平成23年2月18日  [「脇本楽之軒展」のこと] として公開
平成23年3月2日  [Google]・[Yahoo]共、直接≠フ「検索」が可能になる
平成23年3月13日   「楽之軒展」鑑賞後  変更・公開
平成23年3月15日 [Google]・[Yahoo]共、「変更したページ」の直接≠フ「検索」が可能になる
平成23年3月16日   某一流紙の「楽之軒展」記事を見て  更新


 ● 脇 本  楽 之 軒 氏 のこと
─ 「山口県防府市」出身の、日本を代表する「美術史家」 ─











芸術が自己以上を語り得ない如く、
  鑑賞も自己以上に出で得ない。
 
─ 楽之軒 ─
 
(『日本美術随想』 新潮社 昭和48年刊 より)






脇本楽之軒氏は、本名=十九郎そくろう=B
事情があって、「画家」としての「道」を断念≠ウれ、「京都市立美術工芸学校」を「中退」。
従って、いわゆる学歴≠ヘ十分とはいえないものの、
「中退」後、藤岡作太郎氏、中川忠順氏らのモトで、学び、「研究」の手伝いをすることで、成長≠ウれ、
「美術評論家」として立つことになり、大正4年、「美術攻究会」(のち「東京美術研究所」と改称)を設立。
「美術史研究」、「美術評論」(特に、「絵画陶磁器等に関する論文」)、「作品解説」、「史料紹介」を、「万朝報」や「東京朝日新聞」において、執筆・発表、その「鑑識眼」が、高く「評価」され、
「文化財調査・指定・保護」についての「委員」を委嘱される一方、
「国立博物館次長」「東京芸大教授」という、さしたる学歴のない者には、ほとんど無縁ともいえる「重責」を務められた方です。
そうした楽之軒氏の「コレクション」は、貴重な=u作品群」として「後世」にも遺されるハズだったのですが、残念ながら=A昭和20年の空襲で、楽之軒が40年来蒐集してきた蔵書とともに、名品のほとんどが灰燼に帰し≠トしまったといいます。


昭和12年「重要美術品等調査委員」、昭和20年「国宝保存会委員」、昭和25年「文化財専門審議会専門委員」。(「国宝保存会委員」→「文化財専門審議会専門委員」は、「法改正」に伴うものです。  ここをクリック≠ウれば、「文化財保護」の「歴史」の概略≠御覧になれます。)

昭和22年「東京芸大」の前身=u東京美術学校教授」→昭和24年「国立博物館次長」→昭和25年「東京芸大教授」(退官後は「名誉教授」)でもありました。
(「考古学者」梅原末治氏が、富岡鉄斎氏の「子息」で「京都帝国大学教授」であった富岡謙蔵氏が急逝されたため、内藤湖南氏の依頼で、遺された「研究」をまとめるということをステップ≠ノ、浜田耕作氏の「指導」もあって、同志社普通学校(現・同志社高等学校)卒業という「学歴」ながら、「京都(帝国)大学教授」「日本」を代表する「考古学者」となられたのと似ているといえそうです。)


残念ながら=A「某一流紙」の[平成23年3月15日]の「記事」においては、
画家を志し、京都市美術工芸学校に進学。卒業後・・・≠ニあり、私の「記述」と異なっていますが、
不遜な言い方≠ゥもしれませんが、私の「記述」の方が正確だと思っています。
また、その「一流紙」には、楽之軒氏が「文化財保護」に尽力されたことが記されていません。
私は、「文化財保護」のことを記すのは、楽之軒氏を語る場合、不可欠≠フことだと思っています。




「東京藝術大学図書館」 の「ホームページ」より

・・・貴重図書には,美術学校や音楽学校ゆかりの人物から寄贈された独立した文庫に含まれるものが数多い。
そうした文庫の中でも最大なのは,日本東洋絵画史の研究者だった脇本楽之軒が寄贈した,日本美術関係の和書2634冊からなる「脇本文庫」である。この文庫には,『武家雛形』や『造庭秘伝書』などの建築図書も含まれ,大部を占める中国や日本のさまざまな文物を描いた絵画帳も,美術研究だけでなく,集落や建築あるいは風景観等を研究する資料となりうるものである。


ほとんどが灰燼に帰し≠トしまってなおかつ、ここにあるように、楽之軒氏の「蔵書」が、日本美術関係の和書2634冊も残っており、「東京藝術大学図書館」における最大の文庫だとしたら、楽之軒氏の本来≠フ「蔵書」はいかばかりであったろうかと、驚くばかりです。











昭和20年の空襲で、楽之軒が40年来蒐集してきた蔵書とともに、名品のほとんどが灰燼に帰し≠トしまったといいながら、奇跡的に難を逃れた楽之軒コレクションの一部≠中心≠ノした、「脇本楽之軒展」が、「郷里」=「山口県防府市」で、[平成23年3月]に、初めて「展示・公開」されました。
その「展示数」は多いとは言えないものの、見応えのある「作品展」でした。





「楽之軒展」[平成23年3月11日(金)〜27日(日)]の「パンフレット」より

明治〜昭和の日本を代表する美術史家で、国立博物館次長や東京芸術大学教授を務めた、防府市出身の脇本楽之軒(1883年〜1963年)。     
水墨画、文人画、京焼などを中心に美術史研究を行う傍ら、「批評は創作也」という名言を遺し、「楽之軒の眼」とよばれる独自の目線で、新聞や美術雑誌に多くの批評文を発表しました。

同時に戦前、東京の自宅に「小陳列所」と称して所蔵品を公開し、コレクションには当時交流のあった日本画家・横山大観や寺崎広業の作品、日本や中国の陶磁器などがありましたが、残念ながら、昭和20年の空襲で、楽之軒が40年来蒐集してきた蔵書とともに、名品のほとんどが灰燼に帰しました。

本展では、奇跡的に難を逃れた楽之軒コレクションの一部から前田青邨や北山寒厳の画、河井寛次郎、志野焼、唐津焼、九谷焼など陶磁器の名品を初公開すると同時に、楽之軒自身の筆による書軸や出版された多くの美術評論、楽之軒の勧めで弟・幻庵が開窯した勝坂窯と地元の文人画家の作品など、あわせて約80点を展示し、その生涯を紹介します。












「雪松三烏」という「タイトル」がつけられていた、楽之軒氏の「作品」です。

「楽之軒展」に展示されており、私の印象に強く残った「作品」です。
この「楽之軒展」会場では、多くの、懐かしい方々と「再会」、更には、再度、脇本定三氏に、お目に掛かることができました。(この「展示会」は、楽之軒氏と親しい方々の「提案・企画」によるもので、定三氏は、協力者≠ニいう「立場」にあったようです。)
そうした方々と、この「軸」について、話をする過程で、運良く=Aこの「軸」の「所有者」の方がわかり、「許可」をいただいて、「写真」に撮らせていただきました。(当然=Aお名前はわかっていますが、省略します。)

「フラッシュ」の使用ができませんでしたので、今一つ≠フ「写真」ですが、味わいある、佳い「作品」です。

「楽之軒展」の終了後、「写真」を「紹介」するつもりでしたが、既に「マスコミ」によって、「紹介」されているため、[3月16日午前7時10分]から、「写真」を示しますが、「この作品」に限らず、実物を、直接=A御覧になることをお勧めします。








若き日 の 楽之軒

「左の写真」の「蝶ネクタイ」の人物が脇本楽之軒氏です。
また、「左」の老人は、父親の脇本謙作氏だとのことです。
「右の写真」の「左」は、藤岡幸二氏。
「国文学者」として著名≠ネ藤岡作太郎氏はじめ、「藤岡家」の人々は、楽之軒氏の「人生」に深い≠ゥかわりをもっておられるのです。
(「明治44年撮影」
─『脇本楽之軒の小伝と追憶』
   (藤岡由夫、丸尾彰三郎、泉宏尚 編 「風濤社」昭和46年8月刊)より─)



(参考) 「防府市立図書館」における 脇本楽之軒 関係の蔵書

O 『平安名陶伝』 (脇本十九郎著 大正10(1921)年11月 「洛陶会」刊)

O 『日本人の眼』 (脇本楽之軒著 平成6(1994)年3月 「文彩社」刊)

O 『日本美術随想』 (脇本楽之軒著 昭和41(1966)年 「新潮社」刊)

O 『脇本楽之軒の小伝と追憶』 (藤岡由夫、丸尾彰三郎、泉宏尚 編 昭和46(1971)年8月 「風濤社」刊)

なお、以上のほかに、
  脇本十九郎編による、『画 説』 第1冊〜第15冊『新撰名品総覧 近世画編』 第一・第二があります。










楽之軒氏と親しかった川喜多半泥子氏と小山冨士夫先生。
「碑」の文字は「勝坂窯」の「命名者」である毛利元道氏によるものです。




楽之軒氏との交友関係から、小山冨士夫先生をはじめ、多くの「陶芸」関係の方々が、この「勝坂窯」を訪れられています。
「勝坂窯」の創始者=幻庵氏(楽之軒氏の「」)、子息(楽之軒氏の「」)=定三氏は、影響≠受けた方として、小山先生のほか、川瀬竹春氏(昭和31年度「記録選択」)、川喜多半泥子氏(荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休和、三輪壽雪各氏も影響≠受けられた「実業家兼陶芸家」です)の名を挙げておられます。
なお、幻庵氏、定三氏は、共に、「日本工芸会正会員」ですが、一般の方々に対して、早くから「窯」を解放されており、「昭和40年」には、既に「第一回」の「展示会」を開くに至り、以後、毎年、継続され、「平成22年10月」には、「第46回 勝坂手づくり会陶芸展」を開いておられます。
また、注目≠キべき「萩焼」陶芸家の一人≠ナある、永地博正氏が、活躍していた「グラフィックデザイナー」を辞め、「陶芸家」として「出発」する礎を作った「窯」でもあります。








 

 
































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