもあり、炭鉱の歴史にとても詳しい方です。「他の2つについては今度図書館に行って調べてみましょう、なにか分かったらお知らせします」と言って下さった。どんなルーツが潜んでいるのかいまから楽しみです。
後編で終わるつもりでしたが、次第に話がややこしくなってきたので中編を間に入れました。もしかしたら続編になるかもしれません。この「大塊炭」をここまで執拗に追うには大きな理由(ワケ)があるのです。そのワケとは次第に明らかになってゆくことでしょう。続きは続編で。
常盤公園の石炭記念館 |
大嶺炭、五段炭、五段炭(左から) |
私の生まれて育った沖の山の炭住街は四軒長屋で水道も便所もなく全て屋外の共同の施設を利用していた。飯は薪の釜戸炊き、七輪で練炭を燃しておかずを調理する。水道が屋外にあったから井戸端会議に花が咲き、近所とのコミュニケーションも密だった。廻りが同じ生活レベルの集まりだから人情も厚く住み心地も良かった。
当時の従業員には、光熱費に値する全ての資源が会社の補助で賄われていた。薪は炭鉱で古くなった坑木を月に一度、練炭も数ケ月に一度支給された。これ等を取りに行くのが我々子供の仕事でした。電気も水道もそして風呂も全て無料、当然社宅代も無料至れり尽くせりの時代でした。暖房といえば掘り炬燵の灰の中に石炭を埋める。もう一つはカンテキに石炭をいれて屋外で燃やし、煙が出なくなったところで家に持ち込み暖をとるのである。一種のストーブなのだが煙突が無いだけに亜硫酸ガスには悩まされた。雪の降る寒い日に外で姉とカンテキにあたっていてたところ、姉の着物の裾に火が燃え移り全身火傷でまもなく亡くなった。姉が小学校に上がる年の冬でした。
石炭だけは支給されなかった。只でくれるはずもない商品をどうして使ってたかって・・・?。「盗むってのもあるが」マアー、この際拾うことにでもしとこう。沖の山地区は鉱内から出たボタで埋められている。学校から帰るとエブと三鍬を持ち、車を曳いてボタ山に行く。なんのことはない!、炭鉱で掘った石炭をまた掘るのである。大型ダンプが海岸をボタで埋めて行く、その合間をぬってボタの中から石炭を選り分けてエブにつめる。油断すると上から雪崩れのごとくボタが、それを除けて足を踏み外すと海へドボンなんてことも。そばで作業をしているオジさんが「上手によけんと生埋めになるけんのお〜」「魚と一緒に遊ぶのもよか〜」。命がけの石炭堀りでした。
入社したての頃、宇部本社の旧館玄関ホールに大きな石炭の塊が据え付けてあった。高さは1メートル数十センチ、重さは2トンもあろうかという「大塊炭」でした。この「大塊炭」は沖の山炭鉱で掘られた「五段炭」との説明が付け加えられていた。非常に驚いたのは、こんな大きな石炭の塊は未だかって見たことがなかったからである。普段目にする石炭は、せいぜいメロン程度の大きさで燃やすときには手に持って金槌で割っていた。もともと炭層は大きな塊のままだけど、掘っていくうちに小さく割れてしまうのです。
暫らく宇部を離れており平成元年に久しぶりに転勤でまた郷里に帰ってきた。さっそく玄関ホールの「大塊炭」に逢いに行った、が・・・ナッナント!、そこにはもう何もありませんでした。あの「大塊炭」はどこにいったのでしょうか?。もしご存知の方おられたらその後の行方を教えて下さい。あんな大きな石炭の塊、そんじょそこらで見ようったって見られるもんじゃないとても貴重なシロモノなのです。アア〜、もうこれで永久に逢えなくなってしまったのであろうかあの「大塊炭」に。続きは後編で。
30数年にわたり、”台風の砦”として活躍してきた富士山気象レーダーが99年末でその役割を終え、撤去されることになった。同レーダーは狩野川台風、伊勢湾台風で大被害を受けたことで、台風の進路をとらえるため昭和39年完成、53年に現在の第二世代システムとなり今も現役で活躍中。しかし、同施設の老朽化が進み、更新には約40億円の費用がかかることや、気象衛星「ひまわり」の登場などで引退の道を選ぶことになった。と10月7日付の「電波新聞」に記事が載っていた。
同気象レーダーサイトは富士山の山頂に球状のドームが建っており、そのドームの中には上下及び左右360度回転する直径数メートルの大パラボラアンテナが鎮座している。このパラボラアンテナからミリ波帯の電波を発射して雨雲の位置、厚さ(高さ)を測量している。同所には常時6名(内1名は日本で一番高い位置のコックさん)が各種機器の保守メンテをおこなっている。彼らの1日は建物の外側の階段や手すりの氷落しから始まる。たまに登山者の介護もするそうである。高齢の登山者が途中で気分が悪くなった時などには人道上いたしかたないと云ってました(普段、一般の登山者は建物の中に入れてもらえない)。
3週間の勤務で他と交代するのであるが、これがまた大変で真冬の厳寒期などは命がけの登山となる。天候の具合によっては1週間も2週間も交代できないことがしばしばあるそうです。同測候所には冨成さんという永年の友人が勤務していた。彼が富士山勤務の時は朝夕の出退勤時にお声がけがありお互いの近況を報告しあってました。冨成さんとは飲食を共にし徹夜で飲み明かしたことも数多くありました。そんな酒好きの彼が富士山にいるときは一滴も口にしないそうである。気圧の低い所ではアルコールを寄せ付けないのだそうです。
ある日、冨成さんの通常の勤務場所である東京大手町の気象庁にお邪魔しました。庁舎の最上階の一室が彼の職場です。そこでは大小さまざまな機器が設置されておりその内の一つのブラウン管に富士山気象レーダーで撮った映像が映っていました。そうなんです、富士山測候所の各種装置は全てここの気象庁庁舎から遠隔操作で動かしてデータを採っているのです。私も少しだけレーダーを動かしてみましたがとても鮮明な映像で電柱から電線までクッキリと映っています。
その気象レーダーも来年には姿を消そうとしています。長い歴史を共に歩んできた冨成さんも3年前に富士山測候所長を最後に定年退官し、現在では成田空港で気象関係の仕事に従事しておられます。今後は気象衛星「ひまわり」がその主役にとって替わります。「ひまわり」の映像は個人でも受信することができますが「ひまわり」が撮った映像を直接みているのでなく、一度東京清瀬にある測候所で受信しコンピュータ処理(赤道上空から撮った映像は歪んでいる)した後再び衛星に送り返しているのです。と清瀬でその業務に携わっている友人が話してくれました。
前回の原稿で、カンボジアにやって来る日本のPKO自衛隊は”汲み取り式便所”に慣れている人間に限定して欲しいと書きました。それで思い出したのですが、私は子供の頃、炭住街の共同便所に落っこちた事があります。落ちたといっても並みではなく、胸までウンコにつかりました。胸まで温泉にひたるという表現は聞いたことはありますが、「どうだ、胸までウンコにひたった奴いるか」マー、リキむ話でもないか。
もっとも隣に住んでいた武山の国ちゃんは、鵜ノ島小学校の側にあった田んぼの肥だめに頭から突っ込みました。私の場合、おふくろさんに汚水が流れる溝に入れられ、頭から水をザーザーかけられ、共同浴場でゴシゴシやられて一件落着となりました。後で、近所に住む木下のおじさんが、「もうけたのー、大きくなったらウンがつくと、いうけのー」といいました。博識のおじさんでしたが、大きくなった今、果たして私にウンはついているのでしょうか。
「イヤ実は、私も田んぼの肥だめはまったことがあるんですよ、走ってて、雪でみえなかったんです」バンコクの中国レストランでそうしゃべったのは、誰あろう、俳優の三田村邦彦さんです。「ニュースステーション」の仕事で、三田村さんがレポーターとしてバンコクに来ると決まって一番喜んだのは、不肖、私の愚妻でした。そのニュースは、私が住むマンションの奥様方にその日の内に、しかも全員に伝わりました。三田村さんがくると、奥様方は全員集合して記念写真を撮りました。子づかいをためてファミコンカセットを買いたいとたくらんでいるわが愚息は、サイン用紙を用意して、奥様方に売りつけていました。三田村さんは画面通りに優しい人で、丁寧にミーハーに応対してくれました。東京からタイに来て、それから成田に戻りトランジットでアメリカに行き、そのままイタリアに向かうという、ほとんど世界一周の取材です。番組タイトルは「世界の米」です。8月3日のステーションの特集で放映されます。
ところで昨日の土曜日ですが、午後三時から深夜零時まで、バンコクの記者仲間とマージャンをしました。ひどい負けだったのですが、オワラスで四暗刻の単騎待ちを見事にあがったのです。私にはまだウンがついているのでしょうか・・・。月曜日から四、五日カンボジアに行ってきます。(1992.7.16ウベニチ掲載から)
彼は共同便所の汲み取り口(1mX4m)の蓋に乗って遊んでいたところ、蓋がはずれて落っこちたのでした。胸ではなく確か首までだったように記憶してます(笑)。それを引っ張り上げてやったのですがとてもくさかった。その時は冬でとても寒い日でした。もっとも、彼はこの前のカンボジア紛争を取材中ポル・ポト派のゲリラに襲われ、みぐるみはがされて帰ってきました。命を取られなかっただけにやはりウンがついているのでしょう。これはテレビのニュースで大々的に放送されました。「ジャーナリスト襲撃され命からがら逃げ帰る・・・!」
そう云えばあの日も寒かったなあ、あまり云いたくないけど。それにひきかえ木下のおじさんにはウンがついてなっかたようで車に跳ねられ即死しました。念仏!
今回はひとつ物騒な話をしてみようと思う。表題の意味が解る方は今ではあまりおられないかもしれないので取り上げてみた。これと良く似た言葉で昔から言い伝えられている「地震・雷・火事・親父」、「1富士2鷹3茄子」ってのがある。また「1クロ・2アカ・3ムラサキ」なんてのもあったっけ、オットこれはヤバイのでやめとこう。
車の免許は高校3年の夏休みに常盤公園の側にある自動車学校に通って取得した。学校と名が付くだけあって入学試験そして校長先生との面接でやっと入学できるのである。午前中は学科、午後から実技、3週間後に卒業試験というパターンで免許が取得できた。昭和35年だからもう38年も前のことである。ちなみに、バスの定期代、毎日アイスクリームを食べ、授業料こみの締めて5000円でお釣がきた。初任給が1万円チョイ、現在と比べると相当割安感があった。
免許証を質入れすることもできた。どうして質屋が預かるのか不思議な気もしたがそれほど希少価値があったのであろう。当時は地方からといって、いきなり試験場へ殴り込みをかけ免許を取得するやからも大勢いた(どちらかといへばこの方法が多かった)。従って、運転技術もさることながらマナーにいたっては何をかいわんやである。
昭和35年といえば車は庶民にとって高値のハナ、大体が医者、代議士、そして社長さんくらいしか持てなかった。当然その奥方、お嬢様方がせっせと学校へ通い、へたな運転で町を闊歩するような時代にオチオチ道も歩けたものじゃない、車道と歩道の区別もつかないところでどうやって身を守るのか。昔も今も酔っ払い運転は世の常ながら、大トラが車に乗ってるのだから危なくてしょうがない。威勢のいい腹帯を締めたアンちゃんがダンプに乗ってさっそうと走るこれが当時の職業の花形だった。威勢がいいから手も早い恐い存在だったのである。したがって冒頭にあるヒメ(女性)、トラ(酔っ払い)、ダンプ(?)が3大恐怖と云って懐かしくもあり恐ろしくもある時代でした。
北朝鮮は8月31日午後0時すぎ新型ミサイル「テポドン1号」を日本海に向け発射したことはすでにニュース等で報道されているので皆さんご存知だと思う。一段目ブースタは日本海に2段目は西太平洋三陸沖に、そして弾頭とおもわれる3つめがそのまた沖合い500KMに着弾したそうである。これに対し日本政府は激怒、北朝鮮に遺憾の意を現し現在運航中のピョンヤン−名古屋間のチャーター便の認可を取り消した。
おっとそうだ松茸の話だった。子供のころ「数の子」と「松茸」は八百屋さんの店先に山積みにされ一山いくらで売られていた。食卓には数の子が丼に山盛り出てきた。これがまた、あまり食い過ぎると口の中がえぐくなってしまうけど他に食うものがないので我慢して食ったものだった。妹の嫁ぎ先が松茸狩りを営んでいたのでシーズンになると何十本もの松茸を送ってくれていた。しかし、最近はあまり採れなくなってきたようでもう何年も口にしていない。
近頃、この二つの品物は買うものでなく貰うものになってきた。デパートの贈答品売り場に陳列され、大変お世話になったあの人へと送られていく。安サラリーマンの身でなんで買えましょう・・・。ところが、今年の夏頃から安い松茸が市場に出回っており例年の半額で買えるとか。普段口にしなっかた庶民も食すことができるようになった矢先のこの事件。チャーター便がストップするとこの安い松茸も食べられなくなるのである。
実は幼なじみで親友のH君が本職(ジャーナリスト)の片手間に始めた商売で最近チョクチョク北朝鮮と中国の国境付近へ出向き松茸を買付け日本へ輸出しておりいい小遣い稼ぎだと言ってたのがこの始末、またまた本職に舞い戻る結果となってしまった。ジャーナリストというものは何か事件が起こらないと仕事にならないのです。今度は暫らくこのテポドンとか人工衛星の真実を掴むために北朝鮮に潜伏するのかも。
今回の北朝鮮によるミサイル発射?について北朝鮮当局は数日間の沈黙を破って、あれは我国初の人工衛星であると発表した。これをうけて日本政府はあらゆる情報を分析した結果人工衛星らしき物体は確認していない。人工衛星が本当に打ち上げられたのかどうかは今の段階では判断できないが日本政府としてはミサイルの発射実験と認識しているとのコメントを発表している。
ここまでは北朝鮮が本当の事を言っているのか、はたまた日本政府が言っているのが正しいのか誰にも解らない、知るのは当の北朝鮮のみぞである。ところが、北朝鮮は重大な発表ミス(嘘だとは言わないが)を犯したのであるそれはなにか?。先日のニュースを見ていると、北朝鮮のテレビで女性アナウンサーが誇らしげに喋っているのを聞いてあれ!なんだか変だなと思った。
「我が国は初の人工衛星を打ち上げ軌道に載せることに成功した、その証拠に27MHzを聞けば金日成を称える唄が聞こえてくるはずである」と。変だなと思ったのは27MHzを聞けのくだりです。通常宇宙空間の飛行物体との交信にはそんな低い周波数は使用しないのである(ちなみに、自分の位置を知らせるためのキャリア信号の発射は旧ソ連のスプートニク1号で使われ、そのときの周波数は20MHzと40MHzであったが)。
地球の周りには電離層というものが低いほうからD層、E層、F1層、F2層というようにとりまいており、低いD層は数10Kmから高いF2層は400Kmくらいの高さまで覆っている。この電離層は日中と夜中では濃淡が激しく夜になると消滅する層もあります。また太陽黒点の活動により、特に黒点の多くなった時は電離層も濃くなってくる。今年からサイクル23といって太陽黒点が11年周期で増加する最初の年にあたっている。
電離層は長波帯〜短波帯(約30MHz)の電波を反射する性質がある(詳細は省く)。従って宇宙空間を飛行している物体から電波を発射してもこの電離層で反射されて地上に届きにくく、その反対に地上から宇宙に向けて発射しても同様に人工衛星には届かない(但し大電力で送信すれば別であるが)。では何故北朝鮮はこの27MHzという周波数をいったのか?こう推測してみた。世界中でこの周波数帯は業務用(漁業無線)と市民無線用に割り当てられており船舶はもちろん一般の人でも容易に受信可能な周波数帯であること。また電離層反射により世界中のどこまでも電波が届くこと。従って某国の某個所からこの周波数帯を使って金日成を称える唄を流すことだって有得る。某国の国民さへ騙せばよいのだから。
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