平成20年6月25日
榎本氏の「萩焼」記述の「問題点」の指摘をしているタメ、私としての「萩焼の歴史」を具体的≠ノ示すことにして公開
その際、[Google]・[Yahoo]の「検索」のしょっぱなに出ていた「萩市」の「サイト」「萩焼年表」添削する形にする。
平成21年5月1日午後9時 「山口県立萩美術館」からの「回答」がないため呼びかけ≠追加(追加時の「アクセス数=7576=v)
平成21年5月24日 「萩市」の「サイト」が「萩焼の歴史」を削除≠ウれたタメ、「底本」を、「日本工芸会山口支部」にある河野良輔氏編の「萩焼略年譜」に変更して更新(変更時の「アクセス数=8695=v) 
平成23年3月1日   「タイトル」を[rekishi]から[hagiyaki]に変更・更新
平成24年4月20日  「萩美術館」において「萩焼の歴史」作成がなんら進展していないことを知る・同時に、「日本工芸会山口支部」の「ページ」から、「萩焼略年譜」が削除≠ウれていることを知る。 
平成25年8月15日    更新
 



● 「 萩 焼 」


─ エポックメーキング≠ニなった「昭和二、三十年代」のその歩み ─






河野良輔氏が、「萩焼」に関する「歴史」として、最後≠ノまとめられたと思われる 「萩焼略年譜」(河野良輔氏は、平成20年2月没)
直接的な=u資料」や裏付け=u調査」によって、
より正しいものにできる確信≠ナきる 昭和18年〜平成17年分 について、加筆≠キることで、
「誰」も or 「どこ」も意識≠オていないように思われる
エポックメーキング≠ニなった昭和二、三十年代の「萩焼」の事実 ≠ニしての歩み
を明らかに≠キるきっかけとなり、後世正しく伝わるためのさらなる「調査」がなされることを願っています 

(なお、ちょっと調べさえすれば∞誰にもわかる=u歴史的な事象=vについてのことですから、「著作権」のような問題≠ヘないと、
私としては思っているのですが・・・。もし、「問題」があれば、ご指摘下さるよう、お願いいたします。)


orのついた下線部をクリック≠キるとその「頁」に飛べます。 のついた下線部をクリック≠キると「頁内」の関連箇所に飛べます。



●(昭和二、三十年代の「萩焼」をエポックメーキング≠ネ歩み≠したとみる「理由」 )


参考として (「リンク」設定)
「人間国宝」を辞退≠オた2人の陶工=*k大路魯山人氏と河井寛次郎氏
↑ 関連としてご覧いただけるとしあわせます。
↑ 小山冨士夫先生のご子息=岑一氏、河井寛次郎氏の孫である「河井寛次郎記念館」の「学芸員」=鷺 珠江氏の協力をいただいて「作成」したものです。
読んでいただければ、「参考」になると、私としては思っているのですが・・・・・。




「萩焼」の あ ゆ み

・明治元(1868)年=「明治維新」となり、「御用窯」を解かれる。
・昭和16(1941)年=第二次世界大戦(太平洋戦争)始まる。
昭和18(1943)年=「商工省」による「工藝技術保存資格者」の認定
昭和20(1945)年=第二次世界大戦(太平洋戦争)終結
昭和23(1948)年=3月 12代坂倉新兵衛、「萩焼美術陶芸協会」を創立し、会長に任ぜられる。
昭和25(1950)年「文化財保護法」が制定され、「無形文化財」の保護が初めて、設けられる。
昭和29(1954)年
3月 「無形文化財」に認定された公開≠フ場として、「第一回 無形文化財 日本伝統工芸展」が開催される。
5月 「文化財保護法」の 一部が改正され、真に∞実力≠フみを条件≠ニする「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の制度が設けられる。
昭和31(1956)年
「実力」のみ≠対象とした新「無形文化財」制度「萩焼」から二人≠「指定申請」することになり、
6月 文部技官 小山冨士夫の「来県調査」
十二代坂倉新兵衛氏・三輪休和両氏共に、小山によって、候補たり得るとして認められ、
小山の「推薦」及び、先に、「県指定」をという「助言」により、
8月 山口県指定無形文化財萩焼保持者として、十二代坂倉新兵衛、三輪休和が認定される。
また、小山の「指定」前に、「萩焼」の力≠披露≠オておくようにとして、「理事」または「正会員」の推薦により、出展・応募が可能になった「第三回伝統工芸展」に「理事」である小山の推薦で、 
10月 「第三回伝統工芸展」に、12代坂倉新兵衛、三輪休和が2作品ずつ初出展し、2作品とも入選したのみならず、両者共、高い評価を受け、『図録』の3頁目に、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の石黒宗麿の「作品」とともに、掲載される。
11月 12代坂倉新兵衛、東京「高島屋」で「個展」を開き、「後援会」を結成。
昭和32(1957)年
3月 「昭和31年度」の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として、十二代坂倉新兵衛、三輪休和が文化財保護委員会より認定される。
4月 「三越日本橋本店」において、萩焼十世当主、無形文化財記録作成保持者≠ニいう肩書≠ナ、三輪休和、「個展」を開催
4月 三輪休和後援会が結成される。
5月 「陶磁協会」を調査主体として「萩焼古窯」の発掘をする予算がついたという連絡が小山より、河野宛に「はがき」でもたらされる。
5月 12代坂倉新兵衛、三輪休和が、「日本工芸会」の「正会員」となる。
10月 「第4回 日本伝統工芸展」開催。
三輪節夫(さだお)が、「平鉢セット」を出品。「奨励賞」候補となる。
12月 「萩焼古窯」の発掘調査≠ヘ、いろいろな「事情」を加味し、「山口県」としての意見≠ェ受け入れられ、当面、延期することになる。
昭和33(1958)年=4月 「日本工芸会」の「支部」を「山口県単独=vで結成
昭和35(1960)年
9月  「第7回 日本伝統工芸展」が公募$ァとなって開催されるも、「萩焼」からの新規≠フ応募者はなく、12代坂倉新兵衛・10代三輪休雪(休和)・三輪節夫(三輪壽雪)の出展にとどまる
10月 三輪節夫=「日本工芸会正会員」となる。(「工芸展」4回%選に伴う推挙=B12代坂倉新兵衛・休和両氏以外の「正会員」はこのケース) 
12月 12代坂倉新兵衛没。
・昭和36(1961)年
9月  「第八回 日本伝統工芸展」に、14代 坂倉新兵衛・13代 坂田泥華(「14代 泥華」と名乗り変え、現在は「泥珠」と号す。)が、「初出品・初入選」。
10代三輪休雪・三輪節夫は、引き続き「入選」。

(参考) 坂田泥華=「昭和39年」・坂倉新兵衛=「昭和41年」に、それぞれ「工芸会正会員」となる。
その後の「正会員」は、「昭和46年」の12代田原陶兵衛氏まで飛びます。

昭和44(1969)年=吉賀大眉、改組第一回日展総理大臣賞受賞
昭和45(1970)年萩焼が重要無形文化財として指定され、その技術保持者として三輪休和(十代休雪)が認定を受ける。
昭和47(1972)年=萩焼が山口県指定無形文化財として指定され、その技術保持者として十一代三輪休雪、十三代坂田泥華、十四代坂倉新兵衛が認定を受ける。
昭和50(1975)年
山口県指定無形文化財萩焼保持者として十一代坂高麗左衛門が追加認定を受ける。
十四代坂倉新兵衛没。
昭和51(1976)年=山口県教育委員会により萩焼古窯跡の発掘調査がはじめられ、55年まで継続する。
昭和53(1978)年=「伝統工芸新作展」を「日本工芸会山口県支部」として企画・開催。以後、毎年継続。
昭和56(1981)年
十一代坂高麗左衛門没。
山口県指定無形文化財萩焼保持者として十二代田原陶兵衛が追加認定を受ける。
三輪休和没。
波多野善蔵、「第28回日本伝統工芸展」において、「萩火色広口花入」が奨励賞を受ける。
昭和57(1982)年吉賀大眉が芸術院会員となる。
昭和58(1983)年
萩焼が重要無形文化財に再指定され、十一代三輪休雪が技術保持者として認定を受ける。
山口県教育委員会により長門深川古窯跡の発掘調査始められ、63年まで継続する。
昭和63(1988)年
日本工芸会山口支部が第1次韓国探訪調査を実施する。
山口県指定文化財萩焼保持者として、大和保男が追加認定を受ける。
平成元(1989)年=第2次韓国探訪調査実施
平成2(1990)年
萩焼古窯(発掘調査報告書)が山口県教育委員会により刊行される。
吉賀大眉、「文化功労者」受章
平成3(1991)年
第3次韓国探訪調査実施。
吉賀大眉没。
十二代田原陶兵衛没。
平成5(1993)年=萩陶芸家協会設立。
平成9(1997)年=日本工芸会山口支部創立40周年記念として『40年のあゆみ』を刊行する。
平成12(2000)年=“萩焼400年パリ展”を開催。(パリ日本文化会館)
平成13(2001)年
「第48回 日本伝統工芸展」において、坂田慶造が、「日本工芸会会長賞」を「 萩剥離窯変大鉢」で受賞する。
7・8月  山口きらら博会場で第24回伝統工芸新作展を開催。
平成14(2002)年山口県指定無形文化財萩焼保持者として野坂康起、波多野善蔵が追加認定を受ける。
平成18(2006)年山口県指定無形文化財萩焼保持者として岡田裕が追加認定を受ける。
平成19(2007)年=『50年のあゆみ』を刊行する。




私は、昭和31年、「萩焼」の「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「指定申請」を、「山口県教育庁社会教育課」においても係として「担当」した河野英男の「三男」ですが、
当時≠フ、本来、表≠ノ出す必要のないことまでもが、父以後、何人もの£S当者を経た、十余年後∞当時≠フことを知るハズもない後継者?≠フ、十分な裏付け≠烽ネいママ、提供≠ウれた「情報」によって、誤ったことが、 を代表≠ニして、流布≠オており、 かつ、その誤った記述≠ェ、「萩焼の歴史」事実≠ニは違ったものにするとともに、迷惑をかけている人があることから、父が正したい≠ニ思っていながら、生前には、叶わなかったため、やむなく=A父の遺志を受けて、[HOME PAGE]を作成しています。

なお、私は、誤った記述≠フ情報提供者≠ニされる当人≠ェ、『萩焼人国記』の刊行年月以後に執筆されたものにおいて、「休和物語」における誤り≠ェ「訂正」されていたとすることが、最も穏やかなものになると思い、河野良輔氏の生前に、直接・間接、訂正を求めていましたし、さらには、やはり情報提供者≠フ一人であるとされ、林屋晴三氏から、「榎本君なら正しいことを書くはずだ」として、 勧められたこともあって、良輔氏のモトで、「萩焼の研究」をされていた榎本徹氏にも、働きかけていたのですが、「訂正」していただけなかったということ、 それが受け入れてもらえぬため、
次≠ノ、公的な立場にある「機関」or「人物」に、正しい=u萩焼の歴史」となるよう、再調査をしていただき、正される≠ネらば、具体的な人物の名や、その誤り具体的≠ノ記さなくても「後世」には正しい「歴史」≠ェ伝えられるであろうとの思いから、このように直接行動を起こす前にも、「山口県文化振興課」や後に記しているように、「萩美術館」の関係者に、公正な立場≠ナ再検討していただくよう、御願いしたのに、実現≠オなかったために、公開したのだということを、付記しておきます。

(ツマリ、「証言者」が絶対視されているため、やむなく、その「証言者」の「証言内容」に少しばかり=u疑問」があることを述べざるを得ませんし、さらには、本来≠ヘ公表すべきではない=u資料」をも、公開≠キるに至っているということです。)


なお、私としては、ここに記することが、現時点においては、最も事実に近いと「確信」しています、もし、私の加筆・修正≠フ方にこそ、誤りがあるということでしたら、是非、この  [Εメール]  という下線部をクリック≠オて、お教え願いたいと思います。

なお、この試みは、単に、流布≠オている「萩焼の歴史」の誤り≠訂正≠キるにとどまらず、結果的に、今のところ、誰も語っていない、「萩焼」、特に、「昭和二、三十年代」の「萩焼」の歩み≠ェ、「工芸史上」、特筆≠ウれてもおかしくないエポックメーキング%Iな歩み≠したことを多くの人に、知らしめることにもなったかと、思っています。
つまり、本来≠ヘ、表≠ノ出てくるハズのないことを、行きかがり上=A語ることになっているからです。


これまで、「萩焼の歴史」について、最も検索≠ウれるであろう「萩市」の「サイト」誤りがあり、そのことを指摘したのに、訂正をしていただけないことから、その「萩市」の「サイト」にある「萩焼年表」をもとに、それを修正・加筆≠オたものを[平成20年6月25日]から示してきましたが、 「萩焼まつり」が、「5月1日」から「萩市立体育館」で開催され、その「入口」で配布されていた「萩焼のしおり」も、ほぼ同じような誤り≠含んでいるため、居合わせた「萩市役所」の人に、「モデル≠ワで示して、訂正を御願いしたのに、なんらの対応≠ヘされないのはどうしてですか。」と、訴えたあとの対応≠聞きたいと思って、 
平成21年5月15日(金)、直接=A「萩市役所」を訪れ、「商工課の課長さん」らに面会、訂正を御願いしました。(「萩市立体育館」で御願いした人は、出張で不在でした。)
その際、確たる資料≠ニ思われるものに拠っているため、部分的≠ノ訂正することは難しいからだといわれたため、私は、影響≠フ大きい「サイト」であり、せめて、客観的≠ノ誤り≠ニ認められる箇所の「訂正」はしてほしいと、御願いしたのですが、その後、「萩焼年表」は、訂正ではなく、「萩焼年表」そのものが、当面=A「サイト」から削除されています。
(後日、その確たる資料は、河野良輔氏作成の物と、連絡してくださいましたが、それは、十数年前≠フもので、その後の「萩焼略年譜」等においては、大きな誤り≠フ箇所は、既に、「訂正」済みですので、「萩焼略年譜」を典拠≠ニしたものが、新たに=uサイト」に登場≠キるかもしれません。)
なお、私は、可能な限り、「萩焼」に限らず、「陶芸関係」の「各種情報」において、疑問≠ネ点を見つけると、検討≠御願いしています。そのことで、ほとんどの方には、快く、対応していただき、訂正もしていただいています。
その中の一つで、最近は、[Google]や[Yahoo!]の萩焼の歴史≠ニいう「検索」で、最初のページに定着≠オているように見える「泥華窯」の「サイト」についても、
昭和24年 坂倉新兵衛(13代)が発起して萩美術協会を結成する
とあることや、三輪休和氏の「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」のことが落ちていますので、「訂正」を御願いしました。
すると、この「サイト」は、若くして亡くなられた慶造氏が作成されたものなので、削除≠キるしか方法がないので、削除しましょうと、母である坂田泥珠氏夫人は、おっしゃいました。
しかし、ここ以外の「ページ」には、「山口県」から初めて「日本伝統工芸展」における「大賞」を受賞された慶造氏の多くの「作品」等、有用で参考になることが多々あるため、「その必要はありません」と、申しました。
わずか数行≠フ「疑問」であるにも係わらず、その誤り≠認めてくださっただけでなく、削除≠オましょうとまでおっしゃるという、誠意ある対応をしてくださったことを、併せて、記しておきます。
なお、おわかりかと思いますが、正確には=A
昭和23年 12代坂倉新兵衛、「萩焼美術陶芸協会」を創立し、会長に任ぜられる。
です。13代坂倉新兵衛は、終戦の直後の昭和20年9月、陣没された「12代」の「長男=光太郎氏」に、追贈されたもので、「昭和24年」には、亡くなられており、「創立」されたり、「会長」になられるハズはないのです。

モトに戻りましょう。
「萩市」の「サイト」から、「萩焼年表」なるものが削除≠ウれてみると、に、影響力のあるものとしては、 萩焼検索すると、萩焼略年譜(PDF)なるものが出ており、萩焼略年譜. 河野良輔 編. ・・・・とあって、直接アクセス≠ナきるだけでなく、
この「頁」には、「日本工芸会山口支部」という「サイト」からもアクセスできるため、多くのアクセス≠ェあると思われる、この「萩焼略年譜」が考えられます。
「山口県立美術館長」を長く勤められただけでなく、多くの「萩焼」を中心とする「著作」のある河野良輔氏の編集されたものというのですから、確たる資料とみなされている<nズです。
[Yahoo!]や[Google]での「検索」をしても、「萩市」の「サイト」の位置ほどの検索しやすい位置≠ナはないものの、今後は、最も$l々の目に触れ、影響力があるであろうと思います。

この「萩焼略年譜」そのもの≠フ「記述」は、少しばかり∞記入洩れ≠竍誤り≠ヘあるものの、敢えて異を唱えるまでもないものですが、河野良輔氏や榎本徹氏が情報源≠セとして、本来≠ヘ表には出て来ない<nズのことが流布≠オているため、今度は、この「萩焼略年譜」底本として、困ったことの「訂正」を、試みることにしました。
不遜かとも思うのですが、事実に基づいた記述こそ、後世に残すべきことだと思います。

なにせ、啓蒙%Iな「役割」を果たすとされている一流紙「朝日新聞東京本社 広報部」が、「河野良輔氏からの取材なので、事実≠確認しなおす必要を認めないというほど、河野良輔氏=「萩焼」の権威者という評価≠ェ定着=Hしているようですから、一般の方々に、認識を改めていただく≠スめには、こうするよりあるまいと思うのです。

