● 「 萩 焼 」
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河野良輔氏が、「萩焼」に関する「歴史」として、最後≠ノまとめられたと思われる 「萩焼略年譜」(河野良輔氏は、平成20年2月没)を、 直接的な=u資料」や裏付け=u調査」によって、 より正しいものにできると確信≠ナきる 昭和18年〜平成17年分 について、加筆≠キることで、 「誰」も or 「どこ」も意識≠オていないように思われる エポックメーキング≠ニなった昭和二、三十年代の「萩焼」の事実 ≠ニしての歩み を明らかに≠キるきっかけとなり、後世に正しく伝わるためのさらなる「調査」がなされることを願っています (なお、ちょっと調べさえすれば∞誰にもわかる=u歴史的な事象=vについてのことですから、「著作権」のような問題≠ヘないと、 私としては思っているのですが・・・。もし、「問題」があれば、ご指摘下さるよう、お願いいたします。) |
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●(昭和二、三十年代の「萩焼」をエポックメーキング≠ネ歩み≠したとみる「理由」 )
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「萩焼」の あ ゆ み ・明治元(1868)年=「明治維新」となり、「御用窯」を解かれる。 ・昭和16(1941)年=第二次世界大戦(太平洋戦争)始まる。 ・昭和18(1943)年=「商工省」による「工藝技術保存資格者」の認定 ・昭和20(1945)年=第二次世界大戦(太平洋戦争)終結 ・昭和23(1948)年=3月 12代坂倉新兵衛、「萩焼美術陶芸協会」を創立し、会長に任ぜられる。 ・昭和25(1950)年=「文化財保護法」が制定され、「無形文化財」の保護が初めて、設けられる。 ・昭和29(1954)年 3月 「無形文化財」に認定された公開≠フ場として、「第一回 無形文化財 日本伝統工芸展」が開催される。
・昭和31(1956)年
5月 「文化財保護法」の 一部が改正され、真に∞実力≠フみを条件≠ニする「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の制度が設けられる。 「実力」のみ≠対象とした新「無形文化財」制度に「萩焼」から二人≠「指定申請」することになり、
・昭和32(1957)年
6月 文部技官 小山冨士夫の「来県調査」 十二代坂倉新兵衛氏・三輪休和両氏共に、小山によって、候補たり得るとして認められ、 小山の「推薦」及び、先に、「県指定」をという「助言」により、
8月 山口県指定無形文化財萩焼保持者として、十二代坂倉新兵衛、三輪休和が認定される。
また、小山の「指定」前に、「萩焼」の力≠披露≠オておくようにとして、「理事」または「正会員」の推薦により、出展・応募が可能になった「第三回伝統工芸展」に「理事」である小山の推薦で、
10月 「第三回伝統工芸展」に、12代坂倉新兵衛、三輪休和が2作品ずつ初出展し、2作品とも入選したのみならず、両者共、高い評価を受け、『図録』の3頁目に、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の石黒宗麿の「作品」とともに、掲載される。
11月 12代坂倉新兵衛、東京「高島屋」で「個展」を開き、「後援会」を結成。
3月 「昭和31年度」の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として、十二代坂倉新兵衛、三輪休和が文化財保護委員会より認定される。
・昭和33(1958)年=4月 「日本工芸会」の「支部」を「山口県単独=vで結成。
4月 「三越日本橋本店」において、萩焼十世当主、無形文化財記録作成保持者≠ニいう肩書≠ナ、三輪休和、「個展」を開催。 4月 三輪休和後援会が結成される。 5月 「陶磁協会」を調査主体として「萩焼古窯」の発掘をする予算がついたという連絡が小山より、河野宛に「はがき」でもたらされる。 5月 12代坂倉新兵衛、三輪休和が、「日本工芸会」の「正会員」となる。 10月 「第4回 日本伝統工芸展」開催。 三輪節夫(さだお)が、「平鉢セット」を出品。「奨励賞」候補となる。 12月 「萩焼古窯」の発掘調査≠ヘ、いろいろな「事情」を加味し、「山口県」としての意見≠ェ受け入れられ、当面、延期することになる。 ・昭和35(1960)年
9月 「第7回 日本伝統工芸展」が公募$ァとなって開催されるも、「萩焼」からの新規≠フ応募者はなく、12代坂倉新兵衛・10代三輪休雪(休和)・三輪節夫(三輪壽雪)の出展にとどまる。
・昭和36(1961)年
10月 三輪節夫=「日本工芸会正会員」となる。(「工芸展」4回%選に伴う推挙=B12代坂倉新兵衛・休和両氏以外の「正会員」はこのケース) 12月 12代坂倉新兵衛没。 9月 「第八回 日本伝統工芸展」に、14代 坂倉新兵衛・13代 坂田泥華(「14代 泥華」と名乗り変え、現在は「泥珠」と号す。)が、「初出品・初入選」。
10代三輪休雪・三輪節夫は、引き続き「入選」。 (参考) 坂田泥華=「昭和39年」・坂倉新兵衛=「昭和41年」に、それぞれ「工芸会正会員」となる。 その後の「正会員」は、「昭和46年」の12代田原陶兵衛氏まで飛びます。 ・昭和44(1969)年=吉賀大眉、改組第一回日展総理大臣賞受賞。 ・昭和45(1970)年=萩焼が重要無形文化財として指定され、その技術保持者として三輪休和(十代休雪)が認定を受ける。 ・昭和47(1972)年=萩焼が山口県指定無形文化財として指定され、その技術保持者として十一代三輪休雪、十三代坂田泥華、十四代坂倉新兵衛が認定を受ける。 ・昭和50(1975)年 山口県指定無形文化財萩焼保持者として十一代坂高麗左衛門が追加認定を受ける。
・昭和51(1976)年=山口県教育委員会により萩焼古窯跡の発掘調査がはじめられ、55年まで継続する。
十四代坂倉新兵衛没。 ・昭和53(1978)年=「伝統工芸新作展」を「日本工芸会山口県支部」として企画・開催。以後、毎年継続。 ・昭和56(1981)年 十一代坂高麗左衛門没。
・昭和57(1982)年=吉賀大眉が芸術院会員となる。
山口県指定無形文化財萩焼保持者として十二代田原陶兵衛が追加認定を受ける。 三輪休和没。 波多野善蔵、「第28回日本伝統工芸展」において、「萩火色広口花入」が奨励賞を受ける。 ・昭和58(1983)年 萩焼が重要無形文化財に再指定され、十一代三輪休雪が技術保持者として認定を受ける。
・昭和63(1988)年
山口県教育委員会により長門深川古窯跡の発掘調査始められ、63年まで継続する。 日本工芸会山口支部が第1次韓国探訪調査を実施する。
・平成元(1989)年=第2次韓国探訪調査実施
山口県指定文化財萩焼保持者として、大和保男が追加認定を受ける。 ・平成2(1990)年 萩焼古窯(発掘調査報告書)が山口県教育委員会により刊行される。
・平成3(1991)年
吉賀大眉、「文化功労者」受章 第3次韓国探訪調査実施。
・平成5(1993)年=萩陶芸家協会設立。
吉賀大眉没。 十二代田原陶兵衛没。 ・平成9(1997)年=日本工芸会山口支部創立40周年記念として『40年のあゆみ』を刊行する。 ・平成12(2000)年=“萩焼400年パリ展”を開催。(パリ日本文化会館) ・平成13(2001)年 「第48回 日本伝統工芸展」において、坂田慶造が、「日本工芸会会長賞」を「 萩剥離窯変大鉢」で受賞する。
