平成20年5月10日 公開
平成22年11月10日 更新



● 事実≠ニはかけ離れたとんでもない°L述
─ 小山先生への直訴=@ 昭和32年11月29日付 「手紙」─



「渉外」担当の佐藤進三氏を飛ばして≠フ2通の「手紙」−その1−
▼  昭和32年11月29日付 「手紙」
  差出人 河野英男
  受取人 小山冨士夫先生
「山口県」の罫紙に、「カーボン紙」を敷いて、女の方に綺麗な&カ字で「清書」していただき、「控え」を取ってお出ししたので、現在も残っています。
なお、一部=A表現上、おかしな箇所=A文字遣いの変な箇所もありますが、それは一に父=英男の「責任」と思われます。)



拝啓 年末予算期で御多忙のことと存じます。長い間御無沙汰いたし申訳ありません。一度お伺いして色々お話しいたし又お願いもと考えて居りますものの、中々その機会を得ず残念に思って居ります。

実は昨今相当な県、地元として問題になって参りました萩焼かまあとの発掘のことについて、其の経緯をご参考に御報告をしておいたらと存じます。
之は佐藤氏にはおみせ下さることは如何やと存じます。

と申しますのは、私自身が判断出来ない状態ですから。
先ず萩焼かまあとと発掘の諒承を求める為、本年八月七日水曜日佐藤、岡田(長崎大学)両氏が岡崎茂樹氏宅を午前九時頃たづねられました。
岡崎氏は県の更正会長であり、知事部局、岸総理、田中代議士等の方々と機密な連絡がある大きな力の所有者です。私はずいぶん可愛がっていただきすべて相談もし、又お世話を願ってゐる方です。
この岡崎氏と岡田博士の関係はご承知の日本鶏を通じてのことです。岡崎氏が天然記念物日本鶏全国展を昨年山口県で開催しました。又山口県では県主催で毎年本展覧会を開催し、文化財保護委員会からメタルをいただいて居ります。黒柏(現天然記念物指定鶏、山口県・島根県現存のもの)の指定申請をされた方で、飼育者です。私も長いこと飼育して居ります。其の展覧会の審査員の一人として岡田博士がおられる関係において、岡崎氏との関係が生じて居るのです。(註 岡崎氏も「審査員」の一人でした。)
たまたま審査員としてこられたとき岡田博士を私が萩焼の案内を三輪休雪氏(註 「十代」で、三輪休和氏のこと)宅へ案内しました。これから萩焼の関係が一部に生じました。他の萩焼とは面識ありません。・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・。
以上のような岡崎氏との間柄で岡田博士が佐藤氏と同伴岡崎氏宅をたづねられました。
そこへ電話で私がよび出されましたので、私は私の課の常武主事をともない其の席に出ました
岡崎氏本人はこの問題については、佐藤氏の五十万円でほることについては、協力はむつかしい。
私の意見を求められましたが、私としてはほることはいずれ県としても小山先生ととくとご相談し、県・地元と経費を捻出し、実行し、記録をのこすべきだと思います佐藤さんのを見ると、十三人余りの人があげてあり、萩焼にたいして、山口県のものは何等関係なしに岡田博士にしても其の研究スタートをきられることになり余りにおこがましいやり方と存じます。
県下にも研究者もあります。又五十万円で、十三人余りが決してまかなわれない。今迄又、今日も埋蔵文化財の発掘を施行しています。が経費については、長い間の私自身の経験もありますので、今回のことは余り、進まないことですと申しました。