なお、昭和18年〜平成17年分限定したのは、私の父=河野 英男遺した「資料」や私への「証言」により、事実か否かを確認できると思うからです。
 (赤字の箇所は、私の考えでは、是非、「記す」べき事項の加筆・修正箇所です。また青字の箇所は、(参考)として、「記す」のが適当ではと、思う部分です。
 また、枠内は、(参考)として、私が「解説」なり、「注記」したものです。)


(お知らせ)
後述していますが、「萩美術館」の尾崎裕副館長及び石ア泰之学芸課長に、「平成21年7月21日」に、4時間強≠フ時間を持っていただくことができました。
その際、いろいろなところから、「公的な=u資料」でないとたとえ、あなた(私のことです)のいわれるようだとしても、取り入れることはむつかしい」と言われていることから、少なくとも、河野良輔氏の「萩焼略年譜」に、多少なりとも「疑問」があるので、 「萩焼」に関して、情報≠発信≠キる公的な機関≠ナあると思う「萩美術館」としての「萩焼の歴史」を、例えば山口県立萩美術館・浦上記念館の[HOME PAGE]に、「リンク」設定していただけないかと、御願いしたところ、検討してみようと言ってくださいました。
それが私の、この「ページ」の記述と異なる≠アとがあり、私の記述が否定されることもないとは言い切れませんが、とてもありがたい≠アとで、是非とも実現することを願っています。
もっと早ければ、私の[HOME PAGE]において、ここまで記述することはなかったとは思う一方、公的≠ネ「歴史」記述では、『萩焼人国記』等において、証言という形≠ナ流布≠オている誤りに触れることは、とてもできまいと思われるため、結果的≠ノはそれなりの意味≠ヘあったかとも思っています。

「萩焼」の起こり≠ノついて
ここの昭和18年〜≠フ「ページ」以前≠フことは、
小山冨士夫先生、佐藤進三氏、河野良輔氏の説明を併記した、これ ↑ をクリック≠オてご覧ください。




明治元年(1868)
「明治維新」となり、「御用窯」を解かれる。

昭和16年(1941)12月8日
「第二次世界大戦(太平洋戦争)」始まる。

昭和18年(1943)

「萩焼」における「工芸技術保存資格者」として、
●1月 十二代坂倉新兵衛、十代坂高麗左衛門、十代三輪休雪
( 後に休和≠ニ号します。以後、休和≠ニ記します。)が認定される。
●9月 吉賀大、十一代高麗陶兵衛
(下記「註」参照)が追加認定される。


高麗%ゥ兵衛について

註 「田原窯」では、11代≠ワでは高麗陶兵衛≠ニ名乗っていました。
12代≠ゥらが、田原陶兵衛≠ナす。

(昭和三十一年)十月十日付   「十二代陶兵衛」襲名の「挨拶状」より 

・・・過日十一代陶兵衛の急没に接し不肖源次郎儀その後を受け嗣ぎ十二代陶兵衛として萩焼本窯元を継承致す事と相成りました・・・
尚陶名に関しましては従来高麗陶兵衛と称して居りましたが先代の遺志もあり又各方面の諸賢の御勧奨の程も承り此際改名致す事と致しました依って冠姓の高麗を廃し本姓の田原を用ひまして田原陶兵衛と致しますので今後共宜敷御願申上ます・・・

(註 十一代陶兵衛氏=昭和31年8月21日  48歳にて没)


(参 考)

『北村彌一郎窯業全集』(216頁〜219頁)
[深川燒]〈大正二年三月見聞〉
山口県長門国大津郡深川(フカハ)村
製造戸数
字三ノ瀬に6戸、字湯本に1戸、合計7戸何れも専業にして兼業者なし 
往時安政の末頃製造家15−16戸、維新の頃10軒許ありきと云へり 
旧藩時代には藩外移入を禁じありし為(禁か制限か)藩内各製陶地栄えしも維新後其の禁を解かれし為衰微せり
創始及び名称
高麗の法を伝へしより深川高麗焼或は萩藩公の保護により創れるを以て又萩焼とも云へり
文禄征韓の役毛利輝元公の軍に従ひ帰化せし李勺光の創始とす(李勺光は元和八年五月二十日死去)
現在の三ノ瀬の製造家田原守雄は高麗陶兵衛と云ひ勺光より第十代の孫に当り第一位の製造家とす



(参考)

昭和15年(1940)7月の「商工農林省令第二号」という、「奢侈品等製造販売制限規則」(いわゆる七・七禁令)により製作の自由が著しく制限された
特例として設けられたのが、「工芸技術保存資格者」です。
父のメモ≠ノよりますと、「技術保存」指定当時主要な@q元は、次のようだったようです。
(当時は、父=英男は、小学校教員で、趣味的立場にいましたので、断定はできないかと思いますが、ほぼ間違いはないと思います。)
「萩市]=坂・三輪・吉賀・野坂・中村・岡田・福永の七窯元
[長門市]=坂倉・田原・坂田・新庄の四窯元
[山口市]=大和の一窯元

(註) この「萩焼略年譜」にはないのですが、河野良輔氏は、
『山口県埋蔵文化財調査報告第131集 萩焼古窯― 発掘調査報告書―』(平成2(1990)年3月)の執筆担当箇所において、
「工芸技術保存資格者」として、新庄寒山を入れておられ、吉賀だとしておられます。
そして、そのことを典拠としているかなり影響力のある≠烽フがあります。
しかし、吉賀は、大雅であって、大眉ではありませんし、新庄寒山を「工藝記述保存資格者」とすることは誤りです。
河野良輔氏以外に、新庄寒山を「工芸技術保存資格者」としている「資料」はないと思いますし、「山口県教委」・「長門市教委」に、「資料はない」という「回答」をいただいていますので、良輔氏が、何を根拠≠ノされたのかはわかりませんが、間違っているハズです。
「新庄家」においても、「認定証」のようなものは、少なくとも現在は、ないとのことで、「河野良輔先生の書かれた物の中に、名前があったような記憶がある」ということで、「新庄家」が、良輔氏の「記述」の根拠≠ナもないのです。

しかも、困ったこと≠ノ、河野良輔氏は、この新庄寒山氏を一貫して°L述しておられるワケではなく、
「萩焼400年展―伝統と革新─」の『図録』
平成13(2001)年1月)という、後年に発行された中においては、
新庄寒山氏は、書かれていません。




(182頁)に、河野良輔氏の執筆だとして、

1943 昭和18 萩焼における工芸技術保存資格者として、10代坂高麗左衛門、
10代三輪休雪、吉賀大、12代坂倉新兵衛、10代田原陶兵衛が指定を受ける。

とあります。


ここでは、新庄寒山氏がないほか、陶兵衛氏が、高麗≠ナなく、田原≠ニあるのはいいとしても、10代≠ニいう誤りがあります。


    「左」=「パンフレット」の表=A「右」=『図説』の表紙です。


なお、「河野良輔」氏作成の「資料」の中には、萩焼における工芸技術保存資格者として、10代坂高麗左衛門、10代三輪休雪が文化財保護委員会より認定される。 とあるものもあったようです。(「萩市」の「サイト」が典拠≠ニされていました。)
12代坂倉新兵衛氏が抜けていますし、認定は、「文化財保護委員会」ではなく、「商工省」です。
また、「追加認定」が落ちています

 その上、この「萩焼略年譜」においては、「工芸技術保存資格者」そのもの≠ェ、まったく、記されていないのです。


このように、同じ執筆者がマチマチ≠ネ「記述」をしているにも係わらず、引用する人物が、それらの中から、自分の好み=Hの「記述」を採り入れたとしても、
後で記しているように、「出典」を明らかにしている場合は、どうしようもありません。
私のこの「ページ」は、比較的、多くの方に見ていただいていると、喜んでいますが、しかし、私の何十倍≠烽フアクセス$(いつからかは、不明ですが)のある「サイト」が、私に言わせれば、不適切≠ネ「記述」を引用しているため、何とかしなくてはと、捜しに捜して
やっと、直接%Iな「資料」を捜し当てました。
この確実な=u資料」が、何であるか≠ニいうことを突き止める≠フは、並大抵のことではありませんでしたが、私がここに、それ商工省工芸指導所編集『工藝ニュース 第12巻第2号』・『工藝ニュース 第12巻第8号』であると指摘しているわけですから、それを確認することは、一般の方にも可能ですし、ましてや、「萩焼の歴史」を語ろうとする人には、ぜひ、自身で確かめ、私が「次」に記すことが、実際≠ノ活字≠ニなっているということを「確認」していただきたいと、御願いしておきます。

『工藝ニュース 第12巻第2号』(商工省工芸指導所編集)の、14 内外工藝産業情報 に、
陶磁器技術の保存適格者決るとして、
最初に発表された、4百名中≠フ中から選ばれた五十九名の中に、
山口 坂秀輔(註 10代≠フ本名)、三輪休(ママ)、坂倉新兵衞3名が記されており、

『工藝ニュース 第12巻第8号』に、
 工藝技術保存資格者決定 として、すべての=u工藝」関係の「技術保存資格者」追加認定を含めて「発表」されており、
萩燒抹茶碗、外≠ニして、山口 三輪休雪 〃 坂高麗左衞門 〃 坂倉新兵衞  〃 高麗陶兵衞  〃 吉賀大雅 の5人の名が「印刷」されています。
(「山口県」関係の「工藝技術保存資格者」は、硯≠フ堀尾卓司氏が、「萩焼」以外で、「認定」されておられますので、計 6名です。)

 なお、吉賀大雅については、「窯の経営者」であって、「作品」はほとんど作っておらず、職人≠フ作ったものも、大雅として販売していたということらしいのです。(大眉氏は既に亡くなっておられますが、「吉賀」家の方に確認すると、「そうです」とのことでした)

もし、そうだとすれば、吉賀大眉著『カラー 日本のやきもの 萩』の[118・119頁]に昭和十九年には、技術保存認定作家達が、出征将軍に抹茶茶碗を贈呈することになり、その展観を山口市において開催した。出品作家は、先代坂倉新兵衛、先代坂高麗左衛門、先代三輪休雪、先代田原陶兵衛、吉雅大賀〈吉雅大賀≠ヘママ 吉賀大雅≠ェ正しい〉五名であった。≠ニいう記述があることが不思議≠ナす。
後に「文化功労者」となる「大眉」は、大正4年生まれで、昭和13年 東京美術学校(現・東京芸大)彫塑科卒、
昭和18年といえば、まだ、28歳の若者ですし、
系譜をみますと、この昭和18年に、「第6回文展第4部(工芸)初入選」とあります。第二次も、昭和18年10月発表ですので、「申請」時は、まだ、この「入選」もない時ですので、大眉氏ではないと思います。
従って、職人の「作品」を、量%Iに多く大雅という個人名で販売・発表し、
それを知ってか、知らずか=A「商工省」個人≠ニして「認定」してしまったということになるようです。


「左」の「写真」は、「明治維新100年記念 萩焼現代秀作展」(昭和43年2月10日〜18日)の『図録』にある吉賀大「高島北海画伯絵付鉢」です。
この『図録』には、11代坂高麗左衛門・14代坂倉新兵衛・坂田泥華(現 泥珠)・12代田原陶兵衛・野坂康起・11代三輪休雪(現 壽雪)・大和保男・吉賀大眉の各氏の「作陶風景」(野坂・大和の二氏は、「自作を手にした写真」)と「作品」が各1頁ずつ、
特別出品として、三輪休和氏の「抹茶茶碗」とこの大雅氏の「作品」で「1頁」分、
10代坂高麗左衛門氏・12代坂倉新兵衛氏の「抹茶茶碗」で「1頁」 
13代坂田泥華氏・11代田原陶兵衛氏の「抹茶茶碗」で「1頁」
という「構成」になっています。

萩焼陶芸作家協会の「主催」で、協会長は吉賀大眉氏ですから、大雅氏の力≠ヘ、それ相当のものがあったと見てよいハズです。


なお、こうした複数≠フ「作者」ということは、別に、不正なこと≠ニいうわけではなく、「工藝技術保存資格=vという名称≠ナはありますが、
「愛知 日本陶器會社」・「京都 宮永東山製陶所」・「佐賀 深川製磁會社」といった個人でないものが8団体ありますので、「泉流山窯」でもよかったようなのです。




昭和20年(1945)8月15日
「第二次世界大戦(太平洋戦争)」終結。


昭和23年(1948)3月
12代坂倉新兵衛、「萩焼美術陶芸協会」を創立し、会長に任ぜられる。

(参考)

この「萩焼美術陶芸協会」の「副会長」は、三輪休和氏です。
吉賀大眉氏によりますと、創立は昭和24年11月とありますが、『陶匠 坂倉新兵衛』「略歴」に、昭和23年3月とあり、他の「略歴」との関連からして、この「23年3月」の方が正しいと思えます。
なお、『人間国宝シリーズ4 三輪休和』において、河野良輔氏も、休和氏の「副会長」を「昭和23年」のこととしておられます。
(この「萩焼美術陶芸協会」は、新兵衛氏の没後、三輪休和氏が会長に選ばれ、昭和36年3月、「萩焼陶芸作家協会」に改組されます。) 


昭和25年(1950)
●8月 「文化財保護法」が制定され、「無形文化財」の保護が初めて、設けられる。
(参考)

この「文化財保護法」によって「無形文化財」の制度が設けられ、「陶芸・工芸」の世界は、大きな変化≠遂げることになります。
ただし、特に価値の高いもので≠ニいう条件≠ノ加えて、衰亡の虞≠ェあることという条件≠ェあったため、最悪期≠脱していた「萩焼」は当面、「申請」を見送りました。
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「文化財保護法」の条文
対談 重要無形文化財指定のころを語る


昭和29年(1954)
●2月9日「山口県指定文化財保存顕彰規程」の制定・施行 

(参考)

準備していた「県条例」による「文化財保護」が主≠ニして、「財政上」の「理由」から、難しいため、代わりに制定された「規程」です。
この「規程」については、ここをクリックすると、私が『山口県地方史研究』に発表したものが出てきます。
この「顕彰規程」では、「萩焼」の場合、「指定」しても、メリット≠ェあまりないことに加え、限られた陶工・陶芸家≠「指定」することに慎重であったところ、すぐ「下」に記しているように、 5月 には、実力≠フみを条件≠ニする「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の制度ができたため、当初≠ヘ、「萩焼」の「県指定」は飛ばす≠アとにしていましたが、小山先生のお勧めで、先に=u県指定」をしておくことをアドバイス≠ウれ、「昭和31年8月」に、12代坂倉新兵衛氏、三輪休和氏のお二人が「県指定」になっておられます。


●3月 「無形文化財」に認定された公開≠フ場として、「第一回 無形文化財 日本伝統工芸展」が開催される。

(参考)

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(「伝統工芸展50年展」のパンフレット」 「日本伝統工芸展」が昭和二十九年(1954)に最初に開催されてから、今年で五十年目を迎えます。 同展は、昭和二十五年(1950)年に制定された文化財保護法によって制度化されて間もない重要無形文化財保持者(人間国宝)の作品を紹介する目的で開催されました。 間もなく全国規模の公募展となり、全国の工芸作家たちの発表の場として、戦後日本の工芸に大きな役割を果たしてきました。 )
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「第一回 無形文化財 日本伝統工芸展」の『図録』
 (参考) 「対談 重要無形文化財指定のころを語る」には、
杉原信彦氏
「この展覧会に五島慶太さんがこられて、荒川さんの志野の茶碗と木版複製の四天王寺の扇面古写経ね、それを一点づつお買上げになったんだね。」
「現代作家の茶碗が一0万円で売れたというんでみんなびっくりしたんです。」
といった「証言」があります。
この「工芸展」開催が、「伝統工芸」への関心を深めるきっかけ≠ニなったということは間違いのないところです。

●5月 「文化財保護法」の 一部が改正され、真に∞実力≠フみを条件≠ニする「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」の制度が設けられる。

(参考)
次の中ノ堂氏の「一文」で、背景%がよくわかります。

中ノ堂一信氏の「技の継承=重要無形文化財の保持者たち」

昭和31年(1956)
真に「実力」のみ≠保護対象とした新「無形文化財」制度に「萩焼」から「指定申請」、それも二人≠「同時申請」することになり、
6月 文部技官 小山冨士夫の「来県調査」により、十二代坂倉新兵衛氏・三輪休和両氏共に、十分に候補たり得る≠ニして認められ
小山の「推薦」及び、先に、「県指定」をという「助言」により、
8月 山口県指定無形文化財萩焼保持者として、十二代坂倉新兵衛、三輪休和が認定される。

「写真」は、小山先生の三輪休雪邸の「来県調査」の際のものです。
「中央」が小山先生で、
「右端」が三輪休和氏、
「左端」は、三輪節夫(さだお=E「休」→11代三輪休雪→三輪壽雪)氏です。
なお、いらぬことですが、小山先生と節夫氏の間にいるのが、父=英男です。
英男は、節夫氏と、同い年です。

(参考)

