平成20年10月20日  残念な=u文化振興課」からの回答を受け公開
平成28年12月10日  この「ページ」は、『出版』の中に取り込んでいることとて、このtaikaiを利用して「防府市 富海」の「船蔵」・「飛船」のことに変更し、なぜか、いつまで経っても「検索」でヒット≠オない「対策」をすることにする(atsushiの場合は、二日で可能となっています)
平成29年1月1日  本来のfunaguraが、「Bing」 での「検索」を可能にしてもらったため、本来≠フものに戻す



明治維新に大きな「役割」を果たした「防府市 富海」の「船蔵」・「飛船」のこと
という「ページ」が、「Yahoo」・「Google」の「検索」に、なぜか、いつまで経ってもかからないタメ、既に「検索」のあるtaikaiにしてみましたが、相変わらず、「検索」にかからないものの、
「Bing」 での「検索」を可能にしてもらったため、本来≠フものに戻しました。    
なにかの「検索」によって、「船蔵」・「飛船」のこと のつもりで「アクセス」してくださった方は、「上」の≠クリック≠オてくださるよう、お願いします



『山口県地方史研究』第79号〈平成10(1998)年6月7日発行〉
発表要旨D  77頁所収

「校正」の機会がなかったため、行替え≠フ指示が無視されていたり、誤植≠ェ幾つかあります。それらを訂正≠オていますが、他は『山口県地方史研究』にある通りです。


● 昭和二・三十年代の萩焼史≠フ再検討を求めて

                          河 野  俊 乎



「歴史」が語られる場合、その解釈は多様であっても、事実≠踏まえない「歴史」はありえないのではあるまいか
 「私の父=英男」は、昭和二・三十年代の萩焼史≠ナ語られている事柄の幾つかに、行政の末端で係わってきた。しかし、直接係わった英男の証言≠竅u当時の資料」より信頼される事実と遊離した情報≠ェ存在しているのが萩焼≠フ哀しい現実である。英男の没後、「県文書館」に「資料」の寄贈を申し出、その幾つかは受け入れていただき、閲覧可能な状態にありながらも、それが生かされることのない現状を鑑み、「地方史学会」という権威ある場に発表の機会を繰り返し求め、今回、「大会発表」という形で与えていただいたわけである。
[1]昭和二・三十年代の萩焼史≠ヘ、「無形文化財」という制度及びそれに付随した「工芸展」開催という行政≠フ側の策との関係抜きには語れまいと思う。
[2]萩焼が名乗りを挙げたのは、国が保護しなければ衰亡する虞のあるものについて≠ニいう修飾語が取り除かれた新制度≠フ「無形文化財」においてであり
[3]当時の第一人者12代坂倉新兵衛氏と、技倆の拮抗していた三輪休和氏同時に『重要無形文化財(俗称人間国宝=j』に申請することにした。
[4]「新・旧無形文化財制度」の「陶芸」関係の事実上の責任者≠ナあった小山冨士夫氏の、昭和31年6月の来県調査により、2人とも十分な力倆であることが認められた。 
[5]萩焼デビューの場とされる「第3回工芸展」は、「公募制」ではなく、この指定の件に関連して、全国的に力を認知されるようにとの勧めのもと、小山氏の「推薦」によって可能になったのである。 
[6]『第3回工芸展図録』は、単に入選作品を載せたものではなく、その評価を伺うことができるようになっており、ノーマークであった2人が突然、上位集団に登場、注目をあびた様が伺えるようになっている。 
[7]2人の『重要無形文化財指定申請書』が作成されたが、当然のように、先ず新兵衛氏の人間国宝≠フ指定を、という思いを小山氏は述べられていた。 
[8]翌32年3月、2人共、「人間国宝」の候補としてプール≠キるのにも利用されたと考えられる「記録選択」に留まったとはいえ、「国指定の無形文化財」になられたことから、「工芸会」に「正会員」として迎えられた。 
[9]昭和35年、新兵衛氏が没され、休和氏が萩焼をリードされることになった。
[10] 昭和36年、「記録選択」から昇格された加藤土師萌氏が6人目として指定された後途絶えていた「人間国宝」の新指定は、昭和45年の休和氏と藤原啓氏になるが、この遅れは、「人間国宝」には枠≠ェあったと考えさせるのである。
[11]萩焼古窯≠フ発掘の立案から中止の顛末も、この「無形文化財」指定に関する流れと無縁ではない。 
[12]その他、記したいことは多々あるが、早い機会での「再検討」をお願いしたいものである。