・平成14(2002)年=山口県指定無形文化財萩焼保持者として野坂康起、波多野善蔵が追加認定を受ける。
7・8月 山口きらら博会場で第24回伝統工芸新作展を開催。 ・平成18(2006)年=山口県指定無形文化財萩焼保持者として岡田裕が追加認定を受ける。 ・平成19(2007)年=『50年のあゆみ』を刊行する。 |
私は、昭和31年、「萩焼」の「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「指定申請」を、「山口県教育庁社会教育課」においても係として「担当」した河野英男の「三男」ですが、
当時≠フ、本来、表≠ノ出す必要のないことまでもが、父以後、何人もの£S当者を経た、十余年後∞当時≠フことを知るハズもない後継者?≠フ、十分な裏付け≠烽ネいママ、提供≠ウれた「情報」によって、誤ったことが、 を代表≠ニして、流布≠オており、 かつ、その誤った記述≠ェ、「萩焼の歴史」を事実≠ニは違ったものにするとともに、迷惑をかけている人があることから、父が正したい≠ニ思っていながら、生前には、叶わなかったため、やむなく=A父の遺志を受けて、[HOME PAGE]を作成しています。 なお、私は、誤った記述≠フ情報提供者≠ニされる当人≠ェ、『萩焼人国記』の刊行年月以後に執筆されたものにおいて、「休和物語」における誤り≠ェ「訂正」されていたとすることが、最も穏やかなものになると思い、河野良輔氏の生前に、直接・間接、訂正を求めていましたし、さらには、やはり情報提供者≠フ一人であるとされ、林屋晴三氏から、「榎本君なら正しいことを書くはずだ」として、 勧められたこともあって、良輔氏のモトで、「萩焼の研究」をされていた榎本徹氏にも、働きかけていたのですが、「訂正」していただけなかったということ、 それが受け入れてもらえぬため、 次≠ノ、公的な立場にある「機関」or「人物」に、正しい=u萩焼の歴史」となるよう、再調査をしていただき、正される≠ネらば、具体的な人物の名や、その誤りを具体的≠ノ記さなくても、「後世」には正しい「歴史」≠ェ伝えられるであろうとの思いから、このように直接行動を起こす前にも、「山口県文化振興課」や後に記しているように、「萩美術館」の関係者に、公正な立場≠ナ、再検討していただくよう、御願いしたのに、実現≠オなかったために、公開したのだということを、付記しておきます。 (ツマリ、「証言者」が絶対視されているため、やむなく、その「証言者」の「証言内容」に少しばかり=u疑問」があることを述べざるを得ませんし、さらには、本来≠ヘ公表すべきではない=u資料」をも、公開≠キるに至っているということです。)
これまで、「萩焼の歴史」について、最も検索≠ウれるであろう「萩市」の「サイト」に誤りがあり、そのことを指摘したのに、訂正をしていただけないことから、その「萩市」の「サイト」にある「萩焼年表」をもとに、それを修正・加筆≠オたものを[平成20年6月25日]から示してきましたが、 「萩焼まつり」が、「5月1日」から「萩市立体育館」で開催され、その「入口」で配布されていた「萩焼のしおり」も、ほぼ同じような誤り≠含んでいるため、居合わせた「萩市役所」の人に、「モデル≠ワで示して、訂正を御願いしたのに、なんらの対応≠ヘされないのはどうしてですか。」と、訴えたあとの対応≠聞きたいと思って、 平成21年5月15日(金)、直接=A「萩市役所」を訪れ、「商工課の課長さん」らに面会、訂正を御願いしました。(「萩市立体育館」で御願いした人は、出張で不在でした。) その際、確たる資料≠ニ思われるものに拠っているため、部分的≠ノ訂正することは難しいからだといわれたため、私は、影響≠フ大きい「サイト」であり、せめて、客観的≠ノ誤り≠ニ認められる箇所の「訂正」はしてほしいと、御願いしたのですが、その後、「萩焼年表」は、訂正ではなく、「萩焼年表」そのものが、当面=A「サイト」から削除されています。 (後日、その確たる資料は、河野良輔氏作成の物と、連絡してくださいましたが、それは、十数年前≠フもので、その後の「萩焼略年譜」等においては、大きな誤り≠フ箇所は、既に、「訂正」済みですので、「萩焼略年譜」を典拠≠ニしたものが、新たに=uサイト」に登場≠キるかもしれません。) なお、私は、可能な限り、「萩焼」に限らず、「陶芸関係」の「各種情報」において、疑問≠ネ点を見つけると、検討≠御願いしています。そのことで、ほとんどの方には、快く、対応していただき、訂正もしていただいています。 その中の一つで、最近は、[Google]や[Yahoo!]の萩焼の歴史≠ニいう「検索」で、最初のページに定着≠オているように見える「泥華窯」の「サイト」についても、 昭和24年 坂倉新兵衛(13代)が発起して萩美術協会を結成する とあることや、三輪休和氏の「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」のことが落ちていますので、「訂正」を御願いしました。 すると、この「サイト」は、若くして亡くなられた慶造氏が作成されたものなので、削除≠キるしか方法がないので、削除しましょうと、母である坂田泥珠氏夫人は、おっしゃいました。 しかし、ここ以外の「ページ」には、「山口県」から初めて「日本伝統工芸展」における「大賞」を受賞された慶造氏の多くの「作品」等、有用で参考になることが多々あるため、「その必要はありません」と、申しました。 わずか数行≠フ「疑問」であるにも係わらず、その誤り≠認めてくださっただけでなく、削除≠オましょうとまでおっしゃるという、誠意ある対応をしてくださったことを、併せて、記しておきます。 なお、おわかりかと思いますが、正確には=A 昭和23年 12代坂倉新兵衛、「萩焼美術陶芸協会」を創立し、会長に任ぜられる。 です。13代の坂倉新兵衛は、終戦の直後の昭和20年9月、陣没された「12代」の「長男=光太郎氏」に、追贈されたもので、「昭和24年」には、亡くなられており、「創立」されたり、「会長」になられるハズはないのです。 モトに戻りましょう。 「萩市」の「サイト」から、「萩焼年表」なるものが削除≠ウれてみると、次に、影響力のあるものとしては、 萩焼で検索すると、萩焼略年譜(PDF)なるものが出ており、萩焼略年譜. 河野良輔 編. ・・・・とあって、直接アクセス≠ナきるだけでなく、 この「頁」には、「日本工芸会山口支部」という「サイト」からもアクセスできるため、多くのアクセス≠ェあると思われる、この「萩焼略年譜」が考えられます。 「山口県立美術館長」を長く勤められただけでなく、多くの「萩焼」を中心とする「著作」のある河野良輔氏の編集されたものというのですから、確たる資料とみなされている<nズです。 [Yahoo!]や[Google]での「検索」をしても、「萩市」の「サイト」の位置ほどの検索しやすい位置≠ナはないものの、今後は、最も$l々の目に触れ、影響力があるであろうと思います。 この「萩焼略年譜」そのもの≠フ「記述」は、少しばかり∞記入洩れ≠竍誤り≠ヘあるものの、敢えて異を唱えるまでもないものですが、河野良輔氏や榎本徹氏が情報源≠セとして、本来≠ヘ表には出て来ない<nズのことが流布≠オているため、今度は、この「萩焼略年譜」を底本として、困ったことの「訂正」を、試みることにしました。 不遜かとも思うのですが、事実に基づいた記述こそ、後世に残すべきことだと思います。 なにせ、啓蒙%Iな「役割」を果たすとされている一流紙=「朝日新聞東京本社 広報部」が、「河野良輔氏からの取材なので、事実≠確認しなおす必要を認めない」というほど、河野良輔氏=「萩焼」の権威者という評価≠ェ定着=Hしているようですから、一般の方々に、認識を改めていただく≠スめには、こうするよりあるまいと思うのです。 なお、昭和18年〜平成17年分と限定したのは、私の父=河野 英男の遺した「資料」や私への「証言」により、事実か否かを確認できると思うからです。 (赤字の箇所は、私の考えでは、是非、「記す」べき事項の加筆・修正箇所です。また青字の箇所は、(参考)として、「記す」のが適当ではと、思う部分です。
また、枠内は、(参考)として、私が「解説」なり、「注記」したものです。) (お知らせ) 後述していますが、「萩美術館」の尾崎裕副館長及び石ア泰之学芸課長に、「平成21年7月21日」に、4時間強≠フ時間を持っていただくことができました。 その際、いろいろなところから、「公的な=u資料」でないとたとえ、あなた(私のことです)のいわれるようだとしても、取り入れることはむつかしい」と言われていることから、少なくとも、河野良輔氏の「萩焼略年譜」に、多少なりとも「疑問」があるので、 「萩焼」に関して、情報≠発信≠キる公的な機関≠ナあると思う「萩美術館」としての「萩焼の歴史」を、例えば山口県立萩美術館・浦上記念館の[HOME PAGE]に、「リンク」設定していただけないかと、御願いしたところ、検討してみようと言ってくださいました。 それが私の、この「ページ」の記述と異なる≠アとがあり、私の記述が否定されることもないとは言い切れませんが、とてもありがたい≠アとで、是非とも実現することを願っています。 もっと早ければ、私の[HOME PAGE]において、ここまで記述することはなかったとは思う一方、公的≠ネ「歴史」記述では、『萩焼人国記』等において、証言という形≠ナ流布≠オている誤りに触れることは、とてもできまいと思われるため、結果的≠ノはそれなりの意味≠ヘあったかとも思っています。
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明治元年(1868)
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昭和16年(1941)12月8日
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「萩焼」における「工芸技術保存資格者」として、 ●1月 十二代坂倉新兵衛、十代坂高麗左衛門、十代三輪休雪(註 後に休和≠ニ号します。以後、休和≠ニ記します。)が認定される。 ●9月 吉賀大雅、十一代高麗陶兵衛(下記「註」参照)が追加認定される。
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昭和20年(1945)8月15日
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昭和23年(1948)3月
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(参考) この「萩焼美術陶芸協会」の「副会長」は、三輪休和氏です。 吉賀大眉氏によりますと、創立は昭和24年11月とありますが、『陶匠 坂倉新兵衛』の「略歴」に、昭和23年3月とあり、他の「略歴」との関連からして、この「23年3月」の方が正しいと思えます。 なお、『人間国宝シリーズ4 三輪休和』において、河野良輔氏も、休和氏の「副会長」を「昭和23年」のこととしておられます。 (この「萩焼美術陶芸協会」は、新兵衛氏の没後、三輪休和氏が会長に選ばれ、昭和36年3月、「萩焼陶芸作家協会」に改組されます。) |
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●3月 「無形文化財」に認定された公開≠フ場として、「第一回 無形文化財 日本伝統工芸展」が開催される。
●5月 「文化財保護法」の 一部が改正され、真に∞実力≠フみを条件≠ニする「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」の制度が設けられる。
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●10月 「日本工芸会」の「理事」または「正会員」の推薦により、出展・応募が可能になった「第三回伝統工芸展」に「理事」である小山の推薦で、12代坂倉新兵衛、三輪休和が2作品ずつ初出展し、2作品とも入選したのみならず、両者共、高い評価を受け、『図録』の3頁目に、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の石黒宗麿の「作品」とともに、掲載される。(「日本伝統工芸展」は、性格を変え、「第二回展」からは、「日本工芸会」が中心となって運営されていた。)
●昭和31(1956)年11月 12代坂倉新兵衛、東京「高島屋」で「個展」を開き、「後援会」を結成。 |
●4月 「三越日本橋本店」において、萩焼十世当主、無形文化財記録作成保持者≠ニいう肩書≠ナ、三輪休和、「個展」を開催。 三輪休和後援会が結成される。
●5月6日付 「陶磁協会」を調査主体として「萩焼古窯」の発掘をする予算がついたという連絡が小山より、河野宛に「はがき」でもたらされる。
●5月 12代坂倉新兵衛、三輪休和が、「日本工芸会」の「正会員」となる。
●10月 「第4回 日本伝統工芸展」開催。 三輪節夫(さだお)が、「平鉢セット」を出品。「奨励賞」候補となる。
●12月 「萩焼古窯」の発掘調査は、いろいろな「事情」を加味し、「山口県」としての意見が受け入れられ、当面、延期することになる。
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●10月 三輪節夫=「日本工芸会正会員」となる。(「工芸展」4回%選に伴う推挙=B12代坂倉新兵衛・休和両氏以外の「正会員」はこのケース≠ナす。) ●12月12代坂倉新兵衛没。(←註 「リンク」設定したため、色≠ナの別≠ェできませんが、黒≠ツまり、「萩焼略年譜」に、記されています) |
(山口支部」が設立されているわけで、「研究会員」としての「応募」は、「第5回工芸展」以後は、可能であったハズなのですが、公募となった「第7回工芸展」ではなく、この「第8回工芸展」まで、応募はなかったと考えられます。
「入選」はわかるとしても、「応募」がいつからかは、把握できませんが、まず、間違いないと思われます。 なお、『伝統工芸30年の歩み』において、当時=A「朝日新聞西部本社学芸部長」であった源 弘道氏は、「日本伝統工芸展と九州・山口」に、次のような「記述」箇所がありますので、紹介しておきます。 ・・・現行の公募制になった第7回展(昭和35年)の入選者は十二代今泉今右衛門、十三代酒井田柿右衛門、鈴田照次(染織・佐賀県)、中里無庵、十二代坂倉新兵衛(陶芸、山口県)、三輪休和、十一代三輪休雪の7人にとどまっている。全入選者が145人だから、4.82%にすぎない。 その後も日本伝統工芸展での九州・山口の低迷はつづく。10回展(38年)での入選者もやっと10人(5.43%)、15回展(43年)でも20人(6.89%)と伸び悩む。 ・・・・・・・・・・・・・・・
しかし20年目ごろから、九州・山口在住者の入選率も上向き始める。昭和48年の20回展では入選者37人(入選率8.46%)と30人を越える。25回展(53年)は66人(10.94%)と10%を上回る。以後年々ふえつづけて、昨年の第30回展では106人と初めて100人の大台を突破、入選率も16.40%に達した。
7回展当時にくらべれば入選者数では実に15倍、入選率でも3.9倍だ。30年目で、ようやく、その伝統の底力がヒノキ舞台の上でも出てきたということである。
とりわけ陶芸部門での伸びが目覚ましい。30回展での九州・山口からの入選者は76人である。陶芸部門の全入選者が265人だから、九州・山口はその中の29.6%に当る。つまり陶芸部門のほぼ3人に1人が九州・山口在住者ということだ。陶芸王国・九州・山口の名にふさわしい。 一方、陶芸部門の九州・山口からの入選者76人は、全部門への九州・山口からの入選者106人の72.38%に当る。その他の部門への入選者は染織16人、木竹工7人、金工、漆芸各1人、人形0人、その他5人となっている。つまり陶芸が圧倒的多数を占めており他の部門は相対的に比重が低いということだ。こういった状況は過去30回ほとんど変わっていない。陶芸王国であることを裏付けると同時に、他部門の相対的不振を物語っている。 ・・・・) 10代三輪休雪・三輪節夫は、引き続き「入選」。 (参考) 坂田泥華=「昭和39年」・坂倉新兵衛=「昭和41年」に、それぞれ「工芸会正会員」となる。
その後の「正会員」は、「昭和47年」の12代田原陶兵衛氏まで飛びます。 |
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昭和46(1971)年 |
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昭和50(1975)年 |
昭和51(1976)年 |
昭和53(1978)年 |
●4月 山口県指定無形文化財萩焼保持者として十二代田原陶兵衛が追加認定を受ける。 ●10月 三輪休和没。 ●9月 波多野善蔵、「第28回日本伝統工芸展」において、「萩火色広口花入」が奨励賞を受ける。
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昭和58(1983)年 |
昭和63(1988)年 |
平成元(1989)年 |
平成02(1990)年 |
平成03(1991)年 |
平成05(1993)年 |
平成09(1997)年 |
平成12(2000)年 |
●7〜8月 山口きらら博会場で第24回伝統工芸新作展を開催。 ●9月 「第48回 日本伝統工芸展」において、坂田慶造が、「日本工芸会会長賞」を「 萩剥離窯変大鉢」(はぎはくりようへんおおばち)で受賞する。 「写真」は、[坂田泥華窯]のサイトから引用(了承していただいています。)
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平成14(2002)年 |
平成18(2006)年 |
平成19(2007)年 |
◆ 昭和二、三十年代≠フ「萩焼」の歩み≠ェエポックメーキング≠ノなったという「理由」 ◆ なぜ、「昭和二、三十年代」の歩みがエポックメーキング≠ニなったというのか? それは、「萩焼」のような地方窯・田舎窯には、 「県内」においては、あるいはごく一部≠フ方には評価≠ウれていても、中央≠ナの評価≠ノはほとんど関係がなかったのに、 @ 昭和25年制定の「文化財保護法」に基づく、「無形文化財」制度という、いわば行政¢、の施策の一環として、表面的≠ノは、「昭和31年(既に述べているように、内面では=A既に「文化財保護法」制定当初≠ゥら、検討していました)に、
「萩焼」の12代坂倉新兵衛氏・三輪休和氏の「指定申請」がなされ、それが認められて、全国的≠ノ、「認知」されることになりました。 12代新兵衛氏、休和氏の「第三回 日本伝統工芸展」への「出展」を、公募だからだという事実≠ノ基づかない主張をし、その「入選」をきっかけ≠ノ、認められ、この「入選」こそ、三輪休和氏の出発点≠ナあるかのごとく記述する通説は、とんでもない=u説」です。 そもそも、「日本伝統工芸展」は、第一次≠フ「無形文化財」に認定された方々の技≠フ公開≠フ「場」として発足したものです。 それが、「無形文化財」制度の改定はあったものの、「日本工芸会」を主催として、「第二回」として、継続≠オていったのですが、当然≠フように、新「無形文化財」の方々の技≠フ公開≠フ「場」という性格≠煦き継いでいました。 従って、新「無形文化財」への「指定申請」とは深く′Wわっていたのです。 「休和様式」なる造語を作り、晩年の「作品」に価値があり、それまでは過程であるかのごとく述べていますが、 そもそも「昭和31年」当時から、傑出した=u技」があったのです。 多様化するための時があり、さらなる発展をとげられた休和氏の場合は、それでもいいかも知れません。 また、「昭和31年」当時とは比較にならないほど、多様化し、発展されたことは、よろこばしいことです。 しかしながら、だからといって、時を持てず、昭和35年に亡くなられた12代坂倉新兵衛氏をもって、過小評価するのはおかしいのです。 既に述べているように、小山先生から、「国指定」の候補たり得ると認めていただき、新兵衛氏の場合は、実現しなかったものの、「人間国宝」認定も考えてみるとまでおっしゃって下さっているのです。 「伝統工芸展」への出展は、「無形文化財」の「認定」の前に、 その力=E技を、見せておくようにというお勧めで、「理事」である小山先生の推薦によって、「応募」されたのであり、 私は、公募であったならば、少なくとも、新兵衛氏は、年齢≠ゥらしても、応募≠ヘされなかったと思います。 はたまた、休和氏にしても、「理事」又は「正会員」の推せんが必要な、この「第三回工芸展」に、小山先生が勧めてくださらなかったら、「正会員」の方に御願いして出展されるということはなかったハズです。 「からひね会」のメンバーであり、「工芸会」の中心≠ニもいえる、荒川豊蔵氏、金重陶陽氏の方から、休和氏を推薦するので、応募してみるようにという勧めも、この時点では考えられないのです。 表面上は、「日本伝統工芸展」での「入選」が、「記録選択」よりも先になっていますが、「萩焼」の二人=12代坂倉新兵衛氏と三輪休和氏が、小山先生に、評価していただけたのが、その出発点です。 ただ、最高権威者=¥ャ山先生のお一人≠フ「見解」であり、正式≠ノは、「審議会」での「記録選択」認定へと進むワケで、「伝統工芸展」での上位=u入選」も、影響したであろうことは間違いなく、ことさら述べる必要はないことなのですが、白石明彦氏が、「休和物語」において、とんでもないこと≠記述していることとて、やむをえないことと思います。 A 小山冨士夫先生を代表とする、「工芸会」理事という肩書≠フ、権威者≠ネいしは、限られた=u正会員」による推薦でないと応募すらできなかった「日本伝統工芸展」が、昭和35(1960)年以後、誰でも応募することができるようになった「日本伝統工芸展 第七回展」以後、 その「入選」のレベル≠フ「高さ」ゆえに、「伝統工芸展」の「入選」=力≠フ認知となり、「工芸展」を通して、全国的≠ノ認められていくようになりました。 ただ、「萩焼」の場合は、「第七回展」=昭和35(1960)年での「入選」は、公募$ァ以前と同じ、12代坂倉新兵衛氏、三輪休和氏、三輪節夫氏の3人だけであり、公募≠ノよる「初出展・初入選」は、翌「第八回展」からでした。 つまり、坂田泥華(後、「14代」と名乗りかえられ、現在は「泥珠」と号しておられます)氏、14代坂倉新兵衛氏のお二人が、「初応募」・「初入選」だったのです。 壽雪氏及び泥珠氏、14代坂倉新兵衛氏の3人は、その力≠全国的≠ノ、高く評価され、 三輪休和氏が、「人間国宝」に認定された後を承けた形≠ナ、 昭和47(1972)年に、3人¢オって、「山口県指定無形文化財」の技術保持者として「認定」されていったことは、周知のことと思います。 この「日本伝統工芸展」が、公募となったことにより、力≠ウえあれば、着目される「場」が用意≠ウれたといえます。 このことにより、極端な言い方をすれば、「日本伝統工芸展」での「入選」、他の「陶工・陶芸作家」と競う≠アとを意識≠オた作陶≠ヨと、大きく、舵を切ったとすらいえるようになったのです。 この「伝統工芸展」以外にも、多くの、視点を異にする各種「展覧会」が設けられたことと相俟って、まさに、花盛りともいう状況になったのです。 (但し、泥珠氏、14代新兵衛氏は、既に、意欲的な「作品」を作っておられました。 例えば、泥珠氏の場合、私は、「13代坂田泥華」を若くして襲名≠ウれてまもない頃の「作品」である「抹茶茶碗」について、父がハダカ≠ナ譲っていただいていたのですが、泥華襲名間もない頃の、優れた=u作品」として、「箱」に納めることにし、「箱書」をしていただくよう、父の代わりに、御願いに行っています。 泥華氏も、「箱書」してもよい「茶碗」だとされ、「箱書」してくださいました。) 「萩焼」に、なぜ、「昭和二十年代」が係わっているのかという方もあるかも知れません。 実は、「昭和二十年代」も、「萩焼」の歩み≠ノ大きな関わりがあるのです。 「伝統工芸」、中でも、「陶芸」が、敗戦の痛手≠フ中から、立ち直り、のみならず、未曾有の注目≠浴びることになったワケですが、 そのきっかけ≠ヘ、既に述べたように、昭和25年制定の「文化財保護法」に、「無形文化財」制度が設けられたことです。 「太平洋戦争」が「敗戦」に終わり、終戦といっても、「文化」的な面は、すぐには、改善しませんでした。 戦後みな苦しい生活をしましたね。日本の伝統文化、工芸に限らず・・・食べることで汲汲としていて、芸術どころではない。戦後、敗戦ということから文化国家というもの目指したものの、それはもう経文みたいなもので、実際文化国家を標榜したものの、今日食べるということでせい一杯で、伝統文化が絶滅してしまうのではないかという危惧があった・・・。≠ニ、杉原信彦氏は語っておられます。 かくして、この当初≠フ「無形文化財」制度には、条件≠ェ2ツ≠りました。 ツマリ、「特に価値の高いもので」あることは当然のこととして、今一つ=A「国が保護しなければ衰亡する虞のあるものについて」という条件があったのです。 ただ、この昭和25年頃は、最悪期≠ヘ脱していたこととて、都道府県によって、違いが生じました。 私の個人的な考えでは、既に、「衰亡≠フ虞」とは無縁≠ニなられた状況にあった方々が「指定」されたと思っています。 『小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁』の「富本憲吉氏のこと」〈394頁〉において、 昭和五、六年ごろ=A貧書生≠フ小山先生に「君五十銭貸してくれたまえ」といわれたことがある≠ニいうこと、 また、「石黒宗麿・人と作品」の中の「石黒さんの思い出と逸話」の中〈364頁7行目〜〉で、 石黒さんは生涯貧乏のどん底を悠々と闊歩してきた人だが、八瀬のあばらやで何とか恰好がついてのは、重要無形文化財の保持者に認定された昭和三十年ころからである。これは富本憲吉、濱田庄司、荒川豊蔵、金重陶陽さんなど皆同じで、それまではくらしがたたなかったようである。 という記述があります。 私どもの尊敬する小山先生の文とはいえ、この件に関する限りは疑問があります。 私は、小山先生のようである≠ニいう書き方に注目します。 石黒宗麿氏の場合は、俳優の勝新太郎氏や藤山寛美氏に借金≠ェ多くあったから貧しかった≠ニいえるかどうかと似たような点があるし、 なによりも、富本氏の場合は、『現代日本の陶芸 第3巻』 「月報 6」の「対談 重要無形文化財指定のころを語る」において、 「前東京国立近代美術館工芸課長 杉原信彦」氏と「東京国立博物館主任研究官 林屋晴三」氏とが、 林屋その時選定されていた方々は、焼物では志野、瀬戸黒ということで荒川豊蔵さん、天目釉ということで石黒宗麿さん、織部ということで加藤唐九郎さん、備前焼で金重陶陽さん、それだけですか?まだ富本憲吉さんとか・・・。 杉原富本さんは入っていませんね。国で保護しなくても衰亡の恐れがないから。・・・ とあります。 要するに、貧しい≠ゥ否かは、主観的なものだということでしょう。 どのように「申請」されたのかはわかりませんが、当然、助成が必要≠ニいう形で「申請」されたでしょうから、小山先生もようである≠ニ書かれざるをえなかったのではないでしょうか。 山口県の「萩焼」、それは、とりもなおさず、12代坂倉新兵衛氏を指すのですが、条文を素直≠ノ受け取り、「申請」を見送りました。 他の都道府県の出方がわからなかったこととて、茶陶≠ニしての「萩焼」が、既に、最悪期≠脱しつつあったのに、衰亡≠オそうだという形≠ナ世間に℃け取られ、イメージダウンになっても困るといった杞憂もあったと父=英男は、私に言いました。 「佐賀県」は、12代 今泉今右衛門氏のみを「申請」していますが、12代 酒井田柿右衛門氏と技≠ノせよ、経済面≠ノせよ、さしたる違い≠ェあるとは思えません。 「佐賀県」の場合は、12代 今泉今右衛門氏の、旧「無形文化財」から出発≠オ、12代 今泉今右衛門氏・12代 酒井田柿右衛門氏・中里太郎右衛門(→無庵)氏が、揃って、「記録選択」、そして、その後、(総合指定)・(個人指定)・(保持団体認定)と、「無形文化財」のすべてを、「指定・認定」されています。 (参考) ここをクリック≠オてご覧ください。なお、これは、既に、「この頁の始めに設定≠オているもの」と、同じです。 要するに、「萩焼」は、形≠ニして現れるのは、「昭和31年」カラですが、実際≠ヘ、衰亡の虞≠ニいう条件≠フモトで、旧=u無形文化財」制度の時から、当然=A胎動しているワケですし、 「萩焼」からの「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への二人申請≠ノ踏み切る≠スめの、基準としての役割≠煢ハたしたのです。 最高権威者=&カ部技官 小山冨士夫先生の「来県調査」によって、全国にデビューしたのが「昭和31年」です。 『三輪休和遺作展図録』中の「展覧会ノート ─ 『窯日誌』にみる三輪休和」 という榎本徹氏の執筆にも、当然≠フように、 (「第二回日本伝統工芸展」)は重要無形文化財や無形文化財保持者だけでなく、推薦によって一般の作家も出品した。 昭和三○年代の一○年間は、日本伝統工芸展を軸に休和が世に出ていくという期間 のような疑問≠フある記述が幾つもあることを指摘しておきます。 当然、榎本氏には、ヘッドハンティング≠ウれるだけの実績≠ェあるわけですから、参考になる点も、多々あるのですが、榎本氏の「岐阜県現代陶芸美術館長」だという肩書≠ナもって、「萩焼」に関する「記述」のすべて≠ェ正しいとは思わないでほしいと思います。 口幅ったいようですが、こと、この「昭和二、三十年代の萩焼のあゆみ=vに関しては、河野良輔氏、榎本徹氏の「記述」より、 はるかに℃рェ父=英男に代わって記述していることの方が事実≠ノ基づいていると、断言≠オておきます。 そもそも、公的な立場≠ノいるものの「証言」ということで信頼≠キるのなら、 「山口県立美術館」が開館されるよりもはるか昔=A「山口県」の「文化財」を含めた「文化」一切を「任務」としていた「山口県教育庁社会教育課」において、「文化係長」・「課長補佐」として、直接係わった人間の「証言」や、個人的≠ネ「資料」(当然、「係」としての公的な=u資料」は、「課」に残っているハズです)は、信頼されていいハズなのに、 十余年′繧ノ、担当≠オた人物の、十分な「調査」なしに執筆したり、「証言」することの方が正しい≠ゥのごとく扱われている≠アとは異常≠ニしか言いようがありません。 (この河野良輔氏や榎本徹氏の、「伝統工芸展」と新兵衛氏・休和氏との関わり方≠フ事実誤認が、 白石氏が、新兵衛氏に対するとんでもない汚名・評価≠記述していることと無関係≠ニは思われません。) 次の段階=「日本伝統工芸展」を舞台≠ニして、全国的≠ノその力≠認められていくという段階についても、少しばかり「解説」しておきましょう。 旧=u無形文化財」の方たちの技≠フ公開≠フ「場」として、出発≠オた「日本伝統工芸展」が、 新「無形文化財」の方たちの技≠フ公開≠フ「場」となっただけでなく、「無形文化財」ではなくても、高度≠フ技を持つ、プライド≠る方たちの「日本工芸会」の人たちに、主体≠ェ移って、「第七回工芸展」以後、レベル≠フ高い、公募展となっていきました。 次の段階≠ヘ、この「日本伝統工芸展」を通して=A力を認められた方々のことです。 無論、ここにも小山先生は、深く′Wわっておられます。 ここにおいて、特別な存在が三輪壽雪氏です。 壽雪氏は、「正会員」としての三輪休和氏の「推薦」という形で、「第四回工芸展」には、「応募」・「入選」され、 「山口支部」結成後は、「研究会員」としての「応募」、連続4回入選≠ノよって、昭和35年には、「正会員」となっておられます。 壽雪氏は、この「第四回日本伝統工芸展」において、「入選」したのみならず、この「回」から設けられた「奨励賞」の候補として、デビュー≠ウれたのです。 応募≠キることさえ、「理事」または「工芸会正会員」の推薦が必要であったにも係わらず、「陶芸部門」の場合、 (註 「入選」は、「合格」≠ニ記されています) 「正会員」すら、56点=u出品」のうち、「合格数」は、24点 「支部会員」は、29点=u出品」のうち、「合格数」は、5点 「その他」は、26点=u出品」のうち、「合格数」は、5点 「合計」として、「出品数」=111点、「合格数」=34点、、率=30% という状況のモトでのことなのです。 ◆ この「第四回日本伝統工芸展」は、「日本工芸会報bP0」に、「記録」として、残っています。(この「日本工芸会報bP0」は、「山口県文書館」に寄贈済み) それによると、「奨励賞」はも若手¢ホ象なのですが、まず、大賞候補≠ニして、5点を選び出し、まず、「大賞」を決め、次の「奨励賞」の選考に当たっては、若手≠ノ絞って、選考するということのようです。 従って、「奨励賞候補」というより、「大賞候補」といった方が適切かもしれませんが、酒井田柿右衛門氏が、「第二回工芸展」の受賞があるので、避けたいという雰囲気≠フ中でも、圧倒的≠ネ支持によって「受賞」したと「工芸会報」に記されているのですから、「奨励賞候補」としています。 この壽雪氏は別格≠ゥも知れませんが、「第八回工芸展」には、坂田泥珠氏、14代坂倉新兵衛氏が、「初応募」・「初入選」しておられます。 14代 新兵衛氏が、「12代」が「正会員」であり、高い評価を受けていたにもかかわらず、なぜか、公募となるまで(それも、初回ではなく、2回目の「第八回工芸展」から)、応募されていませんが、この「14代」、13代 坂田泥珠氏、11代 坂高麗左衛門、11代 田原陶兵衛氏などの「入選」の頃までは、まだまだ敷居が高く、「日本伝統工芸展」における「入選」そのもの≠ェ、評価を受けることに繋がっていたのです。 (参考=「陶芸」部門の「出品者数」) 〈「第7回展〈(昭和35(1960)年〉」=68人 「第9回展〈(昭和37(1962)年〉」=115人 「第15回展〈(昭和43(1968)年〉」=225人 「第19回展〈(昭和47(1972)年〉」=401人 「第21回展〈(昭和49(1974)年〉」=507人・・・・ 「第32回展〈(昭和60(19)年〉」=1047人・・・・・〉 ↑『第三十六回 日本伝統工芸展 図録』の巻末の「出品及入選概況」より その後も、「日本伝統工芸展」での「入選」が、高い評価≠ノ繋がっていることは間違いありません。 他の「支部」より、いささか遅れますが、「山口支部」としての「新作展」開催がリード≠オて、「萩焼」を中心に、「山口県」の「工芸」が、多数=A「日本伝統工芸展」において、「入選」をして行きます。 空前の陶芸ブームの際は、「萩焼」は、昭和45(19470)年に、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」となっていた三輪休和氏の存在が、「萩焼」全体≠フイメージ<Aップにも繋がって、陶芸ブーム≠フただ中に位置することになったのです。 幅広い♂桾蜴メになったとはいえ、それでも、入選率が「2割」前後という相変わらず≠フ「狭き門」のモト、競う「日本伝統工芸展」、 高度成長=E大量生産という時代相≠背景として、 狭い意味の=u用」から離れ、「陶芸」の芸の部分が拡大≠ウれ、 「芸術作品・美術品」として、鑑賞≠キる対象という「作品」(少数≠フ個性的な=u作品」=当然=A「高額」となります)が受け入れられる時代≠ニなり、歩留まりを気にすることなく、意欲的な=u作品」を次々と産んでいくことになったのです。 「昭和35年12月」に亡くなられ、「日本伝統工芸展」という場で、意欲的な作品≠ナ競う≠スめの「時」が持てなかった12代坂倉新兵衛氏をして、 どういう流れの中で、加藤唐九郎氏が言ったのかはわかりませんが、平凡などというのは、おかしい≠ニ思います。 唐九郎氏にしても、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」以上の評価がされる「作品」が生まれるようになったのは、「永仁の壺」事件で、一切≠フ公的なもの≠「辞退」されて以後のことだったハズです。 (加藤唐九郎氏は、「人間国宝」になられていませんが、北大路魯山人氏・河井寛次郎氏とともに、「人間国宝」の方々に遜色≠フない方だったと思います。) なお、この「日本伝統工芸展」以外にも、様々な登竜門が出現=A技≠フ修練・造形力≠ニいった点でいささか不安≠ェ感じられる「作家」でさえも、着目される「場」ができており、そういった「展覧会」の影響≠熈当然=Aありますが。 その主たる活動≠ヘ、「昭和二、三十年代」以後のことになりますが、この「日本伝統工芸展」が一つのきっかけ≠ニなって、大きく、「作風」を変えられ、伝統窯≠フ世界≠ノ、芸術≠持ち込む先駆となられ、かつ、花開かせた、代表%Iな方として、三輪壽雪氏のことは、長く、「萩焼の歴史」の中に、刻むべきでしょう。 既に、「長男」の龍作氏が、前衛陶芸家として、名をなしておられたわけですが、壽雪氏ご自身の中に、芸術≠ニしての「陶芸」という思いは、早い時期≠ゥら、おありになったのであろうと、推測されます。
この「鬼萩茶碗」は、茶を啜る≠ノは適さないと思いますが、壽雪氏自身、『図説』の中の「対談」において、次のように語られたとされています。 「あの評論家の林屋晴三さんが言うた。日本に一人ぐらい、茶を飲めん茶碗を作る人間がおってもいいじゃないかと。茶が飲めない茶碗があってもいいんじゃないかと言った。確かにこの茶碗は茶が飲めたもんじゃない(笑)。」 と。 「茶陶をオブジェ≠ノ高めた陶芸家だ」として、三輪壽雪氏を、テレビ「なんでも鑑定団」において、中島誠之助氏が「解説」しておられましたが、この三輪壽雪氏以後は、どんな「作品」≠ェでてきても不思議≠ナはありません。 なお、蛇足≠ネがら、この「テレビ」をご覧になっ方もおられましょうが、「鑑定」を求めた女性は、自己評価額≠、「箱代の3000円」程度だと言い、「茶碗」の評価は、0≠ノ近かったのです。それを、中島氏が、オブジェ♂]々と「解説」し、その「評価額」は、200万円と言い、会場を沸かせたのです。 (たまたま、留守にしたため、「ビデオ録画」しており、今も、消さずに残しています。) 実物≠見ていないため、強くは言えないのですが、三輪壽雪氏の「作品」としては、あまりに安い=u評価額」です。 (ただ、「美術品」の価格≠ヘ、購入、売却で、かなりの差≠ェあることは事実≠ナす。私があまりに安い≠ニいうのは、某有名百貨店≠フ「個展」での価格≠ニ比較してのことです。) ただ、言えることは、茶≠フ呑めない「茶碗」は、「陶芸」に関心≠フない人にとって、用≠なさないタメ価値を認めないということだと言えそうです。 三輪壽雪氏の、こうした茶≠フ呑めない「茶碗」は、経済的≠ノ豊かになり、優れた趣味人≠フいる「時代」を背景≠ニして、生まれた芸術だということです。ツマリ、時代環境と芸術は「不可分≠フ関係」にあるということです。 瓦師に個展などなし千草咲く 頼人 これは、私の兄の「句」ですが、当然=A実用品≠アそ「陶芸」だとして、ゴロハチ茶碗を作り続けている「陶工」も存在します。 しかし、これらの職人は、栄誉とは無縁ですし、「芸術家」というわけにはいかないでしょう。 要するに、この「昭和二、三十年代」が、「萩焼」に限らず、「工芸史」において、注目≠キべきは、 力があっても、認められるとは限らない時代から、競う=u場」が設けられ=A多様な作品≠ェ生み出される素地≠ェ作り上げられたということです。 「日本伝統工芸展」の応募者≠ェ増大し、「合格率」こそ、「20%」未満がほとんどであるように、相変わらず高くはない(「第四回展」の時は、「正会員」=43%弱、「支部会員・推薦による応募」=18%強、全体では30%)ものの、自ず≠ニ差≠ェあって、「入選」数は、格段に¢スくなりました。 それに伴って、多様な=u作品」も生まれる必然性≠ェできたのです。 (参考=「陶芸」部門の「入選数」) 〈「第7回展」=53点 「第9回展」=55点 「第15回展」=80点 「第19回展」=146点 「第21回展」=156点・・・・「第32回展」=271点・・・・・〉 そして、こうしたことは、必然的に、見栄えのする=u大型化」、個性≠際だたせるための意匠性≠ェ重んじられるようになったことと繋がっているハズです。 しかも、今日、「日本伝統工芸展」に限らず、多くの=A様々な=u展覧会」が生まれています。 こうして、狭い意味の=u実用」にこだわることなく、様々な「展覧会」によって、多様な価値基準≠フモト、「作品」が評価されるという「時代」を背景≠ノ、大きく変化した出発点≠ェ、この「昭和二、三十年代」だと、私は思のです。 三輪壽雪氏が、「茶を飲めん茶碗≠ナもいい。自分の思うような作品を作るつもりだ。」という「手紙」を、父=英男にくださっている「昭和43年」以降、伝統工芸≠ニしての「萩焼」は、新しい時代≠迎えたと言ってよいかも知れません。 もはや、どのような「作品」がでてきても驚きません。 ただ、そこに至るまでに、狭い意味の=u実用」の中で精進された三輪休和氏(もっとも、晩年には、実用≠離れられたかに思える「作品」もあります)、当初≠ヘ実用≠目指され、やがて、用≠離れ、「茶陶」にオブジェ≠フような「作品」を生み出された三輪壽雪氏が、ある種のカルチャーショックを乗り越えるべく、励んでこられたという事実≠ニしての歩みを「記録」として残すのは、その歩み≠伝える立場≠ノある者の責務ではないでしょうか。 そのことが正しく伝わっていない現状≠ノあって、及ばずながら、努力しているつもりなのです。 なお、公募$ァの始まった年=昭和35年に、12代坂倉新兵衛氏が亡くなられ、 その翌年の「昭和36年」の「伝統工芸展」でデビュー≠ウれ、「昭和三十年代」のほぼ終わる、「昭和39年」には、「第八回展」からの連続「入選」によって、坂田泥珠氏が、「工芸会正会員」に推挙され、「工芸展」を通しての、全国的に認められた=u萩焼」の次の世代≠フ旗手≠ニして位置づけられるのも、巡り合わせ≠ナしょうか。 要するに、「陶芸」の世界は、 「文化財保護法」における「無形文化財」制度をきっかけとし、 その技≠フ公開≠フ「場」として出発≠オた「日本伝統工芸展」が公募%Wへと変化・発展したことによって、 「昭和・平成」の世を、あらゆる点で、未曾有の繁栄を見せることになったということだと思います。 そして、その典型%Iな「歩み」をしたのが、「山口県」の「萩焼」だということになると思います。 その意味でも、事実≠ノ基づく「萩焼」の「歴史」を、後世≠ノ伝えることは、「工芸史」においても、重要なことだと思うのです。 |
学芸課長=石ア泰之氏が、石ア氏の「調査・研究」に基づき、
「萩焼の歴史」を「リンク」によって、示していただける「可能性」ができたこと (この期待はむなしい≠烽フであったことを[平成24年7月11日]に確認しました。 ) |
「日本工芸会 山口支部」という「ホームページ」があり、その「ページ」には、山口県教育庁社会教育・文化財課に「事務局」があるようになっているのですが、 その「ホームページ」に、この「ページ」で、私が「底本」とした「萩焼略年譜」が「リンク設定」してあります。
この「萩焼略年譜」の中にある、 平成17年 山口県指定無形文化財萩焼保持者として岡田 裕が追加認定を受ける。 の 「平成17年」が 平成18年の「誤り」であり、 さらには、当然=A「記載」されるはずの吉賀大眉氏の [昭和57(1982)年]の「芸術院会員」 [平成2(1990)年]の「文化功労者」 が、記載されていないなどについて、「加筆・訂正」を求めたのですが、「社会教育・文化財課」の担当しているのは「事務」ダケで、「ホームページ」については、「日本工芸会山口支部」の岡田 裕氏(幹事長)に言ってほしいとのことでした。 そこで、岡田氏に「電話」すると、「公的な資料≠ナないと、「訂正」などはできない」と言います。(従って、岡田氏本人≠フことも、現在に至るも、そのママ≠ナす。) なお、大眉氏は、「日本工芸会」に属しておられないから、省かれているのかもしれませんが、それなら、「日本工芸会」発足=u以前」のことが記されているのがおかしい≠ニいうことになると思います。 「略年譜」とはいえ、「萩焼」を語るなら、大眉氏を省くことはできないと、私は思います。 「萩市」の「ホームページ」の場合も、「既述」のように、確たる資料≠ニ思われるものに拠っているため、部分的≠ノ訂正することは難しいからとして、「萩焼年表」の「部分」そのもの≠ェ削除≠ウれました。 「誤り」や落ち≠ェあることは、調べさえすれば=Aはっきり≠キるのに、「訂正」・「加筆」がされないというのが現実なのです。 早急≠ノ、「公的」な「立場」にある人物 or 「県立美術館」の「刊行物」によって、「歴史的な事実=vに基づく、正しい=u萩焼の歩み」が、示されることが必要です。 この「萩焼略年譜」といい、「萩焼 - Wikipedia」の「記述」といい、おかしい♂モ所の「訂正」ないしは、正しい=u萩焼の歴史」の提示を公的な=u地位」にある「人物」に「要請」をせざるを得ないということなのです。 さて、「山口県立美術館館長」としての河野良輔氏の公的≠ネ「資料」を「訂正」するとなると、「陶芸」関係が、新たに=u山口県立萩美術館」に移動≠オたこととて「山口県立萩美術館」という公的な=u地位」にある、石ア泰之氏に、正しい=u萩焼の歴史」を作成してもらわざるを得ないということなのです。 私としては、私の記す「萩焼の歴史」が、現時点≠ノおいては、一番、事実≠ノ近いと「確信」しているのですが、せいぜい、こうして、「ホームページ」で、皆さんに、「資料」の提示込みで、提供するということなのです。(もっとも、「山口県」以外では、既に=A私の「資料」を参考にしていただいています。) |
ここに記した成果は、まったくの期待はずれでした。 [平成24年7月11日]現在=Aなんら、進展させていないのみならず、従来≠フ誤り≠ノ添った「認識」で、展開していることを知りました。 ただ、当時≠フ「副館長」=尾崎 裕氏の配慮があったことは、記録に留めたいと思っています。 |
そもそも、河野良輔氏こそ、「山口県長門市」出身ですが、「萩焼」の「昭和二、三十年代」についての「調査」・「資料の扱い」には「疑問」があるのに加え、
榎本 徹氏は、神奈川県横須賀市の出身で、しかも、「昭和21(1946)年生まれ」とあって、「私」より「年下」、東京教育大学(現 筑波大学)卒業、「出版社」勤務を経て、「山口県立美術館」開設に伴って着任されたワケで、「萩焼」の「昭和二、三十年代」に関しては、その「著作」に「問題」があることは、「指摘」済みですし、 石ア泰之氏も、愛媛県松山市の出身で、「昭和35(1960)年生まれ」と若い≠アともあって、その「履歴」=[筑波大学芸術専門学群芸術学専攻卒業→東京都立高校教諭→山口県教育庁文化課勤務→山口県立萩美術館・浦上記念館]においては、「萩焼」の「昭和二、三十年代」についての「知識」は、権威≠るとされている方々の「出版物」に拠られるハズで、それは「私」に言わせれば、「問題・疑問」のある引用ということですから、私の「問題提起」に対して、「調査・研究」してみよう」 と言ってもらえたことは、ありがたい≠アとなのです。 「歴史」が「歴史」であるタメには、事実≠見つめる必要があるハズです。 手始めに=A「山口県」・「萩焼」以外≠フ、全国的≠ネ「資料」から、是非=A「再確認・検討」してほしいと思っています。 さすれば、既に「山口県文書館」に寄贈済みの「資料」や、私の手元にある「資料」にも、目を通さざるをえないと「確信」しています。 |
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『萩焼人国記』の中の「休和物語」 ↑ この「休和物語」なるものが、一流紙≠ニされている「朝日新聞」の記者が、山口県立美術館長=E専門学芸員=E山口県埋蔵文化財センターの次長≠ニいった公的な立場≠ノある人達の「全面的な協力」を受け 、更には、記者自身が、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った≠ニまで「あとがき」に書いて出版された書籍でありながら、とんでもない間違いが少ないのに、その「訂正」を関係者に働きかけても「対応」されないことが、私の「ホームページ」を立ち上げた「理由」です。
昭和二、三十年代の萩焼史≠フ再検討を求めて[山口県地方史研究大会]の発表要旨 榎本徹氏の「萩焼」記述 ↑ 現在、「萩焼」の記述について、もっとも権威≠ェあるとされる榎本徹氏にも問題点があることを示した「ページ」です。
「山口県文化振興課」←公的≠ネ立場での「調べ直し」をお願いしたところ、当初≠ヘ「期待」を持たせる「回答」をもらっていたのですが・・・。
「萩市」の以前≠フ「萩焼の歴史」←現在は、「アップ」されていません。
石ア泰之氏の「萩焼」記述の問題点 ↑ なお、石ア氏とは関係ありませんが、ここに触れている『萩焼の造形美 人間国宝 三輪壽雪の世界』の「三輪壽雪インタビュー」(聞き手=外館和子氏)の中には、なぜか、事実≠ニ異なることが記されています。
『日本工芸会山口支部 40年のあゆみ』の「紹介」と「問題点」の指摘 『日本工芸会山口支部 50年のあゆみ』の「紹介」と「問題点」の指摘 ↑ 『40年のあゆみ』における誤り≠ェ、『50年のあゆみ』においても、そっくり踏襲されています。
「美術館員」にも問題あり
「工藝技術保存資格者」の一覧&私の気づき ↑旧「無形文化財」・「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」制度以前の「技の認定」ともいえるものですが、困ったことに、「萩焼」に関しては、間違い≠ェ流布≠オています。
「文化財保護法」の条文 「文化財保護法」の中の公開≠フ条文 対談 重要無形文化財指定のころを語る 「第一回 無形文化財 日本伝統工芸展」の『図録』 ↑ 「技」とともに衰亡の虞≠フあることを「条件」とした当初≠フ「無形文化財」ですが、傑出した「技」の公開であり、「制度」の改正を促す一因ともなりました。
低かった「萩焼」の評価=小山冨士夫先生の「古萩の歴史と特質」 ↑ この小山先生の「一文」が、誤読されて、逆≠フ「証拠」であるがごとき扱い≠ェされているのが実態≠ナす。
中ノ堂一信氏の「技の継承=重要無形文化財の保持者たち」
「萩焼」からの同時二人指定申請≠フこと 小山先生の自費で≠ニいう「書簡」 小山先生の「来県調査」後の「書簡」 小山先生の評価≠ニアドバイス≠フこと ↑ 小山先生の「萩焼」認知≠ニともに歩み始めた「萩焼」であるということ。
プール≠ニいう考え方 「伝統工芸展」への応募≠ノ必要だった「推薦」 「第三回 日本伝統工芸展」の『図録』 三輪休和氏からの「はがき」 三輪休和氏からの「ハガキ」=天下の志野茶碗と競いたい ↑ 「後援会」結成の意味
「工芸会」の「山口支部」結成のこと←特異≠ネ「支部」であったこと 12代坂倉新兵衛氏の「追悼」 三輪休和氏の「作品」
「重要無形文化財」 保持者としての「個人認定 俗称「人間国宝)」/「保持団体」としての認定/「総合認定」]について ─ [参考] 「助成の措置を講ずべき無形文化財」・「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」─ ↑ 一部≠フこととはいえ、権威≠るハズの「情報」にも疑問点≠ェあります。
ただ、ありがたい≠アとに、権威≠る方々・「機関」に修正≠してもらえました。 「萩焼」の起こりについて ↑ 小山冨士夫先生・佐藤進三氏の説を紹介するとともに、河野良輔氏の「萩焼略年譜」の昭和18年以前を記しています。
これについては、私には、「確信」できる「資料」がありませんので、権威者≠フ方々の「記述」を紹介しています。 「手作り幻想」─川田 順造 『サバンナの博物誌』─より ↑ 「大量生産」とともに、「生活用品」が「作品・芸術品」となっていくことが述べられています。
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