最も困った「萩焼の誤った°L述」は、山口県立美術館館長=河野良輔氏、学芸員=榎本徹氏主たる情報源だとして「朝日新聞」に連載、その後、間違っている≠フで、せめて、「資料」だけでも見てほしいという要請にも、「その必要は認めない」として、誤り≠フママ=u出版」された、当時=u山口支局」にいた白石明彦氏の執筆の『萩焼人国記』です。
この『萩焼人国記』の中の「休和物語」に、書かれている≠アと訂正をすることが、主たる目的なのですが、「三輪休和遺作展」をきっかけ≠ノ執筆された、詳しい記述であるだけに、本来≠ヘ書かれることのないようなことまで書かれており、しかも、そのために、放置できない内容を持つものです。
従って、表面的には、抜けと思われるものはあるものの、たいして誤りがないこの[河野良輔氏編「萩焼略年譜」]ですが、この[「休和物語」に書かれている=河野良輔氏・榎本徹氏を情報源としたという記述 ]の誤りを中心に、「解説」をすることになります。

まず、指摘するのは、「休和物語」においては、休和氏を中心に、「萩焼」が既に認められていたかのごとく、こともあろうに、この小山冨士夫先生の「古萩の歴史と特質」を根拠≠ノしていることです。
しかし、それは、誤読で、少なくとも、小山先生は、認めておられなかったことが、この「古萩の歴史と特質」でわかると私は思います。
ぜひ、クリック≠オて、ご覧願いたいと思います。

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(「古萩の歴史と特質」の抜粋は次のようになります。「休和物語」は、文脈≠無視し、この中の一部≠抜いているのです。=
・・・萩焼では坂家が総本家ということになっています。そして坂家ではそれ以外の窯はみんな弟子分だと言っています三輪休雪(現三輪休和)、坂倉新兵衛(十二代)などは今日の作家としてなかなか上手です。
・・・・・・・・・
萩焼の特質と申しますと、まあ萩はご承知のように軟らかい、親しみがあるのがその特質で、平々凡々な何の取りえもないようなところに、かえってその特徴があるのではないでしょうか。昔から一井戸、二萩、三唐津、または一楽、二萩、三唐津といいますのも、やわらかい、おだやかなものを愛する日本人の好みから発したものでしょう。萩焼は日本的な焼物のうちでも、特に日本らしい、やわらかさのあるもので、ひろく日本人に愛されるもそのためでありましょう。取りえといえば、軽いやわらかいその器地は日本にも中国・朝鮮にもない特別な親しみのあるものですが、作風にも、器形・釉薬にも、これといって人を牽くところがありません。時には和臭の過ぎる鼻もちのならないものもありますが、総じて茫寞とした大きさがあり、何ということのない親しみがあり、こんなところにかえって萩焼の特質とでもいうべきものがあるのではないでしょうか。 )
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この出発点から違い、しかも小山先生に認められていたとしながら、それでいて、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」相当≠フ力≠ヘ当時≠ヘなかったかのごとく、記しているのです。
さらに極めつきの誤りは、あたかも、新兵衛氏を「指定申請」したことを誤りであるかのごとく記しているのです。
本来≠ネら、決して、明らかにする≠アとがなかったと思われる背景を私が述べるのは、こうしたとんでもない誤りが、公≠ノされており、しかも、『萩焼人国記』なるものが、古書市場において、あきれるほどの「高額」で取引されていたからです。
しかし、それでも、いきなりではありません。
『柳宗悦全集』が、「筑摩書房」から出版されるに際し、父=英男のモトに、「山口県」の人の小山先生宛の「書簡」を掲載したいとして、その人物に是非とも確認したいことがあるので、調べてほしいという「依頼」があったことがヒント≠ニなり、当然=A小山先生についても、本格的著作集(「古萩の歴史と特質」が収録されているのは、わずか三巻しかない『小山冨士夫著作集』の中巻です)が企画されるに違いないと思って、鎌倉の小山先生のお宅を訪ね、ご子息の岑一氏に、父の遺している小山先生からの「手紙」を掲載していただくことを御願いしました。
しかし、「『全集』を編まないかという話は数社からあるが、なにせ膨大なため、断っている。あなたの手で、公表されてもかまいません。」と、私の手元の「資料」に目を通されないまま、私にまかせて下さったのです。
のみならず、帰宅後、私を追っかけるようにして、「手紙」という形で、そのことを書いて残してくださったのです。私に、何らかの非難・中傷≠ェくるかもしれないと、思われてのことのようでした。
残念ながら、先年、ご他界になられましたので、改めて、御配慮に感謝しているところです。

既に述べたように、「朝日新聞」の「山口版」に掲載当時、あまりのいい加減さ≠ノ対して、父=英男の意向を受けて、その執筆記者である白石氏に、「取材」を要請したのですが、「取材の必要を認めない」と突っぱねらただけでなく、あろうことか、間違いはそのままで「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った≠ニまで「あとがき」に書いて出版してしまったのです。
白石氏が「東京本社」に栄転したため、「東京本社広報部」を通じて、せめて、「取材は充分でなかった点があるかもしれない」という一文を書いてもらおうとしたのですが、「河野良輔氏に取材しているということなので、その必要はない」として、私が事実≠書いていないことの証拠≠ニして、「朝日新聞東京本社」に存在していることが確認済みの「資料」を見るように依頼したにもかかわらず、門前払い≠セったのです。
そのため、まず、「山口県文書館」に、「資料」として、寄贈したのですが、誰にも利用されることはなく、次に、河野良輔氏が観客席におられることを確認し、「山口県地方史学会」の場で「発表」という形で、再考≠促したのですが、質疑の時間があったにもかかわらず、質問も反論もなかった代わりに、その後、何らの訂正もありませんでした。
しかも、なぜか、大会発表者の「原稿」優先して掲載するという原則があるハズなのに、『山口県地方史研究』への「応募原稿」は、突っ返されてきました。
林屋晴三氏に、お話を伺った際、「マスコミ」相手に、いたずらに争うことを注意してくださるとともに、「山口には、榎本君がいるだろう」とおっしゃったため、榎本徹氏にも、依頼したのですが、だめでした。
私が、こうして[HOMEPAGE]をつくるようになったのは、実に、この「二人同時申請」をすることにしたいきさつ≠ニ事実≠ニして「萩焼の歴史」に果たした大きな意味を知らない河野良輔氏や榎本徹氏の証言≠ノ基づいて、白石明彦氏が記述したという12代坂倉新兵衛氏へのあらぬ汚名≠はらしてあげたいという父の遺志をついでのことなのです。
以下、「任」にあったものが努力するのは当然≠フことながら、やむなく公表≠キるわけです。

さて、背景なるものを述べましょう。
「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「指定申請」は、常識的≠ノは、一人の「申請」です。

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(「休和物語」=休和と同時に、山口県の無形文化財萩焼保持者に認定され、第三回日本伝統工芸展に初入選し、「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受け、日本工芸会の正会員になった坂倉新兵衛は、技は手なれているが、平凡(この技は手なれているが、平凡 ≠フみは、わざわざ、加藤唐九郎氏の言葉としています)なのに、この新兵衛を休和よりもむしろ先に、人間国宝へ=Aという動きもあったらしい。)
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「萩焼」の場合は、その一人とは、間違いなく≠P2代坂倉新兵衛というのが常識≠ナあったということは、「朝日新聞西部本社」の「学芸部長」であった源弘道氏も認めていることなのです。
源氏は、「それは常識だよ。白石君に教えてやる者はいなかったのかなぁ」と言っています。

しかし、当時=A「山口県」で「文化財」の担当の一員であった父=河野英男は、敢えて=A二人を「同時申請」することにこだわりました。
その「理由」は、ここをクリックしていただければ記していますが、ひたすら、文部技官小山冨士夫先生の「来県調査」を御願いしました。
しかし、「古萩の歴史と特質」に見られるように、小山先生は、当時の「萩焼」に、二人≠熈候補者≠ェあるとはお考えにならず、了承が得られない
状態がしばらく続きました。
小山先生が「指定」を前提に「調査」されるというのは、大変なことです。
結果はともかく、一人申請≠ネら、「来県調査」をしていただくのは、そう難しくはなかったでしょう。
しかし、最高権威者=¥ャ山先生が、二人≠「国指定」候補として「調査」されるということは、一人≠ヘ、候補≠ニして認めるということにつながりかねませんし、「他県」とのバランス≠ゥらいっても、簡単なことではなかったのです。
従って、この二人申請≠ノこだわり、かつ、「調査」していただけない待ち続けるという期間は、当時の「萩焼の第一人者=12代坂倉新兵衛」氏には、大変な迷惑をかけたことになります。
(のみならず、新兵衛氏一人の申請≠ネら、「休和物語」においても、こんな書き方をされることはなかったハズなのです。)



「写真」は、「起工式」のものですが、ほぼ「指定申請」当時のものです。

「左」から小澤太郎知事、父=英男(当時、「社会教育課課長補佐」)、兼清正徳氏(当時、「社会教育課文化係長」)、藤本菊二教育長です。

この「二人申請」という「線」を貫けたのは、語り継がれるほどの「名教育長」であり、かつて、「社会教育課長」であったことから、父=英男を「理解」してくださっていた藤本教育長の「理解」があったことによるものです。

結局、小山先生が出張帰りに、自費で立ち寄る≠ニいう形で[来県調査]が実現し、このときの小山先生の御指導・アドバイス≠ノよって、「萩焼」は中央での認知≠されるようになりました。
この小山先生の「来県」によって、「萩焼」は、中央≠ノ出ることになったわけで、小山先生という権威者≠フ評価が、「萩焼」の全国的認知出発点であったということは、田舎窯にとって、これといった世間にアピールする場≠フなかった時代≠フなせることで、「萩焼史」においては、忘れられないことです。
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小山先生の「来県調査」後の「書簡」
←「山口県文書館 河野英男収集文書 bX3」
↑ 小山先生は、この中で、「まず、新兵衛氏の指定のことを考慮してみる」としておられます。

●10月 「日本工芸会」の「理事」または「正会員」の推薦により、出展・応募が可能になった「第三回伝統工芸展」に「理事」である小山の推薦で、12代坂倉新兵衛、三輪休和が2作品ずつ初出展し、2作品とも入選したのみならず、両者共、高い評価を受け、『図録』の3頁目に、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の石黒宗麿の「作品」とともに、掲載される。(「日本伝統工芸展」は、性格を変え、「第二回展」からは、「日本工芸会」が中心となって運営されていた。)

(参考)

この「第三回日本伝統工芸展」公募であったとして、必要以上に、この「伝統工芸展」の意義強調しずぎているのが、河野良輔氏・榎本徹氏・白石明彦氏なのです。
そして、この「第三回日本伝統工芸展」を出発点とするところに、問題があるのです。

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(「休和物語」「日本伝統工芸展」の「第二回展」には、推薦によって若手作家も出品している。
休和氏は、公募制となった「第三回日本伝統工芸展」に出展、「平茶碗」が入選する。
)
(『人間国宝シリーズ4 三輪休和』(河野良輔氏編・著)=昭和三十一年 九月、第三回日本伝統工芸展に「平茶碗」を初出品し入選。
(『週刊朝日百科 人間国宝22 工芸技術・陶芸 三輪休和・三輪壽雪・中里無庵』(榎本徹氏著)=五六年、第三回日本伝統工芸展には初出品した「平茶碗」(ひらちゃわん)が入選する。
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(「休和物語」日本伝統工芸展をきっかけにして、休和は、地元の需要に応じて、主に数物を量産する「陶工」から、中央を舞台に、作品一点一点に個性的な表現を見せる「陶芸作家」へと、徐々に変わって行く。もっとも、三十九年(一九六四)に執筆した「日本のやきもの4 萩」の中で、自らを「一介の陶工」と称しているように、休和自身は必ずしも、この過程を意識してはいない。
唐津焼の中里無庵のように、休和と同時代の一群の陶芸家の中には、この日本伝統工芸展を機に世に出た人が多い。萩焼では、休和に次いで、弟の休雪が三十二年、坂田泥華が三十六年、田原陶兵衛が四十四年に、それぞれ初出品している。茶碗を主体にしているため、これまで発表の場に恵まれなかった地方の伝統窯にとって、日本伝統工芸展は画期的な出来事だった。
なお、三十年には文化財保護法が改正され、重要無形文化財、つまり人間国宝の制度が設けられている。
休和は初入選した三十一年、山口県の無形文化財萩焼保持者に認定され、翌年には、文化財保護委員会から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受けると共に、日本工芸会の正会員になった。
当時六十二歳の休和には、日本工芸会に注目されるだけの力の蓄えがあった。それは古陶磁や窯たきなどの地道な研究成果と言ってもいい。しかし、もし仮に日本伝統工芸展がなかったならば、休和も、結果的には萩焼も、日の目を見られなかったのではないだろうか。あれほどの苦境時代を生き抜いて来た休和でさえ、自分の力だけでは世に出られなかっただろう。

(『週刊朝日百科 人間国宝22 工芸技術・陶芸 三輪休和・三輪壽雪・中里無庵』(榎本徹氏著)=第二次大戦後の休和にとって幸いするのは、日本工芸会の発足である。
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世に出るとは、そもそも、どんなことをいうのでしょうか。
林屋晴三氏が、在世なら、三輪休和氏の後の、「人間国宝」の有力候補の一人≠ナあったろうと言われる14代坂倉新兵衛氏の「出展」のことが書かれていないのはなぜでしょうか。11代坂高麗左衛門氏のことも記されていません。

金銭的に恵まれる≠ニいうことをいうのでしたら、たしかに、「伝統工芸展」の意味≠ヘ大きいかもしれません。しかし、中里無庵氏は、既に「昭和29年度」に、「記録選択」となっており、既に、評価されているのです。
三輪休和氏にしても、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「指定申請」前提となっての、「工芸展」への出展なのです。
そもそもが、「日本伝統工芸展」は、「無形文化財」認定者の技≠フ公開≠フ「場」だったのです。
旧「無形文化財」新「無形文化財」になっても、内容≠変更しながら「無形文化財」の技≠フ公開≠フ「場」として、継続されたことを知らないのでは困るのです。


「伝統工芸展」を機≠ノ世に出たというなら、それは次≠フ世代でしょう。
厳密な意味≠ナいうなら、本当の公募展となった「第七回展」以降の応募→入選となった人たちを言うのでしょうが、三輪寿雪氏も、含めてよいと思います。。
壽雪氏は、「正会員」である兄=休和氏の推薦≠ナ「第四回日本伝統工芸展」に出展され、いきなり=A奨励賞候補として登場≠オ、連続4回入選≠ナ、「正会員」という、優等生≠フ道を歩まれたともいえのですが、このことは、別に記すことにします。

の関係だと私は思っていますが、三輪休和氏にせよ、中里無庵氏にせよ、十余年=A「記録選択」のママ≠ノおかれることになり、「人間国宝」の方が、無審査≠ナあったのに、「記録選択」の人は、審査≠ェあるというシステム≠ナあったため、プライド≠ニプレッシャー≠フ狭間≠ナ、精進≠ウれ、それが、飛躍的な技の向上を見ることにつながったと、私は見ています。

「工芸展」での入選が、あたかも出発点であったかのごとく、言われていますが、そうではなく、既に、「指定申請」時から「人間国宝」の候補足り得たのです。

 事実≠ニして踏まえておかねばならないのは
「萩焼」の二人=12代坂倉新兵衛氏と三輪休和氏の「第三回日本伝統工芸展」に、「出展」したのは、この「第三回展」から、「理事又は工芸会正会員」の推薦≠ノよる応募を認めることになったからだということです。
「第1回」=旧「無形文化財」認定の人達の「作品」及び「工程」の紹介
「第2回」=「無形文化財」以外に、「日本工芸会」所属の「正会員」・「支部会員」を加えて開催
第3回〜第6回」=「理事及び正会員」の推薦≠ノより、応募可能なシステム
「第7回」以後=一般公募

それを、公募だなどとするのは、とんでもない#F識違いです。
小山先生が、全国的にはほとんど知られていなかった=u萩焼」の力≠「指定問題審議」の前に、全国に向けてアピール≠オておくようにと、この6月の時点では、未発表であった「第三回日本伝統工芸展」に推薦≠ノよる応募≠ェ可能になるからと、準備を促され、「理事」(実質的には責任者)である小山先生の推薦で、10月開催の「工芸展」に出品したのですが、この「第三回展図録」は、この時だけのこと≠ナすが、「入選作」の扱いに差があり、その3頁目に、「左の写真」のように、重要無形文化財(俗称 人間国宝)≠フ石黒宗麿氏の作品を挟んで、上に12代坂倉新兵衛氏、下に三輪休和氏の「井戸茶碗」大きく′f載されたのです。
厳しいことを言うようですが、現在でも、簡単に「確認」可能なのに、「平茶碗」だとするのは、事実¥\分には確認していないということです。
さらに、榎本徹氏の場合は、私が「写真」を見てもらい、「平茶碗」ではないことを確認してもらったのに、依然として「平茶碗」だとしているのも、困ったものだとしか言いようかありません。
この「2作品」が、全国≠ノ向けて、強力にアピール≠キることになった、記念碑%Iな作品なのです。(「作品」は、原則として、「工芸展会場」で、販売されたため、現在も、その所在≠ヘわかりませんが、『図録』は、文化財写真の撮影で著名(山口県もお世話になっています)な文部技官=米田太三郎氏によって撮影されていますので、『図録』の影響はその後≠熨蛯ォかったといいます。なお、2人とも、「2作品」を応募し、2作品とも「入選」しています。)
 なお、この「日本伝統工芸展」では、三輪休和氏の茶碗が、最初に赤札≠ェついたという休和氏からの「はがき」が手元にあります。