平成10年(1998)6月7日(日) 「第87回 山口県地方史研究大会」
会場 山口県立山口図書館レクチュアールーム
(山口市後河原150−1)


 




この「発表」をいきなりしたわけではなく、この「発表」の前に、河野良輔氏に、ある人物を通じて、良輔氏の「執筆」されていることに、再調査・再考≠お願いしたハズですが、そのままになっていました。
のみならず、この「発表」の前(平成9(1997)年6月23日発行)に、「出版」された  『日本工芸会山口支部 40年の あゆみ』  は、 貴重な「資料」≠ナすし、今後も利用されると思いますが、「工芸会山口支部」の発足時≠フ記述については、残念ながら=A十分な「調査」のモトに書かれたとは思えないのです。

権威者=E一流出版社{r 公的≠ネ性格を持つ「出版物」に対抗≠オ、その問題点≠「指摘」する 「手段」 として、大きな♀待を持ったのが、『山口県地方史研究』における「発表」でした。
『山口県地方史研究 第67号』に「掲載」していただいた 山口県土井ヶ浜遺跡─再考「土井ヶ浜≠フ発見・発掘史」 で述べたことは、多くの方々に認めていただき、私の「調査結果」が、ほぼ=A「定着」しかのように思えるカラです。

「研究大会」での「発表者」を優先的に「掲載」すると聞いていましたので、「土井ヶ浜」同様「研究大会」での「発表」申し込み 及び 「原稿の応募」同時≠ノしました。

この「大会発表」の時、河野良輔氏が、演壇から見て、右側後方の「席」にいらっしゃることを「確認」し、その反応≠確かめながら、発表しました。
この「発表」の際、「質疑・応答」の時間が設けられていたのに、「反論」はおろか、何もおっしゃいませんでした。
他の方からも、一切=A「問題点」の「指摘」も「反論」もありませんでした。

従って=A当然=A「掲載」されると思っていたのですが、「原稿」は突っ返されて@ました
私としては納得のいくものではないタメ、即刻=A「山口県地方史研究会」を「退会」しました。
私としては、本当に♂ったり、話を聞くことができたのかと、疑問を持たれるような、超一流≠フ「先生方」や「陶工・陶芸家」の方々にも「協力」をいただいた上での「発表原稿」ですので、この「退会」の申し出が、身の程知らず≠フ思い上がったことなのか、どうかは、『山口県地方史研究 第80号』における「掲載」された方々の「論文」と比較・検討してみていただくことにし、はたまた、「歴史」が事実≠無視≠キることはできないと思う故に、今後=A私の「ホームページ」における「発表」が、権威者≠フ方々に、取り入れられるかどうかで、見ていきたいと思います。
のみならず、
良輔氏が我が家の「戸田焼」に関して書かれた平凡社刊『日本やきもの集成 9』[昭和56(1981)年刊]の記述も、「資料」及びその「資料」の扱い方「疑問」があり、到底=A私どもには納得のいかないものでした。

「昭和二、三十年代」の「萩焼」のあゆみは、いわば「日本文化史」の問題・「陶芸史」の典型 なのです。
困ったこと≠ノ、河野良輔氏、榎本 徹氏を含む、まさに権威者≠ナあるハズの方においても、問題があるワケですから、そのママ≠ノしておくワケにはいかないのです。
気づかないうちに正しいものになっていたことを「理想」としながらも、「文化振興課」への「要請」も叶わぬこととて、私の手で、公表≠ケざるをえないワケです。