F さんへの手紙



 念頭に当たって、賀状をいただき、ありがとうございました。
 永年にわたり、親しくしていただきました母 河野ユリコ は、昨年二月十九日に、永眠いたしました。

 母の親しくしていただいた方々の多くは、母が九五歳であることから、当然のようにお年を召しておられること、更には、末っ子の私が定年退職を三月に控えていたといったことで、他の兄弟は「現役」を退いて久しく、私だけが「職場」から大勢きていただくことに違和感を覚え、葬儀は、「家族葬」ということにし、忌引休暇をとるため、私の職場には連絡せざるを得ませんでしたが、会葬をお断りし、その他には、どなたにも連絡しておりません。
 その様子は、長兄の頼人が、主宰しております俳誌『木の実』において書いておりますので、そのコピーを同封しております。
 一昨年九月、突然声が出なくなり、検査の結果、肺にできた腫瘍が神経を切断したためで、精密検査をするまでもなく、癌と思われるとのことでした。それまでは、高齢ではあっても、実に元気で、ぼけの症状もまったくなく、私が定年となる昨年の四月の後半に、弘前の桜に照準を当て、長期の東北旅行をできるだけデラックスに≠キべく、宿の手配も済ませており、一緒に行くことを楽しみにしておりました。(ゴールデンウィークの宿の手配は一年前からしておく必要があったためです)
 それだけに、癌の宣告はショックでしたが「九五歳と高齢のため、手術はむろん、副作用の伴う抗ガン剤の投与もせず、痛みを感じないようにすることに万全を尽くすということがよいのではないか」というのが複数の医師からの我々家族への提案でした。
 しかも、「はっきりした症状が出るまでは入院は認められないので、普通の生活をしておくように」というのです。(現在の病院は、長期入院は採算的に合わないらしく、できるだけ避けさせようとするようです。)
 その方針を私どもは相談の上、了承することにし、母には癌であることは知らせないように申し合わせました。そして、声が聞き取りにくいと言うこと以外は、ごく普通の生活をしておりました。(住みやすいとは言えない古い家で、かつ、駐車のスペースがないため、我々は岡村の家で一緒に住むことはしませんでしたし、母は、同居の誘いにも乗ってこず、思い出のある家に一人暮らしでしたが、近くに住む姉二人と私の妻が交代で訪れ、世話をしておりました。)
 高齢のため、病状の進行は遅いと思って、年末年始も、一緒に九州の温泉で過ごしたのですが、その後、一月五日頃から、食事を取らなくなったため、七日(土)に診察を受けたところ、検査は月曜になるが、栄養補給のために入院しておいてもよいと許可を得ました。
 そして、検査後も、引き続き入院を認められました。
 私どもは、二十四時間、看護の体制にある入院を喜び、朝から夕方まで、交代で付き添い、話し相手(声が少ししか出ませんので、身内でないと難しい)になったり、看護士の方のお手伝いをしました。
 そして、十二日、初めて痛みを訴えましたが、躊躇なく痛み止めを投与、医師のお陰で、まもなく痛みは引きました。
 そして、一月十六日からは、夜間の付添もしてほしいということになり、我々だけでは対応が難しいため、ケアーセンターの方に、週二日、泊まりをお願いしました。
 そして、二月十四日からは、あまり余命はないと覚悟し、我々が二十四時間付き添うことにしたのは無論のこと、ケアーセンターに、何度も臨終を看取ったというベテランの方をお願いし、我々子供と最低二人が常時付き添いました。
 母はあなた様を筆頭に、教え子の方々に恵まれ、この年に至るまで、初めて教えた人から、最後の教え子である方々まで、かなりの方に手紙や年賀状をいただいておりました。そうした方々の手紙や年賀状を病床で何度も読み返しておりました。
 あなた様は確か、母が川棚小学校に勤務していた時の教え子の方だと思います。
 「川棚時代」には特別な思いがあるようで、地域ぐるみで親切にしていただいたと、何度か聞いたことがあります。鍵をしめないのが地域の習慣だとかで、帰宅してみると誰が置いたのか、「ぶり」や「松茸」が何度も土間に置かれていたといいます。
 名前も告げず、何の見返りも求めない方々、はたまた、母の方では、地域のみんなの人からの贈り物だと思って、対応したといいます。今日の退廃的な教育環境とは雲泥の差だと思います。
 「同窓会」にも何度となく呼んでいただき、楽しみにして出かけておりましたが、そのうち、教え子の方の何人かが先に亡くなるということもあって、そのことの悲しみから最晩年は遠慮しておりました。

 
 母は、亡くなるまでに都合三回の痛み止めのモルヒネを投与しましたが、ほとんど痛みに苦しむことはありませんでした。「癌は苦しむもの」という我々の先入観を覆す、闘病生活でした。
 最期は、モーツアルトを中心とするクラシック音楽が精神的によいということを聞き、医師に相談したところ、「悪くはないだろう」と言われ、姉との引き継ぎの朝、八時半過ぎに「CD」を持参し、かけだして三十分でしたろうか、肩で息をするようになり、医者を呼んだのですが、私の手を握りながら、潮が引いていくように、十分足らずで、息を引き取りました。
 高齢であったことも影響したのでしょうか、本当に「癌」であるということが信じれないほど、安らかな最期でした。
 ある意味では母は、幸せな最期を迎えられたと思っております。
 第一に、ほとんど苦しまなかったということ、第二に、子供が看護し、我々子供にも、ある程度の満足感を持たせてくれたこと、第三に、病院が近くて、途中、一時帰宅をさせてやれたこと・・・。
 
 墓は、平成十五年に、防府市内の大平山にある「大光寺原霊園」に移しております。そこは、見晴らしがよく、防府市内が一望できるところです。母の住んでいた家のあたりが見えますし、カネボウや協和発酵等も一望できます。
 さらに、車で墓のそばまで行けるため、母は亡くなる三ヶ月前まで、自分の足でお参りすることができました。
 母の住んでいた家は、「県の史跡=野村望東尼の終焉の宅」ということで、二百年近く経過していて、今日的には住みづらい家なのに、立て替えはおろか、改築も許可がでないので、私どもは住みません。(しかし、今後も管理をし続けていく義務があります。)
 従いまして、「初盆」の法要をすませた後、仏壇は、私のマンションの一室に引き取りました。
 
 さっそくご返事を差し上げるべきところ、「松の内」があけるまで、失礼することにしました。あなた様には格別に母に親切にしていただいたこと、感謝申しあげます。
 寒さの厳しくなる折とて、どうぞ、ご自愛ください。
 
   平成十九年一月八日                   
               河野 俊乎

 
  F 様