ツマリ、この「第三回日本伝統工芸展」への出展は、「人間国宝」の候補¢ォり得るという、小山先生の評価を踏まえてのことだったのです。
なお、この『図録』に、「入選作」の扱いに差∞があることは、(1頁目=近藤悠三(「大賞受賞」・後年「人間国宝」)氏と宇野三吾氏(三吉≠ヘ誤植)の「各1作品」)、(2頁目=富本憲吉氏(「人間国宝」)、清水卯一氏(後年、「人間国宝」)、浜田庄司氏(「人間国宝」)の「各1作品」)、そして、上に記したように、(3頁目)が「12代坂倉新兵衛氏、石黒宗麿氏、三輪休和氏」という「構成」からもわかっていただけると思います。

「日本工芸会報bP0」後記に、
昨年第三回展のとき、出品者一同から、鑑審査の結果等を細かく報告するようにこの〈この≠ヘママ との=r御注問〈注問≠ヘママ 注文=rがあり大変おしかりをうけましたので・・・・・
とあるので、この「第三回展」における「入選」は、「出品者」にとって、予想外に厳しかった≠ニいうことだと思います。
そのような厳しい審査の中で、三輪休和氏からの「はがき」に、
(2点、応募したのに、)一号井戸茶碗(だけ)が入選(したのは)恐らく一種目では一点丈の入選ではないかと思ひます。≠ニあるのは、三輪休和氏にとって、「作品」への自信があったということだと思います。
なお、この「はがき」は、『図録』を手にされてすぐ、投函されたもので、後日、上京されて、2点共=u入選」していたことがわかりました。(12代坂倉新兵衛氏も、同様に、2点応募、2点共入選でした。)

昭和31(1956)年11月 12代坂倉新兵衛、東京「高島屋」で「個展」を開き、「後援会」を結成。

昭和32(1957)年
●3月 「昭和31年度」の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として、十二代坂倉新兵衛、三輪休和が文化財保護委員会より認定される。 (私は、認定≠謔閾選択≠ニいうように表現します)

(参考)



















「左」=12代坂倉新兵衛氏の「重要無形文化財指定申請書」   

「右」=三輪休和氏の「重要無形文化財指定申請書」(2冊で1組)/「左」の「写真帳」の表紙は、「重要無形文化財指定申請書附属寫真帖 三輪休雪」と書かれていますが、この表紙のみならず、中の説明も、休和氏ご自身が筆で¥曹「ておられる貴重なものです。

休雪白≠ネる呼称≠ノついて
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(「休和物語」「休雪白」という語は、昭和三十年代に入って世間が使い始めた言葉≠ナ、休和自身は初め知らなかった。当代の茶碗の名手を指して、一時は「東の荒川(豊蔵)、西の三輪(休和)」と言ったように、個展などの歌い文句だろうか。それとも、白砂糖をさらに精製、脱色した純白の砂糖である「三盆白」からの、類推かも知れない。
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この「休雪白」なる呼称≠ヘ、小山先生に「来県調査」をなにがなんでもしていただくために、依頼する過程で、
父=英男が「白い釉薬が素晴らしく、それは休和氏特有のものです」(小山先生が、昭和十年代において、見られていた「白」とは、違っていた≠フです)と説明したのに対し、
小山先生が思わず発せられた「休雪白ってわけか」という言葉が最初でした。
それを父が「休雪白ともいうべき特有の色」と記者発表したのを休和氏の「重要無形文化財指定申請書」を担当した人物(形≠フ上では萩市長となっています)が、「休雪白」という呼称で、広く呼ばれていると断定的に書いたことが定着≠オたのです。

「写真帳」に、自ら、筆字≠ナ書かれるほど、几帳面≠ナ、誠実≠ネ三輪休和氏が、「指定申請書」に書かれた内容を知られないはずはないのです。 




「写真」は、休和氏の「重要無形文化財指定申請書」からのものです。
「写真」の終わりから4行目以降は

其の作品はその大小を問わず多分に白釉を流し、世上、休雪白と称するに至りて、一般萩焼窯にても之に倣ふもの多く、遂に近時の萩焼とて一転機を画し、現今の隆昌の機運を招

とあり、次の「頁」に来せるは大なる変革となすべきなり。

又これと別個に抹茶碗の施釉に休雪白と称へらるものは牟礼長石、和薬長石、灰を混合せる濃釉にして、これを茶碗の地釉の上に二段掛として、焼成するときは、頗る荒□入を来し茶白色の軟釉は地薬と著しく変化して、片身替りとなり、萩茶碗の特長たる茶馴より来る、所謂萩の七化げ現象を更に効果的ならしむるものにて、是又古萩作品に比類なく、その素地独自の作風に加へ、この濃釉を以て一見休雪茶碗と呼ばるるに至りたり。更に同釉井戸写茶碗に於ては素焼を省き生掛とし、完全なるカイラギを現出して現在休雪茶碗中得意の作として挙ぐべきものにて、如述の釉薬は萩窯中最も特異性あるものと称すべきものなり。

と続いているのです。

要するに、「休雪白」という言葉は、既に世上≠ェ称していると言っているのです。更に、その「休雪白」なるものは、「抹茶茶碗」と、その他では、違う≠ニも。



(参考)

12代坂倉新兵衛氏の「重要無形文化財(人間国宝)」の認定の可能性が言われていたにもかかわらず、昭和31年11月の時点で、小山先生から、難しい情勢≠ノあるという「はがき」で知らされていたように、「備前焼」の金重陶陽以後の「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」への追加認定はなく加藤土師萌、加藤唐九郎、宇野宗甕、今泉今右衛門らともども「記録作成等の措置をすべき無形文化財」でした。
私は、藤島亥次郎先生の「重要有形文化財」におけるお話から、この「記録選択」を「重要無形文化財」指定のためのプール¥態だと思っています。
この「記録選択」の方々は、「日本伝統工芸展」という場≠ナ、「重要無形文化財」の人達が無審査≠ナあったのに対して、審査≠経ることになっていたため、プライド≠ニプレッシャー≠フはざまにおいて、研鑽され、「陶芸」の世界の発展に大きく寄与されることになったと、私は見ています。

「日本経済」は、やがて驚異的な#ュ展をとげます。また、「機械化」による安価な「大量生産」の普及に反比例して、「手仕事」は、高度に=A「特殊化・専門化」していくことになりました。
こうした時代背景≠フもとで、「陶芸」の世界も、用≠次第に離れ、(「実用」としての用≠ェ、「美術品」として飾る≠ニいう用≠ノ、拡がったともいえると思います)芸≠ノウエイト≠移していくことになります。
「美術品」
として予想もできなかった♂ソ格でも受け入れる需要≠ェ存在したことが拍車≠かけたのです。(早い話、かつては、平均給与の1〜2ヶ月分程度だった「萩焼」の「抹茶茶碗」が、高級車∴ネ上の価格をつけて「デパート」に展示され、かつ、30点以上もあり、まだ「展示会」(平成2年10月9日〜14日)は終わっていない時点で、既に完売(赤●がついた状態)していたのを私は「東京・三越本店美術フロアの改装オープン記念」ということで、そのためだけに上京し、担当の方に確認しています。〈ただ、まだ残っていたとしても、私には買うことはとてもできませんが。〉)
つまり、「美術・工芸界」は、この「文化財保護法」に設けられた「無形文化財」制度及びその技術公開の場≠ニしての「日本伝統工芸展」が、形≠変えたことによって、エポックメーキング%Iな展開を見せるに至ったのです。


●4月  「三越日本橋本店」において、萩焼十世当主、無形文化財記録作成保持者≠ニいう肩書≠ナ、三輪休和、「個展」を開催。
三輪休和後援会が結成される。

(参考)

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(『人間国宝シリーズ4 三輪休和』(河野良輔氏編・著)=三十二年の四月、日本橋三越の「三輪休雪先生(ママ)茶陶展」は、休和さんの芸術を世に問うた意義深いもので、これを契機に在京山口県出身の久原房之助翁他一流知名士発起のの後援会が結成されたのも、休和さんの人柄によるもので、個展活動は年を逐うて頻繁になっていった。)


この「後援会」の結成は、表面的≠ノは、「個展開催を期に」ということになっていますが、三輪休和氏に、陶芸家としての活躍を期すために、用意されたものです。
「記録選択」によって、プール¥態になった休和氏には、単に用≠フためではなく、「創作」が要求されることになったのをバックアップしたいがための結成なのです。
確かに、休和氏の人柄から、スムーズに後援会が結成されたのですが、こまの書き方だと、12代坂倉新兵衛氏はどうかということになりますが、新兵衛氏の方が「後援会」の結成は先行しており、「発起人」もかなりの重複があります。
なお、在京山口県出身者≠ニありますが、多くはそうであるものの、在京≠セけではありません。
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5月6日付  「陶磁協会」を調査主体として「萩焼古窯」の発掘をする予算がついたという連絡が小山より、河野宛に「はがき」でもたらされる。

(参考)

この小山先生からの知らせは、突然で、唐突なことでした。

●5月  12代坂倉新兵衛、三輪休和が、「日本工芸会」の「正会員」となる。

(参考)

「記録作成」として選択された場合も、公開≠フ条文が「文化財保護法」にあり公開≠フ場として「日本伝統工芸展」を利用したため、「正会員」となるのは必然でした。
一般的には、「入選4回」で「正会員」という規程によって「正会員」となるはずです。
ただ、この[昭和32年度]に「正会員」として推挙された方は、「社団法人日本工芸会 事務局長 久保庭伊佐男氏」にいただいた「回答」によりますと、
12代坂倉新兵衛氏、三輪休雪氏以外に、
・加藤嶺男氏・加藤景秋氏・清水卯一氏・鈴木清氏も、推挙されています。
この中の、鈴木清氏は、「第2回展」にも「第3回展」にも出展されておらず、いきなり「正会員」へ推挙ということに多少のとまどい≠覚え、いろいろと調べた結果、富本憲吉氏に師事していた「陶芸家」だということがわかりました。
富本氏の推薦があって、「日本工芸会」に認められたようです。 


●10月 「第4回 日本伝統工芸展」開催。
   三輪節夫(さだお)が、「平鉢セット」を出品。「奨励賞」候補となる。
 

(参考)
三輪寿雪氏が本名の三輪節夫≠ニして「伝統工芸展」に出展された「平鉢セット」です。

『図録』の中での位置≠ヘ、
[1頁=文化財保護委員会委員長賞≠フ酒井田柿右衛門氏の「色絵草花文蓋物」と奨励賞≠フ浅尾玄氏の「雲花焼筒形花入」]
[2頁=浜田庄司氏・荒川豊蔵氏・石黒宗麿氏・藤原啓氏・近藤悠三氏の各三品]
[3頁=清水卯一氏・今泉今右衛門氏・三輪節夫氏・加藤嶺男氏の各作品]
[4頁=川瀬竹春氏・坂倉新兵衛氏・三輪休和氏・辻晋六氏の各作品]
[5頁=鈴木清氏・上口愚朗氏・中里太郎右衛門氏・山本陶秀氏の各作品]
[6頁=辻京作氏・横石臥牛氏・寺尾作次郎氏・加藤景秋氏・菊山当年男氏・木村一郎氏の各作品] 〈「陶芸関係」は以上〉となっています。

「日本工芸会報」の「bP0」の5頁に「授賞作品」と「受賞候補作品」が印刷されており、受賞はできなかったものの、「奨励賞候補」であったことが、「記録」として残っています。
一番下の段の6行目に 授賞候補作品 とあり、
陶芸
色絵草花文蓋物 酒井田柿右衞門
錦牡丹八角鉢 今泉今右衞門
↑ [註]このお二人は既に、評価されておられるため、「奨励賞候補」としては除外≠ウれ、以下の三人が、「最高賞・奨励賞」の候補と思います。
雲花焼筒形花入 浅尾宗筌
壷 清水卯一
平鉢セット 三輪節夫 

以下、「染織」・「漆芸」・「金工」・「木竹工」・「人形」の順に印刷されています。

なお、この「作品」について、「萩焼の造形美 人間国宝 三輪壽雪の世界」展の『図録』において、
初入選の作品《平鉢セット》は、釉薬で太い幅のラインを大胆に引いたモダンな作品ですね。同じ年に十代休雪先生は素直で柔らかい雰囲気の《萩茶碗》を出品しています。既にスタートから、壽雪先生と十代とでは、随分個性が違っています。
と記していますが、これはまったくの誤りです。
この「作品」は、三輪休和氏の影響が色濃く見られるものであり、「十代三輪休雪(休和)個展」を、当初≠ゥら併陳展だとする描き方と方向を一にするものであり、三輪節夫(休・11代休雪・壽雪)氏が後世に語り継がれる立派な業績を挙げられた方であることは間違いないものの、だからと言って、早く≠ゥら特別≠ナあったと、事実≠歪めてまで記すことには疑問があります。
特に、この場合のように、休和氏比較¢ホ象として、スタートから、個性が違っていると言われては、休和氏の作品の幅不当≠ノ狭めてしまうわけで、事実を確認してから活字にすべきだと思います。

●12月  「萩焼古窯」の発掘調査は、いろいろな「事情」を加味し、「山口県」としての意見が受け入れられ、当面、延期することになる。

(参考)

小山先生からの「連絡」が、昭和32年5月と、既に「昭和32年度」が始まっていて、「山口県」としての追加@\算が組みにくいことに加え、
渉外担当≠フ佐藤進三氏の強引≠ネ進め方もあって、「深川古窯址」の主たる所有者である12代坂倉新兵衛氏が発掘の了承をされず、延期(中止)となりました。
ところが、その「延期(中止)」に至った張本人≠ナある佐藤氏は、こともあろうに、この「延期(中止)」を山口県の妨害≠ニ「平凡社」の出版物に書いています。
そして、この佐藤氏の『陶器全集21 萩・上野・高取・薩摩』の記述を前提≠ニして書かれた
困った萩焼の本=『萩焼 やきものの町』なるものがあります。
これら「古窯発掘」に関する事実≠ニしての「顛末」は、「左」の≠クリック≠オて御覧ください。

昭和33(1958)年4月
「工芸会支部」を山口県単独≠ナ結成。

(「工芸会山口支部」の単独結成≠ノついて)


『工芸会山口支部40年のあゆみ』という、立派な体裁≠フ中に、
日本工芸会発足当初地方支部の設置については、本部の意向として中国5県をまとめて中国支部とする方針であったが、萩焼だけの山口県支部を結成することを強く主張したため、備前焼を主体とする岡山県側も中国地区の1本改正[暫時見合わせ、東中国支部を発足させた(岡山県の神野 力氏の「証言」として)
とされ、それなのに
(「山口支部」の「事務局」を引き受けた脇本直甫氏が、高齢のため、三輪休和氏から、当時の橋本正之知事の了承のもとで、「事務局」を「山口県教育庁社会教育課」に持ち込んだ時は、)山口支部の結成、あるいはその発足に関しては、資料が皆無に等しく、唯僅かに遺された「山口県支部規約」と『日本伝統工芸の歩み』(平成5年・日本工芸会)の日本伝統工芸展沿革に、昭和33年2月、「山口支部を設置」と見える7文字の活字のみによって、山口支部の存在を窺い知るのみであった。
と書かれています。
この後世≠ノ確実に影響すると思われる「資料」=『工芸会山口支部40年のあゆみ』においては、表面的≠ノは、「萩焼」の単なるわがまま≠ナあったかのようにとられてしまいそうです。

「山口支部」の発展≠ノは、河野良輔氏が、いかに貢献されたかは、この『工芸会山口支部40年のあゆみ』でわかるのですが、しかし、それとても、「山口県」単独≠フ「支部」であってこその華々しさであると私は思いますし、
この『工芸会山口支部40年のあゆみ』の「記述」のママ≠ナは、事実≠踏まえていませんし、坂倉新兵衛氏がお気の毒です。 
前提としての、単独≠ナの結成については、「第三回日本伝統工芸展」が公募展≠ナあったかのような「理解」では説明できないことがあるのです。

この「背景」には、「日本伝統工芸展」への応募が、小山先生の推せんでなければ、応募できなかったという当時≠フ「萩焼」の置かれていた位置≠ェあるのです。
そして、この単独≠ナの「山口支部」結成≠ェ可能であったのは、「萩焼」に「記録選択」の二人という事実≠ェあったからなのです。


「工芸会山口支部」の結成について


昭和35年(1960)
●9月  「第7回 日本伝統工芸展」が公募$ァとなって開催されるも、「萩焼」からは12代坂倉新兵衛・10代三輪休雪(休和)・三輪節夫(三輪壽雪)の出展にとどまる。
●10月 三輪節夫=「日本工芸会正会員」となる。(「工芸展」4回%選に伴う推挙=B12代坂倉新兵衛・休和両氏以外の「正会員」はこのケース≠ナす。) 
●12月12代坂倉新兵衛没。(←註 「リンク」設定したため、色≠ナの別≠ェできませんが、黒≠ツまり、「萩焼略年譜」に、記されています)

昭和36年(1961)
● 9月  「第8回 日本伝統工芸展」に、14代 坂倉新兵衛・13代 坂田泥華(「14代 泥華」と名乗り変え、現在は「泥珠」と号す。ここをクリック)が、「初出品・初入選」。

(山口支部」が設立されているわけで、「研究会員」としての「応募」は、「第5回工芸展」以後は、可能であったハズなのですが、公募となった「第7回工芸展」ではなく、この「第8回工芸展」まで、応募はなかったと考えられます。
「入選」はわかるとしても、「応募」がいつからかは、把握できませんが、まず、間違いないと思われます。