佐藤さんは坂(萩)坂倉(深川)の承諾書をとっているよう其の席で申されましたが、其の以前坂倉新兵衛氏にあったときは、かまをほること事態が位置としてむつかしい。反対の意でしたから、承諾書との関係変に思いました。坂田泥華 陶兵衛氏等も以前に新兵衛氏が許して発掘の手をつけても私等は共同がまで土地こそ新兵衛氏のものでも我々にも権利があると申して反対の意を表明して居ります。
このような立場から、私は今日佐藤岡田両氏がおいでになっても、先ず深川がまは無理だろうから、今度は萩及深川にお出になることは中止されることが県としても希望の意を表明しました。
そこで萩・深川行は中止され、岡崎氏宅を辞し、岡田佐藤河野常武四名で昼食をすまし常栄寺庭園(雪舟の庭)(二・三0分〜四・四0分まで)案内をし、私等二人は別れました。佐藤・岡田両氏はその後山口市の桑原という宅へ行かれました。
私の手許には、其の当日先生より佐藤氏来県よろしくとのご芳書をいただいています。
その後十一月上旬まで何たる連絡はありません
その間は博物館の田中先生を通じ、埋蔵文化財の係との連絡で手続きが進められていたものです。
所が、十一月十一日萩及深川に交渉に行くから出てくれるようとのお便りをいただきました。
所が私は、十一、十二、十三日は、私の家の婚礼でどうにもならず、又他のものは行事が決定して居るときなので、十五日の日にと、公文をもって返事を出しました。
其の後、その返事がなく、十五日になりましたので、十五日に萩に電話を入れ、もしお出でになっておられれば、すぐいくべき手はずをしていました所、十一日に来県、只今九州にいっておられるとのこと。帰京の途次、十八、九日頃、県教育庁をおとづれるとの伝言であったとの坂氏の返事でした。
私達もおどろきました。
その間、十一月四日新兵衛氏来庁。東京に行った際、佐藤氏が近々来県するからよろしくとのことで、其の内容はきかなかったが、どうぞと申した。併し発掘についてはほることが條件的にむつかしいと申してかへられました
十一月十七・十八・十九日私は大島郡東和町(県の最東端)へ出張、二十日出庁しました。佐藤さんは湯田の千歳世旅館におられる由、電話しました。
その際、佐藤さんは十時すぎで大阪に立つ、只今九時過でお会い出来ないが、坂氏萩市にもいき承諾してもらった。坂倉氏長門市坂田泥華にもあい、承諾してもらったので三月にはお世話になるとのことでした。県の補助は如何だらうかとのことでした。
私は県の補助は追加予算にもって行くべきもので、その手順がなされてゐないのでどうにもならない。尚地元が私達に申したことと全然異っているので私自身忙然として居りますと返事しました。
その後新聞紙で大きく報道され、尚萩市教育長が県に来られ、その言によれば一新聞には国が五十万県が五十万地元五十万で発掘の計画がなされた報道があったそうで、迷惑至極、萩市教育長も私のこの経緯を聞かれ驚いて帰萩されました。
佐藤氏自身一人ぎめが多すぎると関係者は申して居りました。

次に十一月二十二日新兵衛氏県に来られ、お会いしました。
佐藤氏深川にお出での節は白木屋で関係者をあつめ礼をつくしたが発掘そのものについては承諾しない。県は何を考えているかとのことでした。
二十五日には長門市の教育長来庁この問題で地元で困ったことになっているので一応私に来てくれるよう申されましたが、その中に坂田泥華との承諾をしたよう佐藤氏は申され、察する所では坂田氏の古がまをほることになるのではないかと思考されます。そうなると新兵衛氏との間が非常にこの上なくまずくなるとのこと、私も佐藤さんが今少し私達ととくと連絡をとられて進行されたらこんなことになるまいものをと思います
陶磁協会が一方的にされることは余りに行きすぎの声が高く今後の問題になると思います。
以上の事情をおつたへしておきます。
佐藤氏帰京された報告と相当差異のあることと存じますので私その間の経緯をおしらせします。
先生の胸の裡に入れておかれる点も多々あると存じます。
かくまで佐藤氏にそれだけの権利があるものかと皆驚いて居ります。
御返事をお待ちして居ります。
                                   草々
 昭和三十二年十一月二十九日
                               河野英男
小山冨士夫先生








● 一新聞==u読売新聞」[昭和32年11月16日(土)]の記事のこと


古萩の実態にメス
=田中東京博物館陶磁室長ら学術調査団=
萩焼の始窯(坂旧窯)を発掘
来年三月から  四部門に分れ
萩焼の始窯である萩市椿東、中の倉、唐人山ろくの坂旧窯を、東京国立博物館工芸科陶磁室長である田中作太郎氏を団長とする「古萩窯総合学術調査団」が発掘し、いままで判らなかった古萩≠フ実態が明らかにされることとなった。

調査は来年三月中旬、田中団長のほか大和文華館工芸主任満岡忠成、名大教授山崎一雄、日本陶磁協会理事佐藤新三氏ら十四名の専門家により陶磁学、□文献、技術、文化の四部門に分けて行われる。文部省文化財委ではこのため調査研究費五十万円を支出、萩市および県で五十万円を負担、合せて百万円延で十五日間にわたる調査が行われるもので、このほど佐藤氏が来萩し、坂窯の発掘承諾をえて市や県との折衝を終った。
古窯が埋没しているとみられる同山ろく一帯約千坪の地表には、二代坂高麗左衛門、同三代の作品とみられる陶片が数多く見られ、古萩研究者たちにとってよき収集所となっている。  調査団はここらあたり一帯をボーリングして初代(慶長年間)−三代初期、三代後期(同享保)−六代(同享和)までの二窯跡を発掘する。この結果大道土を使用しはじめた年代、井戸茶わんと萩茶わんの近似説、楽や志野技術の影響の有無など、かずかずのナゾが判明するものと関係者から期待されている。



市教育長が県に来られ、その言によれば一新聞には国が五十万県が五十万地元五十万で発掘の計画がなされた報道があったそうで、
「手紙」にはありますが、実際≠フ一新聞=「読売新聞」≠フ「記事」は、
萩市および県で五十万円を負担、合せて百万円と少しばかり=A違いがあります。
それは、萩市の教育長の「記憶違い」か、父の「聞き違い」かはわかりません。


● 「岡崎邸」を訪ねたことについて

「山口県教委」の「窓口」であるハズの父=英男に佐藤氏が「コンタクト」を取ったのは、単独≠ナ「窯元」と交渉した挙げ句、12代坂倉新兵衛氏との間に軋轢を生じさせた後のことで、しかも、実力者=岡崎茂樹氏の力≠借りようとしてか、岡崎邸佐藤氏及び岡田喜一氏が訪問し、その岡崎邸に来るようにと、要請されてのことでした。  
「薩摩焼」の「研究者」であり、小山先生の仮≠フ「スタッフ」の一員として名のある岡田氏ですが、「岡崎邸」が用意されたのは、「天然記念物 日本鶏展覧会」の「審査員」同志ということで、岡田氏、岡崎氏につながり≠ェあったためです。(参考 「審査員」には、「小泉八雲旧居」の家主である根岸啓島根大学教授もおられました。)
私は、父の晩年、「糖尿病」のため、目が不自由になった父の秘書代わり≠フようなことをしており、某氏からの「回想」を聞いたことで、事実≠ニ懸け離れた「萩焼」の歩みが流布≠オていることを知り、「萩焼」について、父から「資・史料」を見せてもらったり、話を聞いたりしていましたので、父に「佐藤氏らに県教委に来るように言うべきなのに、なぜ岡崎さん(註 私は、岡崎氏と面識があり、小学生の私に、優しい言葉をかけていただいていたため、親しみ≠感じていました)の家に行ったのか」と訪ねたところ、岡崎氏が、日本鶏「黒柏」の「天然記念物への指定申請」をされたことから、既に父と知り合いであったダケでなく、岡崎氏に信頼していただいて、それ以後、「萩焼」のためにも、力を貸して下さっていた(例=三輪休和氏の「後援会」発足の黒子(くろご)の役割をしてくださった)方だから、筋≠ゥら言えば、佐藤氏に、「県教委」に来るようにいうべきだと思うが、「岡崎邸」は、「県教委」から徒歩で10分¢ォらずの位置にあったこととて、むしろ、岡崎氏が「同席」される方が好都合と、判断し、「県教委社会教育課」の常武氏と共に訪問したとのことでした。
予想通り岡崎氏は、「佐藤氏の五十万円でほることについては、協力はむつかしい。」とむしろ、佐藤氏らをたしなめられたのです。



● 「十一月十五日」に変更依頼≠したことについて

「手紙」の中で、私は、十一、十二、十三日は、私の家の婚礼でどうにもならず、又他のものは行事が決定して居るときなので、十五日の日にと、公文をもって返事を出しました。
とあるのは、当時=u大学院博士課程」で学んでいた長兄が、大学の「同級生」であった義姉(「大学」卒業後、高校に勤務していました)と結婚式をあげたことをさします。
26歳であったとはいえ、まだ「学生」であったことと、父が「社会教育課」にいたこともあって、簡素≠ネ「結婚式」をという、父の意向≠ナ、当時≠ヘ、「公民館」的な利用がされていたこととて、「毛利邸」の「大広間」でしたが、それこそ「身内」ダケで、唯一=A「仲人」の「広島大学文学部長」の岡本 明氏ご夫妻が外部≠フ方という「式」でした。(岡本ご夫妻を含めても、19人と、後の、長兄以外の私達4人の「結婚式」とは比較にならない簡素≠ネ「式」でした。)
私は、「小学生」でしたが、「大広間」ダケに、簡素≠ナあることが実感≠ウれたものです。
そんな「結婚式」でしたので、父親不在の「結婚式」はありえません。
「広島」からお出でいただく岡本ご夫妻に対しても失礼であるだけでなく、義姉の親族も遠くから来られるワケで、今後、お会いする機会も多いとは思えないタメ、単に「結婚式」の場でお会いするのではなく、それなりに=A応対する必要があります。
ましてや、[8月7日]以後=Aなんらの「連絡」もせずして、「結婚式」間近になって、十一月十一日萩及深川に交渉に行くから出てくれるようというのです。
当然=A「年休」も申請済みなこととて、「公文」で「期日変更」を出すこともできたのです。
ただ、無理≠すれば「13日」は可能でしたが、佐藤氏は「構文」での変更依頼も無視≠オ、連絡もしないママ、予定通り=A「11日」に「来県」していたのです。

なお、ここにいう「公文」をはじめ、[山口県教育委員会教育長→調査団 代表者 田中作太郎殿]といったものも、当然¢カ在し、その「起案」は父=英男がしており、父は、「原稿」を綴ったファイルを残しているタメ、その「内容」は「手元」で把握できますが、「河野英男」の名での「文書」ではないタメ、「公表」は避けます。




● 佐藤氏が坂氏萩市にもいき承諾してもらった。坂倉氏長門市坂田泥華にもあい、承諾してもらった。≠ゥ否かについて

詳しくは、ここをクリックして見ていただきたいのですが、佐藤氏が一方的≠ノ記者発表した「新聞記事」はマチマチ≠セということを、まず「確認」したいと思います。

[1]『中国新聞』=昭和32年11月13日(水)
発掘対象=坂窯・深川窯
調査人数=12人
結果発表=ふれていない
[2]『毎日新聞』=昭和32年11月14日(木)
発掘対象=坂窯のみ
調査人数=3人(+佐藤氏?)
結果発表=『陶説』
[3]『読売新聞』=昭和32年11月16日(土)
発掘対象=坂窯
調査人数=14人
結果発表=触れていない
注意すべき点(その1)=唯一、萩市および県で五十万円を負担≠オ、計100万円で実施すると書いていること。
注意すべき点(その2)=唯一、「発掘調査期間」を15日と記しているということ。
[4]『朝日新聞』=昭和32年11月21日(木)
 発掘対象=坂窯・深川窯
 調査人数=10人
 結果発表=触れていない
[5]『サンケイ新聞』=昭和32年11月25日(月)
 発掘対象=坂窯
 調査人数=14人
 結果発表=触れていない
 注意すべき点=唯一、地元でも人夫車宿を準備することになって降り≠ニ、「地元=萩市」が全面的な協力体勢ができていたように書いている。

「坂の古窯」及び「長門深川の共同窯」の「発掘」の了承を得ていると断言する(当然=A「11月11日」に了承を得たということでしょう)のなら、どうして、「新聞記者」にマチマチ≠ネ「情報」を流すのでしょうか。
「11月20日」以後でさえ、「朝日」と「サンケイ」で異なっています。
大きく=u紙面」を取っている「読売」と「サンケイ」は、共に「坂の古窯」のみと記しています。
もしも、佐藤氏が「長門深川の共同窯」の「発掘」の了承を得ていたのなら、橋詰氏が
佐藤進三氏は、数度にわたって坂窯を訪れ、当時の萩市長、山下誠一氏にも協力の確約を取りつけていたのである。 ところが、
佐藤氏が現地で了解を取っていながら、県の担当者に会えないでいるうちに県のめざす対象は坂倉家にあり、そして崩れてしまっていた。
筆者はこう推論する。
恐らく県は坂倉窯を最も重要と見、調査団は坂窯を目標にしていた。そうでなければ、調査団の古文書、古文献調査班は研究対象を見失っていたに違いない。この見解の相違は決定的であった。
と明らかに「坂の古窯」ダケを佐藤氏が「目標」としていたかのような「記述」もまったくおかしな≠アとです。
「カーポン」を敷いての「控え」であり、「山口県の罫紙」に、女の方の手で「清書」して出したものとて、この「控え」が小山先生にお出ししたものと同じもの≠ナあることは間違いありませんし、小山先生からの「手紙」とも照合≠オています。
佐藤氏に「問題」があったことは間違いない≠ニ思いますし、父等が佐藤氏に示した配慮≠燒ウ視し、一方的≠ノ、「山口県」に責任転嫁されたことで、こうして明らかにせざるを得ないワケです。