平成19年7月5日 公開
平成23年1月20日 更新



● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える

6 なぜ、駒井和愛氏は、三宅氏の論文発表前に、「土井ヶ浜」に来たのか?



[答え]

当時、考古学研究の学問を研究する大学は少なく、「東京帝国大学」の原田淑人・「京都帝国大学」の浜田耕作両氏が親しかったというだけでなく、学生を含め、研究室全員が親しかったといいます。
更に、「考古学」の専攻ということが始まったばかりでもあり、卒業生を含めて、その結びつきは今日とは比べものにならないくらい、強かったと言います。
親分肌%Iな要素のある小川氏であるがゆえに、「他大学=東京帝国大学」「副手」の駒井氏の研究にも役立つのではと思われ、情報≠寄せられたのです。

そして、駒井氏は、「早稲田大学」卒業でありながら、「高校時代」に指導を受けた原田氏が「教授」となられた「東京帝国大学」の「副手」となられ、その後、「教授」になられたことからも推測できるように、誠実な人柄≠ナ、研究熱心≠ネ方で、当時≠ニしては、大変な「時間」がかかるにも係わらず、小川氏の親切≠ノ応えられようと、「神玉村土井ヶ浜」を訪れられ、「弥生式土器片」を採集され、かつ、それを三宅氏に届けられたのです。

◆ 三宅宗悦氏の「「長門國土井ケ濱古墳人骨に就いて」」より

本年三月東京帝國大学文学部考古学教室の駒井和愛学士同所にて刷目ある弥生式土器片数個獲て届けられたので、同石棺の年代をやや明かにし得た事は駒井学士に厚く感謝する処である。


この、駒井氏が「弥生式土器片」を採集されたという「記録」が、後の、「金関発掘調査」踏み切られるためののきっかけ≠フ一つになっていることは忘れてはならないハズです。


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