なお、『伝統工芸30年の歩み』において、当時=A「朝日新聞西部本社学芸部長」であった源 弘道氏は、「日本伝統工芸展と九州・山口」に、次のような「記述」箇所がありますので、紹介しておきます。
・・・現行の公募制になった第7回展(昭和35年)の入選者は十二代今泉今右衛門、十三代酒井田柿右衛門、鈴田照次(染織・佐賀県)、中里無庵、十二代坂倉新兵衛(陶芸、山口県)、三輪休和、十一代三輪休雪の7人にとどまっている。全入選者が145人だから、4.82%にすぎない。
その後も日本伝統工芸展での九州・山口の低迷はつづく。10回展(38年)での入選者もやっと10人(5.43%)、15回展(43年)でも20人(6.89%)と伸び悩む。
・・・・・・・・・・・・・・・
 しかし20年目ごろから、九州・山口在住者の入選率も上向き始める。昭和48年の20回展では入選者37人(入選率8.46%)と30人を越える。25回展(53年)は66人(10.94%)と10%を上回る。以後年々ふえつづけて、昨年の第30回展では106人と初めて100人の大台を突破、入選率も16.40%に達した。 7回展当時にくらべれば入選者数では実に15倍、入選率でも3.9倍だ。30年目で、ようやく、その伝統の底力がヒノキ舞台の上でも出てきたということである。
とりわけ陶芸部門での伸びが目覚ましい。30回展での九州・山口からの入選者は76人である。陶芸部門の全入選者が265人だから、九州・山口はその中の29.6%に当る。つまり陶芸部門のほぼ3人に1人が九州・山口在住者ということだ。陶芸王国・九州・山口の名にふさわしい。
一方、陶芸部門の九州・山口からの入選者76人は、全部門への九州・山口からの入選者106人の72.38%に当る。その他の部門への入選者は染織16人、木竹工7人、金工、漆芸各1人、人形0人、その他5人となっている。つまり陶芸が圧倒的多数を占めており他の部門は相対的に比重が低いということだ。こういった状況は過去30回ほとんど変わっていない。陶芸王国であることを裏付けると同時に、他部門の相対的不振を物語っている。 ・・・・)

     10代三輪休雪・三輪節夫は、引き続き「入選」。
(参考) 坂田泥華=「昭和39年」・坂倉新兵衛=「昭和41年」に、それぞれ「工芸会正会員」となる。
その後の「正会員」は、「昭和47年」の12代田原陶兵衛氏まで飛びます。


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↓↓ 河野良輔氏は、「昭和41年」以後「萩焼の歩み」に関わられます。
従って、これ以後は、「萩焼略年譜」の「記述」が「正式」となるハズですが、赤字は勿論、青字の箇所も、私には大事≠ナあるように思えますが、いかがでしょうか。

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昭和44年(1969)
● 吉賀大眉、改組第一回日展総理大臣賞受賞
    (大眉氏の著書にも「吉賀大眉記念館」においても、「昭和44年」とあるだけで、何月であったかは現在、つかめていません。)


(参考)

「受賞作」の写真がみつからないので、昭和49年9月10日、 株式会社「淡交社」から大眉氏自身がカメラマンの神山典之氏と組んで出版した『カラー 日本のやきもの6 萩』に載せておられる[暁雲]を示しておきます。

この本には、雪の中の深川に残る共同窯跡 坂倉家/田原陶兵衛・坂倉新兵衛・三輪休和・三輪壽雪(休雪時代)・大眉・坂高麗左衛門各氏の作業行程のスナップ写真等の後、名品の鑑賞≠ニいう項があり、そこに、多くの「古萩」作品の後に、三輪休和・坂高麗左衛門・三輪壽雪(休雪時代)・坂倉新兵衛・坂田泥華・田原陶兵衛・兼田文男・三輪竜作・大和保男・野坂康起・波多野善蔵・吉賀将夫各氏の作品が1作≠クつ掲載され、最後に、この吉賀大眉の「暁雲」が載せられています。自信作≠ナあろうと推測し、その「写真」を示しておきます。
なぜか、ここには[12代坂倉新兵衛]氏の作品が掲載されていません。私には残念ですけれど、大眉氏亡き現在、どうしようもありません。(執筆当時、健在≠ナあった方を優先されたのだと思いますが・・・。)

昭和45年(1970)
●4月 萩焼が重要無形文化財として指定され、その技術保持者として三輪休和(十代休雪)が認定を受ける。
(参考)
「陶芸」を典型として、「地域」と関係が深い「工芸品」の場合は、「人間国宝」が存在いているかいないかによって、注目度地域振興面において、大きな差≠ェでるハズと、当初¢z定したように、
三輪休和氏が「人間国宝」になられたことで、数年後に起こる陶芸ブームにおいて、「萩焼」も、「志野焼」、「備前焼」などと共に、
中心的≠ネ位置をしめます。

(参考)

まず、紛らわしい指定認定の違いについて述べておきます。

第三章の二 無形文化財
(重要無形文化財の指定等)
第五十六条の三 委員会は、無形文化財のうち重要なものを重要無形文化財に指定することができる。
2 委員会は、前項の規定による指定をするに当たつては、当該重要無形文化財の保持者を認定しなければならない。

とあることから、
「無形文化財」というわざ≠指定し、
そのわざ≠体現している自然人として人間を保持者として認定(ツマリ、人間には、「認定」が正しい)
といっていると思われます。
従って、一般的には、指定と認定がセット≠ノなるというわけです。
そこで、私は、この指定認定を、厳密には使い分けをしていないことを断っておきます。


各方面に、「萩焼の歴史」再検討していただくように、働きかけましたが、いずれも実現せぬため、父=英男の「十七回忌」を前に、自費出版し、誤り≠正したいと計画しました。
その際、[一流紙=朝日新聞≠フ記者=白石氏]が、『萩焼人国記』発行の際、あとがき≠ノ、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った≠ニまで「あとがき」に書いて出版しているため、せめて、「取材は充分でなかった点があるかもしれない」という一文≠もらって、そのことを冒頭に記して、私のいうことに耳を傾けてもらおうとして、「東京本社広報部」に、「朝日新聞社」に「資料」があることを確認済みの幾つか≠調べてほしいと申し出たところ、「河野良輔氏に取材しているので、その必要はない」として、門前払い≠ウれたことは既に述べました。
その「朝日新聞広報部」が河野良輔氏に取材しているので、その必要はない≠ニ書いている前に修飾語≠ェあります。
少し長くなりますが、それは
この連載の中で人間国宝認定を扱ったのは12月9日付の第25回「人間国宝」です。≠ニ、私の幾つもの指摘を、第25回≠ノ限定してしまい
この記事では、認定当時に山口県教育委員会の指導主事を務め、休和さんの技術記録作成を担当した河野良輔さんの話が紹介されています。言うまでもなく、河野良輔さんはその後、山口県立美術館長を長く務められ、萩焼界のために尽力された方です。萩焼評論家としても知られ、一般書から専門書に至るまで、萩焼に関する著書を数多く著しています。 この河野良輔さんが、人間国宝認定に必要とされる詳細な技術記録作成のために力を尽くされたことは紛れもない事実です。この点に関しては、萩焼作家や美術館関係者に現在、取材しましても、同じ判断が下されるものと思います。「休和物語」はこうした認識のもとに、河野良輔さんに取材しています。したがいまして、記事内容の訂正の必要はないと判断いたしております。 ≠ニいうものです。(事実≠確認してほしいという私の依頼を門前払い≠オた、これが、「広報部」の「回答」のほぼ全文です。)
私は良輔氏を引きずり下ろすつもりはありませんが、良輔氏が萩焼評論家としても知られ、一般書から専門書に至るまで、萩焼に関する著書を数多く著し≠スのは、休和氏の「人間国宝」認定後であって、むしろ、休和氏の「人間国宝」認定がきっかけ≠ニなり、一流出版社≠ェことごとく良輔氏の肩書≠ノ寄り掛かって執筆を依頼したからだったはずです。
そんな事実誤認≠して、「伝統工芸展」の主催者≠ニして所持していることがわかっている「資料」(私は、「朝日新聞東京本社」から、その「資料」の一部をいただいてます。)だけでも見て確認して欲しいという要請を門前払い≠したのが一流紙==u朝日新聞」なのです。
十年≠ニいう長い歳月が経過したため、事情≠知らない新世代≠フ「萩焼作家」が多く、「工芸会山口支部」として諸活動が、良輔氏によるもので、それによって、「萩焼」が注目されたと思いこんでいる=u萩焼作家」が「朝日新聞」に何と証言しようと仕方がないのですが、 美術館関係者に現在、取材しましても、同じ判断が下される≠ニいう実態≠ェ実は困ったことなのです。
良輔氏が事情≠知らないことまで充分な調査をしないで多くの執筆をされたり、「証言」されていることの中に困ったこと≠ェあるのに、美術館関係者は、私の指摘にも耳を貸さず、誤り≠書き継いでいるという実態≠ェあるのです。
どういう状況での言葉かはわからないが、加藤唐九郎は「技は手なれているが、平凡」と評したと、わざわざ唐九郎氏の言葉を借りて決めつけ新兵衛氏を休和よりむしろ先に、人間国宝へ、という動きもあったらしい。≠ニ、あたかも新兵衛氏の「人間国宝」への「指定申請」に疑問をはさむとんでもない「朝日新聞」の記述≠ェ良輔氏の「取材」によって書かれたとしたら、しかも、良輔氏の「証言」だから、疑問を挟む余地はない≠ニ、「朝日新聞」によって言い放たれる現実をそのまま≠ノしてはおけないのです。
そもそも父=英男は、12代坂倉新兵衛氏を第一≠ニ認識しながらも、その新兵衛氏に匹敵するとみて、小山先生には、甲乙付けがたい≠ゥらとして、なんとしても「二人同時申請」という線≠譲らず努力していたのです。新兵衛を先に≠ニおっしゃったのは小山先生なのです。

 誰に小山先生を批判≠キる力があるというのでしょうか。
しかも、「朝日新聞西部本社学芸部長」だった源弘道氏は、私が上司として、対応してほしいと依頼した時は、「とにかく、文書にしてこい」として、まるで聞く耳≠持たず、「文書」にした時は、「今は学芸部長ではない」として逃げた?≠フですが、その時、「12代坂倉新兵衛が当時の第一人者だったことは常識だよ。白石君に教えてやれるものはいなかったのかなぁ。」と言っているのです。 

「休和物語」にはこうも書かれています
作家としての個性を備えた休和芸術が開花するのは、最後の十年間足らずにすぎない (「休和物語」214頁14・15行目)と。
休和氏の作品として「昭和53(1978)年[83歳]作品」を一応¥Iわりとみるとして、「昭和44年」以降の10年間≠フ作品が休和芸術で、それ以前の「作品」は未完成作品≠ニいうことになるのでしょうか。
もしそうなら、文化財保護委員会は、「休和芸術」が未完成≠フ段階で、「記録作成」の完了を指示したことになりますし、現在最高の権威者=林屋晴三氏が「昭和42年」の「作品」を代表作%Iに扱っておられることもおかしい≠ニいうことになります。
「朝日新聞」が、権威者=河野良輔氏≠ゥらの情報≠ノ基づいていることを「理由」に、事実≠確認する必要はないと断言し、美術館関係者の情報≠ェ誤っている≠ニいう現実のもと、それを修正したいがための、私のこの「HOMEPAGE」なのです。
それも、河野良輔氏本人に修正を求めてもダメ、榎本徹氏も、石ア泰之氏もダメで、「山口県文化振興課」も、「平成22年」の「萩美術館」の「萩焼資料館」の開館までに、「萩焼の歴史」を検討する計画はない(ということは、ほぼ確実に、誤ったまま≠ェ前提となっての開館となるはずです)という現実≠踏まえてのことなのです。

「昭和31年度」に「萩焼の二人」を同時に「重要無形文化財(人間国宝)」に「指定申請」した時は、時間的にも迫っており、しかも、2人=A「関係資料」は、それぞれ「萩市」、「長門市」にお願いしました。
河野良輔さんが、人間国宝認定に必要とされる詳細な技術記録作成のために力を尽くされたことは紛れもない事実です。とは「朝日新聞東京本社広報部」の言い分ですが、仕事として担当されただけであって、当然=A時間的な余裕≠フモトで、取り組まれたのですから、詳細な技術記録作成となるハズで、もし、そうでなかったら、困ったことなのです。

確かに、その時の、「指定申請資料」は、決して、十分なものとはいえないと思います(同じ「資料」を、所持しています)が、だからといって、それが「理由」で、「記録選択」に留まったのではありません。加藤土師萌、加藤唐九郎、宇野宗甕、今泉今右衛門らという実力者≠ェことごとく、「記録作成等の措置をすべき無形文化財」に留まったのです。
「人間国宝」の認定のために、三輪休和氏の「技術記録作成」が優れている≠アとに超したことはありませんが、それが「理由」で休和氏が「人間国宝」になられたのではありません。
次を見てください。
「昭和39年度」には、枠≠ノアキ≠ェあったのですから、私は、むしろ、もっと早くてもよかったと思っています。
それが「昭和45年」までかかったのは、枠≠埋める実力ある候補者≠ェあまりに多かったということだと思います。


── 「無形文化財(新・旧)」関係者についての一覧─────────────────────

 昭和29年度=4人荒川豊蔵(旧無形文化財)・石黒宗麿(旧無形文化財)+富本憲吉(新)・浜田庄司(新)]
 昭和30年度〜35年度=5人[上の4人+金重陶陽(旧無形文化財)]
 昭和36年度〜37年度=6人[上の5人+加藤土師萌(旧無形文化財で「記録選択」を経由)]
     ↑〈参考 34年12月 断り続けていた*k大路魯山人氏死去・〈参考〉35年12月 「記録選択」の新兵衛氏死去 〉
 昭和38年度=5人(38年6月富本氏死去「記録選択」の柿右衛門氏死去〉)
 昭和42年度=4人(42年11月陶陽氏死去)
               〈[参考]   昭和41年11月、河井寛次郎氏死去〉 
 昭和43年度〜44年度= 2人 (43年6月 石黒氏・9月 土師萌氏死去)
 昭和45年度=4人(休和氏(「記録選択」を経由)・藤原啓氏認定)
 昭和46年度〜50年度=4人+総合指定2団体(今右衛門窯・柿右衛門窯)=
 昭和51年度=上の4人+無庵氏認定(「記録選択」を経由)+上の2団体=

〈過去の枠≠ナあった6≠ェ7≠ノなるのに、「昭和46年」以後、5年≠ゥかっています。しかも、その増の一人≠ヘ、「昭和29年」に「記録選択」として認定された中里無庵氏です。
 今日$Uり返って「作品」を見ても、休和氏の後、「重要無形文化財(人間国宝)」認定までに、5年≠烽フ歳月・精進≠ェ必要だったとは思えず、枠∴ネ外の「理由」は、私には考えられません!

つまり、実力者≠ェひしめく世代≠ノ休和氏が属したということが、不運≠ナあったといえるか、それとも、よきライバル≠ェいてしあわせ≠ナあったと考えるかは、休和氏次第ですが、休和氏は、後者(つまり、しあわせ)と考えておられたと思われる「書簡」類が、父の手元に多く残っています。


なお、河野良輔氏と父=英男の「休和作品」に対する見方もいくぶん違っています。
「三輪休和遺作展」の会場で、林屋晴三氏、加藤唐九郎氏に三輪龍作(現 12代三輪休雪)氏と河野良輔氏による「パネルディスカッション」があり、その際の「自己紹介」の際、良輔氏が、唐九郎氏を前に、「唐九郎氏から面接ともいうべきものを受け、合格して、唐九郎氏にご馳走になった」と言われていましたので、良輔氏の作品評価≠ノは、いわば唐九郎氏の折り紙がついているのですが、あえて、ここにその評価≠フ相違を示しておきます。

「昭和31年」を中心にみる三輪休和氏の作品←ここをクリック≠オて下さい

「作品」、特に、「陶芸」は、後世にも残ります。そして、その評価は、必ずしも一致しませんし、一致する必要もありません。
ただ、その時ありようは、その時のものです。
父=英男が、どう評価し、小山先生が、どう評価されたかが、十数年後たまたま¥oくわし記録技術をまとめた人物によって疑問視されるいわれはないハズです。

昭和46(1971)年
吉賀大眉 日本芸術院賞受賞


昭和47(1972)年
●6月 萩焼が山口県指定無形文化財として指定され、その技術保持者として十一代三輪休雪、十三代坂田泥華、十四代坂倉新兵衛が認定を受ける。

(参考)
12代坂倉新兵衛氏の死去、三輪休和氏の「人間国宝」への昇格≠受けて、空白となった「山口県指定文化財萩焼保持者」として、3人が認可されたのですが、三輪休和氏は、「記録選択」という形の「国指定」だったのですから、もっと早く、追加認定すべきだったと父は言っていました。。
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〈註〉 「河野良輔」氏作成の「資料」の中には、萩焼が重要無形文化財として指定され、その技術保持者として、11代三輪休雪、13代坂田泥華、14代坂倉新兵衛が認定を受ける。≠ニいう単純ミスながら、とんでもないミスがあったようです。
私が「萩市」の「サイト」や、「萩焼まつり」の「萩焼のしおり」の中で、すぐにも、訂正≠キべきと御願い≠オたのは、このことです。
この「記述」では、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」が4人、存在することになってしまいます。

昭和50(1975)年
●3月 山口県指定無形文化財萩焼保持者として十一代坂高麗左衛門が追加認定を受ける。
●4月 十四代坂倉新兵衛没。

昭和51(1976)年
山口県教育委員会により萩焼古窯跡の発掘調査がはじめられ、55年まで継続する。

昭和53(1978)年
「伝統工芸新作展」を「日本工芸会山口県支部」として企画・開催。以後、毎年継続。

昭和56(1981)年
●1月 十一代坂高麗左衛門没。
●4月 山口県指定無形文化財萩焼保持者として十二代田原陶兵衛が追加認定を受ける。
●10月 三輪休和没。

●9月 波多野善蔵、「第28回日本伝統工芸展」において、「萩火色広口花入」が奨励賞を受ける。


(参考)

「第四回展」(三輪壽雪氏が節夫≠フ名で出展し、「授賞候補」になった「工芸展」)から設けられた「奨励賞」ですが、若手¢ホ象(但し、授賞候補″品を選ぶ段階では、若手≠ニいうことではなく、優秀作品≠選出、「優秀賞」が決まった後、「奨励賞」を選ぶ際、若手≠ニいうことが考慮されるというのが、もともとの方針でした)とはいえ、「日本伝統工芸展」での「山口県」関係者の初受賞≠ナ、その重み≠ゥらして、記さないのはおかしいと思います。

 (備考) 私が対象としていない「戦前」についての箇所に、「内国勧業博覧会」や「全国連合共進会」、「関西府県連合共進会」等での受賞の記載があるのに、この波多野氏の「工芸展」における受賞のことが記されていないのは明らかに≠ィかしいと言えます。


「写真」は、『伝統工芸30年の歩み』(昭和59年3月10日 朝日新聞西部本社企画部編集・発行)から「スキャナ」で取り込みました。



昭和57(1982)年
●11月 吉賀大眉が芸術院会員となる。
(参考)

「日本芸術院会員」と「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」について

「日本芸術院会員」と「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」については、本来≠ヘ、明確な違いのある「制度」≠ナ、
「芸術院会員」は、「芸術上の功績顕著な芸術家」が、過去において優れた業績を残した人々で、しかもその身分は「会員は終身とする」という終身制度ですが、
「人間国宝」は、現在進行形≠フ技を有する人に対してのもので、病気や老衰などで技や芸の発揮が出来なくなれば、返上≠キる建前(事実≠ニしては、その具体例はありません)になっています。

「 陶工・陶芸家」は、大まかに言えば、「日本工芸会(日本伝統工芸展)」を舞台、「日展」及びその関連の「展覧会」を舞台、その他という3つにほぼ、分類できます。

他分野では、「芸術院会員」と「人間国宝」の両方である方もあるのですが、
こと、「陶芸」分野に関してはこれまで≠ノ限って言えば
「日展系」の人たちが「芸術院会員」
「工芸会系」の人たちが「人間国宝」に認定されているようです。
ただ、今日、両者≠フ違いは、それほど大きなものではなくなっており、「山口県」の場合、「日展系」と言われていた人たちが、少なからず、「工芸会系」に移っており、かつ、現時点でも、複数≠フ方が、「山口県指定文化財f萩焼保持者」として、伝統工芸≠ニしての「萩焼」リード≠キる立場にあります。

昭和58(1983)年
●4月 萩焼が重要無形文化財に再指定され、十一代三輪休雪が技術保持者として認定を受ける。
山口県教育委員会により長門深川古窯跡の発掘調査始められ、63年まで継続する。


昭和63(1988)年
 日本工芸会山口支部が第1次韓国探訪調査を実施する。
●11月 山口県指定文化財萩焼保持者として、大和保男が追加認定を受ける。
 ↑ 〈註〉 「河野良輔」氏作成の「資料」の中には、この大和保男氏追加認定が、記入洩れのものがあったようです。

平成元(1989)年
第2次韓国探訪調査実施。

平成02(1990)年
 萩焼古窯(発掘調査報告書)が山口県教育委員会により刊行される。
●10月 吉賀大眉、「文化功労者」受章

平成03(1991)年
第3次韓国探訪調査実施。
●9月 十二代田原陶兵衛没。
●10月 吉賀大眉没。


平成05(1993)年
●10月 萩陶芸家協会設立。

平成09(1997)年
●6月 日本工芸会山口支部創立40周年記念として『40年のあゆみ』を刊行する。
(この中の「社団法人 日本工芸会山口支部 40年 のあゆみ」は、河野良輔氏によるものですが、残念ながら=A「疑問」のある箇所があります。)


平成12(2000)年

●10月 萩焼400年パリ展≠開催。(パリ日本文化会館)


平成13(2001)年

●7〜8月 山口きらら博会場で第24回伝統工芸新作展を開催。
●9月  「第48回 日本伝統工芸展」において、坂田慶造が、「日本工芸会会長賞」を「 萩剥離窯変大鉢」(はぎはくりようへんおおばち)で受賞する。


「写真」は、[坂田泥華窯]のサイトから引用(了承していただいています。)


(参考)

これほどの大きな賞≠ヘ、特記すべきできごとです。

残念なことに、慶造氏は、平成16年(2004)5月10日に亡くなっています。
昭和24年(1949)12月9日の生まれですから、あまりにも早く、惜しみてもあまりあるその死です。
なお、慶造氏の調査≠ノより、従来の[泥華]の代が、一代=A繰り下がることが判明したとして、[13代]を名乗っていた「山口県指定文化財」の[泥華]は、平成14年文献により14代に改める≠ニ「由来書」に記し、さらに、慶造氏が亡くなったため、平成16年、[(天耳庵)泥珠]を名乗ることにして、慶造氏に[15代坂田泥華]という号≠追贈しています。
(つまり、昭和25年〜平成14年の「13代 泥華」と「14代 泥華」、「泥珠」は同一人物ということです。なお、「坂田家」では、「善右エ門」を十代≠ニし、以後、繰り下げ、従来[12代]としていた「泥華」を「13代」として「由来書」に記しています。)


「左」の「写真」は、昭和54年10月15日発行の「萩焼伝統工芸父子展」の『図録』から転載しました。
「大作」を制作過程の慶造氏と、それを見守っておられる泥珠氏です。



平成14(2002)年
●3月 山口県指定無形文化財萩焼保持者として野坂康起、波多野善蔵が追加認定を受ける。

赤間硯山口県指定無形文化財として指定され、その技術保持者として堀尾信夫が認定を受ける。(←「萩焼略年譜」としては、疑問があるため、小文字≠ノしました)
金工山口県指定無形文化財として認定され、その技術保持者として山本 晃が認定を受ける。(←「萩焼略年譜」としては、疑問があるため、小文字≠ノしました)

平成18(2006)年
●3月 山口県指定無形文化財萩焼保持者として岡田裕が追加認定を受ける。
(岡田氏の「認定」は、平成17年ではなく、平成18年です。)

平成19(2007)年
日本工芸会山口支部創立50周年記念として『50年のあゆみ』を刊行する。
(『40周年のあゆみ』をモトにし、その後の10年≠付け加えれたものと思われますので、「上」のリンク≠ナは、その後の10年について、紹介しています。)








◆ 昭和二、三十年代≠フ「萩焼」の歩み≠ェエポックメーキング≠ノなったという「理由」 ◆


 なぜ、「昭和二、三十年代」の歩みエポックメーキング≠ニなったというのか?

それは「萩焼」のような地方窯・田舎窯には、
「県内」においては、あるいはごく一部≠フ方には評価≠ウれていても、中央≠ナの評価≠ノはほとんど関係がなかったのに、

@ 昭和25年制定「文化財保護法」に基づく、「無形文化財」制度という、いわば行政¢、の施策の一環として、表面的≠ノは、「昭和31年(既に述べているように、内面では=A既に「文化財保護法」制定当初≠ゥら、検討していました)に、
「萩焼」の12代坂倉新兵衛氏・三輪休和氏の「指定申請」がなされ、それが認められて、全国的≠ノ、「認知」されることになりました。

12代新兵衛氏、休和氏の「第三回 日本伝統工芸展」への「出展」を、公募だからだという事実≠ノ基づかない主張をし、その「入選」をきっかけ≠ノ、認められ、この「入選」こそ、三輪休和氏の出発点≠ナあるかのごとく記述する通説は、とんでもない=u説」です。
そもそも、「日本伝統工芸展」は、第一次≠フ「無形文化財」に認定された方々の技≠フ公開≠フ「場」として発足したものです。
それが、「無形文化財」制度の改定はあったものの、「日本工芸会」を主催として、「第二回」として、継続≠オていったのですが、当然≠フように、新「無形文化財」の方々の技≠フ公開≠フ「場」という性格≠煦き継いでいました。
従って、新「無形文化財」への「指定申請」とは深く′Wわっていたのです。

「休和様式」なる造語を作り、晩年の「作品」に価値があり、それまでは過程であるかのごとく述べていますが、
そもそも「昭和31年」当時から、傑出した=u技」があったのです。
多様化するためのがあり、さらなる発展をとげられた休和氏の場合は、それでもいいかも知れません。
また、「昭和31年」当時とは比較にならないほど、多様化し、発展されたことは、よろこばしいことです。
しかしながら、だからといって、を持てず、昭和35年に亡くなられた12代坂倉新兵衛氏をもって、過小評価するのはおかしいのです。
既に述べているように、小山先生から、「国指定」の候補たり得ると認めていただき、新兵衛氏の場合は、実現しなかったものの、「人間国宝」認定も考えてみるとまでおっしゃって下さっているのです。
「伝統工芸展」への出展は、「無形文化財」の「認定」のに、
その力=E技を、見せておくようにというお勧めで、「理事」である小山先生の推薦によって、「応募」されたのであり、
私は、公募であったならば、少なくとも、新兵衛氏は、年齢≠ゥらしても、応募≠ヘされなかったと思います。
はたまた、休和氏にしても、「理事」又は「正会員」の推せんが必要な、この「第三回工芸展」に、小山先生が勧めてくださらなかったら、「正会員」の方に御願いして出展されるということはなかったハズです。
「からひね会」のメンバーであり、「工芸会」の中心≠ニもいえる、荒川豊蔵氏、金重陶陽氏の方から、休和氏を推薦するので、応募してみるようにという勧めも、この時点では考えられないのです。

表面上は、「日本伝統工芸展」での「入選」が、「記録選択」よりもになっていますが、「萩焼」の二人=12代坂倉新兵衛氏と三輪休和氏が、小山先生に、評価していただけたのが、その出発点です。
ただ、最高権威者=¥ャ山先生のお一人≠フ「見解」であり、正式≠ノは、「審議会」での「記録選択」認定へと進むワケで、「伝統工芸展」での上位=u入選」も、影響したであろうことは間違いなく、ことさら述べる必要はないことなのですが、白石明彦氏が、「休和物語」において、とんでもないこと≠記述していることとて、やむをえないことと思います。

A 小山冨士夫先生を代表とする、「工芸会」理事という肩書≠フ、権威者≠ネいしは、限られた=u正会員」による推薦でないと応募すらできなかった「日本伝統工芸展」が、昭和35(1960)年以後、誰でも応募することができるようになった「日本伝統工芸展 第七回展」以後、
その「入選」のレベル≠フ「高さ」ゆえに、「伝統工芸展」の「入選」力≠フ認知となり、「工芸展」を通して、全国的≠ノ認められていくようになりました。
ただ、「萩焼」の場合は、「第七回展」=昭和35(1960)年での「入選」は、公募$ァ以前と同じ、12代坂倉新兵衛氏、三輪休和氏、三輪節夫氏の3人だけであり、公募≠ノよる「初出展・初入選」は、翌「第八回展」からでした。
つまり、坂田泥華(後、「14代」と名乗りかえられ、現在は「泥珠」と号しておられます)氏、14代坂倉新兵衛氏のお二人が、「初応募」・「初入選」だったのです。
壽雪氏及び泥珠氏、14代坂倉新兵衛氏の3人は、その力≠全国的≠ノ、高く評価され、
三輪休和氏が、「人間国宝」に認定された後を承けた形≠ナ、
昭和47(1972)年に、3人¢オって、「山口県指定無形文化財」の技術保持者として「認定」されていったことは、周知のことと思います。

この「日本伝統工芸展」が、公募となったことにより、力≠ウえあれば、着目される「場」用意≠ウれたといえます。
このことにより、極端な言い方をすれば、「日本伝統工芸展」での「入選」、他の「陶工・陶芸作家」と競う≠アとを意識≠オた作陶≠ヨと、大きく、舵を切ったとすらいえるようになったのです。
この「伝統工芸展」以外にも、多くの、視点を異にする各種「展覧会」が設けられたことと相俟って、まさに、花盛りともいう状況になったのです。

(但し、泥珠氏、14代新兵衛氏は、既に、意欲的な「作品」を作っておられました。
例えば、泥珠氏の場合、私は、「13代坂田泥華」を若くして襲名≠ウれてまもない頃の「作品」である「抹茶茶碗」について、父がハダカ≠ナ譲っていただいていたのですが、泥華襲名間もない頃の、優れた=u作品」として、「箱」に納めることにし、「箱書」をしていただくよう、父の代わりに、御願いに行っています。
泥華氏も、「箱書」してもよい「茶碗」だとされ、「箱書」してくださいました。)


「萩焼」に、なぜ、「昭和二十年代」が係わっているのかという方もあるかも知れません。
実は、「昭和二十年代」も、「萩焼」の歩み≠ノ大きな関わりがあるのです。

「伝統工芸」、中でも、「陶芸」が、敗戦の痛手≠フ中から、立ち直り、のみならず、未曾有の注目≠浴びることになったワケですが、
そのきっかけ≠ヘ、既に述べたように、昭和25年制定「文化財保護法」に、「無形文化財」制度が設けられたことです。

「太平洋戦争」「敗戦」に終わり、終戦といっても、「文化」的な面は、すぐには、改善しませんでした。
戦後みな苦しい生活をしましたね。日本の伝統文化、工芸に限らず・・・食べることで汲汲としていて、芸術どころではない。戦後、敗戦ということから文化国家というもの目指したものの、それはもう経文みたいなもので、実際文化国家を標榜したものの、今日食べるということでせい一杯で、伝統文化が絶滅してしまうのではないかという危惧があった・・・。≠ニ、杉原信彦氏は語っておられます。
かくして、この当初≠フ「無形文化財」制度には、条件≠ェ2ツ≠りました。
ツマリ、「特に価値の高いもので」あることは当然のこととして、今一つ=A「国が保護しなければ衰亡する虞のあるものについて」という条件があったのです。

ただ、この昭和25年頃は、最悪期≠ヘ脱していたこととて、都道府県によって、違いが生じました。
私の個人的な考えでは、既に、「衰亡≠フ虞」とは無縁≠ニなられた状況にあった方々が「指定」されたと思っています。
『小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁』の「富本憲吉氏のこと」〈394頁〉において、
昭和五、六年ごろ=A貧書生≠フ小山先生に「君五十銭貸してくれたまえ」といわれたことがある≠ニいうこと、
また、「石黒宗麿・人と作品」の中の「石黒さんの思い出と逸話」の中〈364頁7行目〜〉で、
石黒さんは生涯貧乏のどん底を悠々と闊歩してきた人だが、八瀬のあばらやで何とか恰好がついてのは、重要無形文化財の保持者に認定された昭和三十年ころからである。これは富本憲吉、濱田庄司、荒川豊蔵、金重陶陽さんなど皆同じで、それまではくらしがたたなかったようである。
という記述があります。

私どもの尊敬する小山先生の文とはいえ、この件に関する限りは疑問があります。
私は、小山先生のようである≠ニいう書き方に注目します。
石黒宗麿氏の場合は、俳優の勝新太郎氏や藤山寛美氏に借金≠ェ多くあったから貧しかった≠ニいえるかどうかと似たような点があるし、
なによりも、富本氏の場合は、『現代日本の陶芸 第3巻』 「月報 6」の「対談 重要無形文化財指定のころを語る」において、
「前東京国立近代美術館工芸課長  杉原信彦」氏と「東京国立博物館主任研究官  林屋晴三」氏とが、
林屋その時選定されていた方々は、焼物では志野、瀬戸黒ということで荒川豊蔵さん、天目釉ということで石黒宗麿さん、織部ということで加藤唐九郎さん、備前焼で金重陶陽さん、それだけですか?まだ富本憲吉さんとか・・・。
杉原富本さんは入っていませんね。国で保護しなくても衰亡の恐れがないから。・・・
とあります。
要するに、貧しい≠ゥ否かは、主観的なものだということでしょう。   

どのように「申請」されたのかはわかりませんが、当然、助成が必要≠ニいう形で「申請」されたでしょうから、小山先生もようである≠ニ書かれざるをえなかったのではないでしょうか。

山口県の「萩焼」、それは、とりもなおさず、12代坂倉新兵衛氏を指すのですが、条文を素直≠ノ受け取り、「申請」を見送りました。
他の都道府県の出方がわからなかったこととて、茶陶≠ニしての「萩焼」が、既に、最悪期≠脱しつつあったのに、衰亡≠オそうだという形≠ナ世間に℃け取られ、イメージダウンになっても困るといった杞憂もあったと父=英男は、私に言いました。

「佐賀県」は、12代 今泉今右衛門氏のみを「申請」していますが、12代 酒井田柿右衛門氏と技≠ノせよ、経済面≠ノせよ、さしたる違い≠ェあるとは思えません。
「佐賀県」の場合は、12代 今泉今右衛門氏の、旧「無形文化財」から出発≠オ、12代 今泉今右衛門氏・12代 酒井田柿右衛門氏・中里太郎右衛門(→無庵)氏が、揃って、「記録選択」、そして、その後、(総合指定)・(個人指定)・(保持団体認定)と、「無形文化財」すべてを、「指定・認定」されています。
(参考)  ここをクリック≠オてご覧ください。なお、これは、既に、「この頁の始めに設定≠オているもの」と、同じです。


要するに、「萩焼」は、形≠ニして現れるのは、「昭和31年」カラですが、実際≠ヘ、衰亡の虞≠ニいう条件≠フモトで、旧=u無形文化財」制度の時から、当然=A胎動しているワケですし、
「萩焼」からの「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への二人申請≠ノ踏み切る≠スめの、基準としての役割≠煢ハたしたのです。

最高権威者=&カ部技官 小山冨士夫先生の「来県調査」によって、全国にデビューしたのが「昭和31年」です。
『三輪休和遺作展図録』中の「展覧会ノート ─ 『窯日誌』にみる三輪休和」
という榎本徹氏の執筆にも、当然≠フように、
(「第二回日本伝統工芸展」)は重要無形文化財や無形文化財保持者だけでなく、推薦によって一般の作家も出品した。
昭和三○年代の一○年間は、日本伝統工芸展を軸に休和が世に出ていくという期間
のような疑問≠フある記述が幾つもあることを指摘しておきます。
当然、榎本氏には、ヘッドハンティング≠ウれるだけの実績≠ェあるわけですから、参考になる点も、多々あるのですが、榎本氏の「岐阜県現代陶芸美術館長」だという肩書≠ナもって、「萩焼」に関する「記述」のすべて≠ェ正しいとは思わないでほしいと思います。
口幅ったいようですが、こと、この「昭和二、三十年代の萩焼のあゆみ=vに関しては、河野良輔氏榎本徹氏の「記述」より
はるかに℃рェ父=英男に代わって記述していることの方が事実≠ノ基づいていると、断言≠オておきます。

そもそも、公的な立場≠ノいるものの「証言」ということで信頼≠キるのなら、
「山口県立美術館」が開館されるよりもはるか昔=A「山口県」の「文化財」を含めた「文化」一切を「任務」としていた「山口県教育庁社会教育課」において、「文化係長」・「課長補佐」として、直接係わった人間の「証言」や、個人的≠ネ「資料」(当然、「係」としての公的な=u資料」は、「課」に残っているハズです)は、信頼されていいハズなのに、
十余年′繧ノ、担当≠オた人物の、十分な「調査」なしに執筆したり、「証言」することの方が正しい≠ゥのごとく扱われている≠アとは異常≠ニしか言いようがありません。

(この河野良輔氏や榎本徹氏の、「伝統工芸展」と新兵衛氏・休和氏との関わり方≠フ事実誤認が、
白石氏が、新兵衛氏に対するとんでもない汚名・評価≠記述していることと無関係≠ニは思われません。)


次の段階=「日本伝統工芸展」を舞台≠ニして、全国的≠ノその力≠認められていくという段階についても、少しばかり「解説」しておきましょう。

旧=u無形文化財」の方たちの技≠フ公開≠フ「場」として、出発≠オた「日本伝統工芸展」が、
新「無形文化財」の方たちの技≠フ公開≠フ「場」となっただけでなく、「無形文化財」ではなくても、高度≠フ技を持つ、プライド≠る方たちの「日本工芸会」の人たちに、主体≠ェ移って、「第七回工芸展」以後レベル≠フ高い、公募展となっていきました。

次の段階≠ヘ、この「日本伝統工芸展」を通して=Aを認められた方々のことです。
無論、ここにも小山先生は、深く′Wわっておられます。  

ここにおいて、特別な存在三輪壽雪氏です。
壽雪氏は、「正会員」としての三輪休和氏の「推薦」という形で、「第四回工芸展」には、「応募」・「入選」され、
「山口支部」結成後は、「研究会員」としての「応募」、連続4回入選≠ノよって、昭和35年には、「正会員」となっておられます。

壽雪氏は、この「第四回日本伝統工芸展」において、「入選」したのみならず、この「回」から設けられた「奨励賞」の候補として、デビュー≠ウれたのです。

応募≠キることさえ、「理事」または「工芸会正会員」の推薦が必要であったにも係わらず、「陶芸部門」の場合
(註 「入選」は、「合格」≠ニ記されています)
「正会員」すら、56点=u出品」のうち、「合格数」は、24点
「支部会員」は、29点=u出品」のうち、「合格数」は、5点
「その他」は、26点=u出品」のうち、「合格数」は、5点
「合計」として、「出品数」=111点、「合格数」=34点、、率=30%
という状況のモトでのことなのです。
◆ この「第四回日本伝統工芸展」は、「日本工芸会報bP0」に、「記録」として、残っています。(この「日本工芸会報bP0」は、「山口県文書館」に寄贈済み)

それによると、「奨励賞」はも若手¢ホ象なのですが、まず、大賞候補≠ニして、5点を選び出し、まず、「大賞」を決め、次の「奨励賞」の選考に当たっては、若手≠ノ絞って、選考するということのようです。
従って、「奨励賞候補」というより、「大賞候補」といった方が適切かもしれませんが、酒井田柿右衛門氏が、「第二回工芸展」の受賞があるので、避けたいという雰囲気≠フ中でも、圧倒的≠ネ支持によって「受賞」したと「工芸会報」に記されているのですから、「奨励賞候補」としています。

この壽雪氏は別格≠ゥも知れませんが、「第八回工芸展」には、坂田泥珠氏、14代坂倉新兵衛氏が、「初応募」・「初入選」しておられます。

14代 新兵衛氏が、「12代」が「正会員」であり、高い評価を受けていたにもかかわらず、なぜか、公募となるまで(それも、初回ではなく、2回目の「第八回工芸展」から)、応募されていませんが、この「14代」13代 坂田泥珠氏11代 坂高麗左衛門11代 田原陶兵衛氏などの「入選」の頃までは、まだまだ敷居が高く「日本伝統工芸展」における「入選」そのもの≠ェ、評価を受けることに繋がっていたのです。
(参考=「陶芸」部門の「出品者数」)
〈「第7回展〈(昭和35(1960)年〉」=68人  「第9回展〈(昭和37(1962)年〉」=115人  「第15回展〈(昭和43(1968)年〉」=225人  
「第19回展〈(昭和47(1972)年〉」=401人 
「第21回展〈(昭和49(1974)年〉」=507人・・・・
「第32回展〈(昭和60(19)年〉」=1047人・・・・・〉
 ↑『第三十六回 日本伝統工芸展 図録』の巻末の「出品及入選概況」より

その後も、「日本伝統工芸展」での「入選」が、高い評価≠ノ繋がっていることは間違いありません。
他の「支部」より、いささか遅れますが、「山口支部」としての「新作展」開催がリード≠オて、「萩焼」を中心に、「山口県」の「工芸」が、多数=A「日本伝統工芸展」において、「入選」をして行きます。

空前の陶芸ブームの際は、「萩焼」は、昭和45(19470)年に、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」となっていた三輪休和氏存在が、「萩焼」全体≠フイメージ<Aップにも繋がって、陶芸ブーム≠フただ中に位置することになったのです。

幅広い♂桾蜴メになったとはいえ、それでも、入選率が「2割」前後という相変わらず≠フ「狭き門」のモト、競う「日本伝統工芸展」、
高度成長=E大量生産という時代相≠背景として、
狭い意味の=u用」から離れ、「陶芸」のの部分が拡大≠ウれ、
「芸術作品・美術品」として、鑑賞≠キる対象という「作品」(少数≠フ個性的な=u作品」=当然=A「高額」となります)が受け入れられる時代≠ニなり、歩留まりを気にすることなく、意欲的な=u作品」を次々と産んでいくことになったのです。


「昭和35年12月」に亡くなられ、「日本伝統工芸展」というで、意欲的な作品≠ナ競う≠スめの「時」が持てなかった12代坂倉新兵衛氏をして、
どういう流れの中で、加藤唐九郎氏が言ったのかはわかりませんが、平凡などというのは、おかしい≠ニ思います。 
唐九郎氏にしても、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」以上の評価がされる「作品」が生まれるようになったのは、「永仁の壺」事件で、一切≠フ公的なもの≠「辞退」されて以後のことだったハズです。
(加藤唐九郎氏は、「人間国宝」になられていませんが、北大路魯山人氏・河井寛次郎氏とともに、「人間国宝」の方々に遜色≠フない方だったと思います。) なお、この「日本伝統工芸展」以外にも、様々な登竜門が出現=A技≠フ修練・造形力≠ニいった点でいささか不安≠ェ感じられる「作家」でさえも、着目される「場」ができており、そういった「展覧会」の影響≠熈当然=Aありますが。


その主たる活動≠ヘ、「昭和二、三十年代」以後のことになりますが、この「日本伝統工芸展」が一つのきっかけ≠ニなって、大きく、「作風」を変えられ、伝統窯≠フ世界≠ノ、芸術≠持ち込む先駆となられ、かつ、花開かせた代表%Iな方として、三輪壽雪氏のことは、長く、「萩焼の歴史」の中に、刻むべきでしょう。 
既に、「長男」の龍作氏が、前衛陶芸家として、名をなしておられたわけですが、壽雪氏ご自身の中に、芸術≠ニしての「陶芸」という思いは、早い時期≠ゥら、おありになったのであろうと、推測されます。




三輪寿雪氏の「作品」  「左」=「第四回日本伝統工芸展」の「平鉢セット」    「右」=「鬼萩茶碗」

この「鬼萩茶碗」は、茶を啜る≠ノは適さないと思いますが、壽雪氏自身、『図説』の中の「対談」において、次のように語られたとされています。
「あの評論家の林屋晴三さんが言うた。日本に一人ぐらい、茶を飲めん茶碗を作る人間がおってもいいじゃないかと。茶が飲めない茶碗があってもいいんじゃないかと言った。確かにこの茶碗は茶が飲めたもんじゃない(笑)。」
と。

「茶陶をオブジェ≠ノ高めた陶芸家だ」として、三輪壽雪氏を、テレビ「なんでも鑑定団」において、中島誠之助氏が「解説」しておられましたが、この三輪壽雪氏以後は、どんな「作品」≠ェでてきても不思議≠ナはありません。
なお、蛇足≠ネがら、この「テレビ」をご覧になっ方もおられましょうが、「鑑定」を求めた女性は、自己評価額≠、「箱代の3000円」程度だと言い、「茶碗」の評価は、0≠ノ近かったのです。それを、中島氏が、オブジェ♂]々と「解説」し、その「評価額」は、200万円と言い、会場を沸かせたのです。
(たまたま、留守にしたため、「ビデオ録画」しており、今も、消さずに残しています。)
実物≠見ていないため、強くは言えないのですが、三輪壽雪氏の「作品」としては、あまりに安い=u評価額」です。
(ただ、「美術品」の価格≠ヘ、購入、売却で、かなりの差≠ェあることは事実≠ナす。私があまりに安い≠ニいうのは、某有名百貨店≠フ「個展」での価格≠ニ比較してのことです。)
ただ、言えることは、茶≠フ呑めない「茶碗」は、「陶芸」に関心≠フない人にとって、用≠なさないタメ価値を認めないということだと言えそうです。
三輪壽雪氏の、こうした茶≠フ呑めない「茶碗」は、経済的≠ノ豊かになり、優れた趣味人≠フいる「時代」を背景≠ニして、生まれた芸術だということです。ツマリ、時代環境芸術は「不可分≠フ関係」にあるということです。


瓦師に個展などなし千草咲く          頼人
これは、私の兄の「句」ですが、当然=A実用品≠アそ「陶芸」だとして、ゴロハチ茶碗を作り続けている「陶工」も存在します。
しかし、これらの職人は、栄誉とは無縁ですし、「芸術家」というわけにはいかないでしょう。


要するに、この「昭和二、三十年代」が、「萩焼」に限らず、「工芸史」において、注目≠キべきは、
があっても、認められるとは限らない時代から、競う=u場」が設けられ=A多様な作品≠ェ生み出される素地≠ェ作り上げられたということです。
「日本伝統工芸展」の応募者≠ェ増大し、「合格率」こそ、「20%」未満がほとんどであるように、相変わらず高くはない(「第四回展」の時は、「正会員」=43%弱、「支部会員・推薦による応募」=18%強、全体では30%)ものの、自ず≠ニ差≠ェあって、「入選」数は、格段に¢スくなりました。
それに伴って、多様な=u作品」も生まれる必然性≠ェできたのです。

(参考=「陶芸」部門の「入選数」)
〈「第7回展」=53点  「第9回展」=55点  「第15回展」=80点  「第19回展」=146点 「第21回展」=156点・・・・「第32回展」=271点・・・・・〉

そして、こうしたことは、必然的に、見栄えのする=u大型化」、個性≠際だたせるための意匠性≠ェ重んじられるようになったことと繋がっているハズです。
しかも、今日、「日本伝統工芸展」に限らず、多くの=A様々な=u展覧会」が生まれています。

こうして、狭い意味の=u実用」にこだわることなく、様々な「展覧会」によって、多様な価値基準≠フモト、「作品」が評価されるという「時代」を背景≠ノ、大きく変化した出発点≠ェ、この「昭和二、三十年代」だと、私は思のです。

三輪壽雪氏が、「茶を飲めん茶碗≠ナもいい。自分の思うような作品を作るつもりだ。」という「手紙」を、父=英男にくださっている「昭和43年」以降、伝統工芸≠ニしての「萩焼」は、新しい時代≠迎えたと言ってよいかも知れません。
もはや、どのような「作品」がでてきても驚きません。

ただ、そこに至るまでに、狭い意味の=u実用」の中で精進された三輪休和氏(もっとも、晩年には、実用≠離れられたかに思える「作品」もあります)、当初≠ヘ実用≠目指され、やがて、用≠離れ、「茶陶」にオブジェ≠フような「作品」を生み出された三輪壽雪氏が、ある種のカルチャーショックを乗り越えるべく、励んでこられたという事実≠ニしての歩みを「記録」として残すのは、その歩み≠伝える立場≠ノある者の責務ではないでしょうか。

そのことが正しく伝わっていない現状≠ノあって、及ばずながら、努力しているつもりなのです。

なお、公募$ァの始まった年=昭和35年に、12代坂倉新兵衛氏が亡くなられ、
その翌年の「昭和36年」の「伝統工芸展」でデビュー≠ウれ、「昭和三十年代」のほぼ終わる、「昭和39年」には、「第八回展」からの連続「入選」によって、坂田泥珠氏が、「工芸会正会員」に推挙され、「工芸展」を通しての、全国的に認められた=u萩焼」の次の世代≠フ旗手≠ニして位置づけられるのも、巡り合わせ≠ナしょうか。

要するに、「陶芸」の世界は、
「文化財保護法」における「無形文化財」制度をきっかけとし、
その技≠フ公開≠フ「場」として出発≠オた「日本伝統工芸展」が公募%Wへと変化・発展したことによって
「昭和・平成」の世を、あらゆる点で、未曾有の繁栄を見せることになったということだと思います。
そして、その典型%Iな「歩み」をしたのが、「山口県」の「萩焼」だということになると思います。


その意味でも、事実≠ノ基づく「萩焼」の「歴史」を、後世≠ノ伝えることは、「工芸史」においても、重要なことだと思うのです。  




◆ 「萩美術館」 の[HOME PAGE]に、
学芸課長=石ア泰之氏が、石ア氏の「調査・研究」に基づき、
「萩焼の歴史」を「リンク」によって、示していただける「可能性」ができたこと


(この期待はむなしい≠烽フであったことを[平成24年7月11日]に確認しました。 )



「日本工芸会 山口支部」という「ホームページ」があり、その「ページ」には、山口県教育庁社会教育・文化財課に「事務局」があるようになっているのですが、
その「ホームページ」に、この「ページ」で、私が「底本」とした「萩焼略年譜」が「リンク設定」してあります。

「萩焼略年譜」「底本」としたのは、多くの方≠ェ見ておられるであろうという推測≠フモトで、私が、どこが「疑問」なり、「加筆」すべきと、考えているかを示すことが効果的≠ニ思うからです。
[平成21年5月23日]迄は、「萩市」の「サイト」を「底本」としていたのも、同じ「理由」(萩焼≠ニいう、[Google]・[Yahoo]の「検索」のしょっぱなに出ていることが多く、当然=A多くの方≠ェ見られていると推測。私の萩焼(はぎやき)も、「平成22年後半」以後、[Google]においては、しばしばしょっぱな≠ノ出していただいており、その時≠ヘ、「アクセス」数が飛躍的に¢スくなります。)からです。
なお、上記しているように
(「昭和」or「平成」という年において「黒字」は「萩焼略年譜」に当初≠ゥらあるもの、「赤字」の箇所は、私の考えでは、是非、「記す」べき事項の加筆・修正箇所です。
また「青字」の箇所は、(参考)として、「記す」のが適当ではと、思う部分です。
なお、枠内は、(参考)として、私が「解説」なり、「注記」したものですので、「色字」は、単に=A知っていただきたいタメで、「上」の「区別」はありません。。)
と、いうような手を加えています。


この「萩焼略年譜」の中にある、
平成17年 山口県指定無形文化財萩焼保持者として岡田 裕が追加認定を受ける。 の 「平成17年」が 平成18年「誤り」であり、
さらには、当然=A「記載」されるはずの吉賀大眉氏
[昭和57(1982)年]の「芸術院会員」
[平成2(1990)年]の「文化功労者」
が、記載されていないなどについて、「加筆・訂正」を求めたのですが、「社会教育・文化財課」の担当しているのは「事務」ダケで、「ホームページ」については、「日本工芸会山口支部」の岡田 裕氏(幹事長)に言ってほしいとのことでした。
そこで、岡田氏に「電話」すると、「公的な資料≠ナないと、「訂正」などはできない」と言います。(従って、岡田氏本人≠フことも、現在に至るも、そのママ≠ナす。)
なお、大眉氏は、「日本工芸会」に属しておられないから、省かれているのかもしれませんが、それなら、「日本工芸会」発足=u以前」のことが記されているのがおかしい≠ニいうことになると思います。
「略年譜」とはいえ、「萩焼」を語るなら大眉氏を省くことはできないと、私は思います。

「萩市」の「ホームページ」の場合も、「既述」のように確たる資料≠ニ思われるものに拠っているため、部分的≠ノ訂正することは難しいからとして、「萩焼年表」の「部分」そのもの≠ェ削除≠ウれました。

「誤り」や落ち≠ェあることは、調べさえすれば=Aはっきり≠キるのに、「訂正」・「加筆」がされないというのが現実なのです。
早急≠ノ、「公的」な「立場」にある人物 or 「県立美術館」の「刊行物」によって、「歴史的な事実=vに基づく、正しい=u萩焼の歩み」が、示されることが必要です。
この「萩焼略年譜」といい、「萩焼 - Wikipedia」の「記述」といい、おかしい♂モ所の「訂正」ないしは、正しい=u萩焼の歴史」の提示公的な=u地位」にある「人物」に「要請」をせざるを得ないということなのです。

さて、「山口県立美術館館長」としての河野良輔氏の公的≠ネ「資料」を「訂正」するとなると、「陶芸」関係が、新たに=u山口県立萩美術館」に移動≠オたこととて「山口県立萩美術館」という公的な=u地位」にある石ア泰之氏に、正しい=u萩焼の歴史」を作成してもらわざるを得ないということなのです。

私としては、私の記す「萩焼の歴史」が、現時点≠ノおいては、一番、事実≠ノ近いと「確信」しているのですが、せいぜい、こうして、「ホームページ」で、皆さんに、「資料」の提示込みで、提供するということなのです。(もっとも、「山口県」以外では、既に=A私の「資料」を参考にしていただいています。)



石ア泰之氏宛に、「メール」で、「御願い」したものの、これといった「対応」がないため、[平成21年5月1日]に、この「ページ」で、「萩焼の歴史」の見直し≠フ「必要性」を呼び掛け=Aさらに、[平成21年5月12日(金)]、「萩市役所」を訪れ、上記のように 確たる資料≠ニ思われるものに拠っているため、部分的≠ノ訂正することは難しいから、「萩焼年表」そのものを「削除」すると言われたため、アポ≠ネしで、「萩市役所」近く≠ノある、「萩美術館」を訪ね、上田秀夫館長に面会を求めたところ、上田館長は、尾崎 裕副館長兼総務課長と同席されて、話を聞いていただけました。
その際、直接=u萩焼」を担当する石ア泰之課長が不在≠ナあったため、平成21年7月21日(火)尾崎副館長の配慮で、2時間≠ニいう設定で、尾崎副館長、石ア泰之氏の3人で、話し合う機会を設けていただけました。
ただ、約束していたその日は、前日の20日から降り続く雨に加え、これまで経験したことのないような、集中豪雨の日となっており、「国道」が、まるで川≠フようになっている箇所がそれこそ、何カ所となくあっただけでなく、土砂崩れ、木々の倒壊で、「萩」近くまで行きながらも、私の3台前の車から、「通行止め」となり、やむなく、「電話」で伺えないと連絡し、引き返して、途中休憩をしていると、「萩方面」から、「観光バス」がやってきていたため、再度、「萩」に向かうという、大変な状態≠ナした。
忙しい中、再び、このような機会を設けていただけることは、今後、期待しにくいこととて、なんとかして、行きたいと思っていました。
萩には、正午過ぎに到着し、約束の「午後1時」迄の時間を「萩美術館」の中を見てまわりました。何度も来ているのですが、「展示物」は、ほとんどが初めて目にするものでした。
インターネット≠利用して、話を進めようと思っていたのですが、公的機関≠ナは、外部≠フ人間に、自由≠ノ「パソコン」を使用させることは難しいらしく、そのこともあって、話し合いの進み方は、正直、能率的なものではありませんでしたが、萩地方もまた、朝方まで、大雨であったため、「萩美術館」を訪れる人は、この日は極端に少なく、そのため、4時間強、応対していただくことができ、それなり≠フ成果≠ェあったと思っています。

つまり、石ア氏が、「萩美術館」として「提示」する「萩焼の歴史」を、ご自身で、「調査・研究」してみようと言ってくださり、必要と思えば、私の「資料」を見ることもあるだろうということになったからです。

ここに記した成果は、まったくの期待はずれでした。
[平成24年7月11日]現在=Aなんら、進展させていないのみならず、従来≠フ誤り≠ノ添った「認識」で、展開していることを知りました。
ただ、当時≠フ「副館長」尾崎 裕氏の配慮があったことは、記録に留めたいと思っています。


そもそも、河野良輔氏こそ、「山口県長門市」出身ですが、「萩焼」の「昭和二、三十年代」についての「調査」・「資料の扱い」には「疑問」があるのに加え、
榎本 徹氏は、神奈川県横須賀市の出身で、しかも、「昭和21(1946)年生まれ」とあって、「私」より「年下」、東京教育大学(現 筑波大学)卒業、「出版社」勤務を経て、「山口県立美術館」開設に伴って着任されたワケで、「萩焼」の「昭和二、三十年代」に関しては、その「著作」に「問題」があることは、「指摘」済みですし、
石ア泰之氏も、愛媛県松山市の出身で、「昭和35(1960)年生まれ」と若い≠アともあって、その「履歴」=[筑波大学芸術専門学群芸術学専攻卒業→東京都立高校教諭→山口県教育庁文化課勤務→山口県立萩美術館・浦上記念館]においては、「萩焼」の「昭和二、三十年代」についての「知識」は、権威≠るとされている方々の「出版物」に拠られるハズで、それは「私」に言わせれば、「問題・疑問」のある引用ということですから、私の「問題提起」に対して、「調査・研究」してみよう」 と言ってもらえたことは、ありがたい≠アとなのです。
「歴史」が「歴史」であるタメには、事実≠見つめる必要があるハズです。
手始めに=A「山口県」・「萩焼」以外≠フ、全国的≠ネ「資料」から、是非=A「再確認・検討」してほしいと思っています。
さすれば、既に「山口県文書館」に寄贈済みの「資料」
や、私の手元にある「資料」にも、目を通さざるをえないと「確信」しています。



午後5時過ぎに、「萩美術館」を出て帰路、「防府」に向けて車を走らせたのですが、既に雨はあがっていたものの、道は、まだまだ後遺症≠ェ残っていましたが、「防府」の集中の豪雨は、土石流を起こし、「カーラジオ」で、私の通ってきた「国道」が、時間的に見て、私が通過して数十分アトに、十数台の車を呑み込んだとのことで、お気の毒なことに、亡くなられた方もおられたと、「ニュース」が報じていました。
ただ、まもなく「防府」になるという、「佐波山トンネル」の直前≠ワでは、比較的∞スムーズ≠ノ進んでいたのですが、車を止められ、「防府」へは、「小郡」経由でないと帰れない、「大道」経由の抜け道≠焉Aダメだと告げられました。

そのため、かなりの距離を引き返すことになったのみならず、道路は渋滞≠ノつぐ渋滞≠ナ、家に帰り着いたのは、午後11時少し前というありさま、通常の「1時間半」が、4倍≠フ、6時間近くかかったことになります。(「高速道路」も、「山口南」〜「徳山東」は、通行止めになっていました。)
「テレビ」をつけると、どのテレビ局も、初っぱなに、私の住む「防府」における災害の「ニュース」を流し、生々しい被害の模様を伝えました。「カーラジオ」を聞き、想像していた以上で、かつ、私が通り過ぎてまもない時のことだったこととて、とても人ごとではありませんでした。
「国道262号線」の土石流≠フあと、特養ホームにも、直撃し、大変な被害をもたらしていました。

〈平成21年7月22日の「新聞」より〉
『朝日新聞』=山口の土砂災害で死亡5人、不明11人 消防車流される
『毎日新聞』=豪雨:山口で5人死亡、11人不明 特養ホームには土石流//豪雨:「高さ5mの鉄砲水」、家屋次々に浸水…山口・防府
『読売新聞』=土砂「まるで津波」、特養ホームの昼食時襲う//中国地方で大雨、土砂崩れで6人死亡・不明11人
『中国新聞』=防府で豪雨、5人死亡 特養・国道に土石流


平成21年7月21日という日は、このようにとんでもない、不幸な日≠ナしたが、ただ、私にとっては、多少は意味ある%であったと思っています。

(備考=その1)
今年の異常気象≠ヘ、特にひどく、一週間経過してもなお、「防府」近辺には大雨が降り続き、各地に大きな被害をもたらしています。
「国道262号」が復旧するには、一ヶ月以上はかかるといわれています。

(備考=その2)
(この「豪雨災害」以後も、日本各地に、地震・豪雨がありました。この「平成21年」は、記録として残りそうな「年」です。
なお、平成21年9月6日(日)、「262号線」は、「仮橋」によって、開通しました。)



── (参考)   [「山口新聞」(2009年1月6日掲載記事)]─────────────────────────────────

陶芸文化を発信 県立萩美術館に専用展示施設
2010年秋に開館する県立萩美術館・浦上記念館の「陶芸展示施設」完成予想図
四百年の歴史と伝統を誇る「萩焼」を中心に、陶芸作品を展示する山口県の「陶芸展示施設」が萩市平安古の県立萩美術館・浦上記念館(上田秀夫館長)の隣接地に建設されている。工事は昨年十月に始まり、二〇一〇年秋の開館を目指している。
同施設は、浮世絵と東洋陶器の美術館として親しまれている同美術館に、萩焼発祥の地という地域特性を生かした“陶芸美術館”としての機能を付与し、山口県が誇る陶芸文化の継承とそれを広く全国に発信することが目的。
計画によると、建物は鉄筋コンクリートおよび鉄骨鉄筋コンクリート造りなどで地上二階、地下一階建て。延べ床面積は二千四百三十九平方b。隣の萩美術館・浦上記念館の「別館」として位置づけられ、本館の「蔵」というイメージで建物デザインが調和されている。本館とは藍場川をはさんで渡り廊下で結ばれる。総事業費は約二十億円。
展示室は一階と二階にあり、延べ面積は約八百平方b。上田館長は「本館二階の展示室に匹敵する広さがあり、現代陶芸の大型オブジェの展示にも対応できる」という。中央が吹き抜け構造で、天井の高さは約十b。吹き抜けに沿ってゆるやかなスロープがあり、上下に移動しながらいろいろな角度から鑑賞できる。内装には県産のヒノキなどが使われている。
萩焼や現代陶芸などの収集・展示はこれまで県立博物館や県立美術館などで行われてきたが、その役割が陶芸展示施設に移管される。県立美術館が保管している約五百点の陶芸作品をはじめ、〇八年五月に県に寄贈された約二百四十点の「染野コレクション」などが展示、公開されることになる。




● この「ページ」に「リンク」設定してあるものの一覧←「項目」別に「整理」しなおしています。


▼ 流布≠オている「萩焼の歴史」におかしい≠ニころがあるということについて

『萩焼人国記』の中の「休和物語」
 ↑ この「休和物語」なるものが、一流紙≠ニされている「朝日新聞」の記者が、山口県立美術館長=E専門学芸員=E山口県埋蔵文化財センターの次長≠ニいった公的な立場≠ノある人達の「全面的な協力」を受け 、更には、記者自身が、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った≠ニまで「あとがき」に書いて出版された書籍でありながら、とんでもない間違いが少ないのに、その「訂正」を関係者に働きかけても「対応」されないことが、私の「ホームページ」を立ち上げた「理由」です。

昭和二、三十年代の萩焼史≠フ再検討を求めて[山口県地方史研究大会]の発表要旨

榎本徹氏の「萩焼」記述
↑ 現在、「萩焼」の記述について、もっとも権威≠ェあるとされる榎本徹氏にも問題点があることを示した「ページ」です。

「山口県文化振興課」←公的≠ネ立場での「調べ直し」をお願いしたところ、当初≠ヘ「期待」を持たせる「回答」をもらっていたのですが・・・。

「萩市」の以前≠フ「萩焼の歴史」←現在は、「アップ」されていません。

石ア泰之氏の「萩焼」記述の問題点
↑ なお、石ア氏とは関係ありませんが、ここに触れている『萩焼の造形美 人間国宝 三輪壽雪の世界』「三輪壽雪インタビュー」(聞き手=外館和子氏)の中には、なぜか、事実≠ニ異なることが記されています。

『日本工芸会山口支部 40年のあゆみ』の「紹介」と「問題点」の指摘
『日本工芸会山口支部 50年のあゆみ』の「紹介」と「問題点」の指摘
↑ 『40年のあゆみ』における誤り≠ェ、『50年のあゆみ』においても、そっくり踏襲されています。

「美術館員」にも問題あり


▼ 事実≠ェどうであったかを示す「データ」

「工藝技術保存資格者」の一覧&私の気づき
↑旧「無形文化財」・「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」制度以前の「技の認定」ともいえるものですが、困ったことに、「萩焼」に関しては、間違い≠ェ流布≠オています。

「文化財保護法」の条文

「文化財保護法」の中の公開≠フ条文

対談 重要無形文化財指定のころを語る

「第一回 無形文化財 日本伝統工芸展」の『図録』
↑ 「技」とともに衰亡の虞≠フあることを「条件」とした当初≠フ「無形文化財」ですが、傑出した「技」の公開であり、「制度」の改正を促す一因ともなりました。

低かった「萩焼」の評価=小山冨士夫先生の「古萩の歴史と特質」
↑ この小山先生の「一文」が、誤読されて、逆≠フ「証拠」であるがごとき扱い≠ェされているのが実態≠ナす。

中ノ堂一信氏の「技の継承=重要無形文化財の保持者たち」


▼ 事実≠ニしての「萩焼の歴史」を、父=英男の残した「資料」によって見る

「萩焼」からの同時二人指定申請≠フこと

小山先生の自費で≠ニいう「書簡」

小山先生の「来県調査」後の「書簡」

小山先生の評価≠ニアドバイス≠フこと
 ↑ 小山先生の「萩焼」認知≠ニともに歩み始めた「萩焼」であるということ。

プール≠ニいう考え方

「伝統工芸展」への応募≠ノ必要だった「推薦」

「第三回 日本伝統工芸展」の『図録』

三輪休和氏からの「はがき」

三輪休和氏からの「ハガキ」=天下の志野茶碗と競いたい
 ↑ 「後援会」結成の意味

「工芸会」の「山口支部」結成のこと←特異≠ネ「支部」であったこと

12代坂倉新兵衛氏の「追悼」

三輪休和氏の「作品」




▼ 「参考」となることども

「重要無形文化財」
保持者としての「個人認定 俗称「人間国宝)」/「保持団体」としての認定/「総合認定」]について
─ [参考] 「助成の措置を講ずべき無形文化財」・「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」─
↑ 一部≠フこととはいえ、権威≠るハズの「情報」にも疑問点≠ェあります。
ただ、ありがたい≠アとに、権威≠る方々・「機関」に修正≠してもらえました。


「萩焼」の起こりについて
↑ 小山冨士夫先生・佐藤進三氏の説を紹介するとともに、河野良輔氏の「萩焼略年譜」の昭和18年以前を記しています。
これについては、私には、「確信」できる「資料」がありませんので、権威者≠フ方々の「記述」を紹介しています。 

「手作り幻想」─川田 順造 『サバンナの博物誌』─より
↑ 「大量生産」とともに、「生活用品」が「作品・芸術品」となっていくことが述べられています。









事実≠踏まえた「萩焼の歴史」を! ─ 『山口県史』への期待 ─ 

現在、見ていただいている「ページ」は、既に、[8月15日]現在でも、
[28857={14065=42922]と<多くの「アクセス」をいただいていますが、
「ホームページ」は、変更≠ェ容易なタメ、「資料」としては扱ってもらえない傾向≠ェある
ということですので、
『萩焼・戸田焼』という「出版」用にした「ページ」です。
既に、「8月1日」に、「テスト製本」をし、現在、正式の製本に掛かっていますので、
まもなく、幾つかの=u図書館」において、御覧頂けるハズです。
この「ページ」は、今後も、アップを継続しますので、
単に、「ホームページ」において、仮≠ノ述べられているということではなく
全国の権威者≠自称される方々に向けての「正式」の「提言」である
と思って、見ていただくことを御願いします。
─ 『山口県史』への期待 ─
としているのは、「美術館」関係者の権威≠謔閧焉A更に権威≠ェある『山口県史』において、「対応」していだくことを願ってのことだとすることで、
是非、『山口県史』において、「萩焼」を取り上げていただくことを願うとともに、
ここに述べることが、「歴史」を述べるせ「前提」として、事実≠語っている
ということをアピールしているつもりです。

 他の箇所も同様ですが、クリック≠キると、「アクセス」できます。








これまで使わせていただいていた「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、28857≠ナしたが、[平成23年2月18日午前6時]から、別≠フ「カウント」を使わせていただくこととします。
従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります。