イラクで逝った幼馴染で無二の親友橋田信介を偲ぶ
私と橋田は4軒長屋の隣で生まれました、そして兄弟以上の中でした。橋田が生まれた時にはお母さんの母乳がでなくて困っていたので私の母が乳を飲ませてやってたそうです、だから同じ釜の飯を食った仲間ならいくらでもいますが同じオッパイを飲んで育った者はそんなにいないのではないでしょうか。その後彼の甥(小川功太郎)の母親である小川洋子のときも私の妹と同じ年に生まれました。その時も同じように母が乳を飲ませたそうです。このことは一昨年橋田が大学の講師をしていた時に宿泊先の厚生年金会館で彼のお母さんから食事中に初めて聞かされました。 幼稚園の卒園式 (最前列左端着物姿が橋田信介、前から2列目右から7番目が筆者) 子供時代履物は貴重品で、学校へは草履か下駄近所で遊ぶ時は裸足が常でした。いつものことながら遊んでいた橋田は縫い針を踏んでしまったのです。針は足の中にぽっくり埋没し取り出せなくなりました。埋没した針は体の中を移動し始めました、さあ大変このまま放っておくと心臓に達して深刻な事態になると早速病院へ搬送これまた緊急手術。 卒業した橋田は宇部郵便局に入局しました。その歓迎会で飲まされた酒で急性アルコール中毒になり救急車で病院へ搬送。橋田はアルコールを一滴も寄せ付けない体質なのです。郵便局員時代共産党員ではなかったもののそのスジの活動をしていて公安に目をつけられて24時間監視されているんだといってました。 向学心に燃えていた橋田は宇部郵便局から東京の郵便局への転勤を申し出たのでした。千駄木三郵便局で働く一方、法政大学の二部で勉学に励んでいました。或る時宇部の私のところに相談したいことがあるんだがと云ってきたのです。「クニちゃん、俺大学止めようと思ってんだ」、「一体どうしたというんだい」、「今の給料では授業料が払えないのでそのうち退学になるかもしれないんだ」。そんなやりとりの後、じゃー、出世払いということで俺が授業料出そうということになり、当時の給料3ケ月分を送ってやったこともありました。最近になってその話をしたら、橋田はすっかり忘れておりました。結局返してもらえずにチョン。 橋田が大学を卒業する前年に手紙が来ました。就職活動の件でした。なんでも大宮市の教育委員会に就職できるかも知れないそうだと。また、宇部の方で社会教育関係の仕事がないか探してもらってるとのことも。それが今の橋田の姿になろうとは彼自身思ってもみなかったことでしょう。 橋田はいつも一人でふらっと出かけて帰ってきては私にそのときあった出来事を話してくれてました。或る時リュックを背負い例によって一人で登山に出かけたそうです。 「国ちゃん、俺この前、山で登山家に出会っていろいろ話しを聞いてビックリしたよ」と目を輝かせて話し始めました。登山家は凍傷で足の指を何本も失ってしまったとその足を見せてくれたそうです。橋田はそんな痛い目に遭ってどうしてまた山に登るんですかと聞くと山が好きなんですと答えたそうです。橋田はそのことを自分だけに留めておくことが出来なくてその事実を誰かに知って欲しかったのでしょう、その頃から橋田の身体の中には自分の目で見、話を聞いて実際に体験したことを誰かに伝えるという使命感がフツフツと沸いてきたのでした。 2.突然の悲報に接して 2004年5月28日朝6時頃、妻からイラクで日本人記者二人が襲撃されたようだとテレビで放映してたよと聞かされた。とっさに、もしや橋田ではないかと直感した。何故橋田かといえば、彼は何時も仲間二人と行動を共にするのが常だったからである。出勤途上の車の中でラジオのニュースは二人の日本人記者は「橋田信介と小川功太郎」というフリーのジャーナリストのようである旨報じていた。やっぱり!!。すぐに功太郎のお父さんに電話するも、帰ってきた返事はそのようだと政府の方から連絡があったそうである。 仕事を終えて橋田の実家へ駆けつけると50人ほどの報道陣が家の周りに集まっていた。報道陣に囲まれ質問攻めにあったがなにはともあれお母さんに逢わねばと家に入る。家には橋田の叔母と妹(秀子)の娘の三人がおられた。お母さんが最初に発した言葉が「もうだめみたい」の一言であった。ニュースでは一人が助かっているみたいだからまだ希望をもってテレビを見つめているの。 お母さんにとっては三人の子供がおり一番上が橋田信介でその下に二人の娘がいます。その二人の娘の上のほうが小川功太郎の母親で小川洋子である。下の娘は高橋秀子と云い2年前病気で亡くしているのであった。2003年の夏に橋田とお母さんと三人で宇部厚生年金会館で食事をしたときに娘の秀子を亡くし、ものすごく落ち込んでいたけど最近やっと平静をとりもどしてきたのよと話してくれました。それが今回の事件でまたも子供を亡くそうとは、職業柄ある程度の覚悟はしていたもののやはりやりきれない気持ちで一杯でしょう。お母さんは息子信介よりも孫の功太郎を死なせたことが一番辛く父親の博さんに何度も何度も謝っておりました。 カンボジヤでポルポト兵にビデオカメラからお金、その他身ぐるみ一切強奪された時の模様を両親に話したら父親は腰を抜かしたそうです。お母さんは信介に「命を掛けてまでやるほどの仕事かね」とカネガネ言ってたそうですが、信介はそれには答えようとはしなっかたと。 橋田との最後の出会いは襲撃された日の3週間前の5月8日でした。夕方橋田から電話があり、今から食事に行かないかと誘われました。市街の中華飯店で橋田と小川功太郎の両親(博さん、洋子)と四人で食事をした。会話の中でイラクの話題になった時もう一度言いました。今のイラクは戦時中よりも危険な状態だから絶対に行ってはいけないと。そうしたら、橋田は今イラクに功太郎を残して来ているので行かなくちゃいけないんだと言うのです。そこで洋子ちゃんにも言いました、大事な子供をそんな危険な所へやっていいのかと。洋子ちゃんは息子が自分で決めたことだから敢えて反対はしないことにしているの、それに功太郎は兄(信介)をとても尊敬していることだし。 私は逢う度に「もういいかげんに危険な仕事はやめろ」としつこく言っていたので、橋田はイラク戦争の終結宣言が出た2003年4月で引退を決意していたのです。ところが甥の功太郎が慕ってきたことにより、彼を一人前のジャーナリストに育て上げることにしました。橋田にとっては百人力を得たようなものだったのです。食事を終えて帰り際に橋田はポツリと私に言いました「これが最後かも」。この最後の意味は未だに解りません。俺とはもう逢えないのか仕事を止めるのか、橋田よもう一度俺の前に出て来てその意味を説明してくれ。 親より先に逝くなんて世界一のオオバカヤロウだよお前は、涙で霞んで見える墓に向かって怒鳴ってやりました。 3.橋田との数々の思い出
それからまた橋田との親交が始まるのである。昭和45年に世田谷区民館での結婚式に出席した後、数年間は音沙汰が無かった。ある日ヒョッコリ自宅に尋ねてきて、「俺カメラマンになったよ」と言って息子の写真をパチパチと撮ってくれた。その時私はベトナム戦争の最中空爆を受けながら戦況を撮り続けた橋田だとは思いもしなかった。橋田は私には仕事の話をすることは殆ど無かったし、その後もずーっとそうであった。 まだまだ続きます メールはこちらまで
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