平成20年4月7日 「文化振興課」への要望が叶わぬため公開
平成22年12月2日   榎本氏の「戸田焼」の「解説」についての「注意」を「リンク」設定  (「アクセス数」=17498≠フ時点)
平成24年1月5日 更新


● 榎本 徹氏の「萩焼」記述の問題点

 ─ 誤り≠ェ訂正されないという現実 ─ 



かつて、林屋晴三氏に、「萩焼の歴史」が誤って伝えられているからただしたいのですがとして、お話を伺ったことがありました。
 林屋氏は、まったく面識のない私に親切に教えてくださったのですが、その時、マスコミ≠相手にすることの無謀さ≠説かれ、「山口には榎本君がいるだろう、彼ならちゃんと書くんじゃないか。」と、榎本氏に協力を求めることを勧めてくださったのです。
 確かに、公的な立場にあり、著作のかなりある榎本氏が、ちゃんと書いてくれるなら、「自費出版」よりも、はるかに効果があると思い、榎本氏に面会を求めたのです。
 榎本氏は、問題の=u休和物語」の「証言者」として登場していますし、その他、小さな誤り≠烽る人物ですが、事実≠話せば、善処してもらえるかと思ったのです。
 榎本氏は、私に話をする機会≠作ってくれました。
そのことは感謝≠オます。
 しかし、榎本氏の対応は、満足できるものではありませんでした。
 榎本氏は、次のようにいいました。
 ・ 白石氏は、必ずしも証言通りに書いているとは言えない。
 ・ それに、白石氏に限ったことではないが、新聞記者連中は、こちらの都合も聞かず、いきなり来て、すべて知っていて当然のような取材をする。
 更に、榎本氏が、美術館の学芸員になる前は、「出版社」に勤務していたとのことで、
 ・ 「間違いはあるものだ。間違っていると思うなら、自身で直せばいいではないか。
と、とりつく島のない状況だったのです。
 それに、持参した「山口県地方史研究」の研究大会での発表には優先的に掲載するという原則≠破って返却された『山口県地方史研究』への「応募原稿」に目を通すようにお願いしたのですが、ざっとおざなりに′ゥただけでした。「よく見ていただけませんか」と言ったのに対し、「もう読んだ」と言うばかりでした。
 ただ、三輪休和氏の「第3回日本伝統工芸展」に出品、入選した「茶碗」が、「平茶碗」ではなく、「井戸茶碗」であることは、間違いなく=A確認してもらったのです。

それから十年近い歳月≠ェ流れ、河野良輔氏に代わったかのように、榎本氏が主となって「萩焼」の記述を始めたように思います。
 私が最初に目にしたのは、平成18年10月刊『週刊朝日百科 人間国宝22 工芸技術・陶芸 三輪休和・三輪壽雪・中里無庵』という物でした。
しかし、その記述≠ヘ、先に私が榎本氏に見せた「資料」や私の「原稿」をまったく踏まえておらず、誤りを伝えていたのです。「井戸茶碗」だと確認≠オた「第3回日本伝統工芸展」での入選作品も「平茶碗」≠セとする良輔氏の誤り≠フ踏襲でした。

 それはある意味ではありがたいこと≠ナした。
 つまり、「榎本氏は、ああは言ったが、ひょっとして、榎本氏が善処してくれるかも知れない」というかすかな期待≠ェあり、それ故に、私の踏み込み≠躊躇させていたからです。
 しかし、もはや遠慮≠キることはありません。「萩焼の誤った@史」を伝える人物として、榎本氏の書いた物を批判≠ナきるからです。
 休和氏の「記録作成」を手伝うまでは「陶芸」関係については素人 (本人もそう書いていますし、証言者≠煢ス人もおられます) であった良輔氏も直接的≠ノはほとんど知らなかったわけで、ましてや私よりも年下≠フ榎本氏においては、「萩焼の歴史」を正確≠ノ書こうとする限り、少なくとも、私が以前=A良輔氏の書かれた「萩焼の歴史」が事実≠ニかけ離れた作文≠セという指摘をしていたことくらいは思い起こし、最低限=A私の持つ「資料」をもう一度見せよというくらいのことはしなくては、責任ある記述はできなかったと私は思います。
 『週刊朝日百科 人間国宝22 工芸技術・陶芸 三輪休和・三輪壽雪・中里無庵』の中の榎本氏の書かれたものを引用してみましょう。



[1] 平成18年10月刊『週刊朝日百科 人間国宝22 工芸技術・陶芸 三輪休和・三輪壽雪・中里無庵』の中の問題点






『週刊 人間国宝22 工芸技術・陶芸 4』の「表紙」

大判であるため、周辺が少し切れています。


(2頁)
美のこころ

精励刻苦から咲いた花
引退後の活動は、名実ともに休和スタイルの完成期であり、豊かな作品群がつくられ始める。
◎ 榎本 徹
岐阜県現代陶芸美術館長


「萩焼が愛しうてのお」。一九七○年(昭和四十五)、三輪休和が人間国宝に認定されたときのインタビューでの一言である。 一九一○年(明治四十三)、祖父・八代雪山の「陶工に学問はいらぬ」ということばにしたがい、旧制中学を二年で中退し、焼き物の道にはいって六十年目のことであった。
五代十蔵が毛利藩に提出した自家の記録によれば、初代休雪の祖父は朝鮮半島から渡来した。初代は、一六六三年(寛文三)に御用焼物師として藩に召し抱えられた。初代休雪と四代休雪は、藩命により、京都に楽焼の修業に行かされ、三輪窯は、藩主に楽焼を供給する窯として位置づけられ、「長州楽焼師」を名乗る。楽の技術には置物作りもあり、これも初代と四代は、京都から身につけてきたと考えられる。このことから、江戸時代中期から、萩焼で置物製作が盛んになるが、これを主導したのは三輪家であると考えられる。
一九二七年(昭和二)、休和は父・九代雪堂の隠居により、十代休雪を継ぐ。この年、弟・壽雪も旧制中学を卒業し、家業に従事している。ちなみに三輪家で休雪を名乗ったのが確認されているのは、初代、四代、七代だけで、いずれも名工として知られており、休和の覚悟がなみなみならぬものであったことが知られよう。しかし、この時期は、地方窯の苦難の時代であった。三輪窯も製品が売れず、燃料の薪代に事欠くこともあったが、地元萩の有力者などの助力により、徐々に窯を立て直していく。
 おりから、三○年に美濃で荒川豊藏が、志野の陶片を発見したことをきっかけに、陶芸ブームが巻き起こった。これを敏感に感じた休和は、独自に萩関係の有力者の紹介状を得て、有名な茶人やコレクターのもとをたずねて古陶を研究するなど、活動を活発化させていた。そんななか、四一年、財界人であり、自らも茶陶を制作していた川喜多半泥子を紹介され、翌年半泥子宅で結成された「からひね会」に参加することにより、休和は大きく飛躍することになる。この会のメンバーは、半泥子のほかには休和と荒川豊藏、金重陶陽であった。半泥子は三人を知っていたが、それ以外の三人はおたがいに初対面であったという。またこれを縁に壽雪は半泥子に弟子入りする。
 このころの休和の作陶修業の特徴は、萩焼だけにこだわらず、桃山陶を広く研究したことにある。そのことは、休和が書き続けた『窯日誌』の記述や、三五年頃につくられた伊賀写しと思われる水指などが残されていることからもわかる。いきおいがつきはじめた休和の作陶活動も、不幸な戦争により中断を余儀なくされる。

そして戦争は終わる。 第二次大戦後の休和にとって幸いするのは、日本工芸会の発足である。

「休雪白」の完成

 五六年、第三回日本伝統工芸展には初出品した「平茶碗」(ひらちゃわん)が入選するこの年には、山口県指定無形文化財に認定されているが、いまだ地方的存在であった。しかし出品をきっかけに、その翌年には、東京在住の山口県ゆかりの名士たちによる後援会が発足し、また、日本橋の三越での初個展も開催できた。休和の活動が一気に広がりを見せたのである。同じ年に、文化財保護委員会から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の選択も受けている。これ以降の活動はめざましく。十代休雪の名もようやく世に広まり、家業も安定を見せ始める。弟と協力して開発した白萩釉「休雪白」も完成した。家業の安定を十分に確認した休和は、六七年、隠居して休和を名乗り、家業を弟の十一代休雪(現・壽雪)に譲る。七十二歳であった。
 引退後の活動は、名実ともに休和スタイルの完成期であった。豊かな作品群がつくられ始める。その頂点は七二年の「喜寿記念・三輪休和作陶展」であろう。茶碗は和風の筒茶碗も、朝鮮風の茶碗もねらいが明確で、技巧を凝らしたものが姿を現す。さらに注目したいのは水指である。丸みを帯びたものも、しっかりとした直線的なものも、優れた量塊感を見せ、その存在感は際だったものがある。三輪窯を思い、萩焼を思い、精励刻苦の中での禁欲的な創作姿勢は、隠退とともに解き放たれ、大きな花を咲かせたのである。



──[問題点]─────────────────────
・まず、誰にでもわかる誤りは、「第三回日本伝統工芸展」への初出品作品である「茶碗」が「平茶碗=vではないということです。
 私は、榎本氏に、この『図録』にある「作品」の「写真」を見せ、榎本氏も、平茶碗≠ナはないことを確認されたのです。
しかし、依然として、河野良輔氏の、「平茶碗」なる誤り≠引き継いでおられるのです。

私が、この「第三回日本伝統工芸展」における「入選作品」が、「平茶碗」でないということにこだわるのは、なにも揚げ足≠取ると言うことではなく、残念ながら=A良輔氏の記述や、証言は、根本から見直す必要があるということの、糸口としてなのです。
このことは、私のいる時、榎本氏に父が、直接′セったことでもあるのです。

神奈川県横須賀市の出身で、しかも、「昭和21(1946)年生まれ」とあって、「私」より「年下」、東京教育大学(現 筑波大学)卒業、「出版社」勤務を経て、「山口県立美術館」開設に伴って着任された榎本氏が、「上司」である河野良輔氏の「著作物」・直接′セわれたことに、大きな♂e響を受けるのは仕方ないにしても、良輔氏の後≠受けて「萩焼」記述の第一人者ということになるナラ、調べさえすれば容易にわかる=u間違い」くらいは、正して欲しいほしい≠ニ私は思います。



1号井戸≠ェ入選という「ハガキ」
「はがき」の文面1号井戸が≠ゥら、応募された2点≠ニも「井戸茶碗」であったと思われます。
 なお、この「はがき」は、『図録』を見られた段階でのもので、休和氏の上京により、2点とも入選であったことがわかりました。)
・更に、問題なのは、「日本工芸会」の発足がなぜ、「休和にとって幸い」したと言うのかということです。
榎本氏は、「日本工芸会」が発足したから「日本伝統工芸展」が始まったと勘違いしているのではないでしょうか。
ここは、「日本工芸会」が発足したから≠ナはなく、「文化財保護法」の制定の際、まったく新しい視点≠ゥら、「無形文化財」の制度が設けられたことです、とあるべきところなのです。
ここの榎本氏の記述は、表面的≠ノは大した誤り≠ヘないようですが、陶芸史≠ナは大きく違います

ここにあるこの年には、山口県指定無形文化財に認定されているが、いまだ地方的存在であった。しかし出品をきっかけに、その翌年には、東京在住の山口県ゆかりの名士たちによる後援会が発足し、また、日本橋の三越での初個展も開催できた。休和の活動が一気に広がりを見せたのである。同じ年に、文化財保護委員会から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の選択も受けている。これ以降の活動はめざましく。十代休雪の名もようやく世に広まり、家業も安定を見せ始める。≠ニいう、榎本氏の「記述」が事実≠ニはいささか∴痰チていることは、「次」をクリック≠オていただくと、わかっていただけると思います。
ここをクリックしてください。


──[参  考]─────────────────────

 「日本伝統工芸展」について、榎本氏に認識≠フ誤りがあることは、平成15(2003)年の、「山口県立美術館」で開催された「日本伝統工芸展50年記念展わざの美=vの「パンレット」でもわかります。
 この「パンフレット」の「作成」は、平成14(2002)年10月開館「岐阜県現代陶芸美術館」「館長」として、ヘッドハンティングされていった榎本氏に、直接的≠ネ責任はないにしても、「山口県立美術館」の開館当初≠ゥら「陶芸」関係を担ってきたわけですから、いわば、榎本氏の、蓄積し、残していったデータに、「問題」がなかったとは言えないハズです。
 要するに、榎本氏には、「伝統工芸展」に関する知識≠ノ問題があるということだと思います。
 平成15(2003)年、「日本伝統工芸展50年記念展わざの美=vが各地で開催され、「山口県立美術館」でも開催されました。





 他の「美術館」のパンレットは知りませんが、この「山口会場」である「山口県立美術館」で、入場者全員に渡された「B5」の「パンフレット」につけられた説明文には、あきれたこと≠ノ、こうあるのです。




「日本伝統工芸展」が昭和二十九年(1954)に最初に開催されてから、今年で五十年目を迎えます。
同展は、昭和二十五年(1950)年に制定された文化財保護法によって制度化されて間もない重要無形文化財保持者(人間国宝)の作品を紹介する目的で開催されました。
間もなく全国規模の公募展となり、全国の工芸作家たちの発表の場として、戦後日本の工芸に大きな役割を果たしてきました。  このたびの展覧会は「日本伝統工芸展」が五十年を迎えるのを記念して、同展に 出品した作家、歴代の受賞者、人間国宝を含めた工芸作家の代表作品を現在の視点から見直し、近代工芸史に重要な位置を占める百五十人の作家の代表作を選りすぐり、一堂に会するものです。
「日本伝統工芸展」は、伝統技術の継承にとどまらず、新技法の研究や現代の美意識に基づいた新感覚の作品創造を促進し、多くの優れた作家を育成してきました。
陶芸・染織・漆芸・金工・木竹工・人形・その他の工芸の七部門にわたる様々な工芸作品には、確かな技術から生み出された「わざの美」があります。
物故作家から新進気鋭の若手作家まで、人間国宝八十五名を含む工芸作家たちの「わざの美」の世界をご堪能ください。




しかし、この「パンフレット」には明らかにあきれるような=u間違い」があります

@ 「第1回」の「工芸展」は、旧「無形文化財」の人たちの技を公開するためのものであって、「重要無形文化財」のものではないし、
A なによりも、「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」の制度は、「第一回展」の時にはなかったのです。
つまり、旧「無形文化財」の制度と新制度をゴッチャにしているのです。
B 間もなく全国規模の公募展となり≠ニありますが、間もなく≠ナはありません。
正式の「公募展」になったのは、「第七回展」からです。

 この「パンフレット」3年後には、上に述べたような別の形≠フおかしな記述が、『週刊朝日百科』において、榎本氏個人によって、なされているのです。
 
──────────────────────────────────────

 「萩焼」の歩みが、豊臣秀吉の文禄の役(1592〜1593)・慶長の役(1597〜1598)という政治?≠フ世界でのできごとつまり、朝鮮から連れ帰られた陶工が、「萩」を始め、各地で望郷の念をいだきながらも(「ただ、萩焼」の場合は、そうした哀史が語られていないようですが)「藩」の保護≠受けながら発展させていった陶芸、いうところの近世国焼典型的な歩みをしていったという事実≠ヘ、たとえ、一流≠ニ評価された人物 によるとしても、勝手に¥曹ォ換えることは許されないハズです。
 その後も、「明治維新」によって、御用窯≠ニいう保護≠ェ解かれ、さらに「太平洋戦争」で苦難≠強いられることになったのも政治≠ニは無縁ではありえません。
 そして、極めつけは、その政治の力=「文化財保護法」・「無形文化財」の制度の制定≠きっかけ≠ノ、かつてなかったほどの隆盛を「陶芸」(特に「萩焼」)の世界は、極めることになったということです。
 「陶工・陶芸家」の個人的な力≠ェ、もっぱら問われるいい時代≠ノなる前≠ノ、こうした政治の力≠ェ関与≠オたという「歴史的事実=v無視≠キるなど、私には、とても考えられないことなのです。

 (「萩焼」の若手作家≠育てる一つの力≠ニなった「日本工芸会山口県支部」という山口県£P独での「支部」結成を、たった2人≠ネのに強行結成≠ナきたのも、「記録選択」に2人≠ェ同時になったということと無縁ではありません。
当時は、むしろまとめよう≠ニする雰囲気のもと、「山口県」が忘れられたかのような=u工芸会」の結成であったが故に、浜田庄司氏などが、不快感をあらわにされたと、証言をしてくださった方がおられますが、新兵衛氏が高齢であったこともこの場合はさいわい≠オての結成でした。
 このことで、「備前焼」とも「有田・唐津」とも争うことなく=A「山口支部展」において、毎回、多くの受賞者がで、しかも、それを「地方版」を大幅に拡大したこともあって、「朝日新聞」がびっくり≠キるほど大きく扱うのですから、若手≠フ励みになったはずです。〈休和氏のハガキによると、「九州支部」が、支部会員としての入会を呼びかけてきたようです。「記録選択」は、ほぼ間違いないことがわかっていたため、当然、その誘いには応じませんでしたが、「山口県」の微妙な位置≠フせいでしょう。今日でも、各種団体が、「九州」と一緒になっている例は少なくないはずです。)
私は12代坂倉新兵衛氏を「中興の祖」という中に、この「山口支部」結成の立役者だったからということを含めてもよいと思っています。)


 言うまでもないこと (但し、こと、「山口県」においては言わねばならぬようですが) ながら、「日本伝統工芸展」は、旧「無形文化財」技≠フ公開≠フ場として出発したのです。 

それが「日本工芸会」の発足と共に、「日本伝統工芸展」という名称を受け継いで、性格が異なるのに=A[第貳回]を名乗り、以後、回数を重ねていったのです。
無論、「文化財保護委員会」から小山先生が「理事」として加わられ、当初は、少なくとも実質的な面を担当され、「文化財保護法」にいう「重要無形文化財」・「記録選択」の人達の公開の場としての意味を持たせられたのです。
その「日本工芸会」の発足については諸説ありますが、小山先生を初めとする方々の働きかけもあって、要するに、旧「無形文化財」の人達が中心となって発足させたということでしょう。

 ただ、「社団法人 日本工芸会」の「正会員」の〈条件〉として、

わが国伝統工芸の精神を体得し、その研究修練に特に熱意を有する者で、次の各項の何れかに該当する者
  1=伝統的な工芸に優れた技能を有する者
  2=伝統的な工芸技術を基盤とし、優れた創作力及び技術を有する者
  3=伝統的な工芸の研究修練に特に熱意を有し、かつ、優れた素質を有する者


ということを謳っており、プライド≠持った集団だったのです。

ここで、三輪休和氏と「からひね会」の仲間であった荒川豊蔵氏、金重陶陽氏は共に、旧「無形文化財」であったわけですから、せめて休和氏個人にダケでも、その「日本工芸会」への誘い≠してほしかったのですが、誘い≠ヘありませんでした。
従って、「日本工芸会」が中心となって始まった「第貳回展」には、当然のように=A「萩焼」に応募資格はなかったのです。

榎本氏が、第二回は重要無形文化財や無形文化財保持者だけでなく、推薦によって一般の作家も出品した
(『三輪休和遺作展の図録』〈116頁上段18・19行目〉)
と書いているのは間違い≠セと断言します。

この表現だと、「重要無形文化財保持者(俗称人間国宝)」及び、無形文化財保持者(=「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」旧「無形文化財」の認定者)以外は、一般の作家ということになりそうですが、「無形文化財」には関係のない実力者も、「正会員」となっておられたことは、周知のことです。
「無形文化財」には関係のない「正会員」は、推薦によって=u出品」したワケではありません。
さらには、鶏と卵のようなことかも知れませんが、「支部会員」になるにも、推薦を必要とした権威ある「工芸会」ですから、推薦によって「出品」したというのも、「支部会員」として認められた工芸家が、出品したというのが、事実≠ナ、いわゆる一般≠ナはないハズです。
ごく限られた、地域°yび人間関係においてを認められた人達が、推薦によって日本工芸会「支部会員」となり、「支部会員」として出展したということなのです。

↑ この『図録』の「日本伝統工芸展開催趣旨」の中にこのたびは正会員支部会員の外に、会員紹介の作家の作品を厳選して、第三回展を開らく運びとなった。と明記されています。
ツマリ、「このたび」=「第三回展」においては、「第貳回展」が「正会員・支部会員」ダケだったのに、会員紹介の作家の作品を厳選して「選」に入ったものを含めて「第三回展」を開催したということを述べているのです。
私は、「第一回工芸展」〜「第三回工芸展」『図録』について、膨大な=u容量」のある[Yahoo!ジオシティーズ]を利用させていただいて、スキャナ≠ナ取り込んだ「写真」を含めて公開≠オていますが、幸いにも=A多くの方々に「アクセス」をしていただいており、かつ、現在≠ワでのところ、「著作権」云々で削除≠キるようにといった「注文」はありません。
「萩焼」のindexをクリック≠オていただき、他の『図録』等も御覧いただくことができれば、ありがたいと思います。




 休和氏に対してすら、旧知≠フ荒川、金重両氏からの誘い≠熈推薦≠烽ネかったことで、12代新兵衛氏、休和氏の「第三回日本伝統工芸展」への出展は「第三回展」から[工芸会の正会員または理事の推薦]があれば応募を認めるというシステム≠ノなり、そのことを「正式発表」前ながら、「無形文化財(それも、できうるなら「人間国宝」)」の「申請」による小山冨士夫先生の「来県調査」の際「無形文化財」としての発表前に、力≠全国的にアピール≠オておくようにと、「理事」である小山先生が推薦してくださったから可能になったのです。

繰り返しますが、「第3回日本伝統工芸展」に初出品≠オたのは、それまでは出品できなかった≠ゥらなのです。
つまり、萩焼の2人が中央にその力をアピール≠キることになったのは、「無形文化財」の制度に乗ろうとしたからなのです。

それに、出品をきっかけに、その翌年には、東京在住の山口県ゆかりの名士たちによる後援会が発足≠オたわけではありません。 (もっとも、表面上≠ヘ、そうなっていますが・・・。)

今日では考えられないほど、「マスコミ」の扱いが小さかった当時、「伝統工芸展」そのものの周知%xは高くなく、ましてや、「工芸会」のメンバー以外の人間にも門戸を開いたばかりで、確たる評価≠烽ネかったハズですから、その「工芸展」で「萩焼」の二人が入選≠オたということがそれほどの意味を持って受け取られたとは考えにくく、多忙な「名士」の方達は知られなかったのではないでしょうか。
これは、間違いなく=A12代坂倉新兵衛氏、休和氏とも、「記録選択」にとどまっため、一日も早い「人間国宝」への昇格を願って、根回し≠ェあったからです。
(今日、「入選」が「新聞記事」になる〈といっても、主催≠ニして加わっている「朝日新聞」だけですが〉のとは状況がまるで違っているのです。)

「後援会」の結成は、小山先生から「重要無形文化財(俗称 人間国宝)の可能性」を言われていた12代坂倉新兵衛氏の「後援会」先行します。
「政治力」もあり、名士との親交のあった新兵衛氏の場合は、親しかった方達が手をつくされました。
「昭和31年11月」に、これまでに何回か開かれていた「高島屋百貨店」において、「人間国宝」の認定を視野≠ノおいて大がかりな「個展」を企画されたのにあわせたのです。
東京≠ナの「個展」をそれまでに何回となく開催されていながら、評価≠ノ必ずしも結びついていなかったこともあって、小山先生には、新兵衛氏が直接、案内に出向かれたのを初め、広く、「個展」開催のことを知らされました。 新兵衛氏を追悼して編まれた『陶匠 坂倉新兵衛』の緒言≠ノおいて、横山繁雄氏が
 萩焼深川窯宗家十二代坂倉新兵衛翁が、昭和三十二年三月に、国の無形文化財記録保持者としての指定を受けられたので、これを記念し、翁が晩年益々陶業に精進せられることを希うと共に、その作品を広く推奨しようとして、翁の後援会を結成しました。
と書いておられますが、
「記録選択」としての認定よりも、「後援会」の発足の方が先です。
ツマリ、「記録選択」は「人間国宝」としての「認定」でなかったタメ「記録選択」だからです。
「萩焼宗家十二代坂倉新兵衛氏後援会設立趣意書」にある〈昭和31年11月〉
「三輪休雪氏後援会設立趣意書」にある〈昭和32年4月〉
が、そのことを如実に示しています。

なお、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の「認定」は、この「昭和31年度」においては、一人もありませんでした。
加藤土師萌氏、加藤唐九郎氏、宇野宗甕氏ら、旧「無形文化財」であった人達も、みな「記録選択」であったのです。
このことについては、「次」に、私の「考え」を述べています。
鈴木健二氏に、「その考えでいいと思う」と言っていただいていることとて、時間的な余裕≠ェあるようでしたら、御覧いただきたいと思います。



 

 なお、新兵衛氏の場合は、ご高齢であったことから、これから≠ニいうより、既にこの時点≠ナの顕彰ということも目的にありました。
 続けて横山氏は書いています。

 第一事業として、顕彰碑の建立を企画しましたが
その完工を見ずして翁は昭和三十五年十二月三日、忽然として他界せられました。

と。


  萩焼宗家十二代 後援会設立趣意書 (12代坂倉新兵衛氏)

 今や氏は喜寿を迎えんとする老熟の境に在りながらその健康と意気は全く若者を凌ぐものがある。
その練熟した陶技は全く絶妙とも謂うべく、我国陶芸界の至宝としての存在である。
我等は茲に氏の為めに後援会を設立し、益々氏の陶芸界への活躍を支援すると共に引いては萩焼の隆昌発展を期せんとする次第である。
何卒各位に於かれては趣旨を御賢察、御賛同の上会員として御加入下さるよう御願申上げ御挨拶といたします。

発起人 
鮎川義介   安倍源基  岡本梅次郎  岸信介 木村秀吉  久原房之助
京都  坂内義雄  佐々木義彦 佐藤栄作   佐藤進三   重宗雄三
大阪   杉 道助   周東英雄   田中龍夫 藤山愛一郎  松林桂月 森 立二
 
(紫の文字は休和氏の後援会でも発起人として名を連ねている方々)



しかし、残念ながら、新兵衛氏も、翌年3月の発表では、「記録選択」に留まってしまい、その後の残された時との闘いも報われず、「人間国宝」への昇格はないまま、亡くなられてしまいました。

一方の休和氏の場合は、事情≠ェやや違っています。
 休和氏の場合は、「記録選択」はほぼ間違いないところだが、「重要無形文化財」の方は、新兵衛氏の後小山先生から伝えられていたこととて、ある程度の長期勝負を考えねばなりませんでした。(結果的には枠≠フ問題もあって、長すぎる♀間が経過しましたが。)
 「記録選択」ということは、今後、「工芸展」という公開の場≠ナ、いわば衆人環視≠フもとで、全国の陶芸家と競うことを意味するわけで、それまで用≠ノ徹した作品を、窯のバランスを考えながら作っていた立場から、競う≠ノ足る意欲的な作品≠作るように、方針転換をする必要がありました。
その意欲的な作品=高額な作品≠受け入れる体勢、つまり、「後援会」の必要があったのです。


そして、「三越」での個展をその発足のきっかけとしたのです。
 この休和氏の「後援会」には、幅広い人脈を持っておられた岡崎茂樹氏らの力をお借りしました。
 むろん、休和氏の力=E人間的魅力≠ェ当然=A前提条件なければ進むわけはありません。その点で、休和氏の「後援会」の結成は、スムーズ≠ノ運んだといいます。
 休和氏の「後援会」設立は、一日も早い「人間国宝」への昇格を願ってのことだったわけで、「無形文化財」との関係なくしてはありえないことだったのです。
 「昭和三十二年四月七日」という日時を記した「三輪休雪氏後援会設立趣意書」にはこうあります。

三越本店に於ける同氏の茶陶展を期に後援会を設立し萩焼の隆昌展進を期すると共に、陶芸界への精進活躍を支援せんとする次第である。
何卒各位に於かれては趣意御高察の上御賛同御参加下さるようお願い申上げます。
発起人  
鮎川義介    岸信介    木村秀吉   久原房之助  佐々木義彦
佐藤栄作    杉道助    清木通夫  俵田明    田村啓三
田中龍夫    中部謙吉   中谷由路  藤田政輔   松林桂月
 毛利元道   渡邊世祐

紫の文字は新兵衛氏の後援会でも発起人として名を連ねている方々)



 揚げ足をとるようですが、東京在住の山口県ゆかりの名士たち≠ホかりでないことは、地名≠記した「新兵衛」氏の「後援会」の「発起人」の項を見ればわかるはずです。
なお、あまりに=A事実と懸け離れた「萩焼のあゆみ」が流布≠オているタメ、こうして「ホームページ」によって、「伝える」という手段≠ェ思いつかなかったので、「山口県文書館」に、当時≠フ事実≠語る「資料」をほんの一部≠、「寄贈」しています。
その中に、お二人の「後援会設立趣意書」もありますので、機会があれば「確認」をしてみていただきたいと思います。  


・更に、この年には、山口県指定無形文化財に認定されているが、いまだ地方的存在であった。≠ニいう表現では、「工芸展」の入選が要素≠ニなって、「山口県指定無形文化財」の認定と関連があるかのようにも受け取れますが、そうではありません。
上に述べたことと前後しますが、そのいきさつを簡単に述べておきましょう。 
@ 衰亡の虞という条件≠フゆえに、旧「無形文化財」への指定申請を見送った[山口県=萩焼] (今日から見れば比較になりませんが、[昭和26年=「文化財保護法」で申請≠キる場合の時期]当時は、最悪期≠ヘ脱して、経営にもメド≠ェついた時期だったのです。例えば、三輪窯の場合、「休和物語」にも、第二に、窯焚きの回数。窯日誌によると、敗戦後の一時期、落ち込んでいたが、二十六年に年三回のペースを取り戻す。第三回日本伝統工芸展に初入選した三十一年(一九五六)から、三輪窯を弟の休雪に譲った四十二年(一九六七)まで平均三・四回。〈194頁6−8行目〉≠ニあります。ただ、この時に申請≠オたとすれば、間違いなく≠P2代坂倉新兵衛氏1人でした。) であったが、その衰亡の虞≠ニいう条件≠ェなくなり、真に∞力≠条件とする新「無形文化財」=「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」への「指定申請」が出発点であった。
A その際、旧「無形文化財」の陶工・陶芸家の人達が、新「無形文化財」にあたかも移行されるかのような¥況のもと
A−1 旧「無形文化財」の人達の年齢≠ェ、当時の「萩焼の第一人者=12代坂倉新兵衛」氏よりも一回り若い$l達であった。

◆ 「陶工」の生年≠ニ各「無形文化財」との関係

生 年

(西暦)



陶 工 名

旧無形

文化財

  新無形文化財  

記録選択

人間国宝

 1873

 初代 徳田八十吉

 

 


 1874

 

 

 


 1875

 

 

 

 

 1876

 

 

 

 

 1877

 

 

 

 

 1878

12代酒井田柿右衛門

 

○ 29年度

 

 1879

 

 

 

 

 1880

 

 

 

 

 1881

  坂倉 新兵衛

 

○ 31年度

 

 1882

 

 

 

 

 1883

 北大路魯山人

 

 

辞 退

 1884

 

 

 

 

 1885

 

 

 

 

 1886

富本  憲吉

 

 

○ 29年度

 1887

 

 

 

 

 1888

   宇野 宗甕

 

○ 31年度

 

 1889


 

 

 

 1890

 河井寛次郎

 

 

辞 退

 1891

 

 

 

 

 1892

 

 

 

 

 1893

石黒  宗麿

 

 

○ 29年度

 1894

 

荒川  豊蔵
浜田  庄司
  川瀬  竹春

 

 



○ 29年度

○ 29年度
○ 29年度

 

 1895
 

  三輪  休和
  中里  無庵


 

○ 31年度
○ 29年度


 

 1896

金重  陶陽

 

 

○ 30年度

 1897

  12代今泉今右衛門

 

○ 31年度

 

 1898

  加藤 唐九郎

 

○ 31年度

 

 1899

 

 

 

 

 1900

 

  加藤 土師萌

 

 

 

○ 31年度

 

〈○36年度〉
 

[備考]
  北大路魯山人氏が、「重要無形文化財(「人間国宝」)」への推薦≠断られた(それも、再三)ことは、「マスコミ」に限らず、小山冨士夫先生のご子息=岑一氏を始め、事情を知っておられる複数の方から確認≠オていますので、間違いはないのですが、「後にも先にも魯山人一人だよ」とおっしゃる権威者≠烽ィられるものの、河井寛次郎氏も、「人間国宝」はおろか「文化勲章」も断られたということを複数≠フマスコミが伝えています。
 河井寛次郎氏については、平成20年12月25日NHK「ラジオ深夜便」における「河井寛次郎記念館」の館長(寛次郎氏の娘)及び学芸員の鷺 珠江氏(寛次郎氏の孫)の放送を契機≠ノ、いろいろとお尋ねした結果、寛次郎氏「人間国宝」辞退された方だという私≠ネりの「結論」を得ています。
 次をクリック≠オてご覧ください。 


 上の「表」を見ていただくと一目瞭然ですが、既に七十歳を超えておられる新兵衛氏よりも、一回り♂コの年代の方々が、他の陶芸地では、中心になっているということです。 父=英男も当然≠フように、このことを痛感≠オました。
A−2 現在進行形≠認定する制度であり、「気の毒でも作品ができなくなったら、返上してもらう」という小山冨士夫先生の言葉があったため、今年60のおじいさんと歌われていた当時にあって、70歳を超えておられた新兵衛℃≠謔閧熈若い%ゥ工・陶芸家を「萩焼」としても同時に=u指定」したかった。
(この規程は、今日も「条文」に明記されていますが、実際に返上≠ウれた例はないと、中ノ堂一信氏に教えてもらいました。)

B 「通達」に、複数℃w定が可能とあった。
C なによりも、有難かったことに、父=英男の目に、新兵衛氏に匹敵≠キる陶工・陶芸家として、三輪休和氏がおられると判断されたことでした。
 父=英男が、自費≠ナ、わざわざ上京し、「第一回無形文化財 日本伝統工芸展」に出かけて、「作品」を目にしていたことが生かせたのです。
D しかし、「指定」の前提となる小山先生の「来県調査」「萩焼」に対する評価≠ェ高くなかったことて、なかなか実現しなかったが、根負け≠フ形で、小山先生は「自費」で立ち寄る≠ニいう形で、来県してくださった。
E その小山先生の認識≠改めさせるものを二人は持っておられたため、小山先生は人間国宝相当の力であることを認められるとともに、
E−1 先に、「山口県指定」にしておくように
E−2 「指定」前に、力≠全国的にアピール≠キるように
(当面、新兵衛氏をと考えられていたのですが、結局、前年度における、金重陶陽氏以後の追加認定はありませんでした。「昭和31年度〈発表は 32年3月〉には、加藤土師萌氏・加藤唐九郎氏・今泉今右衛門氏・宇野宗甕氏ともども、「記録選択」としての認定になりました。)
まだ正式発表をしていないが、秋に開催する「第3回日本伝統工芸展」には、「理事または工芸会正会員の推薦=vにより、「工芸会」以外の陶工・陶芸家にも応募できるようになるからとして、出展を勧められた

この「第三回伝統工芸展」なるものを、休和氏にとって、
この「第3回伝統工芸展」での入選が出発点であるとする良輔氏、榎本氏の「朝日新聞記者」=白石明彦氏への「証言」が、
既に「昭和31年当時」小山先生によって、「人間国宝」の候補たりうる≠ニして認められており、その力≠フアピールの場であったのに、
休和氏についてダケならまだしも、12代坂倉新兵衛氏への「休和物語」におけるとんでもない=u記述」を招いている≠ニ思われるのです。
(もっとも、これは主として=A良輔氏の情報だと思いますし、榎本氏の幾つかの疑問ある記述も、良輔氏を受け継いでおられる≠アとが「原因」と思われますが・・・・)

その結果、「萩焼」の二人の作品は、[2点応募]したものが2点とも入選≠オたのみならず、入選作品に差≠ェある『図録』の3頁≠ノ、「人間国宝」の方の作品とともに、大きく′f載されたのです。
なお、こうした「展覧会」では、即売をするのが常≠ナすが、休和氏の「茶碗」には、最初に赤札(購入予約済み)がついたのです。
このように、田舎≠フ窯にはほとんどチャンス≠フなかった日の目≠見ることが、「無形文化財」制度の発足と共に、訪れたというのが、「陶芸史」の事実なのです。
のみならず、旧「無形文化財」を経ずに、「記録選択」を経て「人間国宝」に最初になられたのが休和氏なのですから、その歩み≠ヘ、単に休和氏の問題ではなく、「陶芸史」全体の問題なのです
(休和氏の後で「人間国宝」になられた中里無庵氏も、「記録選択」を経ておられますが、中里氏の場合は「佐賀県」で、旧「無形文化財」として、今泉今右衛門氏が「申請・認定」されています。
なお、新兵衛氏は「記録選択」としての発表のあった3年後に亡くなられています。)

 この「昭和29年・31年」の「記録選択」は、後のそれとは違い、「重要無形文化財(人間国宝)」の枠≠ェ少なかったためにプール≠フ形で設けられた、この時代特有のものといってよいと思います。

─── 榎本徹氏が係わっていると思われる 三輪休和 略年譜 と 補充(紫の文字の箇所)
(「川喜多半泥子と人間国宝たち展−桃山ルネッサンス 陶芸の近代化−」の『図録』(116頁)及び 「展示」 )────

   『図録』の巻頭の川喜多半泥子とからひね会」という5頁にわたる一文を載せているのは榎本氏であり、会場の展示も、榎本氏の名入りのものでした。



1895年 明治25年 4月20日、山口県萩市(阿武郡椿郷東分村)に、旧萩藩御用窯三輪家九代雪堂の次男として生まれる。本名は邦廣。
1910年 明治43年 祖父八代雪山の勧めにより、山口県立萩中学校を2年終了で退学し、家業に従事する。  15歳
1927年 昭和2年 
九代雪堂(60歳)の隠居にともない三輪窯を継承。十代三輪休雪と号す。 
十代襲名を機に「窯日誌」を記録する。  32歳
1928年 昭和3年 この頃から、藁灰による白釉の発色について研究を重ねる。   33歳
1930年 昭和5年 石膏流し込み型法を習得する。   35歳
1935年 昭和10年 萩博覧会用に作品を制作する。   40歳
1938年 昭和13年 『茶の湯会記』を書き始める。古萩を中心とする年譜を作成する。  43歳
1941年 昭和16年 
表千家左橋宗完師を案内して旧藩御用達熊谷家の高麗茶碗と古萩を鑑賞する。   
川喜多半泥子が来訪して茶碗、水指等を制作する。   46歳
1942年 昭和17年 
川喜多半泥子らと「からひね会」を結成する。    
表千家大阪出張所にて初めて即中斎宗匠に会う。この時古萩茶碗「武蔵野」を鑑賞し、帰宅後直ちに写しを制作する。   47歳
1943年 昭和18年 「萩焼」の技術保存作家(マル技作家)に認定される。   48歳 
1944年 昭和19年 大阪美術倶楽部で初個展を開催。   49歳
1953年 昭和28年 裏千家淡々斎宗匠が来訪する。父九代雪堂(86歳)死去。   58歳
1955年 昭和30年 通産省「全日本産業工芸展」に抹茶碗を出品し会長賞を受賞。   60歳

1956年 昭和31年 
文部技官小山冨士夫、「萩焼」の「重要無形文化財」の指定申請のために「来県調査」
(小山の指示により、「山口県指定」を先に検討することになるとともに、「日本伝統工芸展」への小山の推薦という形で出展)

山口県指定無形文化財「萩焼」保持者に認定される。  
第3回日本伝統工芸展に初出品で入選する。   61歳
1957年 昭和32年 
「萩焼」の無形文化財記録保持者に認定される。
「東京三越日本橋店」において、「個展」開催
「個展」開催を契機として、「後援会」発足

山口県陶芸協会創設に際し、会長となる。(昭和34年、同協会改組により萩焼陶芸協会会長となる。)    62歳
 
 ↑ 「中央」が小山先生、「右端」が休和(当時は、十代 三輪休雪)氏、「左端」が弟の節夫(当時の号=休=Aその後、十一代休雪、を経て、現 壽雪)氏

1959年 昭和34年 松陰百年祭の記念品として表千家家元即中斎好みの茶碗100碗を制作する。   64歳
1961年 昭和36年 
表千家家元即中斎宗匠還暦記念茶碗60碗を制作する。
中国新聞社より中国文化賞を受賞。   66歳

1964年 昭和39年 山口県より文化功労者として表彰される。    69歳
1967年 昭和42年 隠居して休和と号す。弟節夫が十一代三輪休雪(現・三輪壽雪)を襲名する。紫綬褒章を受章。    74歳
1969年 昭和44年 十一代三輪休雪の次男栄造を養嗣子とする。  75歳
1970年 昭和45年
「萩焼」の重要無形文化財保持者に認定される。
この年より、「三輪休和奨学金」の育英資金を萩市に寄付する。    76歳
1971年 昭和46年  
日本工芸会主催「萩焼研修会」の講師を委嘱される。
小山冨士夫が来訪する。     77歳
1972年 昭和47年 荒川豊蔵が来訪する。萩市名誉市民となる。    78歳
1973年 昭和48年  勲四等旭日小綬章を受章。     80歳
1975年 昭和50年  「伝統の萩焼と高麗茶碗・古萩名品展」実行委員を委嘱される。   86歳
1981年 昭和56年  10月24日、死去。

参考文献
図録「人間国宝展」茨城県陶芸美術館  2000年
「日本の陶磁 現代篇 第3巻  中央公論社  1992年
図録「三輪休和展」山口県立美術館 1982年


「萩焼」の歴史を記すなら、当然「昭和31年」にあるべき小山先生の「来県調査」ありません。
その反面、1971年 昭和46年には、小山冨士夫が来訪する。
と、申し訳程度≠ノ、しかも、既に休和氏が「人間国宝」になられた後に、単なる訪問者≠ニして記しているのです。
それに、「三越」における「個展」のことがなく、この「年譜」では、あたかも、三輪休和氏が、昭和31年以前から、世間に認められていたかのごとく、意図的に記しているように思えます。
力≠ヘあっても、認められていなかった「萩焼」という実態出発点として、三輪休和氏が果たされた「歴史」的な歩みをこそ、記すべきだと思います。
──────────────────────────────────────────────────────────────────


 この「記録選択」の方達の置かれた立場≠ェ、「陶芸」の世界に、飛躍的な進歩≠促したという側面を忘れてはなるまいと思います。
 同じように「法」の条文にうたわれた技術公開≠ニはいえ、「日本伝統工芸展」においては、「人間国宝」の人達は、無審査であったのに対し、「記録選択」の人達には審査≠ェあるというシステム≠ナあったということ、さらに、加藤土師萌氏以外は、10年以上、そのまま≠ノされ、「日本伝統工芸展」という場≠ナ、新しい陶工・陶芸家の挑戦を受け続けなければならないという状況≠ノあったからです。
 プライド≠ニプレッシャー≠フもとで、精進することをいやおうなく、押しつけられた
方達なのです。
(なお、加藤唐九郎氏は、「永仁の壷」事件で、候補≠降りておられます。)

── 「無形文化財(新・旧)」関係者についての一覧─────────────────────

  昭和29年度=4人荒川豊蔵(旧無形文化財)・石黒宗麿(旧無形文化財)+富本憲吉(新)・浜田庄司(新)]
  昭和30年度〜35年度=5人[上の4人+金重陶陽(旧無形文化財)]
  昭和36年度〜37年度=6人[上の5人+加藤土師萌(旧無形文化財で「記録選択」を経由)]
      ↑〈参考 34年12月 断り続けていた*k大路魯山人氏死去・〈参考〉35年12月 「記録選択」の新兵衛氏死去 〉
  昭和38年度=5人(38年6月富本氏死去「記録選択」の柿右衛門氏死去〉)
  昭和42年度=4人(42年11月陶陽氏死去)
                〈[参考]   昭和41年11月、河井寛次郎氏死去〉 
  昭和43年度〜44年度= 2人 (43年6月 石黒氏・9月 土師萌氏死去)
  昭和45年度=4人(休和氏(「記録選択」を経由)・藤原啓氏認定)
  昭和46年度〜50年度=4人+総合指定2団体(今右衛門窯・柿右衛門窯)=
  昭和51年度=上の4人+無庵氏認定(「記録選択」を経由)+上の2団体=
 〈過去の枠≠ナあった6≠ェ7≠ノなるのに、「昭和46年」以後、5年≠ゥかっています。しかも、その増の一人≠ヘ、「昭和29年」に「記録選択」として認定された中里無庵氏です。
 今日的≠ノ見ても、休和氏の後、5年≠烽ゥける必要はなく、枠∴ネ外の「理由」は、私には考えられません!

作家の 太宰 治 が生前、好んで口にしたというヴェルレーヌの言葉が、津軽の「芦野公園」にある「太宰の文学碑」に刻まれています。



撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり



 中央の「鉄格子」は、「人間の道には狭いけわしい一つ一つの門がある」ということを意味するのだそうです。


 私の[プライド≠ニプレッシャー≠フ狭間(はざま)]という言葉を文学的に&\現すれば、こうなりましょうか。

 第一回の「芥川賞」の候補になり、、一応の名声≠ヘありながらも、なりふり構わずほしがった「芥川賞」を手にすることなく、入水自殺をして果てた太宰のことを思うと、この言葉が、大きな意味を持っているように私には思えます。









「写真」は、「高文連」の「全国大会」の時に撮った「写真」で、「全国大会」における「文学散歩」の参加生徒の後ろ姿が写っています。

 つまり、おりからの「高度成長」と機械化≠ノよる「大量生産」という時代などを背景として、この長く、長く、プール¥態におかれた「記録選択」の方達を中心≠ノして、飛躍的な展開≠ェ陶芸の世界になされたということだと私は思っています。


こうしたことを、私は榎本氏に、「山口県地方史研究」への「応募原稿」によって見てもらったはずなのに、こんな書き方をされているのです。

残念ながら「地方史研究大会」での「発表者」を優先して『山口県地方史研究』「掲載」するという原則があるにもかかわらず、にされ、突っ返された「原稿」を、榎本氏に見てもらったのです。
私は、不遜な言い方≠ゥも知れませんが、「掲載」された他の方々の「発表」よりも劣っている≠ニは到底、思えません。(1998年刊の『山口県地方史研究 第80号』に掲載されるハズでした。) に、ほぼ=Aその没≠ノされた「原稿」がありますので、御覧いただきたいと思います。
私は、どんなに権威≠ェあるとされている方の「執筆」であろうと、「昭和二、三十年代」の「萩焼」のあゆみ≠ノ関する限りは、ここに記していることの方が事実≠ノ近い「確信」しています。



この平成18年10月刊の『週刊朝日百科 人間国宝22 工芸技術・陶芸 三輪休和・三輪壽雪・中里無庵』よりもほぼ10年¢Oに書かれたものをみてみましょう。

[2] 『山口県の美術』[思文閣出版/ 監修 河野 良輔/編集 榎本 徹]
        〈平成7(1995)年7月3日発行 /定価 20000円(本体19418円)〉

三輪 休雪  [=節夫]  の項
6  ・・・昭和三一年(一九五六)日本工芸会入選、昭和三五年日本工芸会正会員と続き、・・・


──[問題点]─────────────────────
 ここに、昭和三年(一九五)日本工芸会入選≠ニあるのは誤りです。
事実は、昭和三年(一九五)日本工芸展入選≠ナす。
わずか「1回」の違い≠ニはいえ、「工芸史」においては、決定的な間違いということです。
「第3回 日本伝統工芸展」への二人の「出展」は、「重要無形文化財」の指定申請に伴って小山先生が推薦してくださったものであり、「節夫>」氏の出展は、「昭和32年春」、「正会員」となった兄=休和氏の推薦によるものなのです。
なお、12代坂倉新兵衛氏は、子息 治平氏 が、磯野風船子氏らから絶賛(例えば、『陶説 −93号−』〈昭和35年12月〉)されながらも、なかなか、出展させようとはされませんでした。そして、結果的に、「治平」=14代新兵衛氏が出展したのは、「12代」の没後でした。


三輪 休和  の項
   明治二八年(一八九五)〜昭和五六年(一九八一)
         196頁〜197頁
  

         (略)
昭和一〇年代にはかなりの活動を展開していた休和だが戦中、戦後はひと休みといった状況になる。
戦後活動が本格化するのは昭和三〇年も近くなってのことであった。
休和だけでなく、地方窯の作家が本格的な活動を開始するきっかけになったのは、「日本伝統工芸展」であろう
休和は昭和三一年(一九五六)の第三回展に初出品し、入選する。
これをきっかけに、翌年には東京三越での初個展となり、それを機に在京山口県名士による「三輪休雪後援会」が結成された。
さらにこの年、文化財保護委員会から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の選択を受け、日本工芸会正会員にもなっている。
戦前からの蓄積がいっきに花開いたような状況がおこったのである。
そして昭和四二年(一九六七)隠居して、家業を弟の節夫にゆずり、自身は休和と号する。
しかし、ここからさらに新たな展開を見せる。
昭和二年家業を継承した休和のなによりの願いは家業の隆盛であった。家というものを一身に背負っての活動であった。
しかし隠居してその重責をはなれ、自由になった時、休和は家のためではなく、自分のために作品をつくることができるようになったのである。
もう数をつくる必要もなくなった。
昭和四二年以降の作品はたとえば茶碗にしても、そのつくりも、釉掛けも、一点一点きわめて手のかかったものとなり、また大型化していくのである。
休和スタイルは完成された姿を見せる。
そして、昭和四五年(一九七〇)重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝になる。
三輪休和は幅広い古典の研究を基礎に、形や釉薬に改良を重ね、いわゆる「休雪白」をはじめ、幕末から明治にかけて衰退していた萩焼を再生させ、近代的な造形へと導いた作家であったといえよう。



──[問題点]─────────────────────
 ここに書かれていることがほぼそっくり=@上に引用した、平成18年10月刊『週刊朝日百科 人間国宝22 工芸技術・陶芸 三輪休和・三輪壽雪・中里無庵』にも書かれていることを確認していただきたいと思います。
しかも、この[平成7年]よりも、[平成18年]の方が、付け加えた&ェだけ、誤り≠ェ増えているということも。
 つまり、「第3回展」での入選「作品」が何であるかを書いていないことで誤り≠ニは言えませんし、休和だけでなく、地方窯の作家が本格的な活動を開始するきっかけになったのは、「日本伝統工芸展」であろう≠ニ、休和だけでなくとしているし、更に、いきさつ≠ヘともかくとして、休和氏にとっても、「日本伝統工芸展」で、本格的な作品を発表されることになったのは間違いありませんので。

しかし、「第三回伝統工芸展」への出展「記録選択」は違っています。
さらに、昭和四二年(一九六七)隠居は、「文化財保護委員会」から「記録作成」の「完了」の指示、ツマリ、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「可能性」が大きく≠ネったことが「理由」のハズです。
榎本氏のような「書き方」では、休和氏の「隠居」以前≠フ「作品」は、あたかも、劣っているかのようになってしまいます。
事実=A「休和物語」には、古陶磁や窯たきの研究成果の上に、作家としての個性を備えた休和芸術が開花するのは、最後の十年足らずにすぎないと書かれているのです。
休和氏の作品として「昭和53(1978)年[83歳]作品」を一応¥Iわりとみる(最後≠ニなる「入院」されたのは、昭和54年春で、昭和56年10月24日に亡くなられています)として、 「昭和44年」以降の10年間≠フ作品が休和芸術≠ナ、それ以前の「作品」は未完成作品≠ニいうことになるのでしょうか。

ただ、このことに関しては、週刊朝日百科『人間国宝22 工芸技術・陶芸 三輪休和・三輪壽雪・中里無庵』においては、引退後の活動は、名実ともに休和スタイルの完成期であった。豊かな作品群がつくられ始める。と、一層=A優れた「作品」となっていったというように受け取れるように「修正」されています。

───────────────────────────
─────────────────────────────


河野良輔氏にしても、榎本徹氏にしても、はたまた、「朝日新聞社」も、私の「指摘」に対し、事実≠確認しようとせず、「萩焼の歴史」は、誤り≠ェ伝えられようとしているのです。
誤り≠ェ訂正されないまま、今日もなお、巨大マスメディア≠フ力≠ノよって、誤り≠含んだママ、「萩焼の歴史」は広められているという現実≠ェあるのです。
これまでは、一流出版社=E肩書≠ニいったネームバリューによって、私がどんなに経費や時間をかけて補足調査し、事実≠伝えようとしても、日の目≠ェあたらないまま、埋もれさせられてしまうかのような状態だったのですが、幸いにも、[HOMEPAGE]というものが利用できるようになり、皆様に直接訴えることができるようになったのです。

マスコミを相手にしている以上、当初の、「朝日新聞山口支局」における白石氏との「電話の録音」を初め、「朝日新聞東京本社広報部」との、「電話の記録」「メール」の「送信記録」(「朝日新聞」からの「メール」による「返信」は、一度もありません)、及び一度ダケ≠フ「手紙」と、ことごとく=A「記録」などは、十分にとっています。

私が「朝日新聞広報部」の「対応」に対して、訴えないと「前進」しないと思いつめ、相談したところ、こうしたケースの場合は、訴えられた側の「裁判所」で審理が行われるとのことでした。
となると、何度も上京しないといけないため、どうしようかと思っていた時、「HOMEPAGE」の作成の仕方の手ほどき してもらえることができたため、[HOMEPAGE]で「朝日新聞」の理不尽さ≠書いているわけです。
「朝日新聞」が訴えてくれるならば、ありがたいことだと思っています。
そのことが「ニュース」となり、いまとは比較にならないほど、多くの方々に、この[HOMEPAGE]を見ていただくことができるチャンス≠セと考えています。
 相手が「朝日新聞社」であろうと、真実・事実≠ェ踏みにじられるほど、日本の裁判はおかしくしないと思いますので、負けることはあり得ないと信じています。

ただ、現実≠フ「問題」として、「萩焼」についての「執筆」は、いまなお=A榎本氏がされているので、この「ページ」は、それなりの=u意味」を持つと考えていますし、「アクセス数」も、思っていた以上≠ノ、していただいています。
そこで、榎本氏についても、言っておきます。
 あなたは、「岐阜県現代陶芸美術館」の館長≠ニいう立場で、単に「萩焼」の専門家≠ニいうだけでなく、日本の美術界≠リード≠キる立場にあるのですから、根本的≠ノ、「文化財保護法」のもとでの無形文化財$ァ度、「日本伝統工芸展」のことを調べ直し=A責任≠るリード≠すべきだと思いますが、いかがでしょうか。




『三輪休和遺作展図録』中の榎本徹氏の「展覧会ノート ─ 『窯日誌』にみる三輪休和
  ↑ これは、平成年=白石明彦氏が「休和物語」を執筆した年の刊ですが、残念ながら、この中にも、疑問≠フある箇所が幾つもあります。
    いずれ、公開≠キることもあろうかと思います。
  河野良輔氏といい、榎本徹氏といい、事実≠フ把握の仕方に問題があるのですが、「山口県立美術館館長」「専門学芸員」という肩書≠ェ白石氏に、予断≠与え、とんでもない=u萩焼の歴史」を作り上げてしまっているのです。
  肩書≠ェ重要≠ネら、直接=A「山口県教育庁社会教育課文化係長」・「課長補佐」という公的≠ネ「立場」で担当した父=英男の「証言」や当時≠フ「資料」が、なぜ見たり、聞いたりする必要を認めないということになるのでしょうか。(当時≠ヘ、「山口県立美術館」はありませんでした。)




●  「関連」した「ページ」 ─ 私の「ページ」の抜粋>氈@

この「ページ」は、[Google]や[Yahoo]において、榎本徹{r榎本徹氏≠ナ「検索」すると、
私が「ホームページ」を始めた頃は思いもしなかったことでしたが、しょっぱなに出てきます。
[平成22年9月19日現在]


榎本 徹氏が著名≠ネ方だからでしょうか、「下」に「カウント」を設定していますが、思いの外、多くの「アクセス」をいただいています。
しかし、この「ページ」は、榎本氏を「批判」することが「目的」ではありません。

昭和二、三十年代に、「萩焼」に「仕事」として係わった父=英男ですが、残念ながら、疑問のあることが流布≠オており、一流紙≠フ「記者」スラ直接=u担当」した人間が、おかしい≠ゥら、せめて、当時≠フ「資料」ダケでも見てほしいという「要請」も拒絶されるほど、河野良輔氏、榎本 徹氏の「証言」は、信頼されているといった現状≠ェ現実なのです。

そのため、晩年、「糖尿病」の進行で、父の「秘書」的な立場にあった私が、後世に、出来る限り=u正しい」ものをと、願ってのことなのです。

河野良輔氏は、お亡くなりになりましたが、榎本氏は、日本を代表する「美術評論家」の「地位」にあります。
その榎本氏が、「萩焼」について、私の「指摘」することを検討されて、新しく執筆されたことが「確認」できましたら、この「ページ」は削除するつもりです。

なお、榎本氏の「後継者」ともいうべき「山口県立萩美術館」の石ア泰之氏の「執筆」にも「問題点」があります。
石ア氏についても、榎本氏同様、石ア泰之{r石ア泰之氏≠ナ「検索」すると、
しょっぱなに出てきます。
ただ、石ア氏については、昨年=平成21年7月21日の豪雨を押して、「萩美術館」を訪ね、4時間、話をしていますので、事実に基づく「萩焼の歴史」を執筆してもらえるものと、期待していますが、それがいまだ「表面」に出ていないタメ、この「ホームページ」を継続して公開しています。

この「ページ」を訪れていただいたことを「機会」に、関連した「ページ」も見ていただけると、ありがたいと思います。


● 「萩焼」の「歴史」─ エポックメーキング≠ニなった「昭和二、三十年代」のその歩み=@─

 ↑ この「ページ」が私の言う事実≠ニしての「萩焼」の歩みです。
口幅ったい言い方ですが、こと、「昭和二、三十年代」の「萩焼」に関する限り
どんな権威者≠ニされる方の執筆orどんな「公的機関」からの「刊行物」であろうと、この「ページ」で述べていることの方が事実≠ノ近いと思っていますので、
私の「記述」に「問題点」や「疑問なところ」があれば、ぜひ、設定している「Εメール」から、ご指摘・ご批判をお願いします。
私としては、より正しい≠烽フを「発信」していきたいと思いますので。


「重要無形文化財」保持者としての「個人認定 俗称「人間国宝)」/「保持団体」としての認定/「総合認定」]について
─ [参考] 「助成の措置を講ずべき無形文化財」・「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」─
↑ 一部≠フこととはいえ、権威≠る「情報」の疑問点を、「情報モト」に「確認」し、修正してもらっています。


「萩焼」のindex
  ↑ 私の「萩焼」に関する「調査・研究」を一覧にし、「リンク」によって、「アクセス」していただくようにした「ページ」です。

『萩焼人国記』中の「休和物語」の数々の誤り≠ニ事実≠ニしての休和氏の歩み
↑ 本来≠ヘ、明らかにされることはない≠ニ思われることまでもが、一流紙≠ニされている「朝日新聞」の記者が、山口県立美術館長=E専門学芸員=E山口県埋蔵文化財センターの次長≠ニいった公的な立場≠ノある人達の「全面的な協力」を受け 、更には、記者自身が、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った≠ニまで「あとがき」に書いて出版された書籍なのですが、事実≠ニ違ったことも少なくないのです。
12代坂倉新兵衛氏に対するとんでもないこと≠ヘ、この中に書かれています。
小山先生の「古萩の歴史と特質」
↑ 昭和二、三十年代の「萩焼」の評価正確≠ノ「理解」することが大前提≠フハズ≠ネのですが・・・・

「工芸技術保存資格者」について
↑ この「工芸技術保存資格者」に、「萩焼」から何人が認定されているかということスラ、「把握」していないという信じられない≠アとが事実≠ニしてあるのです。

「人間国宝」候補者の「プール」としての「記録選択」?
    ↑  藤島亥次郎博士の話、 小山先生の「手紙」 及び 鈴木健二氏との「電話」をモトに推測しています。

『日本工芸会山口支部 40年のあゆみ』の「紹介」と「問題点」の指摘
↑ この『40年のあゆみ』には事実≠ニは異なる「歩み」が書かれており、更に、『50年のあゆみ』でも、ほぼ、そのまま=A「問題点」が引き継がれています。



『角川日本陶磁大辞典』という豪華な=u辞典」にある困った°L述

 ↑ 榎本氏の「資料」の扱い方には、少しばかり「疑問」があります「戸田焼」についても、機会があれば、再考≠オてほしいと思います。









これまで使わせていただいていた「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、18766≠ナしたが、[平成23年2月18日午前9時]から、別≠フ「カウント」を使わせていただくこととします。
従